俺はそのかごの中身を覗き込んで、思わず目を見開いた。ただの草ではない。そこには、明らかに手間暇かけて育てられた、上質な野菜がぎっしりと詰まっていたのだ。立ち上る瑞々しい香りに、長年料理人として培ってきた勘が、これはただもんじゃないと警告を発している。
「申し訳ありません。100円では買えません」
女性の顔が一瞬で曇った。廃業寸前の旅館を背負って、藁にもすがる思いで訪ねてきたのだろう。しかし、俺の言葉はそこで終わらなかった。
「こんな素晴らしい野菜を、100円で買うわけにはいかない。1万円でお願いできませんか? 」
俺はそう言って、かごの中の野菜を一口かじった。瞬間、口の中に広がる濃厚な甘みと深いコク。これは、この土地の気候と、育てた人の愛情がなければ生み出せない味だ。俺の震える声を、女性は信じられないといった様子で見つめていたが、やがて大粒の涙をぼろぼろとこぼしながら、深々と頭を下げた。
この出会いが、俺と彼女を巻き込む大きな物語の始まりになるとは、この時はまだ知る由もなかった。
俺の名前は佐藤翔太。親の遺した小さな旅館の支配人だ。元々は料理人として修業を積んでいたが、両親が他界してからは、この旅館を一人で切り盛りしている。しかし、現実は厳しい。大手ホテルがこの地域に進出してきて、地元の農家との契約を全て奪われてしまったのだ。旅館の看板メニューだった地元野菜を使った料理を提供できなくなり、客足はみるみる減っていった。帳簿には、先月も今月も、真っ赤な赤字が並んでいる。
「くそっ、どうすればいいんだ…」
重い溜息と共に顔を上げると、幼い頃に両親や従業員たちと撮った写真が目に飛び込んできた。みんな笑っている。大切な旅館を、このまま潰すわけにはいかない。焦りと不安で押しつぶされそうになりながらも、俺はかつて付き合いのあった農家を一軒ずつ回ることにした。だが、どこの農家も、もう手のひらを返したように冷たかった。無理もない。大口の取引先を失いたくないのだろう。
憔悴しきった俺は、最後の望みをかけて、昔から世話になっていた木村さんの農園を訪れた。すると、暗い沈黙の中、木村さんが何かを決意したように口を開いた。
「…あの、かごの中の草、買っていただけないでしょうか? 」
そこにあったのは、他の農家が納品を断られたという、市場に出せない規格外の野菜たちだった。形は不揃いだが、その香りは今まで見てきたどの野菜よりも力強かった。
俺はじっくりと味を確かめながら、木村さんの作る野菜に懸けてみることにした。
「木村さん、うちの旅館と協力しませんか? 」
翌日、俺は旅館の厨房に立ち、木村さんの野菜だけを使った、かつての看板メニューを復活させた。すると、どうだ。かつての常連客たちが、懐かしさに目を輝かせて再来してくれるようになったのだ。口コミは瞬く間に広がり、旅館はかつてない賑わいを見せる。
「俺、必ずこの旅館を世界的に有名にするんだ」
木村さんとの新たな関係が軌道に乗り始めたある日、俺は意気込んでそう宣言した。すると木村さんは、きょとんとした顔で聞き返した。
「世界?

俺アメリカに行くの? 」
「え、なんで? 」
俺の頭には、まさか木村さんが海外進出を考えているという発想は微塵もなかった。突然のことに、俺はただ呆然とするばかりだった。


