さすがに、その一言で俺の我慢は限界を超えた。
「貧乏人はタス預金でもしとけ」
そう言い放った銀行員の板倉は、見下したような笑みを浮かべていた。65歳になるまで、こんな屈辱を受けたことはない。俺は清掃会社の経営者だ。規模は小さくても、地元で信頼され、社員も家族同然に付き合ってきた。だからこそ、あの若造の態度が許せなかった。
俺、柏木雄太郎は、父から会社を継いで40年になる。今も現役で現場に立ち、社員たちと汗水を流して働いてきた。息子も数年前から一緒に働き始め、そろそろ世代交代も考えている。パソコンやネットのことは苦手で、そういうのは息子に任せている。俺はアナログ人間だ。しかし、それが今回の騒動の伏線になるとは、その時は思ってもみなかった。
俺がいつも利用している銀行は、会社から近くて便利だった。ATMもあるが、機械の操作が苦手な俺は、いつも窓口を利用していた。行員たちは皆、感じがよく、長年利用してきた馴染みの銀行でもあった。だが、数か月前から新人の板倉という行員が、俺にだけ嫌味を言うようになったのだ。
最初は小声の独り言だった。
「ねえ、まんぽっちで窓口まで来てんじゃねえよ」
2万円の引き出しだった。確かに大金ではない。だが、金額で客を差別するなんて、あってはならないことだ。俺はその時、聞こえないふりをしてやり過ごした。他の客も待っていたし、騒ぎ立てるのも大人げないと思ったからだ。
しかし、その後も担当が板倉になるたびに、彼の嫌味はエスカレートした。
「貧乏人が銀行来てんじゃねえよ」
最初は独り言のように小さかった声が、次第にはっきりと聞こえるようになった。俺は腹が立ったが、彼に反論すれば待っている客に迷惑がかかる。だから我慢した。我慢すれば、そのうち彼も興味を失うだろう。そう思っていた。実際、板倉以外の行員は皆、親切だった。会社から近いという利便性もある。だから、この銀行を変えようとは思わなかった。
そして、事件は給料日の朝に起こった。
俺の会社では、給料を朝10時までに振り込むのがルールだ。その日は、どうしても外せない現場作業が早朝から入っていて、戻ってきたときにはかなり時間が経っていた。着替える時間も惜しくて、俺は作業服のまま銀行に飛び込んだ。昼時だったため、銀行はいつも以上に混雑していた。待ち時間は20分から30分と表示されている。このままでは10時を過ぎてしまう。俺は焦りながら、番号札を見つめた。
ようやく呼ばれた番号。担当は、よりによって板倉だった。
「きたねえ服」
俺が窓口に近づくと、板倉は顔をしかめてそう言った。俺は聞き流して、用意しておいた振り込み用紙を差し出した。
「今日は売り込みをお願いします」
だが、板倉は用紙を見ようともせず、俺の服装をじろじろと眺めるだけだった。
「そんなボロボロの薄汚れた服で銀行に来て、恥ずかしいとは思わないんですか」
「すみません。朝から仕事があったもので」
確かに、作業服は現場帰りで汚れていた。だが、わざわざ指摘される筋合いはない。
「あなたは知らないかもしれないですけど、この銀行は結構大手なんですよ。そんな恰好の人が出入りしてるってなったら、銀行のイメージが悪くなるんですよ」
俺は、さすがに頭に来た。
「銀行を利用するのに、服装なんて決められてないですよね。それはあなたの勝手な意見じゃないんですか?」
「いやいや、銀行来る前にせめて着替えてこれますよね。そんな汚い格好で銀行に行こうなんて、普通考えなくないですか?」
「今日は時間がなくて急いでいたから、着替える暇なんてなかったんですよ。早く振り込みの用紙を受け取ってくれませんか」
俺が苛立ちながら促すと、板倉はやれやれといった様子で言葉を続けた。
「わからない人だな。遠回しに早く出て行けって言ってるのが伝わりませんか? 忙しいんだから、迷惑なんですよ」
「自分で言うのもなんですが、客に向かってその態度はないんじゃないですか? 服装がよくないと銀行を利用してはいけないんですか?」
俺の言葉に、板倉は見下したような笑みを浮かべて言い放った。
「そもそも、いつも小額なのに窓口まで来られて、普段から迷惑してたんですよ。あなたのこと、客だなんて思ったことありませんから」
その瞬間、俺の頭の中で何かが切れた。しかし、怒りを通り越して呆れてしまった。こんな態度で銀行員が務まるものなのか。きっと、客を選んで対応を変えているのだろう。
「わかりました。そういうことなら、結構です」
俺は振り込み用紙を回収して、その場を去ろうとした。すると、板倉はしっしと手を振るように言った。
「貧乏人はタス預金でもしとけ」
俺は振り返って文句を言おうと思ったが、彼とやり合っても何の意味もない。ただ時間を無駄にするだけだ。俺は拳を握りしめて耐えた。
俺は新しく番号札を取り直し、別の窓口で振り込みを済ませた。板倉以外の行員は、いつも通りスムーズに対応してくれた。だが、もうこの銀行にはいたくなかった。
会社に戻った俺は、息子に相談した。すると息子は、今はネットで振り込みができること、口座の解約や移動もネットでできることを教えてくれた。最初はぎこちなかったが、何度か試しているうちに、俺にもできるようになった。
翌日、俺は駅前にある別の銀行で新しく口座を開き、ネットバンキングの登録も済ませた。そして、その翌日、俺は今までの銀行を訪れた。
「口座内のお金を全て、別の口座に移したいのですが」
俺がそう言うと、対応した女性行員は焦ったように確認してきた。
「えっと、失礼ですが、口座内の全額でよろしいですか?」
「はい。全額です」
女性行員は、俺を個室のブースへ案内した。しばらくすると、名札に「支店長」と書かれた山田という男性が現れた。
「柏様、お待たせいたしました。私、支店長の山田と申します。この度は、口座内の全額を別の口座に移したいとのことですが、お間違いでしょうか?」
俺は頷き、移し替え先の銀行名を告げた。すると、支店長は焦ったように話し始めた。
「駅前だと、柏木様のご登録されている会社から少し遠くなりますよね。こちらの方が近くて便利だと思うのですが……」
支店長は、なんとか解約を回避しようと、あれこれ案を出してきた。しかし、俺の決意は固かった。
「今までお世話になりました。そして、この支店を含め、ほとんどの行員に不満はありません。ただ、板倉という行員がいる限り、私はこの銀行を利用したくないのです」
俺がそう言うと、支店長の顔色が変わった。
「板倉が、何かしたのですか?」
「彼に、『貧乏人はタス預金でもしとけ』と言われましたので」
支店長は顔面蒼白になった。
「今、彼を呼んできます」
支店長が板倉を連れてくると、板倉は何が何だかわからないといった様子で眉をひそめていた。
「君は、このお客様にとても失礼なことを言ったらしいじゃないか。謝罪しなさい」
「え? やですよ。俺、間違ったこと言ってないですから」
板倉は、まったく反省の色を見せない。
「この人が毎回毎回忙しいのに、小額のくせに窓口に来るから迷惑だって言っただけですよ」
「なんてことを言うんだ! 金額の大小でお客様への対応を変えるなんて、教えたつもりはないぞ!」
「なんか言ったら、君はわかるんですか? しかもこの人、こないだなんてボロボロの汚ったない作業服で来たんですよ。ありえないじゃないですか」
板倉の言い分に、支店長は激怒した。
「お客様にもそれぞれ事情があるんだ! 私たちがどうこう思うことが間違ってるんだ! いいから、早く謝罪しなさい!」
「店長、なんでこんな貧乏人のことをそんなに気にするんですか?」
板倉の言葉に、支店長は怒りで震えながらも、一呼吸置いて言った。
「柏様は、貧乏人なんかじゃない。会社の経営者なんだ。今だって、この銀行の口座を解約して、中にある全額を別の銀行に移したいとおっしゃっているんだ」
「はあ? 全額だって? いつも小額だったのに」
「それは法人口座ではなく、俺のプライベートの口座の方だよ」
俺は言った。
実は、俺はこの銀行に法人用と個人用の2つの口座を持っていた。普段のやり取りはほとんど個人用を使っていて、会社関連の取引のみ法人口座を使っていた。先日の給料の振り込みも、法人口座を使うつもりだった。だが、板倉は振り込み用紙すら見ようとしなかった。だから、俺が会社の経営者だということに気づかなかったのだ。
「そんなこと知ってたら、俺だってちゃんと対応しましたよ」
「だから、そうやって人によって対応を変えることが、そもそも間違ってると言ってるんだ」
「この度は申し訳ございませんでした。どうか、解約は撤回してもらえませんか?」
板倉は急に態度を変えて頭を下げてきたが、俺はその謝罪を突っぱねた。
「反省していないのに謝られても、何の意味もないので。謝らなくて結構ですよ」
「反省してます! 今後は気をつけますから!」
「これまでも支店長から何度も注意されていたようじゃないか。それでも治らないということは、反省していないからじゃないのか?」
俺の言葉に、板倉はキッと俺を睨みつけた。
「人の下に出てるからって調子に乗るなよ。そもそも、そっちが紛らわしい格好してたり、小額で窓口使ってるから、俺が勘違いしたんじゃないか」
やはり、反省はしていないらしい。
「支店長、すみません。彼と話していても拉致が開かないので、解約の手続きを進めたいのですが」
「彼の失礼な言動、本当に申し訳ございません。私が責任を持って対応させていただきます」
支店長は深く頭を下げ、板倉に向き直った。
「君には、今回の責任をしっかりと取ってもらうから、そのつもりでいなさい。私が呼ぶまで、自分の席にいるように」
「ああ? なんで俺が責任取らないといけないんですか!」
「君のせいで、大口顧客を失うことになったんだ。当然だろう」
支店長が怒鳴りつけると、板倉は不満そうにしながらも、自分の席へと戻っていった。
結局、板倉は自分の言動が間違っていたとは思えないようだった。俺の会社にいる若い社員たちが、彼のようでなくて本当に良かったと思う。
その後、手続きは滞りなく進められた。俺が礼を言って銀行を出ようとすると、支店長が出口まで見送ってくれた。
「長らくご利用いただき、ありがとうございました。今後も何かございましたら、いつでもお立ち寄りください」
申し訳ないが、俺がこの銀行を利用することは、もうないだろう。
それから数週間後、風の噂で板倉のことを知った。彼は今回の責任を取らされ、地方の支店へ異動することになったらしい。しかし、彼はそれを拒否して、自ら辞めてしまったようだ。支店長の最後の恩情を、自ら無にしたのだ。彼は今、職が決まらずにアルバイトで食いつないでいるとのことだ。小さな町だから、こういった噂はすぐに耳に入ってくる。彼のあの見下す態度を直さなければ、正社員としての再就職は難しいだろう。
俺と言えば、ネットバンキングにもすっかり慣れた。やってみると、なぜもっと早く試さなかったのかと思えるほど便利だ。今回のことを教訓に、新しいことにも挑戦しながら、これからも仕事に邁進していこうと思う。



