黒木部長が私を指さして怒鳴った。会社の金を横領したのはこの女だ、と。フロア中の視線が私一人に突き刺さる。でも本当は、その金を抜いたのは叫んでいるこの部長自身だ。私は言い返せなかった。胸ポケットの父の古い電卓を握りしめることしかできなかった。
その日の朝、いつもの通勤電車で出会ったのは、白髪で背の曲がった老人だった。手には小さな花束を大事そうに抱え、電車が揺れるたびに体が傾く。誰も席を譲らない。私は立ち上がり、思わず声をかけた。
「よかったら、こちらにどうぞ」
老人は驚いた顔をして、深く頭を下げた。花束は亡くなった妻に毎朝届けているものだと、後になって知った。私は父を思い出した。数字は人を裏切らないと言っていた、口数の少ない優しい父を。
それから毎朝、電車で言葉を交わすようになった。仕事のこと、季節の花のこと。短い数分が、いつの間にか私の心の支えになっていた。
だが、その穏やかな日々はある朝、突然終わる。出社すると、扉に貼られた紙があった。会社の倒産だ。契約社員の私は真っ先に切られ、しばらく仕事が見つからなかった。
貯金も尽きかけた頃、やっと見つかったのが今の部品メーカー。経理として働き始めた。だが、そこでも私は浮いていた。みんなが最新のパソコンを使う中、私だけが父の遺した古い電卓を弾く。その乾いた音がフロアに響くたび、黒木部長が嫌な顔をする。
「藤野さん、まだそんな古いもの使ってるの?」
私は笑ってごまかした。この電卓が父の形見だとは言えなかった。
そして今日、横領の罪を着せられた。黒木部長の大声がフロアに響く。私は否定しなかった。言っても信じてもらえないと分かっていたから。
だが、その数分後だった。社長が現れ、私に深く頭を下げた。
「藤野さん、すみませんでした」
全員が凍りつく。黒木部長の顔がみるみる青ざめていく。社長は続けた。
「あなたが毎朝、電車で席を譲っていた男性は、当社の創業者です」
私は息を呑んだ。あの老人が。花束を抱えたあの優しい老人が。
「彼は亡くなる前に、あなたにもし困ったことがあれば必ず助けるようにと遺言を残していました。そして、横領の証拠も」
社長が差し出した書類には、黒木部長が私の名前で不正な振込をした記録がすべて残っていた。
黒木部長はその場でうなだれた。何も言い返せない。私は震える手で、ポケットの電卓を握りしめた。父の言った通りだった。数字は決して人を裏切らない。
あの日の電車で席を譲らなければ、今ごろ私はどうなっていただろう。



