「こんなボロに価値なんてありませんよ」
銀座の高級時計店・天魔堂。その一言に、風呂敷を抱えた老婦人の体がびくりと震えた。販売主任の黒川怜太は、傷だらけの懐中時計を鼻で笑った。針は6時23分で止まったまま。亡き夫が残した、たったひとつの形見だった。
「飾るだけなら、動かなくても同じでしょう」
黒川の言葉に、店内の空気が凍りついた。だが、店の片隅で掃除をしていた若い職人・立花千尋だけは気づいていた。それが世界に3本しかない、伝説の職人が遺した逸品だということを。
千尋は入社4年目の26歳。華やかな売り場よりも、裏方の作業場で歯車と向き合う時間のほうがずっと落ち着く。地味で口数も少ない彼女を、黒川はいつも顎で使っていた。
「おい、そこが終わったら伝票の確認をしてくれ」
千尋は黙って頷き、手を動かす。反論したところで何も変わらない。それでも彼女がこの店にいるのには理由があった。
まだ駆け出しの頃、ひとりの老職人が時計作りのすべてを叩き込んでくれた。「時計は機械じゃない。人の一生を預かる仕事だ」そう言って微笑んだ師匠。その師匠が昔、腕を振るっていた店こそが、今の天魔堂だった。
師匠の名を出せば、扱いは変わったかもしれない。けれど千尋は一度も口にしなかった。自分の指先だけで認められたい。それだけが彼女の誇りだった。
黒川は老婦人に代金を返そうとしていた。高級時計ばかりを扱う店で、動かない古い時計など邪魔なだけだ。彼の目は、客の価値も、時計の本当の価値も見えていなかった。
「お客様、お気を悪くなさらないでください。専門の業者に修理を頼まれるのがよろしいかと」
老婦人はうつむいたまま、風呂敷を抱え直した。帰ろうとするその背中を、千尋は思わず目で追った。あの時計に触れたとき、微かに伝わってきたものがある。単なる古い時計ではない。誰かが魂を込めて作り上げた、脈動する何かが。
千尋は手を止め、声をかけようとした。だが黒川の機嫌を損ねるのは避けたかった。悩んだ末、彼女は老婦人にだけ聞こえる小さな声で言った。
「あの……少し見せていただけませんか」
老婦人は振り返り、不安そうに風呂敷を開いた。千尋は革手袋を外し、そっと時計を受け取った。傷だらけの銀のケース。止まった針。彼女は裏蓋に刻まれた微かな刻印を見つけた。それは師匠から一度だけ教えられた、伝説の職人だけが彫ることを許された印だった。
「この時計、直りますか?」老婦人の声は震えていた。「主人が、一番大切にしていたもので……」
千尋は深く息を吸った。あの師匠が生涯をかけて遺した、最後の作品。それが今、この手の中にある。千尋は顔を上げ、はっきりと言った。
「お預かりします。必ず、お直ししますから」
老婦人の目に涙が浮かんだ。しかし黒川の怒声が飛んできた。
「何を勝手なことをしているんだ! そんな壊れた時計、受け取っても店の評価が下がるだけだ!」
千尋は逃げなかった。
「これはただの壊れた時計ではありません。この刻印、ご存じですか?」
黙り込む黒川。店内に緊張が走った。千尋の声は静かだが、確かな強さを帯びていた。
「この時計は、全国に3本しかない職人の最高傑作です。私が直します」
黒川は歪んだ笑みを浮かべ、嘲った。
「お前ごときが直せるわけがない。どうせ失敗して、店の名前に傷を付けるつもりだろう」
千尋は手の中の時計を見つめた。師匠の言葉が甦る。「時計は人の一生を預かる仕事だ」絶対に、この時計を動かしてみせる。
その夜、作業場の明かりが遅くまで灯っていた。千尋の手が、古い歯車と向き合う。止まった時計の裏には、驚くべき仕掛けが隠されていた。誰も気づいていない真実。そして千尋の師匠が遺した最後の謎。
7日後の朝、天魔堂の扉が開く。千尋の手の中には、完璧に動くあの懐中時計があった。老婦人は涙を流して喜び、約束を果たした。
「あなたのような職人がいて、本当によかった」
黒川は歯噛みしながら、千尋の腕を見つめる。悔しさを飲み込むように、彼は小さく言った。
「……今回だけだ」
千尋は答えず、時計を磨き続けた。彼女の指先には、師匠から受け継いだ誇りが宿っていた。



