都内の高級車ショールームで、久しぶりに会った姉が言った。「貧乏農家に買える車なんてないよ。ここはあんたたちの来るお店じゃないの。」 6年前、姉が絶対に嫌だと捨てた縁談を押し付けられて、私は田舎の農家に嫁いだ。姉の中の私は、今も泥だらけの嫁のままだ。今日、私たち夫婦はあえて作業着のまま、この店へ足を踏み入れた。姉は気づいていない。私の夫が持っている書類の中身に。…

都内の高級車ショールームで、久しぶりに会った姉が言った。「貧乏農家に買える車なんてないよ。ここはあんたたちの来るお店じゃないの。」 6年前、姉が絶対に嫌だと捨てた縁談を押し付けられて、私は田舎の農家に嫁いだ。姉の中の私は、今も泥だらけの嫁のままだ。今日、私たち夫婦はあえて作業着のまま、この店へ足を踏み入れた。姉は気づいていない。私の夫が持っている書類の中身に。...

磨き上げられた白い床に、姉の声が響いた。
「貧乏農家に買える車なんてないよ。ここはあんたたちの来るお店じゃないの。」
よく晴れた10月の昼下がり。桜坂市の高級車ショールーム。久しぶりに会った姉は、私の靴の泥から夫の作業着の襟まで順番に目でなぞって、笑った。
「まだ脳やってるんだ。」
「はい。」
夫は短く答えただけだった。
ガラスの向こうの駐車場には、泥を残した古い軽トラが1台。姉は口の端を上げ、指輪を光らせて店の奥を指した。
「ちなみに、私の夫ここの店長だから。」
私は日高。32歳。6年前、姉が絶対に嫌だと突き離した縁談を押し付けられて、田舎の農家に嫁いだ。姉の中の私は、今も泥だらけの貧乏農家の嫁のままだ。
だから姉は知らない。この日、私たち夫婦が何をしにこの店へ来たのか。この後、この店で何が起きるのかも。
これは、姉がいらないと捨てた人生を、夫婦2人の手で作り直した6年間の話だ。

話は6年前の春から始まる。当時の私は26歳、都内の事務機の会社で営業事務をしていた。見積もり書を作り、伝票を締め、月末には請求の数字を最後の1円まで合わせる。派手さのかけらもない仕事だが、数字が最後にぴたりと合う瞬間が好きだった。課長からは「美吉さんに任せると締めが早い」と頼りにされていた。給料は多くない。それでも自分の腕で回している実感があった。
実家は都内の外れにある縦売りの一軒家だ。父の安男は顕在の会社を定年まで勤め上げた人で、母の行子は近所付き合いの顔が広く、町内の噂は大抵、行子を経由して広がった。そして、3つ上の姉がいた。名前は美咲という。
うちの家には、私が物心ついた時から決まった順番があった。私が後。新しい服は姉に買い、私にはお下がりが回ってきた。夕飯の唐揚げは大きいものから姉の皿に乗った。進学の時も習い事の時も、先に選ぶのは姉だった。誰も理由を口にしないし、私も聞かなかった。理由を聞いたところで順番が変わらないことだけは分かっていたからだ。
母は近所の人に姉を紹介する時、決まって同じ言い方をした。「上の子は華やかでしょ。昔から人に好かれるのよ。」そして思い出したように私を振り返り、付けたす。「下のは、まあ、地味で大人しいけどね。」
姉はその言葉を何の疑問もなく受け入れていた。私が隣にいても、姉は私の存在を消したまま、自分だけが光っている場所に立っていた。
あの日もそうだった。夜遅く、母がリビングで姉と何やら話し込んでいた。私は台所で茶を入れていた。聞こえてきたのは、隣町の農家から嫁に来てほしいという話だった。姉は怒鳴った。「絶対嫌。なんで私が田舎の農家なんかに行かなきゃいけないの。私には将来があるのよ。」母は困ったようにため息をついた。
その時、姉の視線がお茶を注いでいた私で止まった。「じゃあ、美吉が行けばいいんじゃない?」
母は何も言わなかった。ただ、こくりと頷いた。私はその瞬間、自分が家族の中でどんな位置にいるのか、はっきりと理解した。拒否する言葉は喉まで出かかったが、飲み込んだ。どうせ変わりはしない。そういう順番なのだ。

翌週、私は見合いの席に座った。相手は36歳の農家の息子、拓也。日焼けした腕と、人懐こい笑顔の男だった。緊張して俯く私に向かって、彼は最初にこう言った。「俺、野菜育てるのが好きなんです。美味しいものを作って、家族に食べてもらえたら幸せだと思って。」その言葉に、私は肩の力が抜けた。人が喜ぶ顔を見たいと思う気持ちは、数字を合わせる時の私の感覚と似ていた。
私たちは3か月後に結婚した。実家を出る時、姉は玄関先まで見送りにも来なかった。母は「何か足りないものがあったら言いなさい」と言ったが、何ひとつくれなかった。私は自分の荷物と、心の中に積もった何かを抱えて、拓也の家へ向かった。

田舎の暮らしは、思っていたよりずっと大変だった。朝は5時起き。冬は霜で指先がかじかんだ。夏は日差しで首の後ろが焼けた。初めての収穫で、台風が畑をめちゃくちゃにした時は、夜中に泣いた。拓也は黙って隣に座り、私が泣き止むまで待ってくれた。「また作ればいいよ。」その言葉は短かったが、それで十分だった。
私たちはただがむしゃらに働いた。種を蒔き、水をやり、草を抜き、虫を取った。最初は売れなかった野菜も、直売所で少しずつ買ってもらえるようになった。お客さんから「美味しかったよ」と言われるたび、拓也は目を細めて笑った。私は会計を担当し、数字をきっちり管理した。出荷の記録、経費の計算、売上の予測。あの事務機の会社で身につけたことが、ここで役に立っている。
2年目、私たちは近所の農家と一緒に小さな出荷組合を作った。3年目、自分の農園の名前で野菜を出荷できるようになった。拓也は「美吉のおかげだ」と言う。私は「拓也が野菜を育てているからだ」と返した。

5年目の春、拓也が組合の会議から帰ってきて、難しい顔をしていた。机の上に置かれたのは、新しい大型農機のパンフレットだった。「これがあれば、作業時間が半分になる。でも、値段がなあ…」私はパンフレットを手に取り、数字を目で追った。銀行から借りるには、担保が足りない。頭金も余裕があるわけじゃない。
「私、何かできるかな。」
「いや、無理しなくていい。俺が何とかする。」
拓也はそう言ったが、私は違う道を考えた。都内の高級車ショールーム。姉の夫が店長をしていると聞いたのは、母からの電話だった。私たちの農園では、買い替え時期の軽トラを一台売りに出すことになった。もちろん、その店で買ってもらう必要はない。ただ、新車の値引き交渉を迫るつもりもなかった。
私は拓也に言った。「私たち、自信があるのは野菜だけじゃない。」
拓也はしばらく黙って、それから笑った。「ああ。行こう。」

10月の澄んだ空の下、私たちは軽トラで桜坂市へ向かった。店の前で、私は自分の服を見下ろした。作業着はさすがに着替えたが、安物のジーンズとセーターだ。拓也はいつもの農作業着のままだった。私たちはあえて、その格好で店に入った。
磨かれた床に、自分の靴の泥が目立つ。私は気にしないようにした。店の奥から、姉が歩いてきた。相変わらず綺麗だった。高い服、高い指輪、自信に満ちた笑顔。「あら、美吉じゃない。珍しいわね。」
姉は私と拓也を一瞥すると、すぐに笑った。それが先ほどの言葉につながった。「貧乏農家に買える車なんてないよ。」
拓也は何も言わなかった。ただ、私の手をそっと握った。その温かさに、私は自分が震えていることに気づいた。
「まあ、座りなさいよ。コーヒーくらい出してあげるわ。」姉は店員に指図してから、こちらを見た。「それで、今日はどうしたの? まさか車を見に来たわけじゃないでしょう。いくら頑張ったって、軽トラを買い替えるお金なんてないでしょ。」
私はゆっくりと呼吸を整えた。拓也は、トートバッグから一枚の書類を取り出した。それは、銀行からの融資承認書と、私たちがこの店で買おうとしている車の見積もり書だった。
私たちは、この店で一番大きなトラクタートラックを購入するつもりだった。もちろん、バカみたいな値段はしない。確かに買えるだけの数字はあった。
姉の顔色が、一瞬で変わるのが分かった。
「…何、これ。」
「この店で買うつもりなの。値引きの交渉をしたいんですけど。」私はできるだけ落ち着いた声で言った。「もちろん、店長さんが応対してくれるんですよね。」
姉の夫が奥から出てきた。姉は慌てて夫を見たが、夫は書類を見て、何度かそれを確認した。そして、私と拓也に向き直った。「…確かに、うちの客か。申し訳なかった。席を用意します。」
姉は、その場で何も言えなかった。私も拓也も、姉に何も言わなかった。ただ、姉が自分から踏み込んできた場所で、私たちは静かに取引を進めた。

交渉は2時間に及んだ。拓也は値引きの額を引き出すため、あれこれと話をした。私は数字を正確に並べ、最後まで譲らなかった。店長は最終的に、私たちの提示額に応じた。サインをする時、拓也は私を見て、嬉しそうに笑った。
店を出る時、姉はまだ店内にいた。私たちは軽トラに乗り込み、エンジンをかけた。私は一度も振り返らなかった。
車検の期限が迫っていた軽トラを、私たちは予定通り譲り、新しい車を手に入れた。それは、姉がいらないと捨てた田舎の暮らしで、私たちが作り出した勲章のようなものだった。

人には思い出したくない過去がある。だが、あの日の姉の言葉は、今も私の耳に残っている。「貧乏農家に買える車なんてないよ。」
あの言葉は、私を傷つけた。けれど私たちは、あの言葉を笑い話にするために、これからも畑を耕し続ける。
拓也が言った。「次の車は、もっと大きくて、もっと農場に合うやつにしよう。」
私は、ハンドルを握りながら、言った。「そうだね。まだ買えるかどうか分からないけど、その時はまた、ここで買おう。」
軽トラは、春の土の匂いを残して、家に向かって走り出した。

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