「あの、これもう外に出しちゃっていいんですよね。」
玄関の叩きに、ダンボールが三つ並んでいた。私の服と私の本と私の靴。8年暮らした家から持ち出せるものは、それで全部だった。
ダンボールを指差していたのは、私の知らない若い女性だった。長い髪を綺麗に巻いて、うちのスリッパーを履いている。まるで前からこの家の人だったみたいに。
奥から夫が出てきた。私と目も合わせずに、その女性の肩を抱いた。
「聞こえたろ。もう荷物はまとめた。俺はこの人と一緒になる」
まだ何も話し合っていない。私はまだこの家の妻のはずだった。それなのに、夫はもう私を妻として見ていなかった。
何か言おうとした。この家のために、この8年、私が何をしてきたか。義母の通院に付き添った日のことも、お父さんが亡くなった冬のことも。
「赤の他人は今すぐ出ていけ」
言葉が喉の途中で止まった。廊下の奥から義母が現れて、私の顔も見ずに言った。
「貰い手のない嫁はいらん」
十二月の風が、開けっぱなしの玄関から吹き込んできた。ダンボールの蓋がパタパタと鳴っていた。
私は泣きながら家を出た。財布の中には二万三千円。行く場所はどこにもなかった。
その夜、駅前のベンチで、私は5年前に父から渡された茶色い封筒を思い出した。
あの封筒が、私の人生を丸ごとひっくり返すことになるなんて。この時の私は、まだ知るよしもなかった。
私の名前は桐ヶ崎。34歳。ついこの間まで深海さきという名前で、東京の郊外にある深海という家の嫁だった。結婚したのは26歳の春だから、もう8年になる。
夫の深海直樹は、深海建設という会社の専務で、私はその会社の事務をしていた。経理の伝票を整理して、電話を取って、お茶を出す。そういう仕事だ。
結婚してからは会社をやめて、家のことをした。義母の住江さんと同じ屋根の下で暮らし、朝は5時に起きて味噌汁を作り、夜は芋の膝に湿布を張ってから寝る。そういう毎日を8年続けた。
子供はいなかった。それだけのことで、私は8年かけてじわじわと、この家の人間ではなくなっていった。
父は5年前に亡くなっている。母は私が13歳の時に病気で亡くなった。だから私には帰る実家というものがない。そのはずだった。
父のことを話しておきたい。父は桐ヶ崎竜兵と言って、口数の少ない人だった。背は高くないのに手だけが大きくて、指の関節がゴツゴツと立っていた。事務の仕事をしている人の手ではなかったと、今になって思う。
父の仕事は、顕在の会社の役員だと聞いていた。会社の名前も聞いた覚えがあるけれど、看板を見たことは一度もない。月の半分は出張で家を空けていた。
父は私にほとんど干渉しなかった。成績表も見せなかったし、進路のことも聞いてこなかった。でも、何かを決めるときはいつも、父は私に小さな紙を渡した。そこには住所と時間だけが書いてあった。
高校に進学するとき。就職が決まったとき。結婚が決まったとき。父は決まって、同じように紙を渡した。
結婚の挨拶に来た直樹を見て、父は何も言わなかった。ただ、私の頭をポンポンと叩いて、「決めたか」と言った。それだけだった。
父が亡くなったのは、5年前の冬だった。病院で最後に会ったとき、父は私の手を握って言った。
「封筒を、お前に預けてある。全部、終わってから開けろ」
私は意味がわからなかった。父はそれ以上何も言わず、翌朝、静かに息を引き取った。
父の遺品を整理していると、桐箪笥の奥から茶色い封筒が出てきた。表面には何も書かれていない。中を開けると、一枚のカードが入っていた。白いカードに、金の文字で「桐ヶ崎ホテル」と書いてある。それと、父の直筆のメモ。
「困ったときは、これを。」
私はそのカードを、財布の奥にしまい込んだ。何のためのカードなのか、わからなかったから。
夫の深海直樹と出会ったのは、今から9年前。私が26歳、彼が29歳の時だった。合コンで知り合って、3か月でプロポーズされた。
「さきちゃんのそういうところが好きだ。飾らないところが」
そう言って、彼は笑った。私はその笑顔に、何の疑いも持たなかった。
結婚後、深海建設の仕事を手伝うようになった。経理の伝票を整理し、電話対応をし、来客にお茶を出す。そんな仕事だった。直樹の母、住江さんは、私が家に来るなり言った。
「うちは跡継ぎが欲しいのよ。早く子供を産みなさい」
私は頷くことしかできなかった。でも、子供はできなかった。病院に行っても、原因ははっきりしなかった。直樹は何も言わなかった。ただ、だんだんと私に触れなくなっていった。
子供がいないことは、住江さんにとっては許せないことだったようだ。食事の席で毎日のように言われた。
「子供も産めない嫁なんて、何の役にも立たないのよ」
私は皿を洗いながら、黙って聞いていることしかできなかった。
直樹の帰りが遅くなったのは、2年前からだった。残業だと言っていた。でも、たまに帰ってきたとき、彼のシャツからは、私と違う柔軟剤の匂いがした。
その日、午後3時頃だった。洗濯物を畳んでいると、玄関のチャイムが鳴った。出てみると、見知らぬ若い女性が立っていた。
「直樹さん、いますか?」
私は動揺を隠して、「どちら様ですか」と聞いた。女性は笑いながら言った。
「あ、私、深海建設の新しい事務員です。書類を届けに来ました」
嘘だった。会社の事務員は、私が結婚する前にやめてから、新しい人は入っていなかった。そう直樹が言っていたから。でも、私はその場で何も言えなかった。
その夜、直樹に聞いてみた。すると直樹は顔色ひとつ変えずに言った。
「ああ、最近入ったんだ。書類を届けさせた」
嘘だ。直樹の目が、一瞬、泳いだ。私はそれ以上聞けなかった。聞くのが怖かった。
その女性、山科愛美という名前だった。直樹の愛人。今、玄関に立っていたのは、間違いなくその女性だった。
私は玄関のダンボールを見つめた。私の服と私の本と私の靴。8年分の人生が、これだけになった。
ふと、財布のことを思い出した。父からもらったカード。「困ったときは、これを。」今が、その時だろうか。
私はスマホで「桐ヶ崎ホテル」を検索した。ヒットしない。存在しないホテルだった。
その時、ふと思い出した。父が生前、よく言っていた言葉。「桐ヶ崎ホテルはな、特別な人が泊まるんだよ。」特別な人とは誰のことか、父は教えてくれなかった。
私はカードを握りしめた。そして、駅前のベンチから立ち上がった。財布の中には二万三千円。行き先は決めていない。でも、どこかへ行かなければならない。
私はカードに書かれた住所を頼りに、電車に乗った。乗り換えを繰り返し、郊外の駅で降りた。そこは何もない田舎町だった。梨畑と柿畑が広がっている。赤と黄色の山が見える。秋だった。
古い商店街を抜けると、大きな門が見えた。立派な門構え。でも、看板はない。私は門の前に立った。門の奥に、大きな屋敷がある。和風の、立派な家だった。
私は深呼吸をして、門をくぐった。砂利を踏む音が、静かに響く。玄関には立派な木の扉があった。私はノックをしようとして、手を止めた。玄関の横に、小さな札があることに気づいた。
そこには、こう書いてあった。「桐ヶ崎ホテル」。
私は扉をノックした。すると、スッと扉が開いた。中から、若い男性が現れた。黒いスーツを着た、20代後半くらいの男性だった。彼は私の手元のカードをじっと見ていた。
「いらっしゃいませ。お嬢様。お待ちしておりました」
お嬢様。私は驚いた。自分がお嬢様と呼ばれるような家柄ではない。
「あの、私、桐ヶ崎さきではありません。深海さきです」
男性は少し驚いた顔をして、それでも丁寧に言った。
「お名前は変われど、お血筋は変わりません。どうぞ、中へ」
私は言われるままに、中に入った。中は広くて、静かだった。床はピカピカに磨かれていて、廊下には花が飾ってある。そこは確かに、ホテルだった。でも、客の姿は見えない。
男性は私を、奥の座敷へ案内した。障子を開けると、畳の部屋があった。部屋の奥には、年配の女性が正座していた。70歳くらいだろうか。品の良い着物を着ている。
女性は私を見ると、深く頭を下げた。そして、言った。
「お嬢様、ようこそお帰りなさいませ」
私は混乱した。何が起こっているのか、さっぱりわからない。
「あの、私、何か勘違いされているのでは…」
女性は顔を上げて、穏やかな笑みを浮かべた。
「いえ、間違いありません。桐ヶ崎家の娘でいらっしゃいますね。あなたのお父様、桐ヶ崎竜兵様の代から、このホテルを預かっております」
私は言葉を失った。父は、顕在の会社の役員だと言っていた。でも、実際は?
女性は続けた。
「お父様は、あなたが困ったときのために、このカードをお渡しになったのです。ここは、桐ヶ崎家の人間だけが泊まれる、隠れ家のような場所でございます」
私は、財布からカードを取り出した。あの、白いカード。表面には何も書かれていない。でも、この女性は、私がカードを持っているだけで、すべてを理解した。
「お父様は、あなたに何も知らせないまま、亡くなられました。でも、あなたがここに来られたということは、何かあったのでしょう」
私は、その瞬間、すべてが崩れた。8年間の結婚生活。夫の態度。義母の言葉。追い出されるように出てきた玄関。ダンボール三つ。
「私…」
声が出なかった。涙が止まらなかった。
女性は黙って、私の顔を見ていた。そして、優しく言った。
「お嬢様。ここが、あなたの家です。誰にも追い出されません」
私は、畳の上で泣いた。久しぶりに、誰かに「あなたの家」と言われた気がした。
しばらくして、女性が言った。
「お嬢様。一つ、お伝えしなければならないことがございます。お父様が、遺言を残されております」
遺言。父が?
「お父様は、あなたがこの家に戻ったとき、お渡しするようにと、この書類を預かっておりました」
女性は、引出しから一枚の書類を取り出した。私はそれを受け取った。そこには、こう書いてあった。
「桐ヶ崎家の全財産は、長女・桐ヶ崎さきに相続させる」
私は目を疑った。全財産。父は、そんなものを残していたのか。
書類の下には、銀行の通帳と、土地の権利書があった。通帳を見ると、信じられない額が記載されていた。
「これは、どういう…」
女性は、静かに言った。
「桐ヶ崎家は、この町で代々、地主をしておりました。しかし、そのことを知っている者は、この町にも少なくなりました。あなたのお父様は、あなたには関係のないことだと言って、何もお伝えにならなかったのです」
私は、書類を握りしめた。手が震えていた。私は、この8年間、汚いアパートに住み、義母に頭を下げ、夫に尽くしてきた。それは何だったのか。
でも、それ以上に、私は思った。父は、私に何も言わなかった。なぜ、わざわざ隠していたのか。
「お父様は、あなたに言っておりました。この財産は、あなたが幸せになるためのものだ。あなたが選んだ人生を、自由に生きるためのものだと」
幸せになるため。自由に生きるため。
私は、涙を拭いた。そして、書類をそっと置いた。
「すみません。少し、考えさせてください」
女性は、深く頷いた。
「はい。どうぞ、ごゆっくり。ここは、あなたの家ですから」
私は、座敷に残った。障子の外には、赤と黄色の山が見える。秋の日差しが、畳に差し込んでいた。
この8年間、私は何のために生きてきたのだろう。夫のために。義母のために。そう思って、すべてを捧げてきた。でも、それは全部、無駄だったのだろうか。
違う。無駄ではなかった。私はこの8年間で、自分が何を大切にしたいのか、学んだ気がする。
夫の愛人に、追い出されるように出てきた家。でも、私はもう、あの家に戻ることはない。
私は、そっと通帳を開いた。新しい人生を始めるための、最初の一歩。
その夜、私は桐ヶ崎ホテルの一室で、初めて一人で眠った。夢も見ない、深い眠りだった。
翌朝、私は女性に言った。
「あの、一つ、お願いがあります」
「はい、何なりと」
「このホテルには、泊まっているお客様はいるのですか?」
女性は、微笑んだ。
「ええ、時々いらっしゃいます。でも、ほとんどは、あなたのようなお嬢様です」
「私のような?」
「ええ。人生に迷った方が、ここに来られます。そして、答えを見つけて、帰っていかれます」
私は、うなずいた。答え。私は、まだ答えを見つけていない。
でも、これから、見つければいい。
私は、荷物をまとめた。ダンボール三つ分の、私の人生。でも、今はもう、それだけじゃない。
私は、ホテルを出る前に、女性に聞いた。
「あの、もう一つ、お願いがあります」
「何でしょう」
「私の名前を、桐ヶ崎さきに戻したいんです。戸籍の名前を」
女性は、少し驚いた顔をした。でも、すぐに優しく微笑んだ。
「それは、いい決断ですね。ご自分で、役所に行かれてはいかがですか?」
私は、うなずいた。
「そうですよね。自分でやります」
私は、玄関で靴を履いた。外は、朝日で明るかった。
「お嬢様。お気をつけて」
「ありがとうございます」
私は、桐ヶ崎ホテルをあとにした。行き先は、役所。そして、その先は、まだ決めていない。
でも、一つだけ確かなことがある。私は、もう、誰かに追い出されることはない。
私は、空を見上げた。秋の青空が、どこまでも続いていた。
あのダンボール三つから始まった物語は、終わりを告げた。そして、新しい物語が、始まろうとしている。
私は、桐ヶ崎さき。34歳。独身。帰る家は、もう決まっている。
あの、桐ヶ崎ホテル。父が残してくれた、私だけの場所。
私は、踏み出した。新しい人生への、最初の一歩を。
その足音が、静かな町に、小さく響いた。
親友の美咲からは、あれから連絡がない。彼女は知っているはずだ。私が家を追い出されたことを。でも、何も言ってこない。きっと、直樹の味方なのだろう。それとも、何も知らないふりをしているのか。
でも、もう関係ない。私は、私の道を行く。
海岸沿いの道を歩きながら、私は思った。父は、なぜ私に何も教えてくれなかったのだろう。もしかしたら、私が財産目当てで結婚しないように、わざと隠していたのかもしれない。それとも、私が自由に生きられるように、という配慮だったのか。
父は、口数の少ない人だった。でも、最後に残してくれた言葉。「封筒を、お前に預けてある。全部、終わってから開けろ」という意味が、今、わかる気がする。
このお嬢様扱いされたこと。そして、財産を相続すること。それは、私の新しい人生の始まりであり、父が私に残してくれた最後の贈り物だった。
私は、ポケットのカードを握りしめた。桐ヶ崎ホテルのカード。これは、私の命綱。
このカードがあったから、私は今、ここに立っている。
私は、これから自分の人生を歩んでいく。直樹がいない、住江さんがいない、何ものにも縛られない自由な人生を。
それが、父の願いだったのかもしれない。
私は、そんなことを考えながら、役所へ向かった。
あの日の出来事は、私の人生を大きく変えた。でも、この物語の本当の始まりは、まだこれからだ。
私は、桐ヶ崎さき。34歳。この先、何が起こっても、私は私の道を行く。
その決意を胸に、私は歩き続けた。



