羽田空港のロビーに、息子夫婦の浮かれた声が響いていた。大きなスーツケースを引きながら、リホが満面の笑顔でハワイ土産の袋をこちらに見せてくる。隣の達也も、日焼けした顔で誇らしげにしていた。私と夫の修二は、ただ二人を出迎えるために立っていた。けれど、私たちの胸は複雑な思いでいっぱいだった。
「あら、お母さん、わざわざ迎えに来てくれたんですか?」
リホの言葉には、感謝よりも意外そうな響きがあった。まるで、私たちが来ることを予想していなかったかのように。
「ハワイの海、本当に綺麗だったわ。達也さんも喜んでたでしょう」
リホは私に目も合わせず、夫に話しかける。ああ、最高だったよ。また絶対行こうね。達也も嬉しそうに答えた。その会話を聞きながら、私の心には静かないらだちが広がっていく。私たち夫婦は、この旅行に一切誘われることはなかった。それどころか、留守番と掃除を言いつけられていたのだ。
空港からの帰り道、車の中でリホの声が響く。
「お母さん、ルスの間、ちゃんとお掃除してくれましたよね」
その言葉に、私は小さく頷いた。
「はい。毎日きちんと」
「そうよね。遺相ろなんだから、それくらいしないとね」
リホは当然のように言い放つ。その瞬間、私の胸が締めつけられるように感じた。遺相ろ。この家は、私と修二が三十年前に購入した、私たち名義の家だ。それなのに、なぜ私が「遺相ろ」と呼ばれなければならないのか。隣で修二が口を開きかけたが、達也の視線に気づいて黙り込んでしまった。
「それにしても、お母さんみたいな底辺のお仕事してる人には、お掃除くらいしかできないわよね」
リホの言葉が容赦なく続いていく。私は三十三年間、事務職員として働いてきた。一度も休むことなく、毎日会社に通い続けてきたのだ。その給料でこの家のローンを払い、息子の教育費もすべて負担してきた。大学卒業までの総額は約九百万円にもなる。それなのに、「底辺」という言葉で片付けられてしまう。私の人生のすべてが否定されているように感じられた。
修二の握りしめた拳が目に入る。夫もまた、同じ思いを抱えているのだろう。
家に帰りつくと、リホはすぐにソファーに身を投げ出した。
「はあ、疲れた。お母さん、お茶を入れてくれる?」
私は黙って台所へ向かう。お茶を入れながら、この五年間のことを思い返していた。息子の達也がリホと結婚したのは、五年前のことだ。あの頃のリホは、とても優しい女性だった。『お母さんのこと、本当のお母さんみたいに思ってます』そう言って微笑んでいた彼女の顔を、今でも覚えている。けれど、その笑顔は次第に消えていった。
最初の変化は、ちょっとした文句から始まった。
「お母さん、このお料理、少し味が濃いかもしれませんね」
「その服装、ちょっと時代遅れじゃないですか」
小さないらだちが日々、見重なっていく。決定的に変わったのは、リホが妊娠してからだった。
「お母さん、この部屋を子供部屋にしたいんです」
リホが指差したのは、私たち夫婦の寝室だった。
「でも、あの部屋は私たちの……」
「え、まさか、やだなんて言わないですよね。孫のためですよ」
達也も鼻で笑う。
「母さん、頼むよ。俺の子供のためなんだ」
結局、私たちは小さな部屋に追いやられることになった。荷物を運びながら、修二が悔しそうに唇を噛んでいたのを覚えている。
孫が生まれてからは、状況はさらに悪化した。面倒を見るのはいつも私で、リホは友人とのランチやショッピングに出かけていく。それなのに、私の育児のやり方には毎回文句が飛んでくる。
「お母さん、そんな抱き方すると、子供の姿勢が悪くなりますよ」
「ミルクの温度はもっと冷たくしないと、赤ちゃんがやけどします」
私は二十年以上前に達也を育てているのに、その経験はまるで無視されていた。
ある日、リホが一枚の書類を私の前に差し出した。
「お母さん、ここにサインしてください」
それは、この家の名義を達也に変更するための書類だった。
「リホさん、これは……?」
「だって、私たち家族が将来的に住むんだから、名義を息子さんにしておいた方がいいでしょ。お母さんたちは、もう年寄りだし」
私は言葉を失った。この家は、私たちが必死に働いて手に入れたものだ。それなのに、それを当然のように奪おうとしている。
「すみません、これにはサインできません」
そう言うと、リホの表情が一瞬で固まった。
「どうしてですか? 私たちの将来のために必要なんですよ。お母さん、自分勝手すぎませんか?」
その日から、リホの私に対する態度はさらに冷たくなった。話しかけても、無視か、嫌味のどちらかだ。修二は何度かリホに注意しようとしたが、そのたびに達也から「母さんには関係ないだろ」と言われ、押し切られてしまった。
それでも、私は我慢していた。息子の幸せを願っていたから。孫の顔を見られるだけで、救われる思いだったから。
でも、ある出来事が私の限界を超えた。
先週、リホが何気なく言った。
「そういえば、お母さん。将来は介護施設に入ってもらうからね。私たちには面倒見る余裕ないし」
その言葉が、私の中で何かを壊した。私は、この家族のために人生を捧げてきた。それなのに、最後は介護施設に捨てられるのだというのか。
その夜、私は修二と話し合った。
「修二、私たち、そろそろ決断してもいい頃だと思うの」
修二はしばらく沈黙した後、深く頷いた。
「そうだな。もう、我慢の限界だ」
私たちは、銀行口座を確認した。あの家のローンを払い終えたのは五年前。私たちの貯金は、老後を過ごすのに十分な額があった。それに、私が長年育ててきた植木鉢のサボテンは、新しい部屋でも育てられる。
数日後、私たちは新しいマンションを内見していた。
「こちらの物件、いかがでしょうか?」
不動産屋の女性が、穏やかな笑顔で尋ねる。日当たりの良いリビング、静かな環境、そしてエレベーター付き。すべてが私たちの希望に合っていた。
「いい物件ですね」
修二が嬉しそうに言う。私は窓から見える公園を眺めながら、ここなら孫と遊ぶこともできるだろうと思った。もし、あの子たちが来てくれるなら。
契約を済ませた後、私たちは引っ越しの準備を始めた。リホたちには、まだ何も言っていない。言ったら、きっと大騒ぎになるだろう。でも、もう決めたことだ。私たちの人生は、ただ他人のために尽くすだけのものではない。
引っ越し当日、私たちは荷物をまとめながら、最後にリビングを見渡した。ここでたくさんの思い出を作った。達也が初めて歩いたのも、この部屋だった。学生時代の卒業式の写真も、この棚に並んでいる。けれど、もうここには未練はない。
家を出る時、リホから電話がかかってきた。
「お母さん、何か変なことしてないかしら? 実家の鍵、開かないんだけど」
私は、静かに答えた。
「リホさん、私たち、引っ越すことにしました。今まで、ありがとう」
「はあ? どういうことよ。この家は私たちのものでしょ。名義はまだ……」
「名義は、まだ私たちのままです。しっかり考えて、私たちの人生を選びました。あなたたちは、自分の力で生きていってください」
リホの怒鳴り声が聞こえてきたが、私は電話を切った。
修二が、私の手を握る。
「よくやった」
その言葉に、私はほっとした。私たちは、これから新しい生活を始める。孫とは、これからも会えるだろう。でも、それは私たちの条件を尊重してくれる場合に限る。もう、誰かのために自分を犠牲にすることはない。
新居のリビングに、大きなソファを置いた。修二がコーヒーを淹れてくれる。窓からは、夕日が差し込んでいた。
「修二、私たち、幸せになってもいいわよね」
「もちろんだ。これからは、私たちの時間だ」
その日の夜、私たちは久しぶりに、心から穏やかな時間を過ごした。少し寂しいけれど、もっと自由な気持ちでいっぱいだった。新しい人生の始まりに、私は小さく微笑んだ。



