「すみません」—…

「すみません」—...

「すみません」
目の前の男が白々しい笑顔で謝罪する。今日、俺は特許更新のために取引先を訪れていたが、営業部長に5時間も待たされた挙句、罪悪感も緊張感もない態度で更新の書類を差し出してきたのだ。俺はその男を睨みつけた。

俺の名前は三浦。42歳の経営者だ。父の跡を継いで町工場を経営している。社長としての経験はまだ2年と浅いが、父が期待してくれた分、これから経験を積んで家族や社員たちを守っていきたいと考えている。

今日訪れているのは、ある大企業だ。この企業は工学機メーカーで、レンズやセンサーを組み込んだ装置を製造している。医療用の内視鏡や産業用の検査機器、高性能なカメラなどが代表例だ。俺の工場からは金属製の部品を納品しているが、ただの部品ではない。うち独自の特許技術で加工された部品は、ミクロン単位の精度を誇っている。工学機にとって命とも言える重要な存在だ。

今日は、その特許技術の更新をする予定になっている。本来ならもっと早く対応したかったが、どういうわけか先方の都合で今日になってしまった。まあ、規模の大きな企業なら忙しいのだろう。だが、呼びつけるというのがどうにも納得いかない。

冷たい風が吹く駐車場を歩きながら、俺は1週間前の電話を思い出していた。

「え、そうなると特許更新ギリギリの日程ですが、大丈夫ですか?」

電話の向こうでは、工学機メーカーの営業部長を務める上原の呑気な声が聞こえてくる。上原は取引先社長の長男という立場で、正式に発表されていないにもかかわらず、自分が次期社長だと信じて疑っていない男だ。

「今度こそちゃんと予定通り済ませますから。あ、どうせですから三浦社長がうちに来てくださいよ。そしたら確実でしょ」

まるで他人事のような口調に、俺は思わず額を押さえた。実を言うと、このやり取りはもう3回目だ。こちらは早めに済ませられるよう配慮してきたが、いつも土壇場になって上原にドタキャンされていた。出張がどうの、トラブルがどうのと言っては先送りにされた。しかも「どうせ暇でしょ。時間に融通聞かせてくださいよ」などと舐めた発言までされる始末だ。

正直に言えば、購買部や法務部の人間が対応してくれれば、営業の上原は無理に同席しなくてもいい気がする。しかし、それを指摘すると「次期社長の俺が対応せずしてどうするんですか?それに特許更新の契約書には営業部長である俺の署名が必要なんですから」となぜか怒られてしまう。謎にプライドだけは高いらしい。まあ、こちらとしては上原だろうが誰だろうが、責任を取れる立場の人間が署名してくれればいいのだ。

今回を逃すと契約書に記載された期限を超過することになるので、さすがに上原もきちんと対応するだろう。

「わかりました。では今度こそ何卒よろしくお願いいたします」

俺が念押しすると、上原は「はいはい」とこれまた呑気に返事をする。そんなやり取りを経ての今日である。

「え、不在ってどういうことでしょうか?」

受付でそう告げられ、俺は思わず声を荒げそうになった。約束の時間を過ぎても上原は現れず、連絡もない。受付の担当者に尋ねると、上原は今日は午後から外出予定だと言う。俺は約束をしていたはずだと伝えたが、担当者は申し訳なさそうに首を振るだけだった。

もう2時間も経つ。俺は思わず拳で机を叩きそうになり、ぐっとこらえた。深く呼吸をして、室内に備え付けられた固定電話を使って受付担当の元へ電話を入れた。

「すみません。もう2時間以上経つんですけど、私も自社での仕事がありますので、申し訳ないですが帰ってもよろしいですか?」

そう伝えると、受付担当者は上原に連絡を取ってみると言い、しばらく待つように告げた。俺は渋々ながら待つことにした。

そして、それからさらに30分ほど経った頃、ようやく上原が現れた。しかも、待っていたことを詫びるでもなく、「あー、すみません。ちょっと打ち合わせが長引いちゃって」と軽い調子で言い放った。

俺が眉を潜めているのも気づかずに、上原は備え付けられたテーブルに着席する。そして、何の説明もなく更新の書類を差し出してきた。

「じゃあ、これにサインしてもらえますか」

俺はその態度に怒りが込み上げてきたが、5時間も待たせた挙句にこの態度か、と心の中で毒づいた。だが、仕事の話を進めるために、まずは書類に目を通すことにした。

ところが、書類を確認して俺は固まった。

「…これはどういうことですか?」

俺の声は低く、抑えられていた。

「え?何がですか?」

上原はきょとんとした顔で尋ねる。

「この契約書、内容が以前と変わっています。特許の使用料が引き下げられている。しかも、この条項…これではうちの技術を無償で使われても文句が言えない」

俺が指摘すると、上原はニヤリと笑った。

「あー、それですか。うちの経営陣がですね、三浦社長のところの特許って、もうそれほど価値がないんじゃないかって話になってまして。それで、条件を見直させてもらったんですよ」

俺は信じられない思いで上原を見つめた。10年以上、父の代からこの取引を続けてきた。うちの部品なしでは、この会社の製品は成り立たない。それを「価値がない」と言い放ったのだ。

「価値がない…?うちの部品はミクロン単位の精度を誇っている。この特許技術があるからこそ、御社の製品は成り立っているはずだ」

「いやいや、最近は技術の進歩が速いですからね。三浦社長のところの技術に頼らなくても、他にもやりようはあるんですよ。まあ、付き合いもあるんで、この条件でなら継続してもいいですよって話です」

上原は相変わらず軽い調子でそう言う。俺は書類を握りしめた。

「この条件でサインはできません。一度、本社で検討させてください」

「え?そんなこと言われても。今日中にサインしてもらわないと、期限が切れちゃいますけど?」

上原はニヤニヤしながら言った。最初から、この日を期限に設定したのは上原たちだった。こちらに選択肢はないと思っているのだ。

「…わかりました。では、これで」

俺は書類を受け取り、席を立った。

上原は「ご検討お願いしますねー」と、まるで他人事のように言った。

俺はそのまま会社を後にした。頭の中は怒りと焦りでぐるぐる回っている。このままでは特許技術の更新ができず、工場の存続すら危うくなる。父から受け継いだ大切な技術を、こんな形で失うわけにはいかない。

車に乗り込み、俺は深く息を吐いた。そして、スマートフォンを取り出すと、ある連絡先を探して電話をかけた。

「もしもし、三浦ですが。…ええ、お世話になっております。実は、少し相談がありまして」

俺の声は、自分でも驚くほど冷静だった。

窓の外では、冷たい風が吹き荒れていた。しかし、俺の中には確かな決意が芽生えていた。上原にただ飲まれるわけにはいかない。父から受け継いだ技術と、社員たちの生活を守るために、俺は動き出す。

それは、誰も予想していない展開の始まりだった。

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