父の帰りを待つ間に、私は通帳の数字を何度も確認していた。緊張のせいか、手のひらに汗が滲む。家族会議と称して集まったこの場で、すべてを終わらせるつもりだった。
「お前たち、り子に何かあったのか?」
ウォーキングから戻った父が、痩せた私を見て真っ先に気づいたのは、三年間一緒に暮らした夫・誠一ではなく、実の父だった。その事実が、もう答えだったのかもしれない。
会議の席に着いた誠一と義姉の香織は、どこか居心地悪そうに互いを見やる。私は深く息を吸い込み、通帳をテーブルの上に置いた。
「この通帳、見覚えある?」
「何だよ、いきなり」
「家族名義の口座から、毎月決まった額が引き出されてるの。しかも、私が働けなくなってから増えてる」
誠一の顔色が変わる。香織は唇を噛んだ。
「それは…俺たちが生活費で使ってるんだよ」
「生活費? それにしては金額が大きすぎるわ。それに、ここにはコンビニやネット通販の引き落としも記録されてる。宅配で飯を頼んだり、身内に貸したりしてるんでしょ?」
「夫婦のお金をどう使おうが俺たちの自由だろ!」
「認めてくれたわね、自分たちの使い込みを」
私は通帳を指で軽く叩いた。
「確かに親族間の窃盗は刑事罰になりにくいわ。でも、民事上の責任を問うことや返還請求は可能なの。だから、私はあなたたちに対して訴訟を起こそうと思ってる」
「訴訟だって?!」
誠一が立ち上がる。香織も青ざめた顔で私を睨む。
「別におかしなことじゃないでしょ。この口座のお金の大半は、私が働いてた頃に貯めたものだもの。夫婦の共有財産とはいえ、あなたたちが勝手に使い込んだ分は返してもらうわ」
「俺だって毎月入金してたんだぞ!」
「そうね。でも、あなたが入れてた分なんて、とうの昔に使い切ってるわ。香織さんの散財でね」
香織が声を上げる。
「家族の間でちょっと羽目を外しただけじゃない! 盗んだとか言いがかりは異常よ!」
「それを判断するのはあなたじゃないわ。裁判所よ。そして、判決を左右する証拠なら、私はたくさん持っている」
その言葉に、誠一の顔から血の気が引いていく。彼は震える声で言った。
「待ってくれよ、り子。俺たちにも悪いところはあったと思う。そこは謝罪する」
「誠一、勝手に謝らないでよ!」
「お姉ちゃん、頼むからここは俺に任せてくれ。穏便に済ませたいだろ」
香織は納得いかない様子だったが、騒いでいても解決しないと理解したのか、唇を噛んで黙った。
「今後は反省して心を入れ替えるよ。お金の使い込みもしない。だから…」
「だから、私にも悪いところがあったって言いたいの?」
「お互い様だろ、そういうのは伝わるだろ」
その言葉の瞬間、心の中で何かがプツンと切れた。私は静かに、しかしはっきりと告げる。
「ふうん。私たちがまだ夫婦でいられると思ってるの?」
「当たり前だろ。ちゃんと話し合えば解決するはずだし」
「じゃあ、その家族会議とやらの前に聞いておきたいんだけど。正一、私に隠してることない?」
誠一の表情が凍りつく。彼は視線を泳がせながら、はぐらかすように言った。
「なんだよ。言ってる意味が分からない」
その瞬間、彼は自ら関係の修復を放棄したのだ。それに気づかず、まだ真摯な夫を演じられると思っている誠一があまりにも滑稽で、私は思わず声を上げて笑ってしまった。
「話し合いできるわけないでしょ。この後に及んで隠し事してるような夫と?」
同時にバッグの中から封筒を取り出し、床にぶちまけた。そこには、誠一が若い女性と腕を絡ませ、キスを交わし、ラブホテルに出入りする写真の数々が写っている。
「部署の新人さんだって、とても仲良くしてるよね。仕事中にラブホテルに行くって、どういう気持ち?」
誠一の顔が真っ赤に染まる。香織は驚愕の表情で写真を見つめていた。
「どうしていつの間に…」
「あなた、浮気する人の典型的な行動してたでしょう。帰りが遅い。家にいない。休日をよくサボる。そういう行動を積み重ねてたら、疑われて当然でしょ。だから私、独身時代からの貯金で探偵事務所に調査を依頼したの」
「だったら、どうして最後まで信じてくれなかったんだ?」
「ウォーキングの時に父さんが言った通りよ。あなたは私の変化に気づかなかった。私が痩せたことにも、何か悩んでるように見えたことにも。実の父は気づいたのに、あなたは何も見えてなかった」
誠一は唇を噛むだけだった。
「ところで、聞きたいんだけど。私への気持ちがなくなったわけじゃないみたいなこと言ってたけど、じゃあ、この浮気行為は一体何なの?」
質問をぶつけても、彼は沈黙を守る。しかし、周囲で見守っていた親戚たちから「何を黙ってるんだ」「誠意を見せろ」と声が上がった。冷たく鋭い視線に耐えかねて、誠一が叫んだ。
「あ、愛してるのはり子なんだよ! そこは本当なんだ! でも、ほら、俺たち夜の営みがあんまりなかっただろう…」
彼が視線を向けたのは香織だった。それを聞いて、私はすべてを理解する。私たちの関係がぎくしゃくしたのは、単に私の体調だけが原因ではない。彼女の干渉が少なからず関与していたのだ。
「だから何というか、欲求が溜まっちゃって…面倒を見てた子が体だけの関係でもいいとか言ってくれたから、甘えてしまった」
悪びれもなく告げる誠一に、私は吐き気を覚える。
「バカじゃないの?」
「え?」
「今のあなたは既婚者でしょうが。誘いをかける方もおかしいし、乗るのもどうかしてるわよ」
周囲からも非難の声が巻き起こる。誠一は言い訳を重ねようとするが、香織が突然口を挟んだ。
「って、香織さんに言われたんでしょ?」
「なんで知ってるんだ…それも調べさせたのか?」
「ただの推測よ。呆れたわ。あなたが浮気していいって言ったら、するんだ?」
「違う! ただの一般論で…」
「いつつの時代はとっくに終わってるのよ。いや、昔だったとしても浮気は許されないけどね」
正一の気持ち悪い発言に、私の心はますます冷えていく。すると、今度は香織が逆上した。
「別にいいじゃない! 妻だったら余裕の態度で許すべきよ!」
「なるほど。既婚者と恋愛してた人らしい意見ですね」
その言葉に、香織の表情が一瞬で凍りつく。誠一は事情を知らなかったようで、困惑した顔で姉を見つめた。
「香織さんについても、調査を依頼したんです。実は、少し不思議に思ってたことがあって。普通、弟夫婦に対してあんなに干渉しないでしょう?」
「何かおかしなところがあったのか?」
「ええ。あなたの上司、遺伝会社の方と連絡を取り合ってるみたいね。とても充実した職場恋愛だったみたいで、楽しすぎて周囲にバレそうになったとか」
香織の顔が青ざめる。
「もしかしてお姉ちゃんが仕事をやめたのは、あなたの想像通りよ。会社で問題になる前に逃げる必要があったから。でも、彼と別れたわけじゃなかった」
「そう。上司と香織さんの関係は続いていたのね。就職活動に身が入らないのも当然ね。うまく金持ちの上司と結婚できれば、働かずに済むから」
「それが俺たちとどう関係あるんだ?」と誠一。
「要は、上司と結婚するまでのつなぎよ。実家で居心地が悪かったのは事実でしょう? だから香織さんは、ゆっくりできる居場所を求めていたの。弟の家に白羽の矢を立てたけど、問題が一つ。どうにも不快な弟の嫁の存在ね。私にあれこれ指図されたり、親同士みたいに苦言を呈されたりしてはたまらないと思ったのよ。だから、正一が私への愛情ゆえに自分の敵になったら困る。夫婦の関係を引っかき回したのよ。その上で、正一にだけ甘い顔をしておけば自分の味方にできる。私たちの中が悪くなればつけ入る隙は大きくなる。浮気を後押ししたのも、それを狙ってのことでしょ?」
「うるさい! 探偵でも気取ってるの? 全部ただの妄想よ!」
「どう? 背景が分かった。今、私と香織さん、どっちが筋が通ってると思う?」
誠一に問いかける。それが最後の確認だった。彼への愛情はもうない。ただ、手心を加えるべきかどうか、そのラインを見極めたかった。
「愛情もあったかもしれないけど、彼女はあなたを利用してたのよ。笑って許せるの?」
「いや…そういう問題じゃない。俺やお姉ちゃんの気持ちをもっと分かって欲しいというか…」
結果は明白だった。誠一はこの後に及んで言い訳がましい言葉を口にする。本心からの謝罪を口にする意思すら感じ取れなかった。
「もういいわ。こいつとは離婚しなさい。それで慰謝料をぶんどって、しばらく私と暮らしましょう」
「その方がいいのかな? いや、でも…」
彼らはまだ自分たちに選択肢があると思っているようだ。ならば、その勘違いをそろそろ正すべきだろう。私はスマホを取り出し、連絡を入れた。直後、閉じていた隣の扉が開く。
そこに立っていた二人を見て、誠一たちは驚愕した。
「父さん、母さんも…なんでここにいるの?」
現れたのは、私の義両親だった。
「り子さんのお父さんにお前たちのことを相談されたからな」
義両親に今回の件を伝えたのは父だった。私は義両親が誠一たちの味方である可能性を危惧して報告をためらっていたが、父は「親同士の方がスムーズに話が運ぶだろう」と自ら話し合いに向かってくれたのだ。
義両親は、誠一と香織の言動を聞いてひどく嘆いたらしい。そして、この場にいてすべての会話を聞いていた。
「あなたたち、人として恥ずかしくないの?」
「父さんたちはり子の味方をするのか? 俺たちの味方をするべきだろう!」
「ふざけるな! 自分たちの行動を客観的に見てみろ。どう考えても悪人な行いだろうが!」
一括された誠一は情けない悲鳴をあげて縮こまる。義母も香織に厳しい言葉を浴びせた。
「不倫相手との恋愛、弟の嫁へのいびり、挙げ句の果てに泥棒まがいのことまでして、許されると思わないことね!」
「そ、そんなに怒らなくてもいいじゃない…」
香織は涙目になっている。二人の様子に痛々しさを覚えつつ、義父がぽつりと言った。
「みの虫100まで…どちらも悪癖は治らなかったな。この二人、小さい頃からずっと互いをいいように使ってたんだ。互いへの愛情も確かにあったんだろうけどな。香織は弟を可愛がってるふりして飯使い扱いで、誠一は姉に振り回されてるのを理由にしても悪びれなかった。かつて、家のお菓子を勝手に食べた時も、香織は『弟が食べたそうにしてたから仕方ない』と開き直り、誠一は『姉の命令に逆らえなかった』と言い訳したんだ。相手のせいにする癖は、互いを利用し合うために都合がいいから身についたんだろう。独り立ちして距離を置いてたし、誠一はり子さんと結婚したから大丈夫だと思ってたんだが…勘違いだったようだ」
額に手を当てて嘆く義父に、義母がそっと寄り添う。私は胸に怒りを宿したまま、彼らの苦しみの根源である二人へと向き直った。
「分かってるでしょ? もう私はあなたと夫婦でいたくない。全て終わらせましょう」
言いながら、私はバッグから三枚の書類を取り出した。
「離婚届と慰謝料請求書。私の分まで…」
「どうして…」
「香織さんのは精神的な苦痛についての償いです。正一のは、香織さん同様の精神的苦痛と浮気に関するものです。もし従わないのなら、裁判になります。ただ、そちらの勝ち目は薄いですよ。この場にいる全員があなたたちの所業や言動を目撃しているし、証拠もたくさんあるから」
「卑怯よ! 父さんも母さん、助けて!」
「再言しておくが、私たちはり子さんの味方だ。もしもお前たちが同意しないというのなら、親子の縁を切る」
義父の言葉に、香織は絶望した表情を浮かべる。
「そんなのひどいわ! 全部、誠一が悪いのに!」
「ふざけないでくれよ! お姉ちゃんこそ悪の根源だろ!」
二人は互いに責任を押し付け合い始めた。誠一は私へ向き直り、助けを求める。
「り子なら分かってくれるよな。もう子供の頃のようにはいかないって…。というか、俺がいないとお前は生きていけないだろ? 今は稼ぎもないし、生活が不安なはずだよな。お互いに助け合おう」
差し出された彼の手を、私は容赦なく振り払った。
「残念だけど、私はあなたがいなくても生きていけるわ」
直後、私は独身時代から使っている口座の通帳を突きつけた。そこに記載された金額を確認した瞬間、誠一の顔が驚愕に歪む。
「2000万…! お前、この金どうしたんだよ!」
「私の貯金を元に投資して増やしたのよ。これこそ、私がずっと続けていた金策よ。二人に振り回されながらも地道に続けた結果、私は一部では知られた投資家になっていたわ。これでも、今回の調査費用とかで結構減ったけどね。ああ、言っておくけど、これは財産分与の対象にはならないわ。私の特有財産だけで増やしたものだから、夫婦の共有財産には当たらないの。つまり、この口座のお金はどうあってもあなたには渡らない」
数秒の間、呆然としていた誠一は、私の言葉で一瞬にして絶望の色に染まった。彼が床に崩れ落ちるのを見下ろしながら、私はきっぱりと宣言した。
「これからについては弁護士に一任するわ。今後、あなたとか香織さんのことは無視させていただきます。誠一、お姉ちゃんと仲良くね」
直後、私は義両親と目くばせをした。二人は静かに頷き、周囲の親戚の力も借りて香織たちを外へと引きずり出す。
「待って! り子さん、許して! 助けてください! 夫婦じゃないか! 頼む! 見逃してくれ!」
見苦しく泣き叫ぶ二人だが、最終的にタクシーに押し込まれて去っていった。
完全に彼らの姿が消えた後、見上げた空は雲一つない快晴だった。私の未来を祝福しているようで、爽快な気持ちだった。
その後、無事に誠一との離婚は成立し、私は自由の身となった。もちろん、香織の分も含めて慰謝料請求はしっかり通った。また、共有財産の使い込みも二人連名で返還させることに。義両親が全面的にバックアップしてくれたおかげだ。財産分与でも私が不利にならないよう言ってくれ、義両親には足を向けて眠れない。
一方、誠一たちの地獄は始まったばかりだった。まず彼は会社を首になった。車内での浮気を私が報告したからではない。彼らは脇がよほど甘かったのか、現場を目撃していた人が結構いたらしい。その報告で調査が始まり、最終的にコンプライアンス違反で揃って解雇という流れだった。驚いたことに、誠一は調子に乗って結婚の約束までしていたらしい。彼の本心はともかく、浮気相手は本気だったようで、慰謝料を請求されたそうだ。現在、誠一はその請求を避ける弁明を続けながら、安アパートで生活している。様々な支払いで首が回らない日々を苦しみながら生きている。
私は浮気相手にも慰謝料請求をしっかり行った。彼女が誠一への請求に躍起になっているのは、その辺りに理由があるのだろう。私への支払いは自身の親に立て替えてもらっているので、誠一からの慰謝料で補填するつもりではないか。
香織は浮気相手の上司にあっさり捨てられ、義両親の下で再教育される日々らしい。両親が強制的に始めさせたパートの数々で朝から夜まで働き詰めで、心身共に疲弊している。彼女の豊満だった体型は、少し前の私よりも痩せているという。ちなみに、兄弟仲は破綻し、絶縁に近い喧嘩別れをしたとか。それこそ一番健全な状態だと思うので、各自反省してちゃんとした大人になってほしい。
私は元の職場に再就職した。ちょうど誠一が抜けた穴を埋める形となり、大歓迎されたので思わず苦笑した。投資も続けており、私の懐は温かい。今度、お世話になった親戚や義両親を呼んで小さなパーティーを開くのも悪くないだろう。特に両親には美味しいものを食べてもらいたい。そんなささやかな計画を頭の片隅で進めながら、今日も私は一生懸命かつ真面目に生きていくのだった。



