母が倒れたと聞かされたのは、仕事の真っ最中だった。電話の相手は兄。「急いで病院に来てくれ」とだけ言われて、頭が真っ白になった。
母は一人暮らしで、兄の家の近くに住んでいた。心配性の兄は、時間があると母の様子を見に行っていた。その日も仕事帰りに立ち寄るつもりで、電話をしたらしい。その時、母は「ご飯を多めに作っておくね」と言ったそうだ。
なのに、インターホンを押しても返事がない。不審に思った兄が鍵を開けると、キッチンで母が倒れていた。慌てて救急車を呼んだが、間に合わなかった。
私の名前はり子。32歳で、家電量販店の販売員をしている。父は5年前に病気で亡くなり、実家には母が一人で住んでいた。私は仕事が忙しくて職場の近くで一人暮らしをしている。実家までは電車で10分くらいだから、月に一度は顔を見に行っていた。
つい最近も実家に行って、元気な母の姿を見たばかりだ。それなのに突然、こんなことになるなんて。
病院に駆けつけると、兄と合流した。母の病室に入ってしばらくすると、医師がやってきて「心臓発作でした。お母様は…」と伝えられた。目の前が真っ暗になったが、泣いている余裕はなかった。
父のときは病気で徐々に弱っていくのを見守る時間があった。でも母は突然いなくなるなんて、考えたこともなかった。葬儀の準備に追われ、兄と二人で何とかやり遂げた。
葬儀が終わると、今度は手続きの連続だ。まずは実家にある母の荷物の整理をすることになった。兄と車で実家に向かう途中、携帯ショップが見えてきた。
「そういえば、母の携帯を解約しないといけないな。何が必要か聞いてこようか」
後で電話で聞くこともできたが、通り道だったので立ち寄ることにした。
店内はけっこう混んでいた。よく考えれば、新生活シーズンだ。学割を前面に押し出したショップで、店員は私たちを誰も見向きもしない。学生じゃないと用はないってことか。
少しむっとしながらも、兄と店内に入ると、やっと案内係らしき女性店員が声をかけてきた。
「解約の手続きについて聞きたいんですが」
そう言うと、その女性は露骨に嫌そうな顔をした。
「あー、解約ですか。ちょっとお待ちくださいね」
そのまま、私たちを案内もせず、別のカウンターに向かって歩いていく。その背中に、私は無視された気分だった。
女性は別の店員と笑いながら話し込み、私たちを完全に放置していた。さすがに頭に来て、私はもう一度声をかけた。
「すみません。母が亡くなったので解約したいんです。書類をご用意して、また来ようと思います。どのくらいで対応してもらえますか? 」
女性はチラリと私たちを見て、面倒そうにため息をついた。
「しばらく待っててください」
それだけ言って、またどこかへ行ってしまった。兄は黙ったまま、私の肩をポンと叩いた。
「まあ、急いでるわけでもないしな」
でも私は納得できなかった。母が亡くなって、心の整理もつかないうちに、葬儀を終えて、手続きをやっている。それなのに、この対応はひどすぎる。
その時、私はあることを思い出した。
この日まで、母のスマホにはたくさんの未読メッセージが残っている。私は何か大事なことが書いてあるかもしれないと思い、母のスマホを見始めた。すると、そこには見覚えのない名前の相手とのメッセージがあった。
内容を見て、私は血の気が引いていくのを感じた。
母は私に隠れていて、何か大きな悩みを抱えていたようだった。その相手とのやり取りには、私が知らない母の姿があった。
「これは一体…」
私は兄に電話をかけようとしたが、指が震えてうまく動かなかった。
実は母は、亡くなる前に同じような症状で倒れていたらしい。だが、母は私にも兄にも言わずにいたのだ。
そのことが、私は何よりも辛かった。
私は母のスマホをぎゅっと握りしめた。そして、一つ決意を固めた。母が隠していたものを、私は絶対に知るべきだ。
携帯ショップの対応も、母の秘密も、私は放置するつもりはなかった。
でも、その日は何もできなかった。あまりにも気持ちが混乱していて、まともに考えられなかったからだ。
家に帰った私は、母のスマホの画面を見つめ続けた。そこには、まだ見ぬ真実が隠されている。
「お母さん、何を隠してたの…」
私はそう呟くと、次の日にでも、母の荷物を改めて整理しようと思った。
次の日、私は実家で母の部屋を片付けていた。母の遺品の中から、一冊のノートを見つけた。表紙には「日記」と書いてある。私は少し躊躇したが、母を知るために読んでみることにした。
日記には、最近の母の体調の変化が書いてあった。胸が痛むことがあると。でも、医者に行くのが怖いと書いてあった。父を亡くしているから、自分も危ないのかもしれないという恐怖があったらしい。
私はまた涙が出そうになった。
「もっといい、気づいてあげられなかった…」
でも、日記の最終ページには、私には見せられないような内容が書いてあった。母が誰かに相談していた相手の名前と、電話番号が書いてあった。私はその番号に心当たりがあった。
それは、父の若い頃からの友人だ。偶然にも、母はその人と何かやり取りをしていた。
私はすぐにその人に電話をかけた。すると、母が倒れる前に、その人に会っていたことがわかった。母は何か不安なことを打ち明けていたらしい。
「お母さんは、あなたに言えなかったことがあるみたいだ」
そう言われて、私は混乱した。何が真実なのか、わからなくなっていた。
私はその人と会って話を聞くことにした。そこで私は、母が私に隠していた真実を知る。
だが、その真実は、私の想像をはるかに超えていた。
母は、私が知らない大きな借金を抱えていたらしいのだ。そして、その返済のために、必死に働いていた。体に負担をかけてまで。
私は何も知らなかった。いつも元気に振る舞っていた母。私に心配をかけないように、一人で抱え込んでいた。
「どうして、一人で抱え込んだの…」
私はその日、母の日記を何度も読み返した。そして、兄にもすべてを話した。
「母さん、ずっと一人で背負ってたんだな」
兄も驚いていた。私たちは二人で、母の遺品を整理しながら、母の本当の思いを知った。
でも、もう母はいない。今さら悔やんでも仕方ない。
私は母の日記を大切にしまった。そして、母が抱えていた借金を少しでも減らすために、遺品の整理をして売れる物は売ることにした。母が使っていた家電や、着物なども。
少しずつだが、借金を返していくことができた。母のため、そして自分たちのためにも。
その数ヶ月後、私は実家に帰った。母の部屋は整理されて、すっきりしていた。私は、母の写真の前で言った。
「お母さん、全部ちゃんとやったよ。安心してね」
そう言って、私は写真の中の母に微笑みかけた。
携帯ショップのことも、私は忘れてはいなかった。あの店員の態度に腹が立っていたが、今はそれどころじゃない。母のことを優先していた。
でも、あの時の対応は、きっとずっと忘れないだろう。
今はただ、母の遺してくれたものを大事にしたい。そう思っている。
私はこれからも、母がくれた無骨で不器用な愛を忘れずに生きていこうと思う。



