「今から来いって」──休日の朝、職場からの緊急電話で俺の予定は一瞬で崩れた。今日は婚約者の光の両親に初めて会う日だったのに。彼女には「仕方ないよ」と言われたが、心の中では申し訳なさでいっぱいだった。
俺は急いでユニクロのスーツに着替えた。光の両親に会うために奮発して買った明るいジャケットは、謝罪が必要な場面には向かない。ストレッチ素材で動きやすく、自宅で洗えるこのスーツが俺のお気に入りだ。トラブルを早く片付けて、彼女の両親に挨拶しよう。そう決めて家を飛び出した。
昼過ぎ、ようやく解放された。3時間の遅れだ。電車に飛び乗り、光の実家へ向かう。彼女は先に着いて待っていると言う。到着したのは高級感あふれるデザイナーズマンションで、外観からして緊張が募る。チャイムを押すと、光が出迎えてくれた。「お疲れ様です。大変だったね」と優しく微笑むが、その背後に立つ両親の姿を見た瞬間、空気が変わった。
俺は深く頭を下げて謝罪した。光の母は「頭を上げて、上がってください」と気遣ってくれたが、父は無言のまま、仏頂面で廊下を歩いていく。アパレルメーカーの社長だという彼の威圧感は半端じゃない。高級そうなスーツを身にまとい、俺をじろじろと値踏みするように見てくる。光の母はカラフルなワンピースを上品に着こなす綺麗な人だ。彼らの前で、俺のユニクロのスーツは場違いだっただろうか。
リビングでの会話は、光と俺と彼女の母の3人で進む。父は黙ったまま、時折俺を睨むように見つめる。話題が俺の家族のことになった時、光の母が「お母様は今は病院に?」と尋ねた。俺は正直に答えた。「ええ、そうです。病気で入院していて」。ここまでは何とか無難に進んでいた。だが、次の瞬間、光の父が突然口を開いた。
「君の会社、調べさせてもらったよ」
その一言で、リビングの空気が凍りついた。彼は続ける。「他の同業者と販売価格の調整、いわゆるカルテルをやっているそうだな。うちの会社との企画、もう無理だと思え」。俺の頭は真っ白になった。確かに、会社にはそういう噂があった。しかし、これが婚約者の父親の口から出るとは。光は青ざめ、母は手で口を覆った。「あなた、今そんな話は…」と母が止めようとしたが、父はさらに言葉を続けた。「君と娘の婚約は、なかったことにさせてもらう」。
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが崩れ落ちた。光を見ると、彼女は涙をこらえながら俯いている。何も言えない。俺は立ち上がり、震える声で「申し訳ありません」とだけ言って、その場を後にした。マンションを出て、しばらく歩きながら、俺はユニクロのスーツを見下ろした。このスーツじゃ、やっぱりダメだったのか。いや、問題はスーツじゃない。会社の不正だ。そして、それを俺が知っていながら何もできなかったこと。
翌日、俺は上司に直談判した。「カルテルの件、知ってるんですね」。上司は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに「お前が気にすることじゃない」と流そうとした。だが、俺は引かなかった。「婚約を破棄されました。原因はこれです」。上司の顔色が変わる。「…分かった。少し時間をもらう」。その日の夜、俺のスマホに通知が入った。会社からのメールだ。内容を見て、俺は息を飲んだ。──これは、始まりに過ぎなかった。



