千代が薬を飲んでいないのを見つけたのは、のり明が布団から這い出るようにして起きた朝だった。横須賀の海からの風が窓の隙間から入り込み、家の中はしんと冷えていた。頭が割れるように痛む。血圧の薬を飲み忘れたせいだ。のり明は医者から毎日飲むように言われていた。けれど、薬を買う金を考えると、二日に一回に減らすのが精一杯だった。千代は台所に立って茶を淹れていた。後ろ姿はいつもより丸く見える。医者から処方された咳止めも、彼女は飲んでいないことを知っていた。「お前、薬はちゃんと飲んだか。」のり明は茶碗を受け取りながら聞いた。千代は答えなかった。しばらくして、黙ってテーブルの端を指差した。そこには封筒が置いてあった。何の印もない、クリーム色の封筒。中を開けると、差し押さえの通知だった。滞納していた固定資産税と、未払いだった健康保険料。支払い期限をとっくに過ぎていた。のり明は手が震えた。印刷会社が潰れてから、退職金もほとんど出なかった。今は地域の郵便局で非常勤のアルバイトをしている。月の手取りは九万円ほど。千代も小学校の給食室が閉鎖されてから、仕事が見つからず五年が経っていた。「……いつから滞納してたんだ。」のり明は声を絞り出した。「一年前から。」千代の声は平静だった。「前から届いてたけど、言えなかった。」その言葉を聞いた瞬間、のり明は何かが心の底で折れる音を聞いた。二人とも黙って座っていた。外では冬の風が嵐のように吹き荒れていた。翌日、市役所から連絡があった。差し押さえの執行は二週間後。家がなくなる。四十年前にのり明の父が建てた家が、二人の住む家が、海の見える横須賀の古い住宅地の一角から消えようとしている。千代は咳をしながら、茶を淹れ直した。のり明は一枚の封筒を見つめていた。放置すれば家を失う。だが、その封筒の中身を開ければ、今度は千代の信頼を失うかもしれない。彼はその封筒を手に取った。中には三万円が入っていた。印刷会社で働いていた頃にこっそり密かに入れていた貯金。何のために取っておいたのか。自分でも言えないまま、二十年間ずっと隠していた。のり明は立ち上がった。市役所に行くには、まだ時間があった。



