若頭を呼んだ。お前の泣き面が見たいんだと、酒の席で笑いながら言い放たれた時、俺はまだ事の重大さを理解していなかった。後輩の彼氏だと名乗る男が、俺の顔面に向かってビールを浴びせかけた直後だった。周りでは連中がゲラゲラと笑い転げ、俺の後ろでは新人のやはぎが震えて縮こまっている。眼鏡を外していなかったら、ビールが目に入ってしみただろうな。そんなことを思いながら、俺は眼鏡を外して前髪をかき上げ、店員が慌てて差し出してくれたおしぼりで顔を拭いた。
その時点で、俺の顔をまともに見た者はいなかった。後から駆けつけた若頭が俺の顔を確認して、震え上がることになるとは、誰も想像していなかっただろう。
俺の名は神山孝太郎。三十歳の会社員だ。物流関係の会社で総務部に所属している。いつも黒縁の眼鏡をかけ、長い前髪で顔を隠している俺は、部署の中でも見た目は地味な方だ。だが、周りからどう思われているかはあまり気にしない。仕事は真面目にこなしていたし、周りの社員もその点は正当に評価してくれている。それだけで十分だった。
俺の部署には毎年、一人か二人の新人が配属される。今年も一人、新人がやってきた。名前はやはぎレイナ。初出勤の日、新しいリクルートスーツに身を包み、背筋をピシッと伸ばして挨拶をした。顔は少し強張っていたが、声ははっきりとしていた。真面目そうに見える彼女に、部署内から拍手や歓迎の声が上がった。
しかし、その時だった。歓迎ムードを台無しにするような言葉が、俺の後ろから聞こえてきた。
「あんた、すっごい地味だね。それに超つまんなそう。彼氏とかいないでしょ」
声の主は皆川。去年入ってきた新人だが、彼女はこの部署でもかなりの問題児で、皆が手を焼いていた。彼女が入ってきた一年前、今のやはぎのように挨拶をした皆川の挨拶は、それとはだいぶ違ったものだった。
「皆川です。私の彼氏はヤクザなんで、私にあれこれうるさいこと言うと、彼氏が乗り込んでくると思うんで、そこのところ忘れないで接してくださいね」
入社早々に自分の彼氏がヤクザだと公言し、それを理由に部署内の人間を脅すようなことを言ったのだ。それからというもの、皆川は毎日長い金髪をなびかせ、香水の匂いを振りまきながら出勤してきた。規則で禁じられている金髪を注意されても、彼女は全く聞く耳を持たなかった。「私にあれこれ指図しないでくれません? 彼氏がここに来てもいいんですか? 」と、いつも同じ台詞で上司をやり込めていた。上司も強気に出ることができず、皆川のやりたい放題は悪化していった。
そんな皆川の言葉を聞いたやはぎは、困惑気味に挨拶を終えた。微妙な空気の中、俺も自分の仕事に戻ろうとしたのだが、上司に呼び止められた。上司から、やはぎの教育担当を任されたことまでは良かった。だが、ついでに皆川の面倒も押し付けられてしまったのだ。皆川の教育担当だった社員は先月別の部署に移動になってしまっていた。本来は教育期間は一年だから、皆川には必要ないはずなのだが、放っておくと彼女は仕事もせずに友達と電話を始める。だから、ちゃんと仕事をしているか見張る必要がある。そして、その役回りを俺は押し付けられたというわけだ。
同じ部署にはいるが、俺と皆川に仕事上の接点はほとんどなく、今まで言葉を交わした記憶もあまりない。そんな俺が見張り役なんて、本当に勤まるのだろうか。しかし、頼まれてしまったものは仕方がない。俺は気合いを入れ直して、まずはやはぎのデスクに向かい、自分が教育担当になったことを伝え、仕事についてレクチャーし始めた。
それからしばらくして、やはぎは順調に仕事を覚えていった。彼女は本当に真面目で、俺の言ったことをしっかりメモを取り、分からないことがあればすぐに確認しに来てくれる。教育担当なんて自分にできるのか不安だったが、やはぎの意欲的な姿勢にも助けられ、今のところ問題なく仕事を覚えていってもらえていた。
それに引き換え、皆川の方は相変わらずだった。ちらっと彼女の方を確認すると、何やらスマホの操作に熱中している。明らかに仕事をしている感じではない。俺は皆川のデスクに歩み寄り、声をかけた。
「皆川さん、今は仕事中ですよ。スマホを閉まって、ちゃんと仕事をしてくれないと困ります」
「はいはい、すぐにやりますよ」
そう言いながらも、皆川は話すことなくスマホをいじり続けている。
「今すぐやめてください」
「うるさいな。地味だから近くに来ないでよ」
「あなたがちゃんと仕事をしてくれたら、俺もわざわざ注意しに来なくて済むんですが」
「だからやるってさっき言ったじゃん。しつこいな。彼氏に言いつけちゃおうかな。彼のこと大好きだから、怒ってすぐに来てくれるだろうな」
またヤクザの彼氏の話か。俺は皆川の態度にうんざりしながらも、注意を続けた。俺のそんな態度に皆川は怒ったのか、デスクをバンと叩いて立ち上がり、睨みつけてきた。
「あんた、地味男のくせに私に命令しないでよ。マジでむかつく。彼氏に言いつけてやるから」
「どうぞ、ご自由に。さ、言いたいこと言ったなら仕事してください」
俺がそう言った時、ちょうど定時終了のチャイムが鳴った。皆川はさっさと荷物をまとめて帰り支度を始めた。
「今日の仕事まだ終わってませんよね」
「はあ。チャイムが鳴ったんだから、今日の仕事は終わりなの。さようなら」
引き止める俺を無視して、皆川は鞄を持って部署から出ていってしまった。一応俺は先輩であり上司なのに、敬語すら使わずに悪態をついて立ち去った皆川に、俺は深いため息をついた。皆川が帰ってしまった以上、誰かが今日の分の彼女の仕事を終わらせないと会社に迷惑がかかってしまう。俺は自分のデスクに戻り、皆川がやり残した仕事に手をつけ始めた。皆川は入社してから一度も残業したことがない。仕事を終わらせているなら文句はないが、こうして平気で仕事を残していく。次の日出社して自分の残した仕事が終わっていても、皆川がお礼を言ってくることはなかった。本当にどうしたら彼女は自分の仕事に責任を持って望んでくれるんだろう。俺なりに思考錯誤して言い方などを変えているつもりだが、今のところ全く効果はないようだ。
俺は皆川の対応に頭を悩ませながら、少しでも早く帰るために手を動かし続けた。仕事を荒方処理した俺がパソコンから目を離すと、やはぎがまだ残って仕事をしているのが目に入った。俺は声をかけに行った。
「やぎさん、まだ残ってたんだね」
「あ、すみません。仕事が遅くて」
「いやいや、まだ慣れていないんだし、時間がかかるのは仕方ないよ。もう終わりそうかな? 」
「あ、はい。ちょうど今終わったので、もう帰ります」
「そう、俺も上がりだから、外まで一緒に行こうか」
「はい。すぐに荷物まとめますね」
お互い帰り支度を終わらせ、俺とやはぎは並んで会社を後にした。たまたま二人とも電車通勤だったため、そのまま一緒に駅へと向かい、歩き出した。
「先輩、仕事の話で聞きたいことがあるんですが」
「ん?

何かな? 」
「えっと、色々あって時間かかっちゃうと思うんですけど、お時間大丈夫ですか? 」
「そうか。じゃあせっかくだし、もう遅い時間だから、どこか店に入って食事しながら聞こうか」
「いいんですか? 」
「俺は君の教育担当だし、分からないことをそのままにしておくのは良くないからね」
「ありがとうございます。仕事をしながらだとなかなかまとまった時間が取れないので、聞きたいことを書き出してあるんです」
そう言ってやはぎが取り出したノートには、質問事項がずらっと書かれていて、本当に真面目だなあと俺は関心してしまった。駅に向かう途中に繁華街を通るのだが、ここにはファミレスのような店がないため、俺たちは仕方なく居酒屋に入ることにした。
中に入ると、奥のテーブル席が妙に騒がしくて、思わず俺はそちらに目を向けた。そこには定時で上がっていったはずの皆川がいて、彼氏と思われる柄の悪い男性や数人の男たちと大騒ぎをしていた。なんでこのタイミングで皆川と遭遇しちゃうかな。俺は面倒なことになりそうな予感がして、店を変えることをやはぎに提案しようとしたのだが、やはぎは皆川にまだ気がついていないようで、店員の案内で席に歩いていってしまう。そして、そんなやはぎのことを皆川は目ざとく見つけ、その後ろにいる俺にも気がついてしまった。
「まさ、あいつよ。会社で私にまとわりついてくる地味男は」
俺を指さして大声をあげた皆川に、やはぎも気がつき、オロオロとし始めた。俺はやはぎのことを背にかい、前に出た。すると、正と呼ばれた皆川の彼氏がビールを片手に持ったまま、俺の方に近づいてくる。
「てめえか、俺の女にちょっかいかけてんのは」
「違います。俺は仕事をサボっている彼女を注意しているだけですよ」
「俺がちょっかいかけてんだよ」
「仕事中に仕事をしなければ注意するのは当たり前だと思いますが」
「ほら、こんな調子でいっつもネチネチしつこいのよ。あとそいつの後ろにいる女は私の後輩なんだけど、いい子ぶってて目障りなのよね」
「え、私ですか?
」
「そうよ。地味な二人でくっついたってわけ。お似合いじゃない? 」
「川さん、やぎさんとはそんな関係ではない。ただ食事をしに来ただけだよ。彼女にまで絡まないでくれるかな? 」
「何? 地味男のくせに格好つけてんのよ。うざいんですけど」
皆川が言った瞬間、俺の目の前にいた正が持っていたビールを、俺の顔面目がけてぶっかけてきた。うわ、と声をあげると、やはぎが慌てて「先輩、大丈夫ですか?
」と聞いてくる。俺の髪や顔からビールが滴り落ち、近くにいた店員が慌てておしぼりを差し出してくれた。こんな俺たちの様子を見て、正の連れの男たちがゲラゲラと笑い転げたり、ニヤニヤと俺の顔を見てきた。
「マジでいい気なんですけど。まさ、こいつが二度と私に構わないように、痛めつけてやってよ」
皆川が笑いながらそう言うと、正はスマホを取り出してどこかに電話をかけ始めた。
「若頭を呼んだ。お前の泣き面が楽しみだ」
電話を切った正が勝ち誇ったように言い放ち、また笑い始める。眼鏡をしてなかったらビールが目に入ってしみただろうな。そんなことを思いながら、俺は眼鏡を取り、前髪をかき上げて、店員のくれたおしぼりで顔を拭いた。
「とりあえず、これ以上お店の人に迷惑をかけたくないから、外に出ようか」
「はあ? お前、そのまま逃げようってのか」
「そんなことはしないから安心しなよ。出よう、やぎさん」
俺はやはぎを促し、店員におしぼりのお礼と迷惑をかけたことの謝罪をして外に出た。俺の落ち着いた態度が気に食わなかったのか、正や連れの男性たちは苛立った様子で近くにあった椅子を蹴飛ばして、俺たちの跡を追って店から出てきた。
ちょうどその時、店の前に黒塗りの車がやってきて、俺たちの目の前に止まり、中からスーツを着た男性が出てくる。
「まさ、一体何事だ? 」
「若頭。こいつが俺の女にちょっかいかけたんで、痛めつけてやろうと思いまして」
「ん? あ、あなたは…」
まさか、自分の名前を呼ばれるとは思っていなかったのだろう。正が指さした俺のことを見た若頭は、俺の顔を見ると一気に顔面蒼白になり、震え始めた。俺のことを知っている様子の若頭を見て、俺はやはぎに帰るように言った。
「やぎさん、悪いけど、先に帰ってくれ」
「え、でも…」
やはぎは目の前にいる明らかに片付けでない連中を見て、俺のことを心配してくれたが、ここから先、やはぎのような一般人を巻き込むわけにはいかない。俺はやはぎに「安心して」と言い、先に帰らせた。やはぎの姿が見えなくなったところで、俺は若頭に向き直った。
「なぜ、あなたがこんなところにいるんだ?
」
「若頭、何をそんなに震えてるんです? 」
尋常ではない若頭の様子に、正がいぶかしげに声をかけると、若頭は正を怒鳴りつけた。
「バカ野郎。この方は俺たちの組の本家である関東連合の組長だ」
「え、はあ? そんなわけないじゃないっすか。こいつ、俺の女の会社にいるんすよ」
「それには事情があるんだよ」
そう、実は俺はこの若頭の言う通り、関東連合というヤクザ組織の組長だ。関東連合はその名の通り関東のヤクザを束ねる組織で、傘下の数もとんでもなく多い。だが、俺はこの若頭の顔に見覚えがあったから、きっと幹部会などで顔を合わせたことがあるのだろう。
俺は代々ヤクザ業をしてきた家で育ち、周りにいる大人は全員ヤクザだったため、一般社会を知る機会がなかった。ヤクザを辞めたいわけではなかった。俺は組長になった時に、先代組長であった父に「一般企業で働いてみたい」と頼み込んだのだ。現在の組は表向きの収入も取れていて、若頭や幹部連中も頼りになる。そのことも踏まえて父は俺の気持ちを尊重し、父の知人である人物が社長を務める今の会社を紹介してくれたのだ。社長は俺のことを全て知った上で受け入れてくれ、俺は素性を隠して働けることになった。ヤクザの組長と会社員の二足のわらじというやつだ。だから俺のことは、社長と俺以外社内に知る人間はいなかったのだが、組長が度々不在の理由を傘下の幹部には事前に伝えてあったため、この若頭は覚えていたのだろう。
若頭の説明を聞いた正は、脂汗をダラダラと流しながら連れの男たちと土下座し、地面に額を擦りつけた。話を聞いていた皆川も青ざめた顔でオロオロと慌て始める。
「申し訳ございません。あなたがまさか本家の組長とは知らず、飛んだ無礼をいたしました」
「とりあえず正さん、居酒屋の代金まだ払ってないよね。迷惑料も込みでこいつと払ってきなよ」
俺がいつもとは違う威圧感のこもった声で静かにそう告げると、正と皆川は慌てて店に戻り、支払いを済ませてきた。
「さて、君は鈴鹿組の若頭だったよね」
「はい。覚えていただけていて光栄です」
「君のところは、高構成員が一般人に手を出すことを許しているのかな? 」
「ま、まさか、そのようなことは断じてありません」
「そうなの?
この正ってやつは、ヤクザの高構成員なんだろう。その彼女は会社で自分の彼氏はヤクザだから、自分に文句を言ったら彼氏が乗り込んでくるって周りを脅していたけどな」
「なんですって? 」
「俺が彼女に仕事をサボるなって注意したら、ちょっかいをかけたってそこの正が俺にビールをぶっかけてきたんだよね」
「申し訳ございません。そのようなことは今後ないように、俺の方からきつく指導しておきますので」
「本家の組長に手を出しておいて、それで許されるとでも? 」
「だから俺は何も知らなかったんです。どうかご慈悲で済ませていただけませんか? 」
「何言ってるの?
俺が組長ではなく一般人だったら良かったってこと? 今日の様子だと、お前他にも似たようなことをやってるんじゃないか」
「それは…」
俺はその場ですぐに自分の組の若頭に連絡し、今すぐに迎えに来るように伝えた。
「すぐに向えの車が来るから、正、あと連れの男は本家で一時預かる。若頭は組長を連れて後から本家に来い。そこでこいつらの処遇を決める」
「わ、分かりました」
俺の言葉に若頭は頭を下げ、正と連れの男たちは絶望した表情になった。正のいる鈴鹿組は傘下の中でもかなり小さい組織だ。それが本家の組長の欠点に逆らえばどういうことになるか。口で言わなくても察したのだろう。
「ま、待ってよ。私は関係ないじゃない。帰らせてもらうわよ」
そう言ってその場から逃げ出そうとした皆川を、俺は若頭に指示して取り押さえさせた。若頭に捕まえられながらも逃げようと暴れる皆川に向かって、俺は冷たく言い放つ。
「散々ヤクザの名前を使っておいて、関係ないで済まされることじゃないんだよ。ヤクザを舐めてるのか」
俺の言葉に皆川は震え上がり、どうしようもないと察したのか、抵抗をやめてその場に泣き崩れた。そこに俺の組の若頭と高構成員が車で到着したので、俺は正と連れの男たち、皆川を本家に連れて行くように指示を出した。
「鈴鹿組が来たら、こいつらの悪業の全てを吐かせて適切に対処しろ」
俺のこの言葉に俺の組の若頭は頷き、一礼すると正たちを車に押し込んでその場から走り去り、鈴鹿の若頭も慌ててその場から走っていった。さっきの言葉だけで、俺の組の連中はしっかりと対処してくれるだろう。信頼できる部下に恵まれて、俺はラッキーだな。そんなことを思いながら、俺は若頭に用意させた別の車に乗り込み、家路についたのだった。
その後、俺は若頭からの報告で、正と男たちは鈴鹿組の若頭と組長にボコボコにされたことを知った。さらに、本家に迷惑をかけた慰謝料として金を請求し、正を漁船に乗せて旅立たせたらしい。皆川には一応一般人であることから五千万円を請求して、会社をやめるように要求。皆川はすぐに会社に退職届を出し、夜の店で働き始めたそうだ。
先に帰らせたやはぎは俺の素性を疑っていたようだが、助けられたと思っているのか、そのことを深く追求してくることはなく、今まで通り先輩後輩として接してくれている。俺はこれからも今までと変わらず、会社員としてヤクザの組長として二つの世界を生きていくつもりだ。


