「無能なじじいは空気読んでやめてくれないか?」…

「無能なじじいは空気読んでやめてくれないか?」...

「無能なじじは空気読んでやめてくれないか?」

ライバル会社から引き抜かれてきた新しい部長が、そう言って俺を嘲笑った。

俺がやめる?その言葉を聞いて俺は愕然とした。いくら社長の後ろ盾があるからと言っても、言い過ぎだ。

「お前は会社のお荷物なんだよ。それが分からないのか?年寄りじじいは解雇だ。」

普段から自分勝手に振る舞い、意に沿わない人間には嫌がらせをして退職に追い込む。王様気分の部長は、その矛先を俺に向けてきた。係長として使い物にならない部長に代わって部署をまとめていただけなのだが、それが目障りで仕方ないらしい。

高々と解雇を宣言した部長に俺は反論しようと思ったが、直前でやめた。部長に何を言っても無駄だ。こんなところで無駄な労力を使う必要なんてないだろう。

「分かりました。退職します。」

俺は静かに部長に告げた。部長の言う通り、空気を読んでやめることにしたのだ。

「やっと分かったか。」

俺の返事に部長は嬉しそうに高笑いを響かせる。そんな部長を放って、俺は黙って会社を後にした。心の中で、「部長、空気が読めていませんよ」と呟きながら。

俺の名前は佐野博幸。大学を卒業後、綜合商社に勤務してもう30年以上になる。俺は長年営業の仕事をしていて、現在は係長をしている。この仕事が好きで、担当の取引先とも良い関係を築き、仕事は順調だ。

その日、人事異動で部長が交代することになり、営業部はみんななんだか落ち着かなかった。前部長は人望も厚く、異動してしまうことにみんなが落ち込んでいる。そんな中、新しい部長はライバル会社から引き抜かれた人物だと聞いていた。

新しい部長の着任当日、部署の誰もが入口と一番奥の空いている部長席を交互に見ていた。部長は社長に挨拶してから来るということで、そろそろ営業部に来るはずだ。社長に挨拶するなんて、さすがライバル会社から引き抜かれただけのことはあるな。そう思うと俺もなんだか緊張してきた。

するとフロアの向こうから、それと思われる30代くらいの男性が早足でこちらに向かってくるのが見える。俺よりかなり年下だ。社員たちは一斉にその男性の方に目を向ける。

「どうも、今日から営業部の部長になった田島です。」

男性は部長席に鞄を置くと、よく通る声で挨拶をした。

「どうしても部長になってほしいと、こちらの社長からヘッドハンティングされましてね。まあ、私のように有名大学を卒業して学歴があると、よくある話です。」

そう言って得意げな表情で社員たちを見渡す。こんな田島部長を見て、みんななんとなく心配そうな表情で顔を見合わせている。30代と思われる若さで社長から直接ヘッドハンティングされたのだから、かなり有能なのは本当だろうが、この自慢げな挨拶に不安を覚えたのは俺だけではないはずだ。

「私はゴルフが趣味で、社長ともよくゴルフに行くんですよ。他の一流企業の役員なんかも一緒にね。」

田島部長は着任早々だというのに、仕事もせずにそんな話を部下たちにしている。みんな知らんふりもできず、とりあえず頷いているが、内心困っているだろう。それでも俺は自分の仕事に集中することにした。

それから1ヶ月ほど過ぎた。

「田島部長の電話だけど、どこかな?」

俺は電話を取り、見渡すが、さっきまでいたはずの田島部長の姿はない。

「俺も探してるが見当たらないんだ。電話は私が出るよ。」

部長の電話に、仕方がないといった感じで課長が対応する。田島部長は着任以来、いつの間にかいなくなってしまったり、打ち合わせなどと言って外出するが連絡が取れないことが度々あった。

田島部長がいなくても、何かあれば課長や俺が対応しながら仕事を進めていた。しかし、部長の連絡が必要だったり、部長決済が必要なことがあると、仕事が滞ってしまう。その上、田島部長は都合のいい仕事だけをして、面倒と思われる仕事は部下に回してきていた。以前の部長なら常に全体を見て指示を出してくれたり、対応しきれない仕事を相談したりすることもできたので、部長のおかげで仕事がはかどることはあっても、滞るなんて考えられなかった。

結局、田島部長のせいで仕事は増え、不要な残業にも追われることになり、皆不満が溜まっていた。

「部長、もうお帰りですか?まだみんな仕事が残っています。」

定時だが、みんなが仕事をしている中、すっと帰ろうとする田島部長を見かねたように、課長が引き止めた。

「残業なんて、無能な奴のすることだよ。俺みたいに高学歴で優秀な人材のすることじゃない。」

田島部長は表情を変えずに冷たく言い放つ。

「ですが、あなたのせいでみんな仕事が増えているんですよ。」

課長は苛立ったように田島部長を睨みつけ、強い口調で言った。

「へえ。お前、俺にそんな口を聞いていいのか?俺は社長とも懇意にしているから、お前の首なんかどうにでもなるんだぞ。」

課長が苛立っているのを見て、田島部長は面白そうにニヤニヤと笑っている。その後、課長は黙ってしまったが、険しい表情はそのままだった。

「なんだ、おじさん、怯えたのか?そうそう。無能なおっさんはそうやって小さくなってろよ。」

田島部長はそう言うと課長の肩をポンと叩き、そのまま帰ってしまった。気まずい空気だけが残ってしまった。

いくら部長とはいえ、着任して日が浅いし、課長の方が年も上だ。なんてひどい言い方をするのだろうか。俺は何とも言えない嫌な気持ちになった。課長は俯き加減でゆっくり自分のデスクに戻っていく。俺たちはせっかく意見してくれた課長にかける言葉もなく、悔しい気持ちが残ったまま仕事を続けた。

その日以来、田島部長は自分の仕事を課長に押し付けて毎日遅くまで残業させた上に、翌日はその仕事の粗探しをして嫌味を言うということを繰り返した。

さらに、課長は急に地方の支社に転勤を命じられる。結局、課長は転勤を断って退職してしまったのだった。

急に転勤になるなんて、やはり田島部長が社長を丸め込んでいるのは間違いない。

それからというもの、田島部長に逆らうと課長の二の舞になるという噂が流れ、みんな部長に意見さえできないようになってしまった。田島部長がひどい言動をしても、何も言わず顔色を伺って仕事をするしかない。

「課長がいないからって、係長の分際でいい気になるなよ。」

「え?いい気になっているつもりはないのですが。」

「はっ、どうだかな。こそこそと部下と付き合ってることは知ってるんだぞ。」

「付き合ってなんか。普通に仕事をしているだけです。」

俺の返答に、田島部長はふんと鼻を鳴らし、どこかへ行ってしまう。課長が退職して後任が決まらない中、俺は係長として営業部をまとめていたのだが、嫌がらせの矛先が今度は俺になったようだった。課長もいないので、社員たちが俺に頼るようになり、仕事のことなども含めて相談に乗っていた。もちろん、みんな田島部長には分からないようにしていたが、やはり隠しきれない。しかも、俺は営業成績がいいので目障りらしい。

俺に対する田島部長の傲慢とも言える言動は、日ごとにひどいものになっていった。

「おい、俺は帰るから、これやっておいてくれ。」

ある日、もうすぐ終業時間だという時に、田島部長は俺のデスクに1冊のファイルを置いた。また自分の仕事を俺にやらせるつもりらしい。最近はわざとこの夕方の時間に仕事を回してくるのだ。いい加減にしてほしい。そう思って、俺は無言で田島部長を睨みつけた。

「なんだ、その目は?下っ端の係長のくせに生意気なんだよ。さっさとやれよ。」

偉そうに言う田島部長を、白目で見ながら俺は無言でファイルを手に取る。

「じゃあ頼んだよ、係長さん。」

田島部長は俺の顔を覗き込み、馬鹿にしたようにそう言うと、部屋を出て行ってしまった。

「係長、俺もやります。1人で仕上げるのは無理ですよ。」

さっきから心配そうにこちらを見ていた隣の席の社員が、そう言いながら手を伸ばしてファイルを取ろうとする。

「君の仕事が終わってからでいいから。ありがとう。」

俺はファイルを急いで自分の方に引き寄せ、拝むような仕草をして見せて感謝を表した。

「あいつ、いい気になってひどいこと言いますよね。でも、俺は係長についていきますから。」

こうやって俺を支えてくれる社員もいる。ありがたいことだ。

田島部長の嫌がらせはいつものことなので、できるだけ気にしないようにはしていたが、年下の上司の暴言というものは応えるものがあり、こうやって他の社員たちとも励まし合って、なんとか毎日をやり過ごしていた。

そんなある日のこと、俺はまた田島部長に呼び出された。

「おい、この出張は承認できないぞ。」

田島部長は1枚の書類を手にしている。それは先日提出した出張の承認を得るための書類だった。俺の以前から抱えている案件で、出張とは言っても現場の確認に日帰りで行くだけだ。

「これ、新幹線で行くなんて無駄なんだよ。大体、わざわざ行く必要もないだろう。お前、そんなことも分かんないの?」

部長はそう言ってニヤリと笑うと、書類を破り捨てた。俺は一瞬手を伸ばしたが間に合わず、破られた書類はヒラヒラと俺の足元に落ちた。

「無駄金使うことしか考えてないのか?じじいはこれだから困るんだよ。サンプルでも送ってもらえばいいだろ。」

部長と俺のやり取りを、社員たちはこっそり様子を伺うように見ている。みんな田島部長の俺に対する嫌がらせを普段から心配してくれていた。

「現場に足を運んで、実際に目で見て確認をする必要があります。遠方ですが、日帰りにして、これでも経費は節約しています。」

俺は時間や手間がかかっても、商談をまとめる時には実際に現場に行き、この目で確かめることに決めている。ネット社会になった今でも、それは変わらない。実際にそれで取引先も安心してくれるし、それが良い結果にも繋がっている。

「じじいは無駄が多いんだよ。ほら見ろ。お前がやたら出張ばかり行くし、経費も使いすぎだ。」

田島部長は過去の出張や経費の書類を面倒くさそうに出すと、デスクの上に放り投げる。

「お言葉ですが、確かに私は出張や経費が人より多いですが、それ以上に営業成績がいいはずです。最低限のことですから、認めてもらわないと困ります。」

俺は床に破られた書類を拾おうとした。この人は経費削減と言いながら、俺に圧力をかけようとしているだけなのだ。わざわざ古い書類まで持ち出して、ご苦労なことだ。

その時、田島部長はさっと足を伸ばして、容赦なく書類を踏みつけた。

「おい、じじい。お前は金を使わなきゃ契約も取れないのか?」

田島部長は書類を踏みつけたまま、口元に意地の悪い笑みを浮かべている。いつも仕事をしないでフラフラして、嫌がらせや人の粗探しばかりしているのは誰なんだ?俺が今まで積み重ねてきたことまで否定され、怒りが込み上げてきた。

「こんなことをして、あなたこそ無駄なことばかりしているんじゃないですか?どうかしていますよ。」

何を言っても無駄だ。そう分かっていたはずなのに、俺は声を荒げてしまった。この人が部長になってから、どれだけ無駄な時間を使ったか分からないのだ。

静まり返る中、田島部長はなおも続ける。

「ガタガタ言うなよ。いい年をして係長なんて恥ずかしくないのか?空気読んで、やめてくれよ。」

「俺がやめる?」

その言葉を聞いて愕然とした。部長にそんな権限があるのか?いくら社長の後ろがあるからと言って、言いすぎだ。

「おい、聞いてるのか?お前は会社のお荷物なんだから、解雇だ。」

田島部長はさも愉快そうに高笑いをする。目障りな俺を困らせて、さぞ愉快なことだろう。そして、課長を辞めさせたように、根も歯もないことで俺を辞めさせるつもりだ。俺がいなくなれば、意見する人間もいなくなり、自分の思い通りになるとでも思っているに違いない。

「お前の担当取引先くらい、俺がまとめておくから心配するな。」

田島部長はニヤニヤして、嘲笑うかのように言った。田島部長のあまりのくだらない言動に呆れて、俺は何も言えなかった。こんなどうしようもない奴が上司で、社長も丸め込まれている。どうしようもない。俺は営業成績も良く、部長の代わりに部下の仕事の調整や相談などにも対応しているというのに、こんなことまで言われたくない。

ここで働き続けて、何になるのだろうか。考えれば考えるほど疑問が湧いてきた。今までは上司や仲間にも恵まれて、いい仕事をすることができたが、今では努力すれば目障りと言われ、叩かれている。なんて馬鹿らしいんだ。こんなところで働き続けても、先は見えている。

周囲を見渡すと、さっきまで心配そうにしていた社員たちが、今は何かを決意したような目で俺を見ている。それを見て、俺も迷いが消えて気持ちが固まった。

「分かりました。退職します。」

俺は静かに田島部長に言った。

「やっと分かったか。」

田島部長は俺があっさり退職を決めたので、拍子抜けしたように頷いている。だが、思惑通り俺が退職することになり、さぞ満足だろう。しかし、俺が退職したら一体どうなるか、思い知らせてやる。長年この会社で働いてきたのだ。このまま終わらせはしない。俺には少し考えがあった。

その後、月末で俺は退職することになった。

そして迎えた退職当日。その日の朝礼で、田島部長は珍しく真剣な表情で周囲を見渡した。

「今日は社運をかけた5億の商談がある。担当者は気合いを入れてくれよ。」

田島部長もいつになく気合いが入っている。俺はそんな田島部長の前に出た。

「その商談は私が担当です。ですが、今日で退職ですので、部長のあなたが担当ですね。」

俺は田島部長の目をまっすぐに見て言った。

「え、なんだと?」

田島部長は驚いた様子で後ずさる。

「先日、承認が下りなかった出張は、この商談のためのものだったのですが、部長に承認してもらえませんでしたので、現場確認もできていません。」

みるみる青ざめていく田島部長に、俺は追い打ちをかけるように言い放つ。田島部長は部下の仕事の内容などを普段から全く把握していない。だから、俺の出張がこの5億の取引のものだということも、当然知らないだろうと思っていた。

「部長、お電話です。」

その時、今日の取引先から連絡が入った。田島部長は微妙な表情で応対していたが、話が終わると、がっくりとした様子で受話器を置いた。先方が、俺が担当でないなら取引はしないと言ったそうだ。今回の取引は、田島部長が着任する以前から俺が先方に何度も足を運び、やっとこぎつけた商談で、俺のことを信用して商談を進めると言ってくれていたのだ。だから、俺がいなければ、相手も商談を進める理由もない。断られるのも当然だ。

「おい、解雇は取り消す。だから、お前も退職をやめにして、取引先に行ってもう1度話をしてくれ。」

田島部長は俺にすがるより必死だ。

「お断りですよ。俺みたいな無駄で無能な社員は必要ないんでしょ。」

俺は田島部長を睨みつけ、冷たく言った。

その時、背後から「続きます」と、田島部長のデスクに営業部の社員たちが集まってきた。皆、退職届と書かれた封筒を田島部長の前に次々と置いていき、思い詰めたような表情で立っている。

「何なんだ?これはどういうことだ?」

田島部長は呆然として目を見開き、口を大きく開けている。一方で、俺は退職届を提出したみんなを見て、「やっぱり」と思う。俺が田島部長に退職を迫られた時から、みんなも退職する決意を固めていたことは分かっていた。あの時のみんなの目で、「こんな会社で働き続けても仕方がない」という、俺と同じ思いがはっきりと伝わってきた。俺の社員たちも、田島部長の傲慢な言動には許せないものがあり、我慢の限界だったのだ。だから、俺も田島部長の言う通り、みんなの空気を読んで退職する決意を決めたのだった。

「私たちは、これ以上会社で働く気持ちにはなれません。」

1人の社員がそう言うと、後ろに並んでいた社員全員が大きく頷いた。田島部長は、一体何が起こったのか分からないといった表情で、俺と社員たちを交互に見ている。

俺は呆然とする田島部長を置いて、長年勤務めた会社を後にした。

俺も年だが、少しはキャリアがある。なんとかなるだろう。そんな風に楽観的に考えていた。

翌日の朝早くに、社長が俺の家にやってきた。突然のことで驚いたが、社長も急いで話しておきたいというので、家に通した。

「佐野君、朝早くから申し訳ない。もっと早く君たちの話を聞いていればよかったと、後悔している。今回君には本当に迷惑をかけてしまった。それを承知の上で、頼みがある。」

社長は深刻な面持ちでそう言うと、深々と頭を下げた。

「昨日、営業部の社員たちから話は聞かせてもらった。今回のことは全て私の責任だ。それに、田島君には退職してもらうことにしたよ。」

昨日、あの後みんなが社長に話をしてくれたのだ。

「私は田島君のことを見誤っていた。それに、もっと現場のことをよく確認していれば、今回のようなことは防げたはずだ。私は反省している。勝手なお願いだが、我が社に戻ってきてくれないか。」

田島部長に丸め込まれ、傲慢な言動について今まで何もしてこなかった社長に、俺は不信感を持っていた。だが、目の前で謝罪する社長の言葉が嘘とは思えない。俺は社長を信じることにした。

「私からもお願いがあります。退職届を出した他の社員たちも、会社に戻してくれますか?」

社長の表情が明るくなった。

「もちろん、君も営業部の他の社員も、大切な我が社の社員だからね。じゃあ、戻ってきてくれるね。」

「社長、もう1つお願いがあります。」

俺のもう1つの復職の条件を社長に話すと、あっさり認めてもらえた。社長は俺の前に右手を差し出した。俺はその手を握り、強く握手を交わす。

結局、俺は次の日から会社に戻った。もう田島部長はいない。そして、数日後に俺は部長に任命された。実は、あまり上の立場になると現場に行きづらくなるので、俺は今まで管理職を断ってきたのだ。取引先と直接商談したり、現場の確認作業などは手間もかかるが、取引がうまくいった時の喜びには変えられないものがある。だから、今回条件付きで部長職を引き受けることにした。部長の管理業務もこなしながら、これからも直接取引先を持ち、実際に商談を進めていくという約束を社長にした。

あの5億の商談も、俺が担当すると改めて取引先に連絡したら、もう一度商談をやり直してくれることになった。きっと、今まで以上に忙しくなるだろう。だが、立場が変わっても、自分のため、慕ってくれる部下のためにも、できることを精一杯やっていこうと、改めて決意した。

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