「かずみさん、これを」と身寄りが差し出したのは、薄い封筒だった。「お父様が亡くなる三か月前、私に預けてくださいました。もしもの時が来たら、あなたに渡すようにと」
封筒の中から出てきたのは、三通の手書きの書状。業界連合会の理事会で最も影響力のある三人の重鎮宛てに書かれた、義父直筆の依頼状だった。そこには「長男の嫁のかずみを、経営者として支えていただきたい」という言葉がしたためられている。
「お父様はね、私にこれを託す時、こうおっしゃったの。『かずみが心の底から戦う覚悟を決めた時、その時に初めて出しなさい』って。ずっと、私の覚悟が決まる日を待っていてくださったのね」
身寄りの言葉に、私は義父の達筆な筆跡を指先でそっとなぞった。義父は自分の死後、家業に起こりうる最悪の構図を見抜き、私が立ち向かうための武器を、こうして身寄りの手に預けてくれていたのだ。
「社長、本日の段取りを確認させてください。午前中に株主総会の招集通知を発送。次に業界連合会本部への告発状の追加分を提出。並行してお父様の三通の書状を、それぞれの重鎮の事務所へ郵送します。明日の午後には必ず先方の手元に届きます」
「旦那様側の動きはこちらで引き続き監視します。妨害工作の気配があれば、即座にご連絡します」
「皆さん、本当にありがとう。これで準備は整いました。ここから先は、私が前に立って、覚悟を決めて進みます」
事務所を出る頃、初夏の朝の光が、まるで私を後押しするようにまぶしく感じられた。
株主総会の当日。私は早朝のうちに母と共に義父の墓前に足を運んだ。手を合わせ、今日のすべての段取りを心の中で報告する。母が隣で頷きながら、白い花を一輪、そっと墓前に添えてくれた。
オフィスに戻ると、大会議室には株主名簿に載るすべての関係者が集まり始めていた。義父の旧友であり三パーセントの株式を所有する体型顧問の老人。古くからの取引先の代表。社員代表の原田さんと篠田さん。そして、義父の書状を受け取った業界連合会の重鎮三名のうち、二名が自ら出席を申し出てくれていた。会議室の正面の机には、議題一覧と議決権行使の集計表、そして義父の遺言書の原本が並べられている。
予定の十時、大機が自分の弁護士を伴って入ってきた。彼はこれまでの傲慢さを取り繕おうとしながらも、その奥に緊張の色を滲ませている。その後、義母が見覚えのある黒いワンピースに身を包み、無言のまま入場した。最後に信ぶ子が、控えめなジャケット姿で大機の弁護士の隣におずおずと座る。
「皆様、本日はご多忙の中、株主総会にお集まりいただき、心よりお礼申し上げます。本日の議題は二つ。第一に、現代表取締役である大機の解任。第二に、新代表取締役の選任。この二つを、皆様の議決権を持ってご審議いただきます」
大機の弁護士が立ち上がり、私の議長提案を不当として取り下げを求める動議を提出する。しかし、それも事前に身寄りが用意していた手続き上の反論で即座に却下された。
「現代表取締役である海野大機様側の手続き上の主張については、全て事前に当事務所と公認会計士事務所の連名で検討済みです。再度、議事を進めさせていただきます」
大機の顔色が、白から赤、そしてまた白へと波打つように変わっていく。
「では、第一の議題、現代表取締役の大機の解任について審議に入ります」
身寄りが机の上に置かれた裏帳簿の写し、優先取引先差し替えの記録、原田さんの証言の文字起こし、そして信ぶ子の交際に関する社内資料を、議題の根拠資料として一枚ずつ会議室全体に提示していく。資料が机の上に並ぶたび、大機の弁護士は汗の量を増やし、表情を曇らせていった。
東海連合の重鎮の一人である久保田氏が、深く頷きながら低い声で言った。
「海野誠一さんが生前最も恐れていらしたことが、ここまで具体的に証拠化されているとは、見事な調査です」
その一言は、他の出席者にも決定的な影響を与えた。
「偽計業務妨害と優先取引先指定承認書の筆跡、それに裏帳簿。これだけ揃えば、業界連合としてももう黙ってはいられません。私どもの理事会は、明日の夕方までに海野大機さんの理事長解任を、緊急動議として正式に決議する方向で調整いたします」
しかしここで、焦りを隠せない大機の弁護士が勢いよく立ち上がった。
「待ってください。それはまだ時期尚早のはずです。当方からも改めて反論の機会をいただきたい」
「反論の機会は、本日この場で既に保証されております。議題として、株主の皆様の審議に入っておりますので」
大機の弁護士が口元を歪め、それでもなお反論を試みようとした瞬間、信ぶ子が突然、席から立ち上がって手をテーブルに叩きつけた。
「私は理事長の婚約者なのよ! なんでこんな扱いされなきゃいけないの! 大機さん、何か言ってよ!」
彼女の大声で、会議室の空気が凍りつく。大機の弁護士は無言で信ぶ子の腕を引き、座らせようとする。
「話をそらさないでください! 大機さんは私と結婚する約束をしてるの!」
「信ぶ子、頼むから今は黙ってくれ」
「大機さん、奥さんと別れて私と結婚するって、ホテルでも車の中でも何度も言ったじゃない!」
「黙れ、信ぶ子!」
信ぶ子の言葉は、議事録にそのまま記録されていく。夫婦未満の二人に、会議室全体が一斉に冷たい目を向けた。松島氏が立ち上がり、深く頭を下げた。
「私からも一言、申し上げさせていただきたい。海野誠一さんから残された書状を、私は深く受け止めております。かずみさんを経営者として、しっかりと支える所存です」
その一言が、会議室の流れを決定的な方向へと導いた。
身寄りが議決権の行使を促す宣言を行い、株主たちは順番に解任議案への賛否を投じていく。集計の結果、私の所有する九〇パーセントの議決権を含め、九六パーセントの賛成多数で、大機の解任が正式に決議された。大機の手が机の上で小さく震えている。
「続きまして、第二の議題、新代表取締役の選任について審議に入ります」
身寄りが新代表取締役候補として私の名前と経歴、そして決意表明文書を議題の根拠として提示する。私は立ち上がり、義父の顔を心に浮かべながら、自分の決意表明を真っすぐな声で読み上げた。
「私は、義父である海野誠一の意思を継ぎ、家業を現場の皆さんとお客様の暮らしのために必ず守ります。現場で十年、お客様の暮らしのそばに立たせていただいてきた経験を、これからは経営の場でも最大限に生かしていく所存です」
採決の結果、賛成多数で私は海野家事代行サービスの代表取締役に正式に選任された。会議室の片隅で、原田さんが目元に薄く涙を浮かべているのが見えた。
「議題は以上の二つでございます。本日お運びいただき、ご審議いただきました皆様に、心よりお礼申し上げます」
私が深く一礼すると、会議室全体から拍手が起こった。その音は、ロビーで聞いた最初の拍手よりも、もう一段深く、私の胸の奥に染み入っていった。
閉会後、会議室を出る私の周りに、原田さん、篠田さん、井上さんが自然と集まってきた。
「社長、本当に良かったです。私、この日が来るのをずっと信じて待っていました」
「私もです。社長が私たちを絶対に裏切らないって、ずっと信じてましたから」
「現場の皆、社長についていきます。新しい会社を一緒に一から作っていきましょう」
「皆さん、本当にありがとう。私一人では絶対にここまで来られませんでした。これからは皆さんと一緒に、強い会社にしていきます」
廊下では、信ぶ子が床に座り込んでいたが、大機の弁護士に支えられてようやく立ち上がろうとしていた。
「ねえ、私はこれからどうすればいいの? 親戚の会社も、もう優先取引じゃなくなるんでしょ?」
「それについては、今、私が話せる立場ではありません。弁護士さんを通じて、ご家族とご相談ください」
信ぶ子はその言葉に肩を震わせ、廊下の奥へとよろめきながら歩いていく。彼女の後ろ姿を、私はただ静かに見送った。
その日の午後、業界連合会の本部から、大機の理事長解任が正式に決議されたという通知が届いた。決議の根拠は、優先取引先の恣意的な差し替えに関する明白な背任行為。損害推定額は、概算で五千万円を超えている。連合会は損害賠償請求の準備にも入ると、文書で正式に通告してきた。また、社内では信ぶ子の正式な解雇手続きが、社内規定に基づいて完了した。入社時の虚偽申告、複数の業務上の不正、そしてロビーでの理不尽な振る舞い。これらが懲戒事由として認定され、信ぶ子は退職金を受け取れない普通解雇として会社を去ることになった。
そして、この日の夕方。私は身寄りと共に、義実家の門前に立っていた。玄関先で出迎えた義母は、この数週間で別人のように小さくなり、目の下の隈がくっきりと浮かんで見えた。
「お母様、本日お話に参りましたのは、こちらのお屋敷の名義についてです」
「何のこと? ここはあの人が私たち家族のために買ってくれた家でしょ」
「こちらの土地と建物の登記は、お父様の遺言により、全て海野かずみ様個人の名義に変更されています」
「まさか、この家まで…あの人は何もかも、嫁のかずみさんに…」
義母は目を見開き、呆然と立ち尽くす。私はそっと彼女の肩に手を置いて、語りかけた。
「ご安心ください。すぐに出ていっていただくつもりはありません。気持ちを整える時間として、半年間の猶予を私の方で確保いたします」
「たった半年で、私はどこへ行けばいいのよ…」
「家賃の補助も、半年間に限り当社の規定の範囲内で支援いたします。これは私の好意です。義務ではありません。お父様が残された会社とこのお屋敷は、私が責任を持って守り整えてまいります。お母様には、ゆっくりとご準備をいただきたいのです」
義母はしばらくの間、玄関の上がりかまちに手をついたまま、無言で立ち尽くしていた。その姿は、これまでの傲慢な義母ではなく、息子の選んだ道の重さに押しつぶされかけた、年取った母だった。
「かずみさん、私はあなたにひどいことを、何度も言ってきたわ…」
「そのお話は、また別の機会にゆっくりと伺いますので」
義母は玄関先の土間に膝をつき、しばらくの間、深く頭を下げ続けた。それは、私が大機と結婚してから十年間、一度も見たことのない深く長いお辞儀だった。彼女の目元には、私が知らなかった種類の涙が滲んでいる。
「お願い、かずみさん。大機を許してとは言わない。ただ、本当に申し訳なかった。それだけは伝えさせて」
「お顔を上げてください。私はあなたを罰したくて動いたのではありません。お父様が残してくださったものを守りたかっただけです」
「分かっているわ…でも、私が大機の盾になりすぎて、大機をダメにしてしまったのね」
義母の独り言のような声に、私は何も答えずにいた。身寄りが義母の前に、半年間の猶予期間と家賃補助の覚書を丁寧に置く。
「お母様、こちらの覚書にご署名をいただければと存じます。お困りの際は、いつでも私の事務所までご連絡ください」
義母は震える指でその覚書を受け取り、しばらく黙った後、サインをしたのだった。
その夜、大機は自宅に戻ってきた。リビングのソファに崩れるように腰を下ろし、両手で頭を抱え、私の顔も見ずにつぶやき始める。
「かずみ、頼むから解任を取り下げてくれ。社長の地位だけでも、せめて」
「社長の地位は、私だけが決めたことではありません。株主の皆様が議決で決められたことです」
大機は両膝を床につき、私の足元で体を伏せた。彼が人前で頭を下げる姿を、私はこれまで一度も見たことがない。
「お願いだ、かずみ。信ぶ子とのことは、本当にただの遊びだったんだ。お前と離婚するつもりは、最初からなかった」
その言葉は、もう私の耳には届かなかった。
「あなたは家族と会社の両方を、自分の手で軽く扱われたのですから」
「かずみ、本当に頼む!」
私は机の上の書類を整えながら、一言だけ告げた。
「あなたたちがしてきたことが、そのまま帰ってきただけよ」
大機は目を丸くして私を見る。そしてしばらくの間、口を開けたまま、ぴくりとも動かなかった。私にこんな風に言い返されるとは、想像もしていなかったのだろう。やがて彼は肩を震わせながら、声を殺して泣き始める。私はそんな大機を最後に一瞥し、寝室に戻った。ベッドサイドの引き出しを開け、義父の遺言書のコピーを取り出す。
「お父様、家業はこれから私がしっかりと守り続けます」
そう呟いて、遺言書を胸元にそっと押し当てた。
それから半年ほどが経つ頃、大機は業界連合会からの損害賠償請求と、信ぶ子の親族企業との不正取引に伴う民事責任により、自宅マンションを手放し、安アパートに移っていた。信ぶ子は大機が無一文だと知るや否や、躊躇なく彼を見捨て、別の男の元に走った。しかし、その男からもほどなくして本性を見抜かれ、勤務先を転々とする生活に落ちていったらしい。信ぶ子は、私に対しても大機に対しても、SNSで匿名の誹謗中傷を繰り返した。だが、身寄りの手で発信者情報の開示が次々と認められ、一件ごとに法的責任を背負うことになった。借金が雪だるま式に膨らんだ大機は、友人にも頼れなかったようだ。夜のコンビニのレジ前で、疲れた表情で立ち尽くす姿を見たと、近所の住人からの報告もあった。
義母は半年の猶予の間に、親戚を頼って身を寄せようとしたが、息子の背任行為と不祥事で世間の信用を失っていたため、どの親戚からも冷たい視線を向けられた。結局、地元を離れた古いアパートに一人で移り住んだらしい。私はそれでも、義母に対して必要最小限の家賃補助だけは、半年限定で続けてあげた。それが、義母に対する最後の情けだった。
信ぶ子の親族企業は、優先取引先指定の取り消しと、過去の不正取引に伴う返還請求の積み重ねで、半年後には事実上の廃業に追い込まれた。信ぶ子の父親は私への罵倒の電話を録音された記録を、損害賠償請求の場面で繰り返し提示され、最後は弁護士を通じて謝罪文を送ってきたが、私はそれに返信もしなかった。
元社員の橋口さんは、大機が別事業の幹部として迎え入れられる予定だったが、その事業は立ち上がらないまま空中分解。それ以降、どこにも居場所を見つけられず、現在も無職でいるらしい。大機の弁護士は、手に負えないほどの業務内容により体調を崩してしまった。大機はその後、新しい弁護士に依頼するだけの資力も失っていたため、最終的には本人訴訟で残務処理を続けるしかない状態に追い込まれた。会社を大事にせず、不倫に走った代償は、これからも大機の生活にじわじわと傷を残していくのだろう。
業界連合会の理事会は、大機の理事長解任の決議後、その後任として義父の盟友である久保田氏を選び、業界の信頼は再び回復していった。私はその様子を社長室の窓辺から眺めながら、心の中で義父に報告した。
「ご覧の通りです」
その思いに答えるように、義父が少し微笑んだように感じたのは、きっと気のせいではないだろう。
あれから一年が過ぎた。海野家事代行サービスは、大機の解任前よりもさらに業績を伸ばし、新しいスタッフ採用の応募者も絶えない。私は表向きの社員という立場をやめ、社長として現場と事務所の両方に時間を割きながら、母を月に二度、自宅マンションに招くようになった。たまに母が差し入れてくれるおにぎりは、あの時も今も、私の心の支えだ。
身寄りは新しくなった海野家事代行サービスの正式な顧問弁護士として、月に一度の定例会議で私の隣に必ず座り、笑い合いながら新しい契約の話を進めている。松島さんは業界全体の女性経営者支援の活動を始め、私もその活動に、海野家事代行サービスの代表として深く関わるようになった。
ある朝、原田さんが新しい現場の制服に身を包み、青いエプロンの胸に新しい社長の名前の入った名札をつけ、誇らしげに出社してくれた。その姿を眺めながら、私は事務所の窓辺で朝の光に目を細める。私は今、本当に幸せだ。



