姉の結婚式当日、俺はチャペルの扉を開けて凍りついた。ドレス姿の姉が、誰もいない会場に一人だけ。床には破られた赤いじゅうたんと踏まれた花びら。姉は笑おうとして失敗した顔で言った。「本当の花嫁は別にいるって」。一川家の連中は、弁当屋の姉を最初から見下していた。でも、あいつらはまだ気づいていない。10歳で親を亡くし、進学を捨てて俺を育ててくれた姉の弟が、いったい何者なのかを。そして、姉の肩に上着を…

姉の結婚式当日、俺はチャペルの扉を開けて凍りついた。ドレス姿の姉が、誰もいない会場に一人だけ。床には破られた赤いじゅうたんと踏まれた花びら。姉は笑おうとして失敗した顔で言った。「本当の花嫁は別にいるって」。一川家の連中は、弁当屋の姉を最初から見下していた。でも、あいつらはまだ気づいていない。10歳で親を亡くし、進学を捨てて俺を育ててくれた姉の弟が、いったい何者なのかを。そして、姉の肩に上着を...

姉のドレス姿が、誰もいないチャペルにぽつんと座っていた。床には踏み散らかされた花びらと、破られた赤いじゅうたん。姉は言った。「式は終わったって。本当の花嫁は別にいるって」と。

両親を亡くした10歳の俺を、20歳の姉は進学を捨てて育ててくれた。その姉が46歳でようやく掴んだ結婚だった。婚約者の一家は、弁当屋の姉を「豊島」と見下し、結婚資金1200万円を全額こちらに負担させた。式の時間も会場も勝手に動かされ、説明はいつも噛み合わなかった。

ドアの隙間からスマホのレンズが向いている。神崎リカの笑い声が響く。「ドレスまで来て、本当に自分が花嫁だと思ってたんだ」。

俺は上着を脱いで、氷のように冷たい姉の肩にかけた。喉の奥が焼けるように熱い。義家族全員、地獄行きだ。

あいつらはまだ、俺が何者かを知らない。

俺の名前は桐リ。36歳。14年前に小さな食品卸会社を起こし、買収を重ねてホテルや流通、食品加工の会社を傘下に収めた持ち株会社の代表取締役だ。ただし、事業会社に創業家の名前は入れていない。非上場だから、株主向けに顔を出す必要もない。だから俺の顔を知る人間は、業界でもごく限られていた。

姉は桐な。46歳。駅から歩いて7分の商店街で「皆の弁当」という、カウンターと厨房だけの小さな店を10年続けている。朝の5時から仕込みをして、昼の行列をさばき、夕方には店を閉める。

1年前の春、姉から電話があった。「店に来てほしい」。のれんをくぐると、姉が湯飲みを2つ出して、何かを言いにくそうにしていた。子供の頃から変わらない顔だ。

「結婚したい人がいるの」

俺は湯飲みを持ったまま固まった。「え? えって何よ」「いや、すごいな。すごいよ、姉さん」自分でも驚くほど大きな声が出た。46歳の姉が、10代の女の子みたいに耳を赤くして笑った。

そして姉は、1つだけ俺に頼み事をした。「私の結婚相手には、あなたの肩書きを言わないで」。なぜだ? と聞くと、姉は湯飲みを両手で包み込むようにして言った。「普通の家族でいたいの。あなたは、ただの弟でいてほしい」。

俺はそれに頷いた。姉の幸せの形がそれなら、それでいいと思った。

問題は、相手の家族だった。

婚約者は「一川」という家の息子だった。初めて顔を合わせた時、一川の母親は姉の手に触れることなく、こう言った。「弁当屋の豊島さんね。まあ、仕方ないわね」。

仕方ない。その言葉に、俺のこめかみの血管がピクッと脈打った。

式の準備が始まると、一川家の要求はエスカレートした。式場は「あんな場末のチャペルじゃ恥ずかしい」と2回も変更され、式の時間も「親戚の都合が悪い」と言って勝手に1時間ずらされた。費用はもちろん全額、こちら持ち。姉が必死にためてきた1200万円が消えていく。

「本当にいいのか?」と俺が聞くと、姉は「幸せになるための投資よ」と笑った。その目が、少しだけ寂しそうに見えたのは気のせいだろうか。

式当日。俺は会場に1時間前に着いた。姉を1人にしたくないからだ。だが、チャペルの扉を開けた時、そこには誰もいなかった。

3列目の席も、最前列の前も空っぽ。床には踏まれた花びらが散り、破られた赤いじゅうたんがその上に落ちていた。そして、1番前の長椅子に、ウェディングドレスの姉が1人で座っていた。

「姉さん、式は終わったみたい」

「終わったって、どういうことだよ」

「一川さんに言われたの。本当の花嫁は別にいるって」

姉が笑おうとして、失敗した。扉の隙間から、スマートフォンのレンズがこちらを向いている。神崎リカ。一川の元彼女で、いつも姉を見下していた女だ。

「ドレスまで来て、本当に自分が花嫁だと思ってたんだ」

俺は上着を脱いで、姉の肩にかけた。指先が氷のように冷たい。26年前、泣いていた俺の手を握ってくれた、その手だった。

「レん、もういいの。帰ろう」

「良くない」

立ち上がった。喉の奥が焼けるように熱い。義家族全員、地獄行きだ。

あいつらはまだ、俺が何者かを知らない。

姉は、自分が幸せになってはいけないと思い込んでいた。20歳で両親を亡くし、10歳の弟を育てるために進学を捨てた。自分の人生を全部、俺に捧げてきた。だからこそ、俺は知っている。姉が「普通の家族でいたい」と言った時、本当は「自分には幸せになる資格がない」と思っていたことを。

俺はスマホを取り出し、1本の電話をかけた。相手は、俺の持ち株会社の法務部長だ。

「桐リです。至急、一川家の調査を開始してください。結婚詐欺で訴える準備を」

電話の向こうで、法務部長が息を呑んだ。

「代表、本気ですか?」

「本気も本気だ。あいつらが姉から奪ったもの、ぜんぶ取り戻す。金も、契約も、そして姉の笑顔も」

俺は振り返り、まだ震えている姉の手を握った。

「姉さん、帰ろう。家で、俺が作った卵焼きを食べよう」

姉が涙で濡れた顔を上げて、小さく頷いた。その手の震えが、少しだけ収まった気がした。

翌朝、一川家の元に、1本の書類が届いた。内容は「結婚詐欺および詐欺罪による告訴状」。そして、俺の名刺が1枚。

名刺にはこう書いてあった。桐ホールディングス 代表取締役 桐リ。

一川家が、姉を「豊島」と呼んで見下したその名前。その家に、どのくらいの借金があるのか、俺はもう調べ終えている。

姉を1人にしたあの家は、金も会社も信用も失った。だが、俺が本当に取り返したかったのは、奪われた金でも契約でもない。自分が幸せになってはいけないと思い込んでいた、姉の顔だ。

20歳の姉が、「この子は私が育てます」と言った時、俺はもう決めていた。この人の幸せは、俺が必ず守ると。

そして今、その誓いを果たす時が来た。

Thumbnail