機内でアナウンスが流れた直後、美人のキャビンアテンダントが乗客に呼びかけた。「この中にお医者様はいらっしゃいますか」
俺はすぐに立ち上がった。体調が悪そうな女性のそばに駆け寄り、声をかけた。
「大丈夫ですか?」
しかし返事がない。手首を掴むと、脈が弱い。これはまずい。
俺は橋本拓也、36歳の会社員だ。今は普通のサラリーマンとして毎日を過ごしているが、3年前まで大学病院で外科医として働いていた。昔から勉強は好きだったし、誰かの役に立つならと思って医者になった。手も器用だったから、手術の成功率も高く、「天才外科医」と持ち上げられたこともある。
だが、そんな日々はある日突然終わった。
33歳の時、俺はいつも通り病院で仕事をしていた。すると、委員長の友長秀樹さんが俺を解雇すると言い出した。
「どういうことですか?」
「問題行動を起こしていたからだ。わからないのか?」
「え? 何ですかそれ?」
「自分の行いがわからないなんてな。君の悪事は全てお見通しだよ。看護師や患者から被害があったと聞いている」
「私は何もしていません。何かの間違いです」
俺は驚きを隠せなかった。覚えのない非難に、頭が真っ白になった。
今まで患者には誠実に接してきた。辛くて重い病気を患った人にも、優しく声をかけ治療した。同じ医師や看護師たちにだって、失礼な態度を取ったことはない。嫌がるようなことを言った記憶もない。医者の不祥事というのはよく聞く話だから、俺だって気をつけていたつもりだった。
なのに、どうして委員長は俺に問題があると言うのだろうか。
そう思っていると、委員長は当然のことのように続けた。
「君は腕だけはいいが、それ以外はクソ野郎だ。どれだけ人を傷つけるようなことをしていたか分かっているのか?」
「そんなことしていません」
「自覚なしか。医者としてでなく、人間としても終わっているな」
俺は反撃した。
「そう言う委員長こそ、どうなんですか? 若い女性の患者や看護師の尻を追いかけているじゃないですか」
「なんだと?」
委員長は眉をピクリと動かして睨んできた。
実は、委員長は影で「エロ親父」と呼ばれていた。若い女性看護師たちや患者に、いやらしい視線を向けている。看護師たちはとても迷惑していて、委員長に近づきたがらない。長い間病院で勤務している先輩看護師は、彼から若い女性を守るように動いていることもあった。
そのことを指摘すると、委員長は言った。
「何を言っているんだ。違うんだよ。あかりは病院のためを思ってだな」
「あかり?」
「俺は病院のことを考えているだけだ。それに、天才だと言われている医者を首にすることに何の意味があるって言うの? うちの病院にずっといて欲しい人材じゃない?」
結局、俺は解雇を言い渡された。理由は明確にされないまま、病院を去ることになった。
それから俺は医者の仕事を辞め、普通の会社員になった。毎日虚しさを感じながら、ただ流されるように生きている。
そして今、機内で倒れた女性を前に、かつての自分の技術が蘇る。
俺は手を動かした。脈を確認し、呼吸を確かめる。周りの乗客がざわつき始めた。
「意識を失っています。AEDを持ってきてください」
俺は指示を出し、救命処置を続けた。
数分後、女性の意識が戻った。
「大丈夫ですか?」
「…はい、ありがとうございます」
弱々しい声だったが、確かに彼女は生きていた。
その時、俺の中で何かが変わった。
医者を辞めた後、俺はずっと逃げていた。自分にはもう価値がないと思っていた。だが、この瞬間、俺は確かに誰かの命を救った。
解雇された後も、俺は医者であり続けたかったのだ。
飛行機が着陸し、救急隊が女性を引き継ぐと、俺は静かに座席に戻った。
窓の外の空を見上げながら、俺は決意した。
もう二度と、逃げない。
あの日の冤罪を晴らすため、そして再び医者として生きるために、立ち上がるんだ。
俺は橋本拓也。かつて天才外科医と呼ばれた男。そして、これから全てを明らかにしていく。



