暗い庭を眺めながら、私は結婚生活を最初から振り返っていた。25歳の時、友人の紹介で匠と出会い、半年の交際を経て入籍した。当時の匠は優しくて、仕事にも意欲的で、一緒にいて楽しいと思える相手だった。
けれど結婚3年目あたりから、少しずつ態度が変わり始めた。5年目には「お前は俺が食わせてやってるんだからな」が口癖になった。7年目には「お前なんかいなくても困らない」にエスカレートし、9年目には目も合わせなくなった。1年ごとに言葉の温度が下がっていくのを、カレンダーをめくるように感じていた。
今日は機嫌が悪いだけだ。仕事が忙しいのだろう。そう理由をつけて現実から目をそらし続けた。匠の暴言にも義母の嫌みにも悪意はないのだろうと自分を納得させようとした。そうやって自分を騙し続けることが家庭を守ることだと信じていた。器が割れないように、中身が溢れないように、必死で両手で支え続けてきた。
けれどその家庭はとうの昔に壊れていた。たった3日間、病に倒れた父の見舞いに帰りたい。それだけを頼んだだけで、笑いながら離婚を突きつけてくる人間との暮らしに、一体何を守る価値があったのだろう。答えはもうとっくに出ていた。私がその答えを受け入れる勇気を持てなかっただけのことだった。
窓の外で夜明け前の空がわずかに調み始めている。東の空がぼんやりと群青から紫へ。紫から淡い桃色へと変わっていく。暗闇の中に薄い光が差し込んでくるその瞬間が、まるで今の自分の心の中と重なるように感じられた。どんなに長い夜にも必ず朝は来る。どんなに深い悲しみにも必ず終わりがある。
祖母が生前よく言ってくれた教えがある。「転んだら泣いてもいい。でも泣き終わったら自分の足で立ちなさい」その言葉が遠い記憶の底から浮かび上がり、夜明けの光と一緒に胸の奥を照らしていった。立ち上がらなければ。自分の足で、自分の力で。
涙が頬を伝った。それは悲しみの涙ではなかった。背負ってきた重荷を下ろした安堵と、これから始まる新しい一歩への覚悟が涙になって溢れ出したのだ。
父の体調がすっかり安定した頃、私は改めて両親に離婚の経緯と匠からの嫌がらせについて詳しく話した。着物の処分をほのめかすメッセージのことを聞いた父は、しばらく黙った後、低い声で言った。
「匠君が言った荷物の件は、弁護士を通じて正式に引き渡しの手続きを取ろう。それと知恵へ1つ伝えておくことがある」
父は湯呑みを両手で包みながら、いつもより真剣な表情で続けた。
「経済との取引だが、離婚の件を踏まえて見直しの連絡をしようと思っている。うちの取引先には、信頼できる相手であることを重視しているからな」
母が父の言葉に強く頷く。
「社員の家庭事情に口を出すつもりはないけど、うちの娘を存在に扱った人間がいる会社と、これまで通りの付き合いを続けるのは、正直なところ気が進まない」
父の言葉には感情的な怒りではなく、経営者としての冷静な判断が滲んでいた。取引の見直しは娘の復讐のためではなく、ビジネスパートナーとしての信頼関係に基づく判断なのだ。その冷静さと、娘を守りたいという父親としての思いが矛盾することなく同居している父の姿に、私は胸を打たれた。
「父さん、その話、私から伝えさせてもらえないかな?」
言葉にした瞬間、自分でも驚くほど声が落ち着いていた。
「知恵が自分で伝えたいのか?」
「ええ。私はずっと誰かの後ろに隠れて生きてきた。匠さんの言いなりになって、お母さんの顔色を伺って、自分の本当の気持ちは全部飲み込んで生きてきた。でももうそれは終わりにしたいの。自分の口で、自分の言葉でちゃんと伝えたい。それが今の私にできる唯一のけじめだと思うから」
父は私の顔をじっと見つめた後、深く頷いた。
「わかった。ただし、感情的にはなるなよ。事実だけを冷静に伝えるんだ。それが1番強い」
道夫に連絡すると、道は電話口で静かに、けれど力強く言った。
「あんたは強い人だよ。10年間、誰にも弱音を吐かずにやってきたじゃない」
「強くなんかないよ。今だって膝が震えてる」
「いいの。震えてて。震えながらでもやるって決めたなら、それが本物の覚悟だよ」
母は心配そうに私を見つめた。
「無理しなくていいのよ」
しばらく私の目を見つめた後、母の表情がふっと柔らんだ。
「でも知恵なら大丈夫ね。あなたは私の自慢の娘よ」
大月経済の本社ビルは、駅前の大通りに面した8階建てのビルだった。ビルの前で立ち止まり、入り口を見上げる。匠が毎日ここに通っていたのだ。この建物の中で私の実家のお相手に営業をし、それで給料をもらい、その金で飲みに行き、帰ってきては「パン屋のパートなんて」と妻を見下していた。今、この場所は私にとって全く別の意味を持つ建物になっていた。
ガラスのエントランスを見上げながら、私は一度深く息を吸い込んだ。心臓が早く打っているのは感じるが、手の震えはない。父の言葉を思い出す。「感情的にはなるな。事実だけを冷静に伝えるんだ。それが1番強い」
受付の女性に声をかける。
「萩原建設の件でお話があります。営業部長にお目にかかりたいのですが」
萩原建設という社名を聞いた瞬間、受付の女性の表情が引き締まった。大口の取引先の名前には、会社全体が敏感に反応するものなのだろう。
応接室に通されて待つ間、窓の向こうに広がる街並みをぼんやりと眺めていた。ここに来ることが正しい選択だったのか。最後の迷いがよぎる。けれど父の「事実だけを冷静に伝えるんだ」という言葉を胸の中で反芻すると、迷いはすぐに消えた。私は復讐のためにここに来たのではない。事実を伝えに来ただけだ。それ以上でも以下でもない。
10分ほどして、スーツのいい中年の男性が入ってきた。私を見るなり、どこか鼻で笑うような笑みを浮かべたのを私は見逃さなかった。おそらく「萩原建設」と聞いても、来たのはこんなパッとしない女で、取るに足らないと考えたのだろう。
名刺を差し出され受け取ると、「大月経済株式会社 営業部長」とある。私は名刺を持っていなかったが、丁寧に頭を下げてから、用意しておいた言葉を静かに切り出した。
「突然のお伺いで申し訳ありません。私、先日まで富士千知恵という名前でした。旧姓は萩原、萩原建設の代表取締役、萩原安弘の娘です」
営業部長の顔色が目に見えて変わった。萩原建設の社長の娘。その言葉の重みを瞬時に理解したのだろう。背筋を伸ばし直し、急に改まった表情で私の話に耳を傾け始める。
「あの、萩原さんの……存じ上げませんでした。大変失礼いたしました」
慌ててお茶を注ぎ足す営業部長の手がかすかに震えているのが見えた。つい先ほどまでの余裕のある態度が一変し、目の前の女性が自社の命運を左右する取引先の令嬢だと知った瞬間から、全身が緊張に包まれている。
私は深呼吸をしてから、次の事実を伝えた。
「先日、貴社の営業部に所属している富士匠と離婚いたしました。以前からモラハラを受けておりましたが、父の入院のため3日間の帰省を伝えたところ、匠から離婚を告げられ、双方合意の上で離婚届を提出した次第です」
営業部長は口を半開きにしたまま瞬きを繰り返している。明らかに予想もしていなかった話の展開に、頭の処理が追いついていない様子だった。
「父からの伝言をお伝えにまいりました。今後の取引については、改めて検討させていただきたいとのことです」
営業部長の顔が少しずつ青ざめていく。
「長年のお付き合いに対する敬意を忘れてはおりませんが、今回の件を踏まえ、取引関係の見直しを検討せざるを得ない状況になりました」
父が教えてくれた通り、感情を交えず事実だけを淡々と伝える。声は震えなかった。パン屋のカウンターで毎日お客様に向けてきた落ち着いた声が、ここでもしっかりと役割を果たしてくれている。
営業部長の額には大粒の汗が浮かんでいた。萩原建設との取引が大月経済にとってどれほど重要か、営業部長である彼が知らないはずがない。売上の4割を支える取引先が、1人の社員の軽率な行動によって離れようとしている。それは一部門の問題ではなく、会社の存続そのものに関わる重大な事態だ。
営業部長は深く頭を下げた後、震える声で言った。
「あの、少々お待ちいただけますか? 当事者の富士を読んでまいります。どうかそれまでお待ちください」
お茶を新しく入れ替えるよう内線で指示してから、営業部長は足早に応接室を出ていく。1人残された部屋で、廊下の向こうから営業部長の怒声がかすかに聞こえてきた。
「富士、すぐ応接室に来い。急げ」
その切迫した声の調子から、匠がこれから何を突きつけられるのかが容易に想像できる。再び1人になった部屋で、私は窓の外に広がる街並みを眺めながら、不思議なほど穏やかな気持ちでいた。怒りでも悲しみでもない。ただ自分の足で立ち、自分の言葉で語るということの重みを、今この瞬間に全身で感じている。
5分ほどして、営業部長に連れられた匠が応接室のドアを開けた。匠の目が私を捉えた瞬間、足が止まった。
「知恵……なんでお前がここに」
匠の顔が見る見るうちに蒼白に変わっていった。口が半開きになり、目が見開かれ、額には見る見るうちに汗の粒が浮かんでくる。応接室にいるはずのない元妻の姿が、匠の脳を処理不能の状態に落とし入れているようだ。
皺だらけのワイシャツに無精髭、目の下には濃い隈が刻まれている。家事を自分でこなせず、生活が荒れているのが外見からも見て取れた。
「こんにちは、匠さん。いえ、今はもう富士さんとお呼びした方がいいかしら」
営業部長の視線が匠に突き刺さる。
「富士、お前、萩原建設の社長のお嬢様と結婚していたのか。なぜ1度も報告しなかった?」
「え……萩原建設って……」
匠はまだ状況を理解しきれていない。ブツブツと独り言のように繰り返している。萩原建設。10年間、妻の旧姓が萩原であることは知っていた。萩原建設が自社の最大取引先であることも知っていた。けれどその2つを結びつけることは1度もなかった。なぜなら匠は妻の実家のことなど、最初から関心がなかったからだ。「お前の実家の話なんて興味ないんだよ」と何度も遮り、「パン屋のパートの嫁」と見下し続けてきた10年間の無関心が、今この瞬間に全て跳ね返ってきた。
2つの点がようやく線で繋がった匠の表情が、驚愕から恐怖へと変わっていくのが手に取るようにわかった。
「あなた、10年間一緒に暮らしていて、私の実家が何をしている会社か1度も聞かなかったわよね。私が話そうとしても、『お前の実家の話なんて興味ない』っていつも遮ってたもの」
匠の顔が蒼白を通り越して土色に変わっていく。鞄から何度も取り出していた萩原建設の資料。得意先として語っていた大口取引先との打ち合わせ。それが全て自分の妻の実家だったという事実が、今になってようやく匠の脳に叩き込まれたのだ。
「待ってくれ、知恵。悪かった。俺が悪かった。頼む、取引だけは……」
匠の声は震え、膝が小刻みに揺れていた。
「萩原建設さんとの取引はうちの売上の4割を占めているんだぞ。お前はそれをたった一言で潰そうとしてるんだ」
匠はその場に崩れ落ちるように膝をつき、体を床に擦りつけた。スーツの膝が汚れることも構わず、体を折り曲げて懇願する姿は、つい数週間前まで「お前みたいな女」と見下していた人物と同じとは思えない。
「知恵、頼む。復縁してくれ。何でもする。今までのこと全部謝るから。家事も手伝う。お前の実家にも挨拶に行く」
次から次へと並べ立てる空手形に、営業部長すら目を伏せている。この男が本当に反省しているのかどうか、この部屋にいる全員が分かっていた。匠が恐れているのは妻を失ったことではない。取引先を失い、自分のキャリアが崩壊することを恐れているだけなのだ。つい数日前まで「慰謝料を請求するな」と脅し、荷物を捨てると脅していた人間が、取引先の社長の娘だと知った途端にこの有様だ。
その姿を見て、私は確信した。この人は最初から最後まで、私を1人の人間として見ていなかった。家事をする道具。自分の体裁を保つための付属品。そして今は、取引先との橋渡し役としか見ていないのだ。
「匠さん、あなたが私に言った言葉を覚えてる?」
匠の体がびくっと震えた。
「『じゃあ離婚。さよなら』って。あの時のあなたは笑ってたわよね。私が泣いて引き下がると思ってたんでしょ」
匠は顔を上げ、据わった目で私を見つめる。その目に浮かんでいるのは悔恨ではなく、追い詰められた獣のような恐怖だった。
「私は10年間、毎朝4時に起きて働き、帰れば家事をこなし、あなたに『パン屋のパート』と馬鹿にされても我慢してきたわ。たった3日間、病気の父を見舞いに行きたいと言っただけで、あなたは離婚を突きつけた」
声は震えなかった。10年間飲み込んできた言葉が、ようやく形になって口から出てきたのだ。
「でも私は泣かなかった。あなたの言葉をそのまま受け取っただけよ。あなたが望んだ通りの結果になったの。もう遅いわ」
応接室に沈黙が落ちた。匠は床に膝をついたまま動けず、営業部長は苦々しい表情で匠を見下ろしている。
「萩原様、この度は弊社の社員が大変な失態を……」
「取引については、父と直接お話いただければと思います。私からお伝えすべきことは以上です」
「この度は本当に申し訳ございませんでした。萩原社長にもどうかよろしくお伝えください」
私は丁寧に頭を下げて応接室を出た。背後の部屋で、営業部長が匠に向かって何か怒鳴っているのが聞こえる。廊下に出ると、背後から叫び声が追いかけてきた。
「待ってくれ、知恵。頼む」
けれど私は1度も振り返らない。受付の女性が驚いた表情でこちらを見ていたが、私は静かに会釈をしてエントランスに向かった。自動ドアが開き、外の空気が触れた瞬間、全身の力がふっと抜けた。足が少しだけ震えていることに気づいたが、それは恐怖からではなく、張り詰めていた緊張が解けた反動だろう。
階段の手すりに手をかけ、目を閉じて数秒間じっとしていた。やり遂げた。自分の口で、自分の言葉で、伝えるべきことを全て伝えたのだ。午後の日差しが柔らかく降り注いでいた。深呼吸をすると、春の花の香りが鼻先をくすぐる。もう誰の後ろにも隠れていない。誰の顔色も伺う必要がない。
携帯電話を取り出し、父に短いメッセージを送った。
「伝えてきたよ。ありがとう、お父さん」
すぐに返事が来た。
「よくやった」
たった5文字のメッセージが、どんな長い言葉よりも温かく心の深いところに染み渡っていく。続けて母にも報告した。母からはすぐに電話がかかってくる。
「すごいよ、あんた。かっこよすぎるよ」
「こっちもよ。膝がまだ震えてるもん」
「それでいいの。最後までやり遂げたんだから」
道の温かい言葉に包まれて、目頭がじんと熱くなった。1人では来られなかった場所に、たくさんの人の支えがあってたどり着いた。父と母と道、そしてパン屋で私を認めてくれた店長やお客様たち。その1人1人の顔が浮かんでは消え、感謝の気持ちが胸いっぱいに広がっていった。
その後の匠の転落は、驚くほど早かった。萩原建設との取引見直しが正式に通告されると、大月経済の運営は即座に対応に追われたらしい。売上の4割を失う危機に直面した会社は、原因を作った匠に対して厳しい処分を下した。匠は営業部から外され、地方の資材倉庫の管理部門へ移動となった。事実上の左遷であり、営業成績トップを自慢していた頃の面影はどこにもない。
義母は息子の転落を知って、初めて事態の深刻さを理解したらしい。嫁を悪者に祭り上げてきた自分の言動が、結果的に息子の首を締めることに加担していたという現実を突きつけられ、それまでの威勢はすっかり消え失せたのだ。近所の知り合いに触れ回っていた悪口も、真相が広まるに連れて義母自身の評判を落とす結果となったと聞いた。自業自得だった。
匠は会社近くの安いアパートに引っ越したが、家事はまともにできず、部屋は荒れ放題のままだと風の噂で聞いた。かつて妻を「パン屋のパート」と馬鹿にし、義母と一緒になって嫁を追い込んだ日々の報いが、今まさに匠自身に振りかかっている。自分が妻に何を言い、何をしてきたか。そしてその妻がどれほどの存在だったか。匠が本当の意味で理解する日が来るのかどうかは、もう私には関係のないことだ。
なお、祖母の着物を含む私の荷物は、弁護士を通じた正式な手続きにより、一点も欠けることなく無事に手元に戻ってきた。匠が脅していた「ゴミに出す」という暴言は、結局のところ脅しに過ぎなかったのだ。
実家の近くにアパートを借り、新しい生活を始めた。パン屋の店長の紹介で地元のベーカリーでパート勤務をしながら、将来的には自分の小さなカフェを開きたいという夢が少しずつ形を帯び始めている。父の体調はすっかり安定し、母と一緒に台所に立つ時間が何よりの宝物だと感じる日々が続いている。
匠との離婚で失ったものは確かにある。けれど取り戻したものはそれよりずっと大きかった。私は今、自分の足で立っている。毎朝鏡の前で自分に声をかけるのが新しい日課になった。
「おはよう」
その顔は10年前よりシワが増えたけれど、目の中の光はあの頃よりずっと強くなっている。


