夫は車を止めると、外に回って助手席のドアを開けた。私は熱でぼんやりする頭のまま、必死にシートにしがみついた。40度を超える熱で意識がもうろうとする中、隣で運転していた夫は、病院へ連れて行く途中でこんなことを言ったのだ。
「これから仕事に行かないといけなくなった。あとは歩いて病院に行けよな」
薄暗い人気のない通りだった。私が熱を出して、夫に病院へ送ってほしいと頼んだ時、彼は嫌な顔をしていた。それでも、私が救急車を呼んだ時には「熱くらいで迷惑だろ」と、勝手に私のスマホからキャンセルしたのは彼なのに。
「お願い、止まって。戻ってきて」
声は届かないと分かっていても、私は立つ力さえ残っていなかった。雨の降る夜道に投げ出され、私はか細い声で助けを求めるしかなかった。
私の名前はナオコ。四十歳の専業主婦だ。夫のダイスケと十六歳の息子ユウジと三人で暮らしている。友人の紹介で知り合ったダイスケは、当時「俺はもっと出世するからついてきてくれ」とよく言っていた。向上心のある彼なら幸せにしてくれると思った。実際、結婚した当初は幸せだった。名の知れた大企業に勤め、休日は二人で映画を観に行ったり、ショッピングを楽しんだりした。しかし、息子のユウジが生まれてから、すべてが変わった。
ダイスケは育児に一切関わらなかった。おむつを替えたことなど一度もない。ユウジの運動会に休みが取れるのに、参加したこともない。三人で家族旅行へ行ったこともない。つまり彼は、親らしいことを何ひとつしてこなかった。そのせいで、今ではユウジとダイスケはほとんど会話をしない。
そんな関係を修復しようと試みたこともあった。しかし、ダイスケは「仕事で疲れているから」と、まともに話し合いすらさせてくれなかった。そして一緒に暮らすうちに分かったのは、彼は小心者だということだ。彼の大口は向上心からではなく、ただの虚勢だった。私が他の男のところへ行ってしまわないように、自分を大きく見せていただけだったのだ。
そんなある日、ユウジをサッカー部の朝練へ送り出し、ダイスケの朝食を用意した時のこと。寝室から出てきた彼は、テーブルに並んだ味噌汁を一口すすると、眉間にしわを寄せて「まずくて食えない」と言い放ち、席を立ってしまった。メニューはいつも通りの納豆と焼き鮭と味噌汁だったのに。
それからというもの、彼は私の作る料理にいちいち文句を言うようになった。弁当は「まずくて食べられなかった」とほとんど手をつけられずに戻ってきた。夕飯も「疲れているのにこんなものを食べさせるな」と、手をつけないことが増えていった。文句は料理だけに留まらず、洗濯や掃除にも及んだ。「洗濯物はもっとしわを伸ばして干せ」「窓のさんにほこりが溜まってる」と。今まで通りに家事をしているのに。
しかも、彼が文句を言う時は決まって「他の女性ならもっとしっかり家事をするのに」と、誰かと比べるような言い方だった。まるで、最近ほかの女性が家事をしているところをじっくり見ているような言い草だ。さらに、スマホを持ったままトイレや風呂に行ったり、仕事中と称して誰かとこそこそ電話をしたりと、怪しい行動が目立つようになった。
もしかして浮気をしているのか。私は証拠をつかもうと彼の鞄を調べたり、彼のスマホを覗いてみたりしたが、何も見つからなかった。探偵に依頼しようとも考えたが、家計はダイスケが管理しているため、自由になる金もなかった。
そんなモヤモヤを抱えたまま数週間が過ぎたある日の深夜、息苦しさで目を覚ますと、私は高熱を出していた。最近はダイスケと寝室を分けているため、助けを求めることもできない。なんとか起き上がり、リビングへ向かうと、スマホがテーブルに置いてあった。視界がぼやけていく感覚に、大げさかもしれないが命の危険を感じた。救急車を呼ぼうとスマホを手に取ると、偶然にもダイスケがリビングにやってきた。
「こんな夜中に何をしているんだ」
私は力を振り絞って事情を説明した。するとダイスケは無言で私の手からスマホを奪い取った。代わりに救急車を呼んでくれるのかと思ったが、彼はとんでもない言葉を放った。
「高が熱で救急車を呼ぶなんて、ご近所に知られたら恥ずかしいだろ。家事もまともにできないくせに、俺に迷惑をかけるのだけは得意なんだな」
心配どころか、悪態をついてくる夫に、私は半泣きで抗議した。
「お願いだから病院へ行かせて。救急車がダメなら、うちの車で連れて行ってよ」
ほとんど懇願のように言い続けた。するとダイスケは渋々ながらも車を出すことにした。だが、出発して五分もしないうちに、彼のスマホに着信があった。車を路肩に止め、短い会話を交わして電話を切ると、彼は言ったのだ。
「これから仕事に行かないといけなくなった。あとは歩いて病院に行けよな」
「え、仕事? こんな夜中に?」
そう言うと、ダイスケは怒った顔で「俺を疑うのか」と声を荒げた。
「じゃあ仕事に行ってもいいから、私を病院まで送り届けてからにしてよ。車だったらそんなに遠くないでしょ」
私は必死で助手席にしがみついた。この状態で大雨の中を歩くなんて不可能だ。しかし彼は助手席のドアを開け、私のシートベルトを外すと、肩を掴んだ。
「早く降りろよ」
その言葉とともに、私は車の外に放り出された。あまりの勢いで、膝と手のひらを擦りむいた。血が出ている。痛いと叫んでも、彼は鼻を鳴らして車に戻り、走り去ってしまった。
雨は勢いを増していく。熱も上がっている気がする。夜道には誰もおらず、スマホはダイスケに取り上げられたままだ。歩いて病院に行くしかない。
私は病院へ向かって歩き始めた。大輔が事前に連絡していたので、病院のスタッフは待っていてくれるはずだ。道に迷い、途中で休みながら、なんとか病院へたどり着いたのは、家を出てから二時間も経ってからだった。車なら十五分で着くはずなのに。
病院に入ろうと扉へ向かうと、ガラス越しに看護師と目が合った。その瞬間、安心した私は意識を手放した。
目が覚めると、私はベッドに横たわっていた。点滴が効いたのか、熱は引いているようだ。ぼんやりと天井を見つめていると、聞き慣れた声が聞こえた。
「母さん、大丈夫?」
息子のユウジだった。心配そうな顔で私の体を起こしてくれる。そして、その目の前には、なぜかびしょ濡れのダイスケが座っていた。髪はぐちゃぐちゃで、足が小刻みに震えている。顔はげっそりとやつれ、目の下にはくまができていた。
私は彼に何か言うことがあるだろう」と、ユウジが冷たい口調でダイスケに言った。すると彼は、小さな声で「すまなかった」と謝った。
ユウジが話してくれたところによると、ダイスケは私を車から引きずり下ろした後、家に引き返したらしい。異変を感じて起きていたユウジが私の居場所を聞くと、ダイスケははぐらかそうとしたが、結局、私を雨の中に置き去りにしたことを白状した。ユウジは父よりも体格がいい。小心者のダイスケがビビったのだろう。言い争いになったところへ、私がたどり着いた病院から電話が入り、ユウジは病院へ行こうと提案したが、ダイスケは「明日も仕事があるから」と断った。ついにぶち切れたユウジはダイスケに掴みかかり、「お前も歩いて病院へ行け」と詰め寄った。そして、自転車に乗ったユウジに監視されながら、ダイスケは雨の中をジョギングで病院まで来たのだという。車通勤で運動嫌いの彼には相当応えたようだ。
説明を終えたユウジは、真剣なまなざしで言った。
「母さん、こんなやつとは今すぐに離婚した方がいい」
その言葉に、私はショックを受けた。離婚したくないからじゃない。息子にそんなことを言わせてしまったことが、ショックだったのだ。私はユウジの手を握り、「ごめんね」と謝ることしかできなかった。
それから数週間、私はダイスケと冷戦状態だった。離婚したい気持ちはあったが、専業主婦の私にユウジを一人で育てていく自信がなかった。
ある日、家の固定電話が鳴った。相手は女性だった。
「大輔さんの奥さんですよね。私は部下のアケミです」
「はい、ですが何かご用ですか?」
すると、アケミと名乗った女は、衝撃的な言葉を放った。
「私と大輔さんは愛し合っているんです。だから、さっさと別れてくれますか?」
なんと、アケミはダイスケの浮気相手だったのだ。以前の疑いは間違っていなかった。
「私だって、離婚できるならしたいわよ」
私はとっさに叫んでいた。これが本心だった。あんな最低な男、欲しければくれてやる。罵倒されることを覚悟して、私はぎゅっと拳を握った。
しかし、アケミは嬉しそうな声をあげた。
「そうなの? これなら話が早いわね。私は大企業に勤めているから、慰謝料ぐらいなんぼでも払ってあげる。メールアドレスを教えてくれたら、大輔さんと浮気をしていた証拠をたくさん送ってあげるわ。それを使って、大輔さんに離婚を迫ればいいの」
まさかの提案に私は驚いたが、すぐに我に返った。こんなチャンスを逃してはいけない。私はすぐにメールアドレスを教えた。すると、すぐにたくさんの浮気の証拠が送られてきた。ラブラブなツーショット写真や、密会の約束をしたメッセージのスクリーンショット。十分な証拠だった。
その日の夜、ユウジが眠ったのを見計らって、私は晩酌をしているダイスケに話しかけた。
「ねえ、話があるんだけど」
ダイスケはテレビから目を離さず、どうしたという。私はむかついて、勝手にテレビの電源を切り、テーブルを叩いた。怒った彼がこちらを向くと、私は書類を突きつけた。
「離婚届よ。離婚しましょう。あなたには、大企業で家事が得意な女性が他にいるようだからね」
「は? な、何のことだよ。俺が浮気してるって言いたいのか? それなら、証拠を出してみろよ」
証拠隠滅に自信があったのか、彼はドヤ顔で言った。私も負けじと、アケミから送ってもらった証拠の数々を突きつけた。すると、彼のドヤ顔は一瞬で崩れ去り、泣きそうな顔になった。
「な、なんでこんなものを… 全部消したはずなのに…」
「離婚なんてしたら、恥ずかしいだろう。それに、ユウジには父親が必要じゃないのか? それに金もいるだろう」
どうやら彼は、離婚されたと世間に後ろ指を刺されたくないだけらしい。なんて自分勝手なんだろう。
「私は全然恥ずかしくないわ。それに、ユウジにはあんたみたいな父親はいらないのよ。今まで父親らしいことを一つもしてこなかったくせに、今さらそんなこと言わないで。お金は、あんたが本当にユウジのことを大切に思っているなら、養育費をたっぷり払ってくれるでしょう」
私の離婚への意思が固いと悟ったダイスケは、頭を抱えて「こんなはずじゃなかった」とすすり泣いた。
それから半年後、ようやく私は正式に離婚した。財産分与と不貞行為の慰謝料、そして養育費を請求した。もちろん、浮気相手のアケミにも慰謝料を請求した。それぞれ一括で支払われたので、当面の生活に困ることはなかった。
ユウジを転校させるのはかわいそうだと思ったので、私は近くのアパートに引っ越し、今は二人で力を合わせて暮らしている。
ダイスケとアケミは、その後一緒になったらしい。しかし、二人とも仕事が忙しく、家事を押し付け合って喧嘩が絶えないという。さらに、どこからか浮気が会社にバレて、二人とも解雇されたそうだ。慰謝料を一括で支払ってしまったため、二人とも生活に困っているらしいが、私の知ったことではない。
離婚してから、ユウジはますます明るくなり、部活に打ち込むようになった。今度の試合で初めてレギュラーとして出場できることになったと、嬉しそうに話す彼を見ていると、私の決断は間違っていなかったと心の底から思える。



