床に倒れた私の目の前で、男が部屋を見渡しながら軽い調子で言った。
「へえ、この部屋、結構いい品が置いてあるじゃねえか。少しもらっていくとするか。」
その言葉に、体中の痛みよりも悔しさが込み上げてきた。
「やめてください……それは祖父母の頃から伝わる大切な品なんです!」
荒らされ尽くした部屋の中で必死に訴える私を、男は下卑た笑いを浮かべて見下ろした。
「おお、そんなに古いものなのか。だったらいい値段で売れるだろうな。」
男とその部下に袋叩きにされ、動くこともままならない。このままでは代々受け継がれてきた品が全て持ち出されてしまう。私は唇を噛みしめながら、その場で拳を握りしめるしかなかった。
――この時、私はまだ知らなかった。この男に、思いもよらない悲惨な結末が待ち受けていることを。
私の名前はしおり。老舗旅館「四季舗」の三代目女将だ。
以前は都内で普通の会社員として働いていた。だが、二代目である母が引退を決意した時、私は思い切って会社を辞め、三代目を継ぐことにした。
母は旅館を畳む予定だった。しかし、祖父母の代から続くこの旅館は従業員も多く、規模も大きい。畳むとなれば、多くの従業員に暇を出さなければならなくなる。それに、ここは私が生まれ育った我が家だ。思い出がたくさん詰まった旅館を失いたくなかった。
幸いなことに、従業員たちはただの会社員だった私を受け入れてくれた。古くからの常連客にも支えられ、旅館はいつも大盛況だった。最初は戸惑ってばかりだった仕事ぶりもすっかり板につき、常連客から褒められるようにもなった。
「これならもう大丈夫だね。」
母からお墨付きをもらい、私は女将として一人立ちする。母は生まれ故郷に帰り、今は悠々自適の隠居生活を送っていた。
そんなある日のこと。
「いらっしゃいませ。ご予約いただいていた小寺様ですね。」
「ああ、よろしくな。」
いつものように私は予約客を出迎えた。
小寺たちは明らかに普通の客ではなかった。部下のスーツの袖口からは入れ墨が見えている。強面の男もいる。きっとヤクザなのだろう。
だけど、お客様はお客様だ。偏見で接するわけにも、手を抜いて接客するわけにもいかない。
私は奥の間に小寺たちを通し、すぐに夕食の準備を始めた。板前が腕によりをかけて作った料理を食事処へ運ぶ。
夕食を配膳し終えた直後、フロントに内線がかかってきた。食事のことで話したいことがあるらしい。
不安を感じながら食事処へ向かうと、小寺は下品に笑いながら刺身の盛り合わせを指さした。
「おお、女将、見ろこの刺身。髪の毛が入ってたぞ。偉く不潔な料理だな。」
見れば、確かに刺身には赤みがかった髪の毛が入っている。だが、その長さは私のものでも板前のものでもない。むしろ、目の前にいる小寺の髪と色も長さもよく似ていた。
妙に思いながらも、私は丁重に頭を下げた。
「大変申し訳ございませんでした。すぐに新しいものをご用意いたします。」
髪の毛が入った刺身を回収し、新しい刺身を準備して再び運ぶ。
「お待たせしました。こちら新しいお刺身でございます。」
頭を下げて小寺の前に出すと、彼はしばらく刺身を見つめていた。そして、不意に立ち上がると、室内にいた虫を掴み、それを刺身の上へ落とした。
「おい、見ろ。今度は虫が入ってるぜ。本当に汚ねえ旅館だな。」
「え……お客様、今、ご自身で虫をお入れになりましたよね?」
私が指摘すると、小寺は声を上げて威圧した。
「ああ?旅館が不潔なのを俺のせいにしようっていうのか?」
明らかに嫌がらせだ。最初の髪の毛も、やはり小寺本人のものに違いない。分かっていたが、食事処には他のお客様も来ている。ここで事を荒立てて迷惑をかけるわけにはいかない。
「申し訳ありませんでした。すぐに新しいものをお出しいたします。」
深々と頭を下げて謝る私を前に、小寺たちは部下とニヤニヤ笑い出した。
「はっ、ここの女将はどうやら偉い素直な奴みたいだな。」
「これだけこけにされても気づかないなんてバカな女ですね。」
そう言って一斉に笑い出す。どうやら最初から私をからかうつもりで呼び出したようだ。
初めて見るタイプの客を前に呆然とする私をよそに、小寺は料理を卓ごとひっくり返した。煮物やご飯が畳の上にぶちまけられる。
「こんな不衛生な旅館で飯なんか食えるかって言うんだよ。せっかく楽しみにしてきたっていうのに。最悪だぜ。」
小寺は床にこぼした料理をわざと踏みつけた。
「おい、女将。こんな腐った飯を出して料金を取るつもりか。返金しろ。返金!」
腐った料理など一つも出していない。それに返金だなんて。そもそも、この人たちは宿泊料を一円も払っていないのだ。
「お、お断りします。だって、あなた、わざと髪の毛や虫を入れましたよね?」
私は怯えながらも精一杯声を張り上げる。ここで屈してはいけない。ヤクザの言うことを聞けば、目をつけられて何度も狙ってくると思ったからだ。
すると小寺はニタニタと笑いながら私を見た。
「おい女将、俺たちが何か細工をしていると言いたいのか?」
「そ、それは……」
「女将が払いたくないっていうのなら別にいいぜ。払いたくなるようにしてやるだけだからな。」
小寺は部下たちに目くばせをする。それを合図に、男たちは一斉に食事処で暴れ始めた。全ての膳はひっくり返され、料理は全て畳の上にこぼれていく。置かれた建材は投げつけられ、襖は全てボロボロに破れた。
「お客様、おやめください!お客様!」
慌てて止めようとする私を、小寺は殴りつけた。あまりに強く殴られた勢いで、私はその場に尻餅をつく。
一方の小寺は、私を突き飛ばした勢いのまま隣接する居室へ向かう。痛みをこらえて追いかけると、そこには障子を破り、襖を蹴るなどして破壊の限りを尽くす小寺の姿があった。
「お客様、いい加減にしてください!」
必死になって小寺の腕を掴むが、簡単に振りほどかれる。
「なんだ女将、俺たちと遊びたいのか?だったら可愛がってやるぜ。」
小寺は部下たちと共に私を囲んで袋叩きにした。
「痛い……痛いです。やめてください!」
私はその場で丸くなり、必死になって痛みに耐える。だが5人掛かりで殴られれば耐え切れるはずもなく、傷だらけになっていく。
私が動かなくなったのを見て、小寺はゆっくりと部屋を見回した。
「おい、よく見ればこの部屋、結構いい品が置いてあるな。さすが老舗旅館だ。よし、女将が返金しないっていうのなら、この部屋にある品をもらっていくとするか。」
部屋に置かれた骨董品や掛け軸は、すべて先々代の祖父母から伝わったものばかりだ。
「ま、待ってください!お金なら返します!だから、旅館にある品物には手を出さないでください!」
私が必死に止めようとするが、小寺たちは私の手をたやすく振り払った。
「嫌だね。むしろ、それだけ価値があるのか。楽しみになってきた。」
笑いながら壺や掛け軸を乱暴に鞄へ詰め始める。
悔しさで唇を噛みしめる私の耳に、慣れ親しんだ従業員の声がした。
「ちょっと大丈夫ですか?女将!女将!」
聞こえてきたのは、長らく働いてくれている従業員、森原さんの声だ。私がなかなか戻ってこないから不審に思ったのだろう。そして食事処の惨状に気づき、部屋まで様子を見に来たに違いない。
だが、こんな部屋に森原さんを入れてはいけない。森原さんまで巻き込まれてしまう。
「だめよ、森原さん!私なら大丈夫だから来ないで!」
とっさに声を上げるが、私が叫ぶより早く、森原さんは室内へと入ってきた。そして、部屋を荒らす男たちを見る。
「あら、やだ。随分と部屋が散らかっているわね。みんなで喧嘩でもしていたの?面白そうね。私も混ぜてくれない?やりましょうよ、喧嘩。」
森原さんは小寺たちの前に立つと、ニコニコと笑った。小寺は一瞬だけ毒気を抜かれたような顔をするが、森原さんの姿を見てすぐに笑い出した。
「なんだ、誰が来たのかと思ったらババアじゃねえか。ババアは引っ込んでいろ。お前みたいに弱そうなババアなんて相手にしねえよ。」
森原さんは私より少し年上のベテランだ。体格はどちらかと言えばぽっちゃり系で、どこにでもいる普通のおばさんに見える。
「だめだめよ、森原さん!危ないわ、すぐに逃げて!」
「あはは。心配しなくてもいいですよ、女将。まあ、お任せくださいな。」
森原さんが笑いながら小寺たちの前に立つと、すぐさま部下が前へ出る。
危ない――そう思った瞬間、森原さんの前に立ちはだかった男は床へ倒れていた。どうやら森原さんが投げ飛ばしたようだ。
「な、なんだ、この婆さん!」
小寺は驚き、他の部下をけしかける。だが、森原さんは部下たちを軽々と投げ飛ばしていった。気づいた時には、小寺を残して他の全員が床に転がってのたうち回っている。
「あらあら、もうおしまいなの?若いんだからもっと鍛えなさい。おばさんが仕込んであげようかしら?」
まさか森原さんがこんなに強かったなんて。驚く私を前に、小寺は森原さんと向き合った。
「おいババア、その強さ……さてはケンカ慣れしてんな。俺は白龍組の若頭、小寺ってもんだ。」
「若頭じゃなくて、まだ若頭候補じゃないですか。」
「兄貴はうるせえ!それで、ババアはどこの組のもんだ?」
小寺の威圧的な態度を前にしても、森原さんは相変わらず飄々としていた。
「嫌だわ。私、ヤクザなんかじゃないわよ。うーん、強さに憲法が大好きな、ちょっと年上のお姉さんってところかしら。」
そう言って大笑いする森原さんを前に、小寺は安堵の息を吐いた。森原さんの背後に大きな組織がないことですっかり安心したのだろう。
「なんだ、ヤクザじゃねえのか。ただのババアのくせにヤクザを舐めがかって。お前、今日から俺の部下たち全員に狙われてると思えよ。」
「あはは。嫌だね。みんなこの程度の強さだろ?だったら全員返り討ちにしてあるわよ。」
その時、パトカーのサイレンが聞こえてきた。どうやら森原さんがこの部屋に来る前に警察を呼んでいてくれたらしい。
「……そうか、サツを呼びやがったのか。」
「そりゃ、ヤクザが暴れてるとなったら呼ぶに決まってるでしょ。さあ、素直にお縄につきなさい。」
「覚えてやがれ。俺をここにした代償、絶対に払わせてやるからな。」
小寺は部下を叩き起こすと、窓から逃げていった。
その様子を見送ると、森原さんは私へ手を差し伸べた。
「大丈夫だったかい、女将。」
「あ、はい。ありがとうございます、森原さん。あの……」
「愛はね、一人で相手なんかしちゃだめだよ。今度からすぐ私を呼びなさい。お灸を据えてやるからね。」
森原さんはそう言ってくれたが、私は女将だ。従業員を守る立場にある。いくら森原さんが強くても、彼女に頼ってばかりもいられないだろう。
「わ、分かりました。ありがとうございます、森原さん。でも、ここはひとまず警察にお任せしますね。」
私はやってきた警察に事情を説明した。警察はしばらく頻繁にパトロールをすることを約束してくれた。おかげで、しばらくは何も起こらず平穏な日々が続いた。
だが、3日後。小寺は以前と同じメンツを連れて、再び旅館へとやってきたのだ。
「よう、邪魔するぜ。ちゃんと5人分予約してるからいいよな。」
そう言いながら現れたのは、小寺たち5人組だった。予約表には別の名前が書いてあるが、部下の名前を借りて予約していたのだろう。
ゴルフクラブを片手に現れた小寺は、さも楽しそうに私を見る。
「ま、またあなたたちですか!警察を呼びますよ!」
「警察なら来ないぜ。俺の部下たちに命令して、他のところでちょっと騒ぎを起こしてもらっているからな。今頃、あの連中はその対応で大わらわだろう。」
小寺は笑うと、ズカズカと上がり込んだ。そして、目についた花瓶やテーブル、ソファーなどをゴルフクラブで壊し始めた。
「いや、やめてください!それは祖母との思い出の品なんです!」
慌てて止めに入る私に、小寺はゴルフクラブを振りかぶる。気づいた時、私は殴り飛ばされ、床へ膝をついていた。
5人の男たちは全員がゴルフクラブを振り回し、破壊の限りを尽くす。
「お客さんを避難させて!避難させたら、あなたたちも逃げてちょうだい!私は他のお客さんが来ないように入り口を塞いでくるわ!」
私は従業員に声をかけ、ふらふらと入り口へ向かう。もう私にできることは、これ以上被害を出さないことだけだ。
従業員たちはすぐにお客さんの避難を始め、皆無事に外へ出たようだ。私は入り口で、壺や花瓶が割れる音だけを聞いていた。祖母のお気に入りだった花瓶。父が買ってきた掛け軸。私の思い出が全て壊されていく。
「女将、大丈夫かい?」
呆然と立ち尽くす私に、森原さんが声をかけてきた。隣には森原さんの母親も立っている。森原さんの母親はこの宿の常連で、何度も泊まってくれていたから私もよく知っていた。
「森原さん、ここは危ないわ。あなたもすぐに避難して!」
「あら、心配してくれてありがとね、女将。でも大丈夫だから。」
森原さんは母親と共に、互いに頷いて笑う。
「でも本当に危険なんです!男たちは武器を持っていて……」
「心配しなさんな。あのね、女将。この旅館を大事に思っているのは、女将だけじゃないんだよ。」
森原さんはそう言うと、母親と連れ立ってロビーの方へ向かう。私も慌てて二人を追った。
「なんだ、ぶち殺されたい奴が来たのか。」
入り口から人の気配がすることに気づいたのだろう。小寺は振り返ると同時に森原さんに気づく。
「おいたのか、ババア。会いたかったぜ。この前は散々俺たちをこけにしてくれたからな。お前の家族ごと、全員地獄に落としてやるよ。」
「うちの家族ごとね。面白いこと言うわね。どう思う?母さん。」
森原さんの言葉を受けるようにして、母親が前に出る。森原さんの母親を見て、小寺たちは驚き目を丸くした。
「うわっ……あなた、まさか……赤蛇組の組長さん!?」
小寺たちの顔色は見る間に青ざめていく。
「あら、あんたみたいな下っ端にも顔が知られているのかい?御機嫌よう。私が赤蛇組の組長、森原恵だよ。」
小寺も部下も完全に動きを止める。そんな中、恵さんは一歩前に出た。
「この旅館はね、私の大事な恩人が女将をしていた宿なんだ。その大事な恩人が守ってきた旅館に、一体何をしているんだい?」
「え?えっと、それはですね……」
小寺は目を泳がせ、そして部下共々その場で土下座を始めた。
「す、すいません!まさかこの旅館が、赤蛇組の組長さんの……その恩人の旅館だなんて、思ってもいなかったんです!」
小寺たちをはじめとした5人の男は、何度も何度も土下座をする。
すると、恵さんはボロボロになったロビーを眺めた。
「私の知っている旅館は、こんなに汚れちゃいないよ。ちゃんと綺麗に元通りにしなさい。話はそれからだ。」
「あ、はいっ!お前たち、やるぞ!」
小寺たちは部下に声をかけると、壊れたテーブルや割れた花瓶などの片付けを始めた。
その様子を、私は驚きながら眺めていた。
「森原さんのお母さん……ヤクザだったのね。」
「ええ。私は母に昔からこの旅館の話を聞かされていてね。それでこの旅館に憧れて従業員になったってわけ。」
それにしても、恵さんにとって私の母が恩人だというのは初耳だ。一体何があったのだろう?
「片付け終わりました。」
考え込んでいるうちに、小寺は片付けを終わらせた。だが、それはとても「片付けた」とは言えない有様だった。ロビーに置かれたソファーやテーブルは壊れたままだし、粉々に砕けた花瓶は一箇所に集められただけだ。
「これのどこが片付けだい?お前の国では、お片付けも教えていないのかい?」
「ですが、色々壊れてしまいまして、これ以上は戻せませんので……」
「あんたが壊したんだろう。これ以上戻せないなら、弁償するしかないね。」
「あっ、金ですか?」
恵さんは小寺を睨みつけた。
「そうだね。あんた、確か小寺だったね。若頭候補なら6000万。残りの4人は1000万ずつ。弁償させて1億あたりが妥当じゃないかい?」
「い、1億ですか!?」
小寺と部下は驚きの声をあげる。
「いや、部下はまだ下っぽですから、1人1000万なんてとても無理です!」
「だったら、上司であるあんたがまとめて1億払ってくれればいいじゃないか。この旅館の修繕なんだ。妥当な金額だと思うよ。」
「い、1億なんて欠けらもない!俺の一存では出せません!必ず払いますから!」
「ローンでも組むつもりかい?一括で1億。それができないなら、うちの船に乗ってもらおうじゃないか。これでどうだい?」
恵さんの周りを、彼女の部下が取り囲む。船と聞いて、小寺たちの顔色がどんどん青ざめていった。
「ま、待ってください!赤蛇組の船といえば、危険なことで有名じゃないですか?五体満足で無事に帰ってきた人間なんて、ほとんどいないと聞いてますよ!」
「そりゃ、借金が多い連中だけだよ。あんたの部下くらいだったら、逆に少し儲けて帰ってくるんじゃないかい?」
その言葉を聞いて、小寺の部下たちは観念したのだろう。もう覚悟を決めたように、大人しく恵さんの部下に従った。
残されたのは小寺だけだった。小寺は必死に食い下がる。
「ま、待て!俺は白龍組の若頭だぞ!そんな俺に何かあったら、白龍組が何をするか……」
「あんたは若頭候補の一人だろ。白龍組には若頭候補が何人かいるって聞いているよ。むしろ候補連中からすると、あんたに消えてもらった方が嬉しいだろうね。」
小寺は言葉に詰まった。実際、その通りなのだろう。
「いや、だが……やっとここまで登り詰めたんだぞ!あと少しで若頭だってところなんだ!こんなところで……船で俺が消されるなんて、冗談じゃない!」
小寺は髪をかきむしり、しばらくブツブツと独り言を続ける。そして、不意に思いついたように顔を上げた。
「そうだ!あんたは赤蛇組長の恩人、その娘さんなんだろ?あんたから詫びを入れてくれよ!恩人の言葉だったら、きっと聞いてくれるだろう!」
小寺の言葉が私の耳を通り過ぎていく。私は小寺に近づくと、冷たい視線で見下ろした。
「あなたは、さっきから赤蛇組の組長さんのことばかり気にしていますね。この旅館を壊したことも、私に怪我をさせたことも、一切謝っていないくせに。」
「あっ、謝る!謝るよ!ごめんなさい!本当に申し訳ない!部下の前で調子に乗ってました!まあ、これでいいだろ?」
私は小寺の壊した花瓶のかけらを手に取った。
「これは、祖母のお気に入りの花瓶です。実は一度、私が割ってしまったんです。それでも祖母は『それも思い出だ』と言って、花瓶を継いで使ってくれました。」
「なんだ、もう壊れていたんだな。それだったら新しいのを買えばいい。大丈夫だ、1億は必ず払うから。」
「あなたは、私が『やめて』と言った時もやめなかった。そして、私の家族の思い出も壊した。絶対に、絶対に許しません。」
私が声を上げると、小寺は唸るように黙り込んだ。それを待っていたかのように、黒服の男たちは小寺の脇を抱えると、引きずって連れて行った。
それから数日後。小寺に壊された旅館が修繕され、元通り営業できるようになった頃、私は森原親子を招待した。特別なお客様だけを通す部屋で、最高のもてなしの料理を準備する。
「おや、そこまでしなくてもいいんだよ。私に特別にもてなしをくれたのに。」
森原さんは最初、旅館に招待されるのを断ろうとしていた。それでは私の気が済まないからと頼み込んで来てもらったのだ。
料理を楽しむ森原親子を見ながら、私は恵さんに聞いた。
「あの……母が恩人って、本当なんですか?」
「ああ、あれはまだ私が駆け出しだった頃の話だよ。」
恵さんが言うには、女だてらにヤクザの世界に飛び込んだ彼女は、当初は食うや食わずの生活をしていたそうだ。家を飛び出し行く当てもなかった彼女は、頼るべきものもなく、旅館の前で雨宿りをしていた。そんな彼女に傘を差し出し、部屋に入れてくれたのが私の母だったという。
「あなたのお母様は、私の素性も聞かずに、美味しいものを食べさせてくれた。温かいお風呂に入れてくれて、温かい布団で寝かせてくれた。実の親より優しくしてもらったんだ。しかも、行く当てがない私に、何度だって部屋を貸してくれたのさ。」
「母は、よく言っていました。『外で寒い思いをするのは辛いことだ』って。だから、自分の目の前で凍えている恵さんを見るのが辛かったんだと思います。」
「ああ、そうだろうね。それで私もちょっとは偉くなって恩返しをしたいと思ったんだ。そしたら、あんたのお母さんはね、『これから旅館の客として来てくれるだけで嬉しい』と、そう言ってくれたんだよ。客がいることこそが、旅館を続けられる理由だからってね。」
「お母さんらしいです。」
「そうさ。それで、前の女将さんからね、引退の前に頼まれたのさ。『これから一人立ちする娘を支えて欲しい』ってね。恩人の頼みだ。断れるわけないだろう。それに、私だってこの旅館をなくしたくないからね。」
恵さんのその言葉で、私は改めて気づかされた。旅館で大切なのは、お客様をもてなす気持ちだ。きっと私は、女将だから何でも一人でやらないといけないと思いすぎていた。だから、森原さんの優しさにも気づかず、一人で空回りしてしまったのだ。その結果、小寺たちの悪意を真正面から受け止めて、大きな騒ぎを起こしてしまった。
だけど、お客様をもてなすというのは、そういうことではない。全てを受け入れるだけではなく、問題があればきちんと注意をする必要があるのだ。他人を思いやれない人を、お客様としてもてなす必要はない。そんなことをすれば、従業員や他のお客様に迷惑がかかってしまう。お客様を思いやるということは、お客様の全てを許すという意味ではないのだ。
そして、女将の仕事は全てを自分でやることではない。従業員を信頼することなのだ。
私は母と森原さん親子に、改めて女将としての心得を教わったような気がした。
――もっと立派な女将になって、この旅館を守っていこう。
私は心にそう誓うのだった。



