「手術の日が決まったの。来月の第三水曜日。付き添い、お願いできる?」
私は花屋のカウンター越しに、帰宅したばかりの夫・たけしに声をかけた。彼はリビングのソファで競馬中継に夢中だった。
「その日、地方重賞があるんだよ。救急って競馬場に行く予定なんだ」
彼は軽く言い放った。その言葉は、私の心の中にあった最後の一線を踏み越えるものだった。
私の名前は金沢。38歳。6年前から駅前の花屋「カノン」でパートとして働いている。朝の光の中で、私は花瓶の水を取り替え、花の茎を一本ずつ斜めに切り直していた。ガーベラの花束を整え、枯れた花びらがないか確認していると、常連の高齢女性が杖をつきながら入ってきた。
「いらっしゃいませ。今日は綺麗なダリアが入荷しましたよ。仏壇用でしたら白と紫の組み合わせはいかがですか?」
彼女は毎月、亡くなったご主人の命日に花を買いに来る。ご主人が好きだった紫の花を必ず一本入れてほしいと頼まれる。
あれから2か月が経ち、私はなんとか手術を乗り越えた。退院後、家事をしながら過ごしていたある日、たけしがリビングで競馬の動画を見ながらビールを飲んでいた。
「ねえ、健康診断の案内が来てたでしょ。今年は受けに行かない。めんどくせえな。どうせ異常なしだよ。俺は丈夫なんだから」
テーブルの上には空き缶が3本並び、その横には開封されないままの市の健康診断通知書が置かれていた。
「往診の人が来るって言ってたけど、どうする?」
「断れよ。俺に構うな」
彼は冷たく言い放った。私は洗い物を済ませ、リビングに戻ると、たけしは相変わらずソファに座っていた。
数日後、たけしの携帯に病院から電話がかかってきた。どうやら健康診断の結果が悪かったらしく、精密検査を受けるように言われたらしい。
「精密検査の結果、腫瘍が見つかったって。手術が必要だって言われた」
彼は青ざめた顔で言った。私は心の中で冷たい感情が広がっていくのを感じた。
「入院は4泊5日だって。手術の日、付き添ってくれるよな?」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが固まった。私は何も言わず、ただうなずいた。
手術当日。私は病院には行かなかった。そして、この結婚に終止符を打つと決めた。
私は花屋に向かい、いつものように花を整え始めた。窓の外では秋の風が運ぶ金木犀の香りが漂っていた。
「今日は何か特別な花を用意してほしいの」
常連の女性が言った。私は白いユリと紫のガーベラを束ねながら、自分の人生がここで一度、止まったことを感じていた。
帰宅すると、たけしは手術の後、家で静かにしていた。彼は何も言わなかった。私も何も言わなかった。ただ、私の中では、もう一つの決断が確かに動き出していた。
数週間後、私は離婚届を用意し、テーブルの上に置いた。
「たけし、話があるんだけど」
彼はスマホから顔を上げなかった。
「何?」
「私たち、離婚しよう」
彼は一瞬止まり、それから笑った。
「は? 何言ってるんだよ。手術の後で体調が悪いんじゃないか?」
「体調は悪くない。ただ、あなたと一緒にいる人生は終わりにしたいの」
「ふざけるなよ。何が不満なんだ?」
「不満? あなたが競馬場を選んだ日から、私の中ではもう終わってたんだよ」
彼は沈黙した。私はそのまま部屋を出た。
翌日、私は弁護士に相談し、離婚の手続きを進めた。たけしは最初は怒り、その後は泣きながら謝った。
「俺が悪かった。やり直せる」
「やり直すって、何を? あなたは一度も私を大事にしたことがない。手術の日でさえ、競馬場に行ったじゃない」
「あのことは謝る。でも、今の俺は違うんだ」
「もう遅いの」
私は花屋で働き続けた。常連の高齢女性がまた花を買いに来た。
「ご主人はとても優しい方だったのよ。毎日、私のために花を買ってきてくれた」
その言葉を聞いて、私は自分がずっと花を買ってもらったことがないことに気づいた。
離婚が成立したのは、それから3か月後だった。私は小さなアパートに引っ越し、花屋で働きながら、新しい生活を始めた。
ある日、常連の女性が言った。
「あなた、いつも綺麗な花をありがとう。おかげで、主人も喜んでいるわ」
私は微笑み、花を束ねながら思った。自分で花を買えるようになったことが、一番の幸せだ。



