お鉄は廊下でぴたりと足を止めた。あの夜、障子の向こうから聞こえた低い声を思い出したのだ。「どこへしまったの、思い出せない」。その言葉だけが妙に心に残っていた。
スズりを取り戻してから五日と立たないうちに、隣村のゼニア徳兵衛という男が家の木戸を叩いた。市場で金貸しをしていることで知られた男だ。お鉄はその名を聞いた瞬間、義母のお咲の顔が強張るのを見た。義父の与兵衛も黙り込んだ。
ゼニアは縁側に勝手に腰を下ろすと、鋭い目つきで家の中を見回した。「ほほう、久しぶりだな。相変わらず暮らし向きは苦しそうだ」。袖から古い借用証を取り出し、「忘れてもらっては困る。仙代が借りた金子の返済だ。私の帳面を調べたが、受け取ったという記録がどこにもない。今度こそきちんと精算してもらわねばな」と突きつけた。
与兵衛の顔が青ざめた。「あれは返したはずだ」。ゼニアは冷笑した。「ならば証を見せなさい。口先だけでは信じられん。もし証がないなら、この家の田と家そのものを頂いて精算とする他ないな」。
ちょうどそこへお鉄が茶を運んで出てきた。ゼニアは新しい嫁をじろりと見て嘲笑した。「ほう、こちらの嫁は市場でよそ様の捨てた道具を拾い集めているとか。落ちぶれたこの家にはお似合いの嫁だ」。木戸の外を通りかかった近所の者たちがその声を聞いて足を止めた。
お鉄の顔が赤くなったが、借金の話がかかっているため何も言い返せなかった。茶碗をそっと下ろしながら、ゼニアが広げている借用証にちらりと目をやった。その時、お鉄の目が止まった。証の隅に小さな花押が押されていたのだ。
「お父様、この印、あのスズリの底に彫られていたものと同じではございませんか?」
与兵衛が動きを止めたが、お鉄は自分で首を振った。「いいえ、これだけでは返した証にはなりません。この印は元々ゼニア様の花押ですから、証文にあって当たり前です」。
言いかけたところで、お鉄の視線が止まった。市場で拾ったあの日、古い絵本の表紙だけが妙に膨らんでいたことを思い出したのだ。急いで奥の間へ駆け込み、あの本を持って戻ってきた。閉じ目の緩んだ表紙を指先で押すと、かさかさと紙の音がした。裏打ちを開くと、中から折り畳まれた古びた紙が一枚落ちた。
そこには借りた金の額、返した日付、そして受取人の花押が記され、さらにその下にスズリの底に彫られたものと寸分違わぬ印が押されていた。借金の額も日付も花押も、すべてが一致していた。
ゼニアの顔から初めて笑みが消えた。「いや、そんな書面は知らん。どこかから紛れ込んだものだろう」。
お鉄は静かに言った。「それでは村役人様の前で、あなた様の花押と照らし合わせていただきましょう」。
その時、木戸の外から近所の者の声が聞こえた。「特兵さん、それでは精算済みの借金をまた取り立てにいらしたのですか?」。集まっていた村人たちが騒ぎ始めた。年寄りが杖をつきながら進み出た。「私もあの日のことは覚えております。与兵衛さんがスズリを打ってその金で借金を返しに行ったのを見ました。あの夜、お咲さんが泣くこともできずに庭に座り込んでいたのも、この目で見ました」。
ゼニアの顔が赤くなった。手にした証が震えた。お鉄は一歩進み出てはっきりと言った。「この証文のことは、村人と年寄りの前で改めて伺いましょう。印も日付も花押も揃っている。うやむやにはさせません」。
ゼニアはさっと立ち上がり、袖を払った。「ふん。この家の嫁はよく喋ることだ。何かの間違いだったのだろう」と言い捨て、何も言わずに木戸を出ていった。
庭に静けさが戻った。村人たちがひそひそと囁き始めた。「お咲さんの家の嫁が証を見抜いたそうだ」「市場で拾ったスズリと絵本が家を救ったそうだ」。
与兵衛はスズリを両手でしっかり握りしめ、一言も発しなかった。お咲は初めてお鉄をまっすぐに見つめた。長い沈黙の後、ようやく口を開いた。「どうして、わかったんだい」。
お鉄はにこりと笑った。「お父様がこのスズリは元々仙代様から譲られたものだと話してくださったではありませんか。それを思い出しただけでございます」。
お咲は何か言おうとして口を閉じ、それを何度も繰り返した。そしてくるりと背を向け、台所へ入っていった。
その日の夕餉の前には、いつもの大根の漬け物の他に、卵焼きが一枚添えられていた。お鉄は箸を取ろうとして手を止め、目を丸くした。「お母様、今日は一体何の日でございますか?」
お咲は飯茶碗を軽く押しやりながら言った。「うちの者が大きな手柄を立てたんだから、それくらいは食べさせてやらないとね」。
誰もその卵焼きのことに口を出さなかった。ただ黙って食べた。それがこの家のやり方だった。
その夜、さちが静かに言った。「私はお前のことを、ただの変わり者だと思っていた」。お鉄は笑った。「私も自分のことをそう思っていましたよ」。さちは首を振った。「お前は、他の人がただ通り過ぎてしまうものを、ちゃんと見る人だ」。
お鉄はしばらく黙っていた。それから小さな声で答えた。「私はいつも、他の人にただ通り過ぎられてきた人間でしたから。だからこそ、捨てられたものがよく見えるのかもしれません」。
廊下を通りかかったお咲は、その言葉を聞いて足を止めた。何も言わずに台所の方へ歩いて行った。その夜、お鉄の飯茶碗のそばには、ゆで卵が一つ、そっと置かれていた。
お咲は変わっていった。表には出ないほど静かに、しかし確かに変わっていった。相変わらず口は悪かったが、いつからかお鉄に重い荷物を持たせなくなった。水桶を持ち上げようとすると、いつの間にかお咲が先に持ち上げている。「放っておきなさい。私がやるから」。以前は「お前がやりなさい」だった言葉が、いつの間にか「私がやるから」に変わっていた。
おつも変わった。相変わらず文句を言いながらも、朝早く起きてお鉄の洗濯仕事を手伝うようになった。与兵衛は絵本を読みながらも、お鉄の失敗に腹を抱えて笑う日が増えた。この家ではいつの間にか、ため息より笑い声がよく響くようになっていた。
お正月を数日後に控えた夕方、庭にうっすらと初雪が積もっていた。お咲は縁側を眺めながら、ふと独り言をつぶやいた。「こういう日には、私の母があずき粥を炊いてくれたものだよ」。言葉を発した後、お咲は自分でも驚いたように口をつぐんだ。お鉄は何も言わなかった。ただ、その言葉を胸の奥にそっとしまい込んだ。
翌朝、お鉄は市場で小豆粥を一袋買ってきた。お咲に内緒で、一番良い品を選んで買った。小豆を水に浸し、長く煮込み、豆が柔らかくなると米を入れてかき混ぜた。甘く香ばしい匂いが台所の外へ漂い出た。
与兵衛が鼻をひくつかせながら障子を開けて覗いた。「あずき粥か?」。お鉄は頷いた。「はい。お父様、今日は小正月でございますから」。与兵衛はにこりと笑って、また部屋に戻った。
粥を器によそった。与兵衛の分、さちの分、そしてお咲の分。お咲の分はことのほか丁寧によそい、器を布で包んだ。お鉄はお咲の部屋の障子を叩いた。「お母様、小正月なので粥を炊きました。お召し上がりください」。
部屋の中から何の返事もなかった。お鉄はもう一度呼んだ。「お母様」。しばらくして、障子が開いた。お咲が出てきた。お鉄は碗を差し出した。お咲はそれを受け取り、しばらく見下ろしていたが、一口すくって口に入れた。しばらくそのまま動かなかった。それから碗をお鉄に返した。「汁が薄すぎるね」。その言葉を残して、部屋の中へ戻り、障子を閉めてしまった。
お鉄は碗を持ったまま、ぼんやりと立ち尽くした。さちが顔を見て静かに言った。「それでも、一口は召し上がったじゃないか」。与兵衛が優しく微笑んでいた。
その夜、膳を片付けにお咲の部屋の前まで行った時、あずき粥の碗は綺麗に空になっていた。一粒も残っていなかった。お鉄は碗を持って出てきながら、唇をぐっと噛みしめた。涙が出そうだった。しかし、先に笑いが込み上げてきた。「汁が薄いなんておっしゃっていたのに」。
その夜、お咲は布団をかぶったまま長いこと寝つけなかった。あの味は、遠い昔、母が炊いてくれたあずき粥とどこか似ていた。お咲は久しぶりに母のことを思い出していた。ただ懐かしいだけだった。
翌朝、隣の母が垣根越しに訪ねてきた。「昨日あずき粥のいい匂いがしていたけれど、誰が炊いたんだい?」。お咲はさりげなく答えた。「うちの嫁が炊いたんだよ」。言い終えてから、お咲は自分でもふと戸惑った。「うちの嫁」という言葉が、自分の口から出たことが、自分でも不思議に思えた。
台所にいたお鉄はその言葉を聞いて、静かに微笑んだ。心の中で思った。「まだお母様とは呼べないけど」。
冬が深まっていった。お咲はいつからか、お鉄の顔色をじっと観察するようになっていた。顔つきがすっかり明るくなっている。食欲も急に進むようになっていた。お咲は何も言わず、ただ見守っていた。
ある日の昼過ぎのことだった。お鉄は洗濯物を干そうとした矢先、急に顔がほてって、台所へ駆け込み、口を押さえて戻してしまった。与兵衛が心配そうな顔で出てきた。「それ見たことか。あんなに慌てて食べるものだから」。
お鉄は台所の戸口に手をつかれて顔を真っ赤にしながら何か言おうとした。その時、お咲がすっと前に進み出た。唇をぐっと噛みしめると、何も言わずに木戸を開けて外へ出て行った。しばらくして、お咲は産婆のお松を連れて戻ってきた。この村で赤子を取り上げること五十年という年寄りの女だった。
お松はお鉄の手首を掴み、しばらくじっとしていた。それから顔色を伺い、静かに頷いた。にっこりと笑った。「ほう。これはお医者を呼ぶまでもないようだ。これは病ではない。めでたいことだよ。お腹に赤子を授かったんだね」。
さちがこの話を耳にしたのは木戸の外だった。薪拾いに出かけようとしていたところ、お松の声が聞こえて足を止めた。さちは背負っていた薪を地面にそっと下ろした。そして、しばらくその場に立ち尽くし、空を見上げていた。
部屋の中では、お咲がお鉄の手を握っていた。いつもの不満げな顔ではなく、目の縁には涙が滲んでいた。顔を背けながら、震える声で言った。「ああ、この家にまた新しい命が来てくれたんだね。お前まで失ったらと思うと、私はどうしていいかわからないよ」。
お鉄はすすり泣きながら言った。「お母様、正直に申し上げますと、この家に来たばかりの頃、私は怖かったのでございます」。お咲は動きを止めた。「怖かった?」。お鉄は涙を拭いながら笑った。「はい。でも、母の残した手紙に『この世に気象の良い人などいない。傷ついた人がいるだけだ』と書いてございましたので、それでお母様の傷を探そうといたしました」。
お咲はしばらく黙っていた。窓の外では雪がまた降り始めていた。「見つかったのかい?」。お鉄は頷いた。「はい。見つかりました」。
身ごもっていることがはっきりしてから、お咲はさらに変わっていった。お鉄が重いものを持とうとすると、いつの間にかお咲が先に手を伸ばしていた。膳には魚が並ぶようになった。目刺しが一匹、塩鮭が一切れ。この家でそうしたものが食卓に上がること自体、大きな変わりようだった。お鉄が礼を言おうとすると、お咲は自分がしたことではないというように、そっぽを向くのだった。
ある雪の降る冬の夕方、お咲は縁側に座って小さな産着を縫っていた。お鉄がそっと近づいて隣に座った。「糸を通すのは私がいたしましょう」。お咲は少し手を止め、それから針を差し出した。二人は並んで座り、黙って縫い物をした。与兵衛が障子を開けて縁側を覗き、二人が並んで縫い物をしている姿を見ると、静かにまた障子を閉めた。
しばらく黙って縫い物をしていたお咲が尋ねた。「名前は考えたのかい」。お鉄が顔をあげた。「まだでございます」。お咲は手を少し止め、それからゆっくりと言った。「娘だったら、お福がいい」。お鉄はその名前を口の中で転がした。「お福、いいお名前でございますね」。お咲はそれ以上何も言わず、また縫い物を続けた。
その夜、与兵衛がお咲に言った。「娘ならお福と名付けたらどうだろうか。祖母が名付けた名前が一番いいさ」。お咲は答えなかった。
出産を数日後に控えたある夜、お鉄は笑いながら言った。「お母様、もし赤子が私のように変わった子に生まれても、嫌わないでくださいまし」。お咲は声を荒げた。「つまらないことを言うんじゃないよ。赤子もお前も達者に決まっているんだから」。
言葉は荒かったものの、その夜、お咲は眠れなかった。失うことが怖くて、障壁を固くして生きてきた女だった。今では、米一粒よりも醤油一滴よりも、この嫁と赤子を失うことの方が、よほど恐ろしくなっていた。
翌朝、お咲は何も言わずに清潔な布を取り出して畳んだ。台所の隅には水桶をいっぱいに満たしておいた。誰に言われたわけでもない。ただ、そうしたのだった。
産気づいたのは真夜中のことだった。外では吹雪が激しく荒れ狂っていた。産婆のお松が駆けつけた。与兵衛は庭先をぐるぐると歩き回っていた。さちは木戸の前で戸を開けては閉め、閉めては開けていた。お咲は部屋の中で、お鉄のそばに突き添っていた。外へは出なかった。ただ、そこにいた。
陣痛の合間、お鉄はお咲の手を握った。「お母様」。お咲はその手をぎゅっと握り返した。言葉はなかった。ただ握っているだけだった。その手は温かかった。冷たかったはずのお咲の手が、その夜は温かかった。お鉄はそれを長く長く覚えていることになるのだ。
夜が明け切る頃、赤子の産声が響いた。与兵衛が足を止めた。さちが木戸から手を離した。お松が襖を開けて顔を出し、告げた。「女の子でございます。達者に生まれましたよ」。
部屋の中に入ると、お鉄が赤子を胸に抱いて泣いていた。ぶっくらとした頬に、黒い瞳がキラキラと輝いている赤子だった。お咲はその赤子をしばらく見つめたまま、一言も発しなかった。目の縁が赤くなっていた。それからそっと手を伸ばして、赤子の頬を一度撫でた。指先が震えていた。
「お福だね」。お咲が静かに言った。お鉄が微笑んだ。「お母様がつけてくださったお名前でございます」。お咲は顔をあげてお鉄を見た。「よく頑張ったね」。それだけだった。
与兵衛が部屋に入ってきて、その光景を見て目を閉じた。「ああ、うちの嫁は本当によく頑張ってくれた。私は嫁運には恵まれたようだ。息子運はさっぱりだったがね」。この年寄りがまた減らず口を叩いて、お咲は涙を拭いながらも思わず笑ってしまった。「ふ。全く」。
お咲は赤子を見下ろしながらつぶやいた。「うちのお福や、お前は母親のように変わり者にならず、父親に似てまっすぐに育つんだよ」。そして少し間を置いてから、付け加えた。「いいや。母親に似てもいいさ。心さえよければ、それで十分だ」。
部屋の中にいた者は皆、その言葉を聞いていた。さちが笑った。与兵衛が笑った。お鉄も涙を拭いながら笑った。赤子のお福が泣き、目をぱちくりさせた。その夜、吹雪の家の中には赤子の産声と家族の笑い声が混じり合って響いていた。
それから数日経ったある朝のことだった。お鉄は赤子を背に負って台所へ出てきた。お咲は朝餉の支度をしていた。お鉄はそのそばに座り、火加減を整えた。それから静かに口を開いた。「お母さん」。
お咲の手が止まった。「お母様」ではなかった。「お母さん」だった。たった一音の違いだったが、その響きはまるで違うものだった。お咲は顔をあげなかった。火加減を整え続けた。返事もしなかった。しかし口元がほんのわずかに上がった。お鉄はそれを見た。そして静かに微笑んだ。
その後、村の人々はお鉄のことを「変わり者の娘」とは呼ばなくなった。「目の利く嫁」と呼ぶようになった。
相変わらず静かな日は一日もなかったが、それでも家の中は温かな灯りと笑いに満ちるようになっていた。箪笥の上には、母の残した古い手紙が今も大切にしまわれていた。けれど、お鉄はもうその手紙を開くことはなかった。そこに書かれていた言葉は、いつの間にかこの家の毎日の中で生きるようになっていたからだ。
そして朝になると、台所からはいつものようにお咲の小言とお鉄の笑い声が聞こえてくるのだった。



