窓口に立った瞬間、ロビーの空気が変わった。汗の匂いが袖口に残っていた。倉庫から直行したのだ。朝の光が磨き込まれた床を白く照らす中、私は受付カウンターで深呼吸をした。おじいちゃんの手術費。今日こそ、預金を全部下ろさなければならない。
「おじいちゃんの手術費が必要なので、預金を全額引き出したいんです。解約の手続きをお願いします」
私の声は震えなかった。だが、窓口の女性が指先で髪を弾き、私を上から下まで見下ろした。
「で、いくらの預金よ。どうせ小銭にでしょ。ATMで済ませればいいんじゃないの」
「二百万円です」
その瞬間、ロビーが静まり返った。
「ふざけるな。ガキの居ずらなら警察呼ぶわよ」
私は通帳と印鑑を差し出した。窓口の女性はそれを見もせず、手を払いのけた。周囲から嘲笑が響く。私の目に涙が浮かんだ。病室で待つおじいちゃんの顔が脳裏をよぎった。
「確認してください。お願いします」
声を絞り出した。
「うるさい。二度と来るな」
窓口の女性はそう言い放ち、後ろの若い行員に向かって笑った。
「本当に、この銀行は必要ね。効率の悪い客が多いわ」
ロビーの柱の陰で、数人の客がこちらを見ていた。誰かがスマホを向けて小さく笑った。誰も声をあげるものはいなかった。ただ、一人を除いて。
「待ってください」
若い行員の男性が私にかけ寄った。だが、窓口の女性は振り向きもせず、言い放った。
「はあ。当然でしょう。底辺は底辺の席で済ませなさい。文句ある人いる? 窓口権限は私にあるの」
私は唇を噛んだ。そして、静かに言った。
「わかりました。ではまた改めます」
声は静かだった。震えも涙も、公便もなかった。まるで、この屈辱を覚悟していたかのように。
私は頭を下げ、その場を離れた。だが、誰も知らなかった。この少女の背後に、銀行を震撼させる巨大な力が隠されていたことを。バッグの奥に、移人と大理人の文字が静かに眠っていた。
銀行を出た私は、スマホを取り出した。電話をかけた相手は、かつて私が育てた人物だった。
「……もしもし。私よ。住江重銀行の本店。窓口で、ひどく馬鹿にされた」
向こうで息を飲む音がした。
「すぐに動いて。あの窓口の女、川リサ主任。彼女の人事履歴、全部調べて」
「かしこまりました。どの程度まで? 」
「徹底的に。そして、明日この銀行の本部に、私の口座の残高証明書を送ってちょうだい」
私は通帳を握りしめた。表面には「住江重銀行」と印刷されている。だが、その裏側には、もう一つの印影があった。
「彼女は私を底辺と呼んだ。なら、底辺の本気を見せてあげましょう」
電話を切り、私はタクシーに乗った。行き先は、おじいちゃんの入院している病院。
病室のドアを開けると、おじいちゃんが点滴を受けてベッドに横たわっていた。
「おじいちゃん。大丈夫。手術費はちゃんと用意するから」
おじいちゃんは弱々しく笑った。
「すまないな。迷惑ばかりかけて」
「何言ってるの。おじいちゃんはずっと私を育ててくれた。今度は私の番よ」
その夜、私は自室でパソコンを開いた。画面には、住江重銀行の株主リストが映っていた。私の名前はない。だが、私の祖母の名前があった。そして、その隣には、ある巨大企業の名前。
私はマウスを動かし、スクロールしていく。やがて、ある行で手を止めた。
「これで、全てが動き始める」
翌朝、住江重銀行の本店に、一通の封書が届いた。差出人は、私の名前。内容は、私の口座残高証明書。だが、それは二百万円の口座ではなかった。
銀行の窓口に、昨日の若い行員が立っていた。彼が封書を開け、中身を見た瞬間、手が震えた。
「主任。これは……」
「何? またあのガキの嫌がらせ?

」
彼は黙って書類を差し出した。川リサ主任はそれを見て、顔色を変えた。
「……これ、どういうこと? 」
書類には、私の口座残高が記されていた。その額は、二百万円ではなかった。桁が三つも違っていた。
「主任。この口座、もしかして……」
「黙りなさい! 」
川リサ主任は書類を机に叩きつけた。だが、その手は震えていた。
「何なの? あの子、ただの倉庫あがりじゃなかったの?
」
「どうやら、そうではなかったようです。この残高を簡単に出せる人間は、この銀行でも数えるほどしかいません」
川リサ主任は席を立ち、窓の外を見た。そこに、私の姿があった。私は銀行の前で、スマホを耳にあてていた。そして、こちらを見て、淡々と言った。
私の言葉は聞こえなかったが、口の動きだけでわかった。
「おはようございます。また会いましたね」
その日、川リサ主任は午前中で退社した。翌日、彼女は異動の辞令を受け取った。行き先は、地方の支店。ただし、それは単独で、しかも減給付きだった。
私は病院で、おじいちゃんに報告した。
「手術費、全額用意できたよ」
おじいちゃんは安堵の笑顔を見せた。
「ありがとう。本当に、ありがとう」
私はその日、初めて笑った。窓の外には、新しい朝が広がっていた。


