カサカサと乾いた音が夜の病院の廊下に響いていた。モップを握る手が、ある日突然、震え出したのは、若い女医が泣きながら助けを求めたからだ。彼女の目の前で、患者の血圧が下がっていく。誰も動かない。誰も名乗り出ない。俺は清掃員として、その場にいた。だが、あの手が無意識に動いたのは、医者だった15年前の俺が、まだ息を潜めていたからだ。 「10分だ。俺にやらせろ。」…

カサカサと乾いた音が夜の病院の廊下に響いていた。モップを握る手が、ある日突然、震え出したのは、若い女医が泣きながら助けを求めたからだ。彼女の目の前で、患者の血圧が下がっていく。誰も動かない。誰も名乗り出ない。俺は清掃員として、その場にいた。だが、あの手が無意識に動いたのは、医者だった15年前の俺が、まだ息を潜めていたからだ。 「10分だ。俺にやらせろ。」...

廊下の端で、雑巾を握ったまま、俺はそのやり取りを聞いていた。白い巨塔の住人たちは、若い女医に難しい手術を押し付けると、振り返りもせずに去っていった。彼女の声は震えていた。誰か、誰か助けてください。だが、誰一人として前に出ようとしない。皆、目を伏せて後ずさるだけ。
血圧の表示が落ちていく。モニターの電子音が速くなる。あの日の光景がフラッシュバックした。15年前、俺も同じような夜に立ち尽くしていた。メスを握っていた手。そして、二度とその手を汚さないと決めた夜。
俺はモップを置いた。自分の声が信じられなかった。「10分だ。俺にやらせろ。」
廊下の全員が振り返った。清掃員の俺が、何を言い出したのかという顔だ。俺の名前は桐生。54歳。この病院で夜の清掃をしている。かつては心臓外科医だった。人呼んで「オペの桐生」と。
だが、その過去は全て捨てた。妻を亡くし、娘も失った。今はただ、モップを握って床を磨くだけの存在だ。医者だった手で、再びメスを握る日が来るとは思っていなかった。
手術室の中は、あの頃と何も変わっていなかった。無菌の空気。冷たい照明。患者の胸を開いた瞬間、俺の手は自然に動いた。15年のブランクなど、ないかのように。
執刀を終え、患者の命を繋いだ時、彼女は言った。「あなたは一体、何者なんですか?」
俺は答えなかった。答えることができなかった。代わりに、壁に掛かった古い医師免許が目に入った。そこには、確かに桐生の名前があった。
だが、それを見たのは彼女だけではなかった。
「桐生先生……! あの、心臓外科の……」
その声が、終わりのはじまりだった。

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