「結婚するわけない。夢見すぎ。」
彼は得意そうに笑った。その顔はあの夜と同じだった。自分が傷つけた人間のことなど、かけらも気にしていない顔。20年の間ずっとそうやって生きててきたんだろう。
「何その目?そいつも早そうだな。」
勇気の言葉が空気を切り裂くように落ちた。私の体の中で何かがギリと音を立てた。彼は今、海香を嘲笑った。この子は20年間会ったことのない父親を前にして、一度もひかない。胸の奥で何かが結回する。この男を絶対に許さない。逃がさない。20年間私たちの人生を踏み台にしてきた彼を、今度こそ社会の中で終わらせる。地の底まで引きずり落としてやる。その覚悟が確かに私の中に満ちていった。
私の名前は深田幸、今年で37歳になる。東京の西側、住宅と商店が混在する小さな町で、一人の海香と二人で暮らしている。マンションの5階南向きの部屋。朝になると薄いカーテン越しに光が差し込んできて、台所のタイル張りの壁を白く染める。その朝も目覚ましより先に目が覚めた。時刻は6時を少し回ったところだった。布団から出ると、海香がまだ寝息を立てている。私はキッチンに立ち、コーヒーを淹れた。
その日は海香の高校の卒業式だった。朝食を食べながら、海香は少し緊張した様子で言った。「ママ、今日だけは、来てくれる?」私は微笑んだ。「もちろん行くわよ。あなたの晴れ姿を見ないでどうするの。」
式は厳かに進んだ。海香が名前を呼ばれ、壇上で卒業証書を受け取る姿を見たとき、私は目が潤んだ。20年間、独りで育ててきた。苦労もあったけれど、この子が立派に育ってくれた。その瞬間、私は自分の選択が間違いではなかったと思った。
式が終わり、校庭で海香と写真を撮っているときだった。海香の視線が突然、遠くの木陰に釘付けになった。私はその視線を追った。そこには、一人の男が立っていた。スーツ姿で、190センチはありそうな大柄な男。どこか見覚えのある顔。
「海香、どうしたの?」
海香は答えなかった。ただ、唇を噛みしめて、その男を見つめ続けている。男がこちらに歩いてくる。近づくにつれて、私はその顔に覚えがあった。あの日、私たちを捨てた男。海香の父親。勇気。
「久しぶりだな、幸。」
勇気は軽く手を挙げて、笑った。あの日と同じ笑い方だった。私は声を絞り出すのがやっとだった。「何でここにいるの?」
「式を見に来たんだよ。我が娘の晴れ姿をな。」
信じられなかった。20年間、一度も連絡をしてこなかった男が、今さら何を言っているんだ。
「あなたに娘を名乗る資格なんてない。」私の声は震えていた。
「そんなこと言うなよ。親子の縁は切れないんだからさ。」勇気は相変わらずの軽い口調だった。
海香はまだ黙っていた。しかし、その目には強い光があった。私は彼女の手を握った。
「帰るわよ。」
そのとき、勇気が言った。「おい、海香。パパって呼んでみろよ。」
海香は一瞬、勇気を見た。それから、冷たい声で言った。「あなたは私のパパじゃない。」
勇気は笑った。「はは、冷たいな。まあ、母親が20年間、洗脳してきたんだろうな。」
私の中で何かが切れた。「洗脳?あなたが何を言ってるの。20年間、あなたは一度もこの子に会いに来なかった。養育費だって一銭も払わなかった。今さら親の顔をする気?」
「そんな契約書なんて見たことないな。」勇気は肩をすくめた。
私は怒りで言葉が出なかった。海香が私の袖を引っ張った。「ママ、もういい。行こう。」
私たちはその場を離れた。しかし、その日の夜、海香が見せたものに、私は驚かされた。海香はノートパソコンを開き、ある資料を見せた。そこには、勇気の会社の不正が記録されていた。
「ママ、私が調べたの。この男、脱税してる。それだけじゃない。会社の金を横領している証拠もある。」
私は息を飲んだ。「海香、どうやって手に入れたの?」
「ネットで調べたの。この男、過去に結婚詐欺で訴えられたこともある。その記録が公開されてる。でも、示談でなかったことになってる。」
海香の声は冷静だった。私は、この子がどれほどの覚悟で調べたのか、手に取るようにわかった。
「ママ、この男に復讐する。許せないの。」
私は彼女を抱きしめた。「私たちも同じよ。海香。でも、やり方があるわ。」
次の週、私は海香と一緒に、勇気の会社の前へ行った。社員証を掲げて、入り口に立った。勇気が出てきたとき、私は言った。「勇気、あなたの不正な経営について、証拠を持ってるの。公の場で話してもらうわ。」
勇気の顔色が変わった。「何を言ってるんだ。」
「これよ。」私はスマホの画面を見せた。勇気は焦ったように周りを見回した。
「警察を呼ぶぞ。」
「どうぞ。その方が早いわ。」
その後、勇気は海外に逃げようとした。しかし、海香が事前に連絡していたインターネットの情報で、空港で足止めされた。私は弁護士を通じて、勇気の不正をすべて公にした。彼は逮捕され、その後、会社も倒産した。
裁判の日、私は法廷で勇気を見た。彼は憔悴しきっていた。私は言った。「20年間、私たちに背を向けてきた罰よ。海香を一人で育てたこの20年は、決して無駄じゃなかった。」
勇気は何も言わなかった。ただ、うつむいていた。
その夜、海香と二人で、小さな居酒屋で乾杯した。海香は言った。「ママ、ありがとう。一人でやってきてくれて。」
私は微笑んだ。「ありがとう、海香。あなたがいたから、私は強くなれたんだ。」
私たちは、もう勇気のことを考えなかった。あの男は、私たちの人生から消えた。今、私たちは自由だ。
海香は大学に進学し、将来は法律関係の仕事を志している。私は、ようやく自分の人生を取り戻したと思った。あの瞬間、勇気が嘲笑ったときの顔を思い出すたび、私はもう彼に支配されることはないと思う。そして、私はひとつ学んだ。人の幸せを踏みにじる者は、必ず報いを受ける。私たちは、その証明のために、今日まで生きてきた。
私は、もう振り返らない。
話はこれで終わりです。



