大変です。ゆみさんがバイオリンを弾けないって。今日、俺は娘の弓のバイオリンコンサートに来ていた。しかし、今か今かと待ち構えていても娘は現れず、心配になって控室へ行くと、腕を抑えてうずくまっている娘がいた。どうやら日々の激しい練習で腕に激痛が走り、バイオリンが弾けなくなってしまったようだ。
おいおい、こっちは待ってるんだぞ。早くしろよ。コンサート会場では、待ちくたびれた観客のヤジが聞こえてくる。主催者がどうしようかとスタッフと一緒に頭を悩ませている。他に誰かいないのかって、みんなあの子を待ってるんですよ。代わりなんていませんよ。分かってるよ。そんなことじゃあどうしろって言うんだ。もうこうなったら、俺は自然と体が動いていた。俺が、いえ、私が行きます。俺がステージで演奏すると、俺の人生が180度変わるのだった。
俺の名前は吉沢徹。42歳。よし、おい、お弁当できたぞ。はい。階段から降りてくるのは妻の洋子だ。後ろには小学生の娘の弓がのろのろと歩いて、目を擦りながらついてきていた。ほら、そろそろ学校の時間でしょ。弓は頷いて、そのまま玄関へ行ってしまった。玄関からは眠そうな声で「行ってきます」と声がする。玄関のドアが閉まった。弓はそのまま学校へ行ってしまったようだ。
弓は小学生になってから話さなくなっちゃったな。年頃の女の子になり始めてるのね。男の子とかを意識して、お父さんとの接し方が分からなくなっちゃうって聞いたことあるもの。それに弓は優しくて素直な子よ。きっとすぐ話せるようになるわ。そうだな。妻が寂しそうな俺をフォローしてくれる。その妻の言葉に頷きながら、洋子に「行ってらっしゃい」のキスをした。よくある幸せな家族だった。
そして俺はそんな家族を支えるしがないサラリーマンではなく、実は俺はただのアルバイト。いい年してアルバイトなんて、そう思うかもしれない。実際、俺も自分が情けなく思っていた。いつもすまん。仕事気をつけて。いいのよ。家族なんだから気にしないでって言ってるじゃない。ほらほら、あなたが暗い顔してたら私まで暗い顔になっちゃう。そんな顔して仕事なんか行きたくないわ。洋子が俺の頬を軽くペチペチ叩く。俺は少し笑みを浮かべて洋子を見送った。
洋子は音楽の先生をしている。そんな俺は主夫でアルバイト。毎朝、妻と娘のお弁当を用意するのが日課になっていた。洋子が仕事に向かったのを確認してから、台所の片付けをしてリビングに向かう。リビングには見慣れたバイオリンが飾ってあった。綺麗で上品な装飾に艶やかなボディ。そのバイオリンを手に取り、弾き始める。記憶の中に入っている楽譜をバイオリンに乗せていく。高く響く綺麗な音が出た。その音は俺が思っていた通りの音。スラスラと弾くことができる。だが、俺は手を止める。スラスラと弾けたのは最初だけだった。手を見れば、指がガクガクと震えて、弾くための棒である弓を落としそうな勢いだった。
いつの間にか息が荒くなっている。続きを弾こうにも、弾く手はどんどん力が抜けていくような感覚がした。腕がしびれてくるような感覚になって、弓が落ちて……。全く不快に感じない綺麗な音。お母さん、バイオリンまた弾いてるの? そう言われて、俺はゆっくりと片付けをする。思っている以上に俺はこの時間が好きだった。ねえ、お母さん。ん? 私も弾いてみてもいい? え? バイオリンの道へ行くと決めなくたって。しょんぼりする弓に、洋子は肩を撫でる。弓はそんな洋子の手を握って見上げた。お母さんも、やっぱり反対なの?



