ホテルのエントランスに二人の影が映る。この数時間前まで、私は棺の中の義姉に「ありがとう」と語りかけていた。なのに――棺の中にこっそり入れられた写真を見た瞬間、世界が凍りついた。写っていたのは、義姉の婚約者が若い女性とホテルに入っていく姿。あの婚約者が、葬式で泣き崩れていたあの男が、私に「にやり」と笑いかけた。そして「どうして発作の時に限って薬がなかったんでしょうね」と、意味ありげに囁いた。義…

ホテルのエントランスに二人の影が映る。この数時間前まで、私は棺の中の義姉に「ありがとう」と語りかけていた。なのに――棺の中にこっそり入れられた写真を見た瞬間、世界が凍りついた。写っていたのは、義姉の婚約者が若い女性とホテルに入っていく姿。あの婚約者が、葬式で泣き崩れていたあの男が、私に「にやり」と笑いかけた。そして「どうして発作の時に限って薬がなかったんでしょうね」と、意味ありげに囁いた。義...

葬儀の最中、私は棺の中の義姉にそっと語りかけた。ありがとう、お姉ちゃん。優しい微笑みを浮かべたまま眠っているような姿に、涙が溢れそうになる。散りばめられた花、参列者からの手紙の数々。ふと、数枚の写真が目に飛び込んできた。

その瞬間、私は凍りついた。そこに写っていたのは、ありえない光景。義姉の婚約者が、知らない女性とホテルに入っていく姿だった。これは悪意だ。完全なる悪意。こんなもの、誰が何のために?

嗚咽が漏れる参列者の中、私は慌ててあたりを見回す。すると、ある人物と目が合った。腕を組み、にやりと笑う義姉の婚約者。その瞬間、義姉のある言葉が脳裏に蘇る。「もし私に何かあったら」――私はとっさに葬儀場を飛び出していた。

話は少し前に遡る。私は33歳の専業主婦。5年前に結婚した夫の大輔と、郊外の賃貸マンションで暮らしている。子供はいない。私も大輔も子供が好きで望んでいるが、一度も妊娠したことはなかった。心配になって病院へ相談に行ったが、二人とも特に異常はないと言われた。今は自然に授かるのを待っている状態だ。

穏やかで優しい大輔との結婚生活は充実していた。休日には二人で買い物に行ったり旅行に出かけたりする。そして、もう一つ、私がこの結婚を幸せだと思える大きな要素があった。それが、大輔の姉である夏美さんの存在だ。

義姉は私より二つ年上で、結婚当初から仲良くさせてもらっていた。何より、私と義姉は同じ趣味を持っていた。細かい作業が好きで、アクセサリーを作ったり、小物に刺繍を入れたりすることに夢中になっていた。私は家事の合間を、義姉は仕事の合間を縫って、一緒に趣味の時間を楽しんでいた。

義姉は私よりも手芸のスキルが高く、私が質問すると嫌な顔一つせずにアドバイスをくれる。夕飯をお裾分けしてくれたり、使わなくなったブランドバッグをくれたりと、本当によくしてもらっていた。さらに義姉はボランティア活動にも精力的で、暇を見つけては人助けに赴くような人だった。私はそんな義姉を、実の姉のように尊敬していた。

「お姉さん、久しぶりです。今日作ろうって言ってたアクセサリーのパーツ、持ってきましたよ」
「ありがとう、直子ちゃん。ごめんね、持ってきてもらって。病院に行ってたら、パーツを買いに行く時間がなくなっちゃって」

私を自宅のリビングに招き入れた義姉は、申し訳なさそうにそう言った。義姉には持病がある。普段の生活ではそれを感じさせないが、定期的に病院で検査し、薬を投与しているからだった。

「気にしないでください。ほら、始めましょう」

今日作るアクセサリーは、義姉にとってとても特別なものになるはずだった。なんせ、自分の結婚式で身につけるティアラだ。パールやビーズをふんだんに使ったそのデザインは、完成図を見た時点で既に素敵だった。義姉には婚約者がいて、結婚式を約半年後に控えていた。以前紹介してもらったことがあるが、相当なイケメンで有名大学出身のエリート。しかし、それを鼻にかけず、謙虚で紳士的な人物だった。

二人でワクワクしながら作業を進めていると、インターホンが鳴った。義姉は「ちょっと待ってて」と言ってモニターを覗き込むと、「うわあ」と嫌そうな声をあげて、しぶしぶ玄関へ向かった。セールスマンでも来たのかと思いながら、私は作業を続けた。

しばらくすると、ドタバタと廊下を歩く音がして、リビングの扉が開いた。そこに立っていたのは義父だった。

「ああ、直子さんじゃないか。随分久しぶりだな。嫁のくせに顔を見せないで。いいご身分だ」

私の顔を見た途端、義父は眉間にしわを寄せて嫌味を言った。

「ちょっと、お父さん。何しに来たのよ。まさかまたお金の無心に来たんじゃないでしょうね。私はもう貸さないから。もちろん大輔も貸さないわよ」

慌てた様子で義父の後を追ってリビングに戻ってきた義姉が、ピシャリと言った。

実は、私と大輔は結婚して以来、近所に住む義父母とは数回しか顔を合わせていない。事実上の絶縁状態だった。義父は金にがめつい上に虚栄心が強く、子供たちにしつこく金の無心を続けていたからだ。

「家族なのに冷たいな。お前、大企業務めのエリートと結婚するんだろ?ちょっとくらいお金を貸してくれてもバチは当たらないと思うけど。ああ、そうだなあ、直さん」

義父は猫撫で声で私に話しかけてきた。

「君はお金を貸してくれるよな。いつ返せるかは分からないけど、いいだろ。だって嫁なんだから、親孝行しなさい」

まさか私にまで要求してくるとは思わず、言葉を失っていると、義姉が間に割って入った。

「やめなさいよ。直子ちゃんにまで迷惑かけないで。ほら、さっさと帰ってくれる?」

義姉は義父の肩を掴み、無理やり玄関に押し戻していった。玄関扉がガチャンと音を立てると、すぐに義姉が戻ってきた。

「嫌な親でごめんね」
「お姉さんが謝ることじゃないですよ。私は全然気にしていませんから。ほら、作業の続きをしましょうよ」

私が明るく言うと、義姉の顔にやっと笑顔が戻った。

そんなことがありつつも、義姉のティアラは少しずつ完成に近づいていた。完成まであと一歩というところまで来て、それはついに叶わなかった。結婚式まであと一ヶ月という時期に、義姉は急に亡くなったのだ。

持病の症状の一つである発作が起きて、対処できなかったことが原因らしい。いつもなら発作が起きても薬を服用すれば落ち着くが、その時はいつも持ち歩いているはずの薬を持っていなかったようだ。

義姉が亡くなったと聞かされた時、私は最初、悲しむことができなかった。あまりにも突然で、状況がうまく飲み込めなかったのだ。それからじわじわと実感が湧いてきて、私は悲しみのあまり涙をこらえられなくなった。

しかし、悲しんでばかりもいられない。葬儀の準備をしなければならなかった。喪主は弟である大輔が担うことになっていた。本当なら配偶者か父母が担うものなのだろうが、義姉はまだ入籍していなかったし、義父母は生命保険金の話ばかりして当てにならなかった。

実の娘が亡くなったというのに、金の話ばかりするなんて正気を疑う。まさか義父母が保険金目当てで――なんてことまで考えてしまうほど、義父母の態度は最悪だった。

一悶着ありつつも、葬儀には生前の義姉を慕っていた多くの人が参列した。義姉はたくさんの人に愛されていた。そう思うと、また切なくなって涙が流れそうになった。

義姉の婚約者も来ていた。目を真っ赤にした彼は、憔悴しきった様子で見ていて痛々しかった。

「直子さん、お久しぶりです。まさか結婚式じゃなくて葬式をあげることになるなんて」
「本当に残念です。あまり気を落とさずに……と言っても難しいですよね。せめて食事と睡眠はしっかり取ってくださいね」

私がそう言うと、婚約者は消え入りそうな声で「はい」とだけ返事をし、近くの椅子に沈み込むようにして座った。

私は自分の気持ちにけりをつけるため、最後に棺を開けて義姉にきっぱりと別れを告げることにした。棺の中で横たわる義姉は、まるで眠っているだけのように思えた。

「お姉さん、今までありがとうございました」

そう呟いて棺を閉めようとした時、義姉の顔の横に何か置いてあるのに気がついた。写真?義姉が天国へ持っていけるように、いくつか遺品を棺に入れたが、写真を入れた覚えはなかった。どうにも気になった私は、こっそりそれを手に取る。

数枚の写真を見た瞬間、私はぎょっとして小さな悲鳴をあげてしまった。慌てて口元を抑える。そこに写っていたのは、義姉の婚約者が知らない女性とホテルに入っていく姿だった。

クエスチョンマークが頭の中を駆け巡る。誰が何のために入れたのか。そもそもこの写真は本物なのか。疑問を抱いたまま、私はそっと義姉の婚約者に目を向ける。

すると、それに気づいた婚約者は、一瞬「にやり」と笑った。さっきまでの憔悴した様子が嘘のように、いやらしい笑み。婚約者の視線は私の手元に向いていた。その表情を見て、私は悟った。この写真を棺に入れたのは、義姉の婚約者だ。証拠隠滅のため、一緒に燃やしてしまおうと思ったのだろう。

「これは一体何ですか?何のつもりですか?」

私はたまらず婚約者の元へ向かい、問い詰める。

「見つけましたか?何?聞かれても、見たままのことですよ。あの女、趣味が普通だって言うから大人しいかと思いきや、全然そんなことなかった。エリートで顔のいい俺に逆らってきたんだぞ。そりゃ、もっと優しくて若い女の方に行くに決まってるだろう」

その言葉に、私は血の気が引いていった。

「まさか、それでお姉さんが邪魔になって……どうして発作が起きた時に限って、薬がなかったんでしょうね」

婚約者はそう言って、にっこりと笑顔を向けた。私は恐ろしくなって、思わず「うわあ」と声をあげた。周りの人たちが驚いた様子で集まってくる。

「この人が、お姉さんを……」

私は義姉の婚約者を指差した。指はガタガタ震え、定まらない。

「え、何ですか?直子さん、少し疲れているんじゃないですか?僕、今日は車で来ているので、ご自宅まで送りますよ」

何食わぬ顔でそう言った婚約者は、私の腕を掴む。私は反射的にその手を振り払い、葬儀場を飛び出した。背後で婚約者が私を呼ぶ声が聞こえたが、無視して走り続けた。

彼が怖かったというのもあるが、もう一つ理由があった。生前の義姉の言葉を思い出したからだ。「もし私に何かあったら、クローゼットの下を見て」。その時はただの冗談だと思っていたが、今となっては義姉からの緊急メッセージだったのだ。

義姉の家まではそう遠くない。私は走りにくいヒールを左手に持ち、反対の手で電話をかけた。警察に通報したのだ。あんな人間を野放しにはしておけない。きちんと制裁を受けるべきだ。

私は義姉の家にたどり着いた。鍵のことは心配する必要がなかった。元々合鍵を預かっていたからだ。玄関を開け、クローゼットのある寝室を目指す。クローゼットは部屋に入ってすぐ右手にあった。私はフローリングに張り付くようにして、クローゼットの下を覗き込んだ。

何か白いものが置いてある。私は手を突っ込んでそれを引っ張り出した。封筒だ。急いで中を確認すると、そこにはさっきの写真の焼き増しとボイスレコーダーが入っていた。まさに浮気の証拠だった。

私はそれらを抱えて、葬儀場へ走って戻った。その道中、ボイスレコーダーを再生して内容を確認しておくことにした。

「浮気なんてひどいわ。もうすぐ結婚式なのに、裏切るなんて」
「うるさいな。お前が可愛くないからダメなんだろ。俺のせいじゃない」
「浮気の証拠はあるのよ。この写真、あなたの会社に送ってもいいの?今あの女との関係を切るなら許してあげるね」
「お願いだから戻ってきて。お前、そんなことしたら分かってるんだろうな。命はないと思えよ」

義姉と婚約者の声が、再生された録音から流れてくる。私は確信した。これは事故じゃない。あいつが殺したんだ、と。

葬儀場に着くと、すでに警察が到着していて、パトカーが駐車場に一台停まっていた。それを横目に中へ入ると、一斉に視線が集まった。

「ですから、誤解です。僕は何もしていませんよ。彼女は病気が原因で亡くなったんです。通報があったって、いたずらとか僕に対する嫌がらせとかじゃないですか。だって何も証拠がないじゃないですか。そこまで言うなら、証拠の一つでも持ってきてくださいよ」

義姉の棺の前で、警察と婚約者が何やら話し込んでいる。警察は彼の言葉を信じたのか、「まあ、通報があったので一応来ただけですから」と苦笑いを浮かべて帰ろうとしていた。

「待ってください。証拠なら、ここにあります」

私は手近な椅子の上に立ち、持っていたボイスレコーダーの再生ボタンを押した。会場中に義姉と婚約者の声が響き渡る。あまりの生々しさに、誰も声を発することができず、水を打ったように静まり返っている。

「お前、よくも姉さんを!」

そんな中で一番最初に声をあげたのは、大輔だった。それをきっかけに、参列者たちが次々に叫ぶ。皆、婚約者に罵声を浴びせ続けた。

「やめなさい!なんだよ。あいつが悪いんだ。俺のせいじゃない!あいつが言うこと聞かないから」

大騒動になった時、外にいた警官が笛を吹いた。空間を裂くようなその音に、皆少し落ち着きを取り戻す。すると、それを確認した警官は言った。

「詳しい話は、署の方で聞かせてもらいますか?」

さっきまでの面倒くさそうな態度から一変し、警官は義姉の婚約者を鋭く睨みつける。それに習って、参列者たちも揃って婚約者を睨みつける。

逃げられないと悟ったのか、婚約者は悔しそうに「くそ」と吐き捨て、がっくりと肩を落としたのだった。

それからしばらくして、義姉の婚約者は逮捕された。婚約者は連行されてからも反省の色を見せず罪を認めなかったが、結局、警察の厳しい追求を逃れられなかったようだ。警官から教えてもらったのだが、義姉の発作が起きた時、一緒にいた婚約者が薬を奪って捨てたことが原因だったらしい。そんなひどいことができるなんて、私は彼を人間とは思いたくない。

ケーキを置いて出てきた時に逆恨みで何かされては困る、ということで、大輔は私を守るために転勤を希望してくれ、遠方に引っ越すことになった。さらに、それをきっかけに、実の娘が亡くなってもお金のことしか考えない義父母と完全に絶縁した。もう二度と会うことはないだろう。

引っ越してすぐは知り合いもいない慣れない土地に戸惑うことも多かったが、今では手芸友達もできて楽しい生活を送っている。

それからもう一つ、いいことがあった。私のお腹に、新しい命が宿っていることが判明したのだ。まだ性別は分からないが、名前はもう決まっている。男の子でも女の子でも、「なつ」と付けることにした。尊敬する義姉の名前「夏美」から、一文字もらったのだ。

義姉はきっと、悔しかっただろう。愛した人に裏切られ、無念のうちに人生を終えることになって。だから私は、その分もしっかり生きていこう。そう心に誓った。

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