「息子にはお前の仕事を引き継がせることにした。だから、お前にはもう会社でやれることはないと思ってくれ。」
社長からの突然の解雇通告。ワンマン気質の強引な社長は、自分の息子可愛さに平然と人の仕事を奪おうとした。俺の首の皮は上司の取りなしでどうにか繋がるが、事態は最悪の方向へ進んでいく。
社長の最愛の息子はただのドラ息子。仕事を舐めてかかって、何事にも不誠実に振るまった。挙句の果てには俺を嵌めて貶めようとした。
「だからお前は要済みだと言ったんだ。首だ。愛子だ。」
社長は息子の言い分だけを鵜呑みにして、俺がミスをしたと断言した。ああ、なんで俺がこんな目に遭わないといけないんだ。
「わかりました。今までお世話になりました。」
頭を下げた俺に社長は罵倒をぶつけ、息子は笑みを浮かべる。どこまでも腐った親子の姿。俺は心置きなく、この親子を見捨てることにした。
俺の名前は武田生吾。某公立大学を卒業後、とある保険会社の法人営業部に所属している。大学時代、法学部に在籍していた俺は民法について研究していた。法学部と言うと弁護士を志す学生をイメージする人が多いかもしれないが、法律に関係するその他の仕事を志望する学生も多い。俺もその一人で、将来は企業の法務部や役所勤務の公務員になろうと考えていた。
ところが実際に就活に取り組む中で、思いもよらない業界に興味を持つことになった。それは今に繋がる保険業界。専門的な知識も必要とされるが、自分の分野である民法が存分に活かせる世界だった。それを知ってから俺は積極的に保険会社へエントリーを進め、いくつかの内定を得た。大手や外資系の内定もあったが、俺が選んだのは出身地にほど近い地方の会社だった。いずれ地元に戻りたいと思っていた俺には、生まれ故郷にも営業所を持つその会社が魅力的だった。
入社から6年。俺は概ね順調な社会人生活を送っている。
「新規を任せてもらってもいいか?」
「もちろんです。どういった企業でしょう?」
営業成績は自分で言うのもおこがましいが、悪くない。常にトップというわけではないが、顧客からの評判の良さが強みになっている。俺は決してガツガツと前に出るタイプではない。その代わりに人の話を聞くのが得意で、どんな些細な疑問にも納得してもらえる答えを出すようにしている。保険のセールスにゴリ押しは不要だ。適当なことを言って人を丸め込むというのもとても危険だ。保険の販売や勧誘には法律がついて回り、顧客の不利益を隠すことも許されない。だからこそ積極性よりも慎重で丁寧な態度が望まれる。
「外部研修に参加する気はないか? 外資系のグループが主催する、主に損害保険についての勉強会なんだが、今後のために役立つ場所がある。」
「ああ、是非興味あります。」
ありがたいことに、自分をよく理解してくれる上司にも恵まれた。とにかく基本的に俺は就職で成功したと思っている。たった一つの、それも考えによっては最大の欠点を除いては。
「我々は常に地区でトップの契約数を目指している。なんだこの低落は。おい、個人客の契約数が地区3位、法人契約が2位で頑張りましたじゃないんだよ。」
社長の吉さんの気合いのこもった熱い叱責が響く。元は地元の実業家。ビル管理の会社と清掃・警備会社を成功させた後に保険業界にも乗り出したという吉社長。この人はとにかく良くも悪くも熱い人だ。
「何が丁寧だ。お客様に寄り添うだ。それを言い訳にして甘えてるだけとしか思えん。」
金融商品である保険を、普通の商品と同じ括りにしてとにかく売れとハッパをかける。無理をして強引なセールストークを使ってでも売り付けろ。しかしそれで問題が起きた。
あの日、俺は営業先から戻った直後、上司に呼び出された。
「武田、少し話がある。」
「はい、なんでしょう?」
上司の顔は珍しく強張っていた。何か良からぬことが起きたことはすぐに分かった。
「お前、先週の新規契約の件だが……社長が呼んでる。直接話があるそうだ。」
新規契約。確かに先週、ある中小企業の社長と契約を結んだ。何か問題があっただろうか。あの時は先方も納得の上でサインをもらったはずだ。上司に詳しい話を聞こうとしたが、彼は「とにかく行け」と言うだけだった。
社長室の扉を叩くと、中から「入れ」という低い声が聞こえた。ドアを開けると、吉社長がデスクの向こうに座っていた。その隣には見慣れない若い男が立っている。スーツは高級そうだが、だらしなくネクタイを緩め、足を組んでこちらを見下ろすように笑っていた。これが社長の息子、吉健太。先月から社長付きのアシスタントとして会社に出入りし始めた男だ。
「武田、お前に話がある。」
社長の声はいつもの熱い叱責とは違っていた。冷たく、断定的だった。
「お前の担当している新規契約の件だがな、お前がやってないっていう営業トークを見つけたんだ。」
俺は混乱した。
「どういうことですか? 私はきちんと適合性をご確認の上、書面で説明して判断を仰いだ上で契約を結びました。」
「ふん。そんな綺麗事が通用すると思ってるのか?」
口を挟んだのは健太だった。彼はスマホを弄りながら、面倒そうに言った。
「先方の社長に聞いたんだよ。契約の説明、全然してなかったってさ。法律的に問題があるって言われたら、『まあ大丈夫ですよ』って流したんだろ?」
「そんな事実はありません。私は――」
「事実は俺が言った通りだ。どうせお前みたいな真面目ぶった奴は、数字が上がらないと適当なことやるんだろうな。そんな社員は必要ないよ。」
社長が重い口を開いた。
「武田、お前の仕事は今日で終わりだ。健太にお前の担当を引き継がせることにした。だからな、お前にはもう会社でやれることはないと思ってくれ。」
突然の解雇通告。あまりの出来事に言葉が出なかった。俺の営業成績は悪くない。顧客からの評判もいい。それなのに、この親子は何の証拠もなく俺をクビにしようとしている。明らかに、健太が何かしらの工作をしたのだ。俺の担当を奪うために。
「ちょっと待ってください。私の話を聞いてもらえないんですか? 私の営業記録も、顧客からの評価も――」
「うるさい。
上がり込んできた健太は、コーヒーカップを手にしながら俺のデスクの周りをうろうろし始めた。当時の記録を見ろ、お前のミスだ。さっさと荷物をまとめて出て行け。」
俺は必死に食い下がった。
「いいえ、事実を確認してください。私は一度も適当な説明をしたことはありません。むしろ、以前に健太さんが担当した契約で、説明不足のままサインをさせた案件がありましたよね。あの時もあとで顧客からクレームが来たんじゃなかったですか?」
沈黙が落ちた。健太の表情が一瞬で変わる。カップを持つ指が白くなった。
「……いま、何て言った?」
「事実です。先月の石田商事の件。契約内容を十分に説明せずに、重要事項説明書のコピーを渡さなかった。あれはあなたのミスでしょう。それを上司に言われて、私のせいにして押し付けた。覚えていますか?」
健太は笑った。歪んだ、引き攣ったような笑い方だった。
「面白いことを言うなあ。証拠でもあるのか?」
「あります。」
俺はスマホを取り出し、先月のメール履歴を表示させた。健太の指示が記録されている。彼が説明書を省略したことを示す文章が、はっきりと残っている。
「これは……!」
健太の顔色が悪くなった。社長が無言のままその画面を見つめる。
「私が言いたいのは、私は一度も不誠実な営業をしたことはないということです。もし私を解雇するなら、このメールを外部に公開します。取引先にも、監督官庁にも。」
社長室は静まり返った。健太は口を開いたり閉じたりして、何か言いかけては言葉を飲み込んだ。吉社長は深く息を吐き、ゆっくりと口を開いた。
「……わかった。今回の件は、一旦なかったことにしよう。」
「ちょっと、父さん!?」
「健太、黙れ。お前のやったことは後で聞く。武田、お前は引き続き今の部署で仕事を続けろ。ただし、この話はなかったことにする。いいな?」
俺は頷いた。しかし、これは終わりではないと分かっていた。健太は必ず次の手を打ってくる。そして吉社長は、結局は自分の息子を擁護する。この会社に、もう未来はない。
俺はすでに、転職サイトで次の準備を始めていた。あのメールは保存してある。いざとなれば、使うつもりだ。
それから一週間後、会社で思いもよらない事件が起きた。健太がまた何かやらかしたらしく、社内は不穏な空気に包まれていた。
「聞いたか? 健太さん、また顧客に怒られたらしいぞ。今度は契約金を着服したとか……」
同僚の言葉に、俺は何かを悟った。これはチャンスかもしれない。だが、それを狙って動くのは危険でもある。俺はまだ、次の手を決めていない。



