「今、打ち合わせ中だから待って」——契約締め切り当日、電話に出た取引先の課長の言葉に、俺は絶句した。
「明日にはサインするから、明日会社に取りに来なよ」
「そんな……困ります。明日の朝には作り始めていないと、完成予定に間に合わなくなってしまうんです」
「そんな下請けの都合なんか知らないよ。こっちが使ってやってるんだから、こっちに合わせろよな」
そう言い放つと、課長は一方的に電話を切った。
翌日、俺の会社に乗り込んできて文句を言う課長に、山川社長が静かに言い放った。
「こちらが下請けだと言ったか?」
「え……」
「5億円分の特許契約は、他に回します」
この後、課長は自分の言動の大きさを知ることになる。
俺の名前は若林エジ。25歳の独身だ。大学を卒業してからは、山川精密機という会社の開発部門で働いている。
俺はいわゆる理系ってやつで、問題を解いたり、実験したり、何かを作ったりすることが好きだった。
そんな人間の典型というか、黙々とやりたいことに打ち込むのは得意な分、人と接することが大の苦手だ。
中学時代から、休み時間も図書館や教室で一人で本を読んでばかりいる俺を、先生たちは心配し、同級生は変わり者扱いした。友達と呼べる人間は一人もいなかった。
両親はそんな俺のことを尊重してくれて、好きなようにやらせてくれていたし、成績はいつも良かったから、先生たちもだんだんと心配しなくなっていった。
俺はますます一人で過ごすことに慣れていった。
俺の中では、やりたくもないことをしながら人とコミュニケーションを取らないといけないなんて、無駄でしかないと思っていたから、友達が一人もいなくても全く気にしていなかった。
変わり者といえばそうかもしれないが、俺からしたら、人に気を使いながら無理に人の輪の中にいようとする人たちの方が理解できなかったし、変わっていると思っていたのだ。
そんな俺の性格は変わることなく、高校、大学へと進学した。
大学に入ってからはサークル活動なんてするはずもなく、大学の研究室にこもって実験ばかりして過ごした。
自分で理論を組み立て、実験して検証し、さらに改良して作り直す。
毎日それだけを延々と繰り返し続けることができて、俺はこの上なく楽しく幸せに感じていた。
だが、そんな俺にわざわざ近づこうとする物好きなんていなかった。
俺も一人で集中することができて、研究室を独占することもできたし、ここでも必要以上に誰かと話したりすることはなかった。
俺の話し相手といえば、研究室の担当教授ぐらいのものだった。
その教授が推薦してくれたおかげで、俺は今の会社に就職することができた。
この会社の社長である山川さんは、教授の元教え子で、当時まだ会社を立ち上げたばかりだった。
教授の紹介で面接してくれた山川さんは、俺が大学在学中に作った製品を見てとても気に入り、「是非開発部門で力を発揮して欲しい」と言ってくれたのだ。
今まで馬鹿にされたり理解されないことがほとんどだった俺は、初めて自分のことを認めてもらえたような気がして、この時本当に嬉しく思ったことを今でも覚えている。
俺は入社してから、社長に言われた通り力を思う存分発揮するため、毎日遅くまで作業室にこもって新商品の開発に忙しくしていた。
山川さんの采配もあって、山川精密機は俺が入社して1年が経つ頃には、業界の有力企業として有名になり、製品のクオリティの高さも評判になっていた。
社長である山川さんが俺の様子を見に、ちょくちょく作業室に顔を出すものだから、俺は人と関わることが苦手で他の社員のことをほとんど知らないままだったが、それでも仕事は順調に進んでいた。
ある日、山川さんが作業室に来て、こう言った。
「若林くん、ちょっといいかな。新しく大口の取引先が見つかってね。そこの課長が、開発担当と直接話したいと言っているんだ」
「え……俺がですか?」
「そう。お前の実力を知ってもらう良い機会だと思う。顔を出してきてくれないか」
俺は正直気が重かった。人と話すのが苦手なのに、取引先の人間と直接話すなんて。
だが、社長の頼みなら断れない。
俺は渋々承諾し、翌日、取引先の会社へ向かった。
そこにいたのが、佐藤課長だった。
初対面の俺を見るなり、佐藤課長は胡散臭そうな目を向けてきた。
「で、君が開発担当? 若いな。大丈夫なのか?」
「えっと……はい。一応、大学では……」
「大学の話はいいよ。実際に何を作ってきたんだ? 実績があるのか?」
俺が開発してきた製品の説明を始めると、佐藤課長は途中で興味を失ったようにあくびをした。
「ふーん。まあ、山川さんが推すってんだから、信用してやるよ。だが、うちは大手だ。納期は絶対だぞ。遅れたら契約は白紙だ」
「は、はい。全力で頑張ります」
この時の俺は、まだ知らなかった。この男がどれだけ横柄な人間かということを。
契約が成立し、俺たちは製品の開発を本格的に始めた。
納期は3ヶ月後。かなりタイトなスケジュールだったが、俺は自分の能力を信じて、毎日作業室にこもって開発に没頭した。
2ヶ月が経ち、順調に進んでいた。
このままいけば予定通りに完成できる。そう思っていた。
だが、その矢先、佐藤課長から電話が入った。
「悪いな、仕様を少し変えてほしいんだ」
「え? 仕様をですか? 今さら……?」
「うちの上層部がこう言ってるんだよ。わかるだろ? 大手のいうことに逆らえると思うなよ」
仕様変更は、そう大きなものではなかった。
だが、一度変更が入ると、二度、三度と、佐藤課長から連絡が来るようになった。
「ここも変えてくれ」
「これも追加で頼む」
そのたびに俺の作業は中断され、スケジュールはどんどん圧迫されていった。
「佐藤課長、このままだと納期に間に合いません。追加の変更は無理です」
「あ? お前の仕事が遅いだけだろ。下請けのくせに言い訳するなよ」
俺は歯を食いしばった。
しかし、山川さんには言えなかった。せっかく認めてもらえた場所で、弱音を吐きたくなかったのだ。
そして、契約締め切り日の当日。
佐藤課長は、まだ契約書にサインをしていなかった。
この日までにサインをもらわなければ、契約は破棄されてしまう。
俺は焦って電話をかけた。
「佐藤課長、今日が締め切りです。契約書のサインをお願いします」
「今、打ち合わせ中だから待って」
「で、ですが……」
「明日にはサインするから、明日会社に取りに来なよ」
「そんな……困ります。明日の朝には作り始めていないと、完成予定に間に合わなくなってしまうんです」
「そんな下請けの都合なんか知らないよ。こっちが使ってやってるんだから、こっちに合わせろよな」
それだけ言うと、佐藤課長は電話を一方的に切ってしまった。
俺は受話器を握りしめたまま、しばらく動けなかった。
悔しさで、胸が張り裂けそうだった。
翌朝、俺が会社に出社すると、山川さんが珍しく早くから作業室に来ていた。
「若林くん、今日は佐藤課長が来る予定だ。契約書のサインをもらいに行けるか?」
「はい……大丈夫です」
俺は一晩中考えた。
佐藤課長の横柄な態度に、もう我慢の限界だった。
だが、俺にできることなんて何もない。
そう思っていたのだが——午前10時、佐藤課長が会社に乗り込んできた。
「おい、若林! 契約書は用意してあるんだろうな?」
「は、はい。こちらです」
俺が契約書を机に置くと、佐藤課長はそれを睨みつけるように見て、軽く笑った。
「なあ、お前。この契約書、まだサインしてなかったよな? だったら条件を追加できるよな」
「え……?」
「うちの都合で、納期をさらに1ヶ月早める。これは命令だ。聞けないなら、契約はなかったことにしてもらうぞ」
俺は言葉を失った。
この期に及んで、まだ自分から条件を変えようとするのか。
どうにかして言い返そうとしたが、うまく言葉が出てこなかった。
すると、その時。
作業室のドアが開き、山川さんが静かに入ってきた。
「佐藤課長」
「おう、山川社長。ちょうどいいところに。お前の部下が、どうも話が通じなくてな。教育し直した方がいいんじゃないか?」
山川さんは、佐藤課長の言葉を遮るように、静かに言い放った。
「こちらが下請けだと言ったか?」
「え?」
「山川精密機は、下請けじゃない。お前の会社と対等な契約を結んでいる、独立した会社だ。それを忘れてもらっては困る」
佐藤課長は、一瞬言葉を詰まらせたが、すぐにニヤリと笑った。
「はっ。調子に乗るなよ。大手の下請けが、何を偉そうに言ってるんだ」
山川さんは、手に持っていた書類を机の上に置いた。
「これは、お前の会社との契約書だ。今から、これを破棄する」
「はあ!?」
「そして……5億円分の特許契約は、他に回します」
佐藤課長の顔色が、一瞬で青ざめた。
「おい、待て! それは……どういう意味だ!」
「文字通りの意味だ。お前の会社は、期限までに契約書にサインをしなかった。つまり、契約は自動的に破棄される。さらに、先日お前が一方的に変更した仕様の分、うちの開発コストを請求させてもらう」
「そ、そんな……!」
「どうやら、お前は下請けの都合なんて知らないようだが、一つだけ教えておく。この業界で、技術力のある会社を下請け扱いする愚か者は、いずれどこでも相手にされなくなる」
佐藤課長は、何か言おうとして口を開けたり閉じたりしていたが、結局何も言えず、悔しそうに舌打ちをすると、足早に会社を去っていった。
作業室には、静寂が戻った。
俺は、山川さんの横顔を見つめたまま、言葉を失っていた。
「若林くん」
山川さんが、穏やかな声で俺に話しかけた。
「よく頑張った。あの程度の人間に、お前の技術が踏みにじられる必要はない。お前は、もっと堂々としていていいんだ」
俺は、気づけば目頭が熱くなっていた。
初めて、ちゃんと誰かに認めてもらえた気がした。
あれから数週間後、山川精密機は別の大手企業と新たな契約を結んだ。
その企業は、佐藤課長の会社が契約を逃したことを知って、むしろ好機だとばかりに飛びついてきたのだ。
俺はそのプロジェクトでも、相変わらず一人で黙々と開発に没頭していたが、少しだけ——少しだけ、人の目を気にしなくなっていた。
山川さんが言ってくれた言葉が、胸の奥でずっと温かく残っていたからだ。
「若林くん、今日も頑張ろうな」
俺は、少しだけ笑って、頷いた。



