私はみつ子、69歳の主婦です。夫を早くに亡くし、長男のひとしと娘のももかを女手ひとつで育て上げました。朝から晩まで働き詰めの日々でしたが、子どもたちの笑顔が私の支えでした。ふたりとも優しく育ち、今では私のことを気遣って一緒に暮らしてくれています。それが何よりの幸せだと感じていました。
ある日の夕食のとき、ひとしが唐突に言いました。「母さん、俺、結婚することにしたよ」。私は驚きつつも、長年願ってきたことなので嬉しくなりました。ももかも「よかったね」と笑顔で祝福します。ところが、相手の家族と顔を合わせたとき、事態は思わぬ方向へ進みます。相手の母親が、私のことをまるで邪魔者のように扱い始めたのです。
「うちの息子が養うのは、あんたの息子であって、あんたじゃないからね」。彼女は私を値踏みするように見て、冷たく言い放ちました。私は言葉を失いました。年金暮らしの私が、新しい家庭にただでさえ負担になる存在だと思われていることが、これほど辛いとは思いませんでした。
その後の話し合いで、彼女は「どうせ同居するなら、働けるうちに働いて家計を助けてほしい」と言い出し、私はただ黙ってうなずくことしかできませんでした。息子の幸せのためなら、と自分に言い聞かせていましたが、心の中は鉛のように重かったです。ももかはそんな私の様子を見て、「母さん、無理しなくていいよ」と涙ぐんでいました。
挙式の準備が進むにつれ、彼女の私への態度はエスカレートしていきます。私の服装や挨拶の仕方にいちいち文句をつけ、息子の前では「お義母さんは、もう年だから仕方ないわね」と笑って誤魔化すのです。ある日、私が台所で食器を洗っていると、彼女が後ろから声をかけてきました。「ねえ、あんた。この家から出ていってくれない?」。私は手を止めて振り返り、何を言われたのか理解できずに聞き返しました。
「旦那さんだってもういないんでしょ?あんたがここにいる理由、あるの?」。彼女の口元には、かすかな笑みが浮かんでいました。私は何も言えず、その場で立ち尽くすことしかできませんでした。その夜、ひとしが私の部屋に来て、言いました。「母さん、ごめん。彼女には言ったんだ。でも、どうしても譲れないって。俺が悪いんだ」。息子の屈託のない謝罪の言葉が、私の心をさらに締め付けました。
私は自分がこの家の居場所を失いつつあることを悟りました。けれど、それを認めてしまったら、今まで築いてきた家族の絆が崩れてしまう気がして、どうしても一歩を踏み出せませんでした。そんな私を、ももかは何も言わずに抱きしめてくれました。暖かい腕の中で、私は涙をこらえるので精一杯でした。
結局、私は決断を下しました。ひとしの新しい家庭を壊したくない。それが私にできる、最後の親心だと思ったのです。私は静かに荷物をまとめ始めました。ももかはそれを知って、「母さん、どこへ行くの?」と焦った声を上げました。私はただ微笑んで、「少しだけ離れて暮らすことにしたの」とだけ答えました。その言葉を聞いたとき、ももかの顔が一瞬で曇りましたが、私は何も言いませんでした。
この家を出ていく日、ひとしは仕事でいませんでした。ももかだけが見送りに立っていました。玄関を出る前に、ももかが私の手を握りました。「母さん、ちゃんと帰ってきてよ。ここは母さんの家なんだから」。私はうなずきましたが、果たして自分の居場所がまだあるのかどうか、自分でも分かりませんでした。駅へ向かうバスの中で、私はふと、夫が残してくれた古びた金庫のことを思い出しました。そこには、私が今まで誰にも話したことのない、あるものがしまってあるのです。


