「妥協したの?」
結婚式の最中、元夫の正斗が突然現れて放った一言で、会場の空気が凍りついた。
十年前、私は正斗と結婚していた。でも彼との生活は、毎日否定され続ける日々だった。仕事も家事も頑張っても、全部無駄だと。お前は何もできないと。そう言われ続けて、私は本当に自分が無価値な人間だと思い込んでいた。
離婚した後、少しずつ自分を取り戻せたのは、周りの人たちが私を必要としてくれたから。そして今、隣にいる裕二は、私という人間をまるごと受け入れてくれる人だった。
「若くて綺麗な女性とか稼ぎがいいとか、リカ子さんはどれも平均以下だし」
正斗は昔と同じように、私を下に見る言葉を並べ立てた。でも、もうあの頃の私じゃない。
「私にはリカ以上の女性はいませんよ。リカ子は努力家で優しくて堅実で、どんな状況でも投げ出さずに自分にできることをちゃんとやり続けられる人です」
裕二の言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなった。まっすぐで飾り気のない言葉。かつて正斗に「お前はダメだ」と言われ続けた私は、今こうして誰かに認められている。
「引き先候補として以前からお話をいただいていましたが、音社の社風とはそういうものなんでしょうか?」
裕二は静かに、でも確実に正斗を追い詰めていく。逃げ道を塞ぐような問いかけに、正斗は言葉を失っていく。この十年で少し厚みを増した彼の背中は、よく見れば小さく震えていた。
これがかつて私が怯え続けていた人。こんなに中身も器も小さい人だったんだ。
自然と息がこぼれる。胸の奥にあった重たい何かが、すっと消えていくのを感じた。長い間自分を縛っていたものが、音もなく解けていくような感覚。
「ねえ」
私は自分でも驚くほど落ち着いた声で話し始めた。
「さっき、誰がこんな女で妥協するって言ったよね。私ね、ずっと思ってたの。どうしてあの時あなたに何も言い返せなかったんだろうって」
毎日否定されて、怒られて、見下されて。「お前は何もできない」って言われ続けて。
「言葉ってすごいよね。最初は違うって思ってたのに、気づいたら本当にそうなんだって思い込むようになってた」
今思えば、十歳も年下で若かった私は、正斗にとって扱いやすかったのだろう。言われるがまま、すっかり騙されてしまった。
「でもね、違ったんだよ。私、ちゃんと頑張ってたから。仕事も家事も自分なりに一生懸命やってた。それを全部無駄だって、お前はダメだって否定したのはあなただよね」
私の言葉に、正斗の顔色が悪くなる。でも、もう止まらない。
「離婚して外に出たら違った。頑張れば頑張るだけ感謝してもらえたし、必要とされた。ちゃんと評価だって受けられた。私、無能なんかじゃなかった。ただあなたにそう思わされていただけ」
「ふざけるなよ!」
正斗が突然、怒声をあげた。
「お前はな、俺がいたから生活できてたんだろ。誰が養ってやったと思ってるんだよ。感謝の気持ちを忘れたのか」
かつて何度も聞かされた言葉。当時は納得して落ち込んでいたけれど、今は何も刺さらなかった。
「じゃあ聞くけど、私が倒れた時、あなた何て言ったか覚えてる?」
正の表情が一瞬だけ固まる。
「病院に連れて行って欲しいって言った私に、飲み会だから無理って言ったよね。救急車呼びたいって言ったら、税金の無駄だって言われたこともあったっけ。それは動いてれば治る生け病だって。結局、栄養失調と過労だったんですけど」
淡々と事実だけを並べていく。周囲からひそひそと話し声が聞こえる。
「お前がドンキから悪いんだろ。俺はちゃんと指導してやってたんだよ」
正斗は必死に正当化しようとする。
「指導? 人を壊すことを指導って言うんだ。自信を奪って、価値がないって思い込ませて、逃げられないようにする。詐欺師とか犯罪者みたいだね」
「調子に乗るなよ!」
正斗の顔が一気に赤くなる。
「どうせそいつに媚びてるだけだろ。また捨てられるに決まってる。お前みたいなのが幸せになれるわけないんだからな」
でも、その罵声が最後まで続くことはなかった。
「いい加減にしろ」
裕二の低く通った声が割って入った。
「これ以上続けるなら、こちらもそれなりの対応を取らせていただきますが」
決して大きな声ではないのに、逃げ場のない圧を伴っていた。正斗は視線を泳がせながら周囲を見渡す。でも、味方は誰一人いない。向けられるのは冷やかな視線と明らかな拒絶。
「くそ」
正斗は顔を真っ赤にしながらも、何も言い返せず、そのまま誰とも目を合わせることなく逃げるように会場の出口へと向かっていった。
その背中にはかつての威厳など一切ない。居場所を失った人間の惨めな姿だった。
「お疲れ様。本当にかっこよかったよ」
隣で裕二が小さくそう囁いてくれて、思わず笑みがこぼれた。
「ありがとう。今を選んだ自分が誇らしい」
微笑み合う私たちを見て、みんなが一斉に拍手を送った。乱入者により壊されかけていた結婚式は、温かなムードで無事に再開された。
結婚式から数ヶ月が経った。あの日の出来事は親しい人たちの間ではしばらく話題になったけれど、時間の経過と共に少しずつ落ち着いていった。
正斗のその後は、思いがけない形で耳に入ってきた。あの結婚式での一件がきっかけとなり、社内外での評価を大きく落としたらしい。人を見下す人物だという噂が広まり、取引先との関係も悪化。特に裕二の会社との話は完全に白紙になった。さらに部下への強い当たりや高圧的な態度も問題視され、重要な案件から外され、発言権も失っていったという。
ちなみに、私との離婚時に言っていた若い女性との話も、結局うまくいかなかったらしい。随分と騙されて貯金が減ったとか。自業自得である。
裕二との結婚生活は、驚くほど静かで、そして温かかった。朝起きれば「おはよう」と自然に言葉を交わし、どちらかが忙しい時は無理をせずに支え合い、失敗しても責めるのではなく「大丈夫」と笑い合える。そんな当たり前のような日常が、かつての私には決して手に入らなかったものだ。
「無理してない?」
「うん、大丈夫。今は仕事も余裕あるから」
「そうか。じゃあ帰りに何か美味しいものでも買って帰ろうか」
何気ないやり取りの全てが心にしみる。誰かの顔色を伺うことも、理不尽に責められることもない。ただ自分のままでいていいと思える。
仕事も順調で、指名は以前よりもさらに増えた。後輩に指導を任されることも多くなり、気づけば頼れる人として周囲から見られ始めていた。
「長谷川さんにお願いして本当に良かったわ。またお願いできる?」
「ありがとうございます。是非また伺わせてください」
かつて役立たずだと責められ続けた自分が、こうして必要とされ、お礼を言われる。今でも少しだけ不思議な感覚になる。こんな気持ちにさせてくれた裕二には感謝しかない。二人でずっと仲良くいられるように、お互い切磋琢磨していければと思う。
ホッとした私は、亡き父が遺してくれた小さな花屋で、ゆっくりと流れる時間の中で過ごしていた。ある日、店を訪れたのは、かつての同級生で、今は人気のアーティストになった男の子――速水だった。彼は私の花を気に入ってくれて、展示会の会場装花を依頼してくれることになった。けれど、彼は私に「君の花には才能がある」と語りかける一方で、「君は何かから逃げている」と見抜く。私は無意識に、彼の言葉に心を揺さぶられていた。



