昨日、夫の棺を閉じたばかりの私に、息子と嫁が言った。「お母さんには老人ホームがいいと思って」。40年住んだ家から、スーツケース一つで追い出された私は、笑って玄関を出た。でも、彼らが知らないことがある。私が経理で培った数字の記憶力と、実家から受け継いだ土地の話。私は今日、弁護士のところへ行く。息子に送る書類の下書きは、もうできている。あの日「面倒」と呼ばれた私は、今日から何を始めるのか——。…

昨日、夫の棺を閉じたばかりの私に、息子と嫁が言った。「お母さんには老人ホームがいいと思って」。40年住んだ家から、スーツケース一つで追い出された私は、笑って玄関を出た。でも、彼らが知らないことがある。私が経理で培った数字の記憶力と、実家から受け継いだ土地の話。私は今日、弁護士のところへ行く。息子に送る書類の下書きは、もうできている。あの日「面倒」と呼ばれた私は、今日から何を始めるのか——。...

荷物をまとめて今すぐ出て行ってくれ。
低く押し殺した賢太の声が、線香の匂いの残る部屋に響いた。夫の遺影はまだ白い布に包まれている。昨日、私は40年連れ添った正一を見送ったばかりだった。
その隣で美沙が薄い冊子を差し出す。「お母さんにはこちらがいいと思って。老人ホームのパンフレットです。年金で入れるところを探しておきました。俺たちだって、母さんの面倒まで見られないんだよ」
段ボールの山を背に、2人は当然のような顔をしている。私はパンフレットを受け取らなかった。柱の傷、古い棚、正一が選んだ照明。この家の全てに家族の時間が染みている。
「分かったわ」。そう答えると、私は小さなスーツケースを1つだけ持って玄関を出た。門の外には黒塗りの車が停まっている。降りてきた男が頭を下げた。
40年暮らした家を、私はもう振り返らない。私がこれからどこへ向かうのか。賢太と美沙はまだ何も知らなかった。

その日のことを話す前に、少しだけ昔の話をさせてほしい。
私の名前は洋子。旧姓は水島、68歳になる。40年前、28の年に正一と結婚して水島洋子ではなくなった。結婚前の私は小さな不動産会社で経理をしていた。数字を扱う仕事だ。伝票の1円のズレも見逃さない性格は、その頃に身についた。
私の実家は地方でいくらか土地を持つ家だった。両親が残してくれた土地の話は、いずれまた出てくる。今はそういう娘だったとだけ覚えておいてほしい。
夫の正一は私より4つ年上の実直な人だった。若い頃は建設会社で資材の仕入れを担っていた。派手なことを嫌い、口数も多くない。それでも私の話は最後までじっと聞いてくれる人だった。
「洋子さんの数字は俺の目より確かだ」。正一はよくそう言って、通帳も預金も私に預けた。家の切り盛りはいつしか私の役目になっていた。
私たちは郊外の古い1階建てで暮らした。門の柱は傾き、廊下は歩くときしむ。それでも正一はこの家がいいと笑った。庭の隅に自分で植えた金木犀を、毎年嬉しそうに眺めていた。
1人息子の賢太が生まれたのは結婚の翌年だ。腕に泣いた時の重みを、今でも手のひらが覚えている。この子にはできるだけ多くの道を選ばせてやりたい。そう思った。
賢太は成長し、内装の会社を立ち上げた。数年後、美沙と結婚し、私たちの家のすぐ近くに越してきた。孫も生まれ、市立の中学へ通わせている。外から見れば、絵に書いたような一家だったと思う。
私には賢太が生まれた年から続けている習慣がある。台所の引き出しの奥に1冊の古いノートをしまってある。表紙には正一の字で「賢太」と書いてある。そこには、私たちが息子に渡してきた金が日付と共に記してある。
始まりは賢太が生まれた年の保育料だ。経理の癖なのだろう。誰に見せるでもない。ただ家族のために出ていくお金を、私は記録せずにはいられなかった。
ページは年を追うごとに増えていった。学費、仕送り、祝い金。そのどれもが私の手を通って、息子の暮らしへ流れていった。
記録をつけるのは、金を惜しむためではない。いつか賢太が困った時、何を背負わせてきたかを私がきちんと覚えているためだ。
正一もそのノートのことを知っていた。ある晩、私の手元を覗き込んで「賢太」と書いた表紙をそっと撫でたことがある。
「よく続くな、洋子さんは」
「正確ですもの」

そうだよ。父さんが亡くなった以上、この家は俺が相続するんだ。母さんの面倒まで俺たちには見られない。
賢太は言い切った。父の骨壺がまだ温かいうちに、息子は私を「面倒」と呼んだ。
私は2人の顔をじっと見つめた。
「私はどこへ行けばいいの? 」

その夜、私は引き出しの奥からあのノートを取り出した。表紙の「賢太」という文字を指でなぞりながら、私は電話帳を開いた。かつて私が勤めていた不動産会社の、古い同僚の名前を探して。
翌朝、私はノートをバッグにしまい、車を呼んだ。行き先は、息子の会社でも、ましてや老人ホームでもない。
私はかつて数字を扱っていた身だ。誰よりも正確に、誰よりも細かく。そして今、その能力を使う時が来た。
賢太が相続したこの家。私が40年かけて守ってきたこの家。不動産の権利書は、いつの間にか息子の名義に変わっていた。だが、私の手元には別の書類がある。両親が残してくれた土地の、登記簿の写しが。
私はその土地を売る手続きを始めた。息子たちには何も言わずに。
あの日、玄関を出た私は、もう二度とあの家には戻らなかった。そして今、私は弁護士の事務所にいる。目の前には、これから送る内容証明郵便の下書きがある。
宛先は、私の息子、賢太。
「お前が私を追い出したのだから、お前が払うべきだ」——その一文を、私は今日、封筒に入れる。
賢太と美沙が、私が何をしようとしているのか知った時の顔を思うと、少しだけ胸が痛む。だが、私を「面倒」と呼んだ日から、私はもう母ではないのかもしれない。
私は今日から、あのノートの数字を数える番人ではなくなる。私は今日から、自分自身の人生を数える。
そして、その第一歩が、我が子を訴えることだとは、40年前の私は夢にも思わなかった。

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