私は、自分の銀行口座から一億五千万円を全額引き出して解約した。窓口の男が、六時間も待たせた挙げ句に「出勤は拒否させていただきます」と吐き捨てたからだ。あの男は、私がゴミ捨て場で注意したことを根に持ち、私への嫌がらせとして、銀行でこんな仕打ちをした。
私の名前は北川深夜。フリーランスでウェブ関係の仕事をしており、在宅で働きながら母と二人で暮らしている。元々はIT企業に勤めていたが、体調を崩しがちな母を支えるために独立した。父は私が幼い頃に事故で亡くし、母は女手一つで私を育ててくれた。私は早く母を楽にさせたいと高卒で働こうとしたが、母は「将来のために大学へ行くべきだ」と譲らなかった。だから私は奨学金を獲得して大学に進学し、大手IT企業に就職した。仕事は充実していたが、たった一人の家族である母の方が大切だと感じ、仕事を辞めて母と暮らすことを選んだ。最初は反対されたが、私は譲らなかった。人付き合いが得意でない私は、一人で黙々と仕事に打ち込む方が性に合っていた。今は母と家事を分担し、日中は実家でパソコンに向かって仕事をしている。最近は母の笑顔も増え、この選択は間違いじゃなかったと思っている。
ある日のこと、母が出かけている時に、家の外から激しい言い争う声が聞こえてきた。この辺りは静かな住宅街なのに、どうしたことか。気になって外に出ると、ご近所さんたちが人だかりを作っていた。すると、母の友人である山田さんが声をかけてきた。
「深夜君、いいところに来てくれたわ。」
話を聞くと、町内会長の奥さんであるまゆ子さんが、近所のアパートに引っ越してきたばかりの男性を注意したらしい。その男性が、この町内会のゴミ集積所にゴミを捨てていたのだ。しかも、ゴミ捨ては朝と決まっているのに、昼過ぎに捨てている。ルール違反を注意したまゆ子さんに対し、男性は反省するどころか、強い口調で言い返してきたという。まゆ子さんの夫は不在で、助けに入れないので、中に入ってやってほしいと山田さんは頼んできた。私は断りたかったが、母の友人の頼みを断るわけにもいかず、人だかりをかき分けて男性とまゆ子さんの元へ向かった。
「あの、大丈夫ですか?」
「ああ? なんだお前。」
「深夜君、この人に注意したんだけど、なかなか分かってくれなくて。」
「話は聞きましたけど、ちゃんとルールは守ってくださいよ。みんな守ってるし、町内会費も払ってるんですから。」
「うっせえな。関係ないやつは黙ってろよ。」
男性は私にも噛みついてきた。私はため息をつきながら、冷静に言い返す。
「あなたの町内会のゴミ捨て場は、ちゃんと近くにありますよね。そっちに捨ててください。」
「町内会とか知らねえよ。ここが一番近いんだから、別にいいだろうが。」
「それこそ、こっちには関係ないことですよ。あなただけルールを無視していいことにはなりません。」
「マジでだるい奴らだな。ったく、面倒なところに引っ越してきちまったぜ。」
男性はそう吐き捨てると、ゴミ袋をひっつかんで足音荒く去っていった。私はまゆ子さんと山田さんにお礼を言われ、家に戻った。しかし、この出会いが後に面倒なことになるとは、この時は知る由もなかった。
数日後のこと。私は母に頼まれて、家から一番近い銀行へお金を下ろしに行った。母は体調に不安があるため、歩いて30分以上かかる銀行へは行けない。私は委任状を書いてもらい、代理で銀行に行くことが多かった。いつも通り受付機で整理券を取り、椅子に座って順番を待つ。今日は空いていたのですぐに番号が呼ばれた。窓口に行くと、なんとそこにいたのは、先日ゴミ捨て場で言い争った男性だった。ネームプレートには「佐々木」と書いてある。佐々木も私に気づいたのか、露骨に嫌そうな顔をした。
「ご要件は?」
「母の口座からお金を引き出したいんです。委任状があります。」
私が委任状と母の通帳を差し出すと、佐々木はひったくるようにそれを受け取った。
「座ってお待ちください。」
あまりにも横柄な態度に少しイラっとしたが、ここでつっかかっても面倒になるだけだ。私は無言で椅子に座り、呼ばれるのを待った。しかし、いくら待っても呼ばれない。時計を確認すると、一時間が経っていた。混んでいる様子もないのに、こんなに待たされたことはない。私は窓口で確認しようと立ち上がったが、その瞬間に呼ばれた。まるで私のタイミングを伺っていたかのようだ。窓口でお金を受け取り、帰ろうと顔を上げると、奥にいる他の行員たちが心配そうにこちらを見ていることに気づいた。まさか、本当に佐々木の嫌がらせだったのだろうか。気にはなったが、無事にお金を下ろせたし、気にしないことにした。私の勘違いかもしれないし、問い詰めたところで時間の無駄だ。次は違う行員に対応してもらえるといいが。
しかし、数週間後、また母のお金を下ろすために銀行に行くと、またもや窓口にいたのは佐々木だった。私はため息をついた。今日は前回よりも混んでいて、少し慌ただしい雰囲気だ。佐々木は嫌そうな顔を隠そうともせず、淡々と必要最低限のことだけ話し、私に座って待つように言った。私は何も言わずに椅子に座ったが、やはりいつまで経っても呼ばれない。一時間ごとに窓口で確認しても、「お待ちください」としか返ってこない。待ち始めてから六時間が経過し、私は限界を迎えた。
「もう六時間も待たされてるんですけど、何にそんなに時間がかかってるんですか?」
すると佐々木は、面倒くさそうにパソコンから視線を外し、とんでもないことを言い放った。
「出勤は拒否させていただきます。」
「は? 理由は何ですか?」
「お答えしかねます。」
「ここまで待たせといて、ふざけてるんですか? ちゃんと理由を説明してください。説明もなしに納得なんてできません。」
私の言葉に、佐々木は心底嫌そうな顔をして、あろうことか嘲笑いながら言った。
「下ろす金ないでしょ。」
「ないお金を出そうとなんてするわけないじゃないですか。預けてあるお金を引き出したいと言ってるんです。」
「大した額でもないんだから、下ろす必要なんかないんじゃないですか?」
「金額なんて、あなたに関係ないですよね。」
「こっちは忙しいんだから、こんな小銭下ろすのに時間なんか避けないって言ってるんですよ。分からない人だな。」
私はこの態度に我慢の限界を迎えた。そんなに金額が重要だと言うなら、全額引き出してやろうじゃないか。私は窓口の台に、バンと大きな音を立てて、母のとは別の通帳を叩きつけた。
「では、この事業用口座に入っている一億五千万円、全て引き出してください。」
「は? 一億五千万… 」
額面を聞いた佐々木は目を見開いて驚き、慌てて私が叩きつけた通帳を確認した。
「あと、支店長を呼んでください。あなたじゃ話にならないので。」
拳を握りしめながら私が言うと、佐々木は顔面蒼白になり、ブルブルと震えながら席を立ち、支店長室に入っていった。するとすぐに、慌てた様子の眼鏡をかけた男性と共に佐々木が出てきた。
「お待たせいたしました。支店長の品川です。佐々木から聞きましたが、一億五千万円を全額引き出したいとか。」
「はい。もうこの銀行を利用したくないので。」
「何かお気に触ることがありましたでしょうか?」
私は支店長の後ろで青ざめて立っている佐々木を睨みつけながら、これまでの嫌がらせを説明した。
「そこにいる佐々木さんに母の口座からの引き出しをお願いしたところ、六時間待たされた挙げ句、出金できないと言われました。忙しいのに小銭で窓口を利用するなと。」
「そんな… 佐々木がそんなことを。大変失礼いたしました。おい、君も謝罪しなさい。」
「そもそも、なんでそんな勝手なことを?」
支店長に問い詰められ、口ごもる佐々木に代わって、私は先日ゴミ捨て場で揉めた話をした。その件で逆恨みして嫌がらせをしてきたのではないかと。すると、それを聞いた支店長は冷や汗を流しながら佐々木を問い詰めた。
「佐々木君、本当にそれが理由で嫌がらせをしたのか?」
「おじさん、そもそもこいつが俺に文句をつけてきたのが悪いんだ。」
「おい、仕事中は支店長と呼ぶように言っておいたじゃないか。」
どうやら佐々木は、この支店長の親族のようだ。しかし、だからといって横柄な態度を取っていいわけがない。それに、佐々木は自分の行いをちっとも悪いと思っていないことが、この発言で分かった。
「北川様、本当に申し訳ございません。」
「謝罪は結構ですので、全額引き出して口座を解約してください。」
「お許しください!」
支店長は悲鳴のような声をあげて、床に土下座し始めた。自分の管理下で一億五千万円の損失を出すことだけは避けたいのだろう。彼が悪いわけではないので、私は少し申し訳なく思ったが、これ以上佐々木には関わりたくない。
「顔を上げてください。あなたのせいではないですから。」
「どうか考え直していただけないでしょうか。佐々木は後ほどしっかりと処分いたしますので。」
「おじさん、処分って何だよ。」
「お前のせいで一億五千万円の損失が出るんだぞ。責任を取るのは当たり前じゃないか。」
「そ、そんな…

」
佐々木はようやく自分のしでかしたことの重大さに気づいたのか、冷や汗を流しながらうろたえ始めた。そして、私の方に向き直り、ガバッと頭を下げた。
「失礼な態度を取ってすみませんでした。心を入れ替えて今後は対応しますので、どうか解約は考え直してください。」
自分の身の危険が分かった途端に謝罪してくる佐々木に、私は心底がっかりした。彼は心の中では少しも悪いと思っていないに違いない。ただ責任を問われたくないから謝っているだけだ。それを指摘しても話が長引くだけなので、私は怒りを押し殺して冷静に言い放った。
「謝罪は受け入れますが、解約はさせてもらいます。もう二度とあなたに関わりたくないので。」
「そんな、それは困ります。」
「あなたが困ろうが、俺の知ったこっちゃありません。支店長、解約手続きを進めてもらえますか? 六時間も待たされたので、これ以上待たされたくありませんので。」
支店長は、私の取りつく島もない態度に、私を止めることはできないと察し、諦めて私を個別ブースへ案内した。手続きを進める支店長の後ろで、佐々木は顔面蒼白のまま立ち尽くしていた。全ての手続きが滞りなく終わったので、私は下ろしたお金を持ち、支店長にお礼を言って銀行を後にした。今まで長い間お世話になってきたので、こんなことになって残念な気持ちはあるが、嫌な気持ちをしてまでここに預けておきたいとは思えない。
その後、私はすぐに別の銀行の支店へ向かい、事業用口座を開設すると、一億五千万円全てを預けた。それから、母の友人の山田さんから話を聞いた母が、佐々木がどうなったかを教えてくれた。山田さんの娘さんが、あの銀行に務めていたらしい。佐々木は私が一億五千万円を引き出した後、叔父である支店長から大目玉を食らい、今回の責任を取らされる形で、地方の小さな支店に転勤になったらしい。支店長も部下の管理不足を問われ、減給され、別の銀行へ移動になったのだとか。佐々木は元々他の銀行でも評判が悪く、問題があることで有名で、叔父がいるあの支店に移動してきたのだそうだ。しかし、叔父の元でも態度を直すことができなかったため、次の移動先では厳しく監視されることになり、何か問題を起こしたら即解雇されることに決まったらしい。佐々木は毎日びくびくしながら、目立たないように怯えて仕事をしているという。支店長まで巻き添えを食うことになってしまったことは気の毒に思ったが、今後佐々木に会うことがなくなったのは素直に嬉しい。彼には今後しっかり自分の行いを反省して、これからはお客さんを大切にして、真面目に仕事をしていってほしいと思う。
私はと言うと、佐々木がいなくなったことでご近所トラブルもなく、母のお金を下ろす時だけあの銀行を利用している。顔見知りの行員に佐々木のことを謝られたりもしたが、あいつがいなくなったことで、私は今まで通り気兼ねなく銀行に行けるようになっていた。今はもうあのことを気にしてはいない。あの一億五千万円を使って、今度新しい事業を立ち上げる準備も進めていて、毎日忙しくも充実した日々を送っている。私はこれからもご近所さんとの付き合いを大切にしながら、この町で母と一緒に暮らしていくつもりだ。


