会議室で、7年目の親友が俺の隣に座ったまま、何も言わなかった。上司が「責任はお前だろう」と詰め寄る中、彼はただ下を向いていた。その沈黙が、俺を会社から追い出した。そして翌日、婚約者から「斎藤さんのことが好きになった」と告げられた。裏切りはいつも、一番近くにいる人間が持ってくる。全てを失った俺は、小さな会社に拾われ、もう一度やり直そうとしていた。だが、その会社の臨時会議で、俺は再びあの男と目が…

会議室で、7年目の親友が俺の隣に座ったまま、何も言わなかった。上司が「責任はお前だろう」と詰め寄る中、彼はただ下を向いていた。その沈黙が、俺を会社から追い出した。そして翌日、婚約者から「斎藤さんのことが好きになった」と告げられた。裏切りはいつも、一番近くにいる人間が持ってくる。全てを失った俺は、小さな会社に拾われ、もう一度やり直そうとしていた。だが、その会社の臨時会議で、俺は再びあの男と目が...

全てが終わったのは3月の終わりだった。桜が咲き始める頃、俺は会社のロッカーを静かに片付けていた。5年間毎朝スーツを整えてきたその場所を、最後に一度だけ振り返り、そのまま振り返らなかった。俺の名前は相沢、38歳。親友に裏切られ、ありもしない責任を押し付けられ、会社を去ることになった男だ。

始まりは些細なことだった。プロジェクトの方針を巡る意見の食い違い。それがいつの間にか俺一人を追い詰める形になっていた。ある日の会議室を今でも鮮明に覚えている。上司が書類を叩きつけるように置いて、俺を名指しした。

「相沢、このプロジェクトの責任者はお前だろう。どう説明するんだ?」

隣に座っていたのが、7年の親友だった斎藤だ。彼は俺の目を見なかった。ただ黙って下を向いていた。その沈黙が全てを語っていた。

「私のやり方に問題があったなら説明します。ただ、事実と違うことには頷けません」

室内の空気が一瞬だけ固まった。だが誰も俺の言葉を拾わなかった。

翌日、婚約者のあやから連絡が来た。会って話したいというので、いつもの喫茶店へ向かった。

「ごめん、斎藤さんのことが好きになってしまったの」

テーブルの上のまだ温かいコーヒーカップを、俺はただ見つめていた。言葉が出なかった。怒りよりも、どこか遠い場所へ意識が飛んでいくような感覚があった。裏切りというのは遠くから来ない。いつも一番近くにいた人間が持ってくるものだ。

会社を出たその夜、俺は駅のホームに立っていた。実家のある長野に帰れば、父も母もきっと何も聞かずに迎えてくれる。そのことは分かっていた。だが、それを選ぶことがどうしてもできなかった。甘えることが怖いのではない。甘えた瞬間に、俺という人間が跡形もなく溶けてしまいそうだった。何者でもない自分のまま、ただの相沢工事としてもう一度立ち上がらなければ。そう思わなければ、あの夜をやり過ごせなかった。

俺は東京行きの次の電車に乗った。

それから2ヶ月が経った。俺は都内の古びたアパートの一室で、静かに次の一手を考え続けていた。転職活動は思った以上に冷たかった。前職の経歴は悪くない。だが退職の事情を探られると、どこかで話が止まる。30代後半という年齢も、正直に言えば重かった。書類選考を通っても、面接の場で壁にぶつかる日が続いた。面接官に退職理由を掘り下げられ、その度に面接官の目が曇るのを、俺は何度も見た。

それでも俺は腐らないようにしていた。朝は必ず6時に起きる。近所の公園を30分歩く。コーヒーを1杯だけ丁寧に入れる。その小さな積み重ねだけが、俺を人間として保ってくれていた。誰かに認められなくても、俺は今日も生きている。それだけでとりあえずは十分だと、言い聞かせた。

アークライトの求人を見つけたのは5月の雨の夜だった。社員数30名ほどの小さなIT企業。給与も前職より下がる。それでも募集要項の端に書かれた一文が、妙に俺の目に引っかかった。

「ここでは、あなたがどう生きてきたかより、これからどう行きたいかを聞かせてください」

深く考えずに応募した。面接の日、会議室に現れたのは想像より若い女性だった。朝倉マリ、35歳。アークライトの2代目社長だ。黒のジャケットを着て、背筋をまっすぐ伸ばして座っている。この姿には取り繕ったところが一つもなかった。

彼女はまず俺の履歴書を丁寧に読んだ。しばらく沈黙が続き、そのまま静かにファイルを閉じた。そして顔を上げて俺を見た。

「過去のことはもう十分分かりました。それより、これからのことを聞かせてください。あなたは何がしたいんですか?」

俺は少し面食らった。前職の経緯を問い詰められることにもう慣れすぎていた。

「誰かの役に立つ仕事がしたいです。信頼できる人たちのそばで、地道に積み上げていきたいんです」

言いながら、自分でも少し驚いた。こんなに素直な言葉が出てきたのは久しぶりだった。

マリはゆっくりと頷き、かすかに微笑んだ。

「傷があっても前を向いている人が好きです。うちの会社はそういう人と一緒に歩みたいんです」

その一言が胸の奥まで届いた。うまい言葉だとは思わなかった。ただ、本気で言っているのだということが、なぜかはっきりと伝わってきた。

帰り道、雨はもう上がっていた。夜の歩道が濡れて光っている。俺はしばらくそこに立って空を見上げた。この人の元で働けるなら、もう一度やれるかもしれない。そう思えたのは、本当に久しぶりのことだった。

入社して一ヶ月が経つ頃には、俺はアークライトの空気に少しずつ馴染んでいた。最初に声をかけてくれたのはエンジニアの鈴木だった。30歳の彼は、入社初日の昼休みに俺のデスクに弁当を持って現れた。

「相沢さん、近くに美味しい唐揚げの店があるんですけど、今日はここで食べませんか? 俺、案外1人の昼飯が好きじゃなくて」

その真っすぐな親切に、俺は思わず笑っていた。経理担当の立花は無口で表情が読みにくいが、仕事の精度は群を抜いていた。俺が資料の細かいミスに気づいて修正を入れると、翌日「助かりました」と短く言いに来た。たったそれだけの言葉が、不思議と胸に染みた。

マリは社長室にこもりきりにならず、フロアをよく歩いた。社員に声をかけ、困っていることを拾い上げる。ある朝、俺が難しい顔で画面を見つめていると、彼女が隣に立って静かに言った。

「行き詰まった時は、一度席を立つといいですよ。私もよくそうしています」

それだけ言って、また歩いていった。小さな一言だったが、不思議と肩の力が抜けた。ここには人がいる。そう感じられる職場は、思えば久しぶりだった。

だが、一つだけどうしても引っかかるものがあった。副社長の同島、55歳。実務の舵を握り、数字には明るい。だが俺には彼の目が気になっていた。マリが理念を語る時、同島はいつも微妙に視線をそらす。会議が終わると、誰かに短く耳打ちをして席を立つ。

ある夜、残業中に俺はたまたまサーバー室の近くで同島の声を聞いた。

「先方はもう動いている。問題ない。社長には適切なタイミングで話す」

俺は足を止めた。何の話か詳しくは分からない。だが「社長には話す」という言い方が、どうにも引っかかった。マリに相談してから進める話ではなく、マリに知らせるタイミングを図っている。そういう意味に聞こえた。嫌な予感というのは、根拠のない時ほど深く刺さる。俺は何も言わずに自分の席へ戻り、パソコンの画面を開いた。今の俺にできることは、目の前の仕事で信頼を積み上げることだけだ。疑念を声にするには、まだ根拠が足りない。もう少し時間が必要だった。

画面の向こう、フロアの端でマリが書類を読んでいる。あの人が守ろうとしているものを、俺も守れる人間になりたい。そう思った時、俺は初めてここが自分の居場所かもしれないと感じた。

異変は木曜日の午後に起きた。同島から全社メールが届いたのは、昼休みが終わった直後だった。

「本日14時より臨時全社会議を開催します。全員参加必須」

たった1行。理由も議題も書かれていなかった。

会議室に集まった社員たちは互いに顔を見合わせていた。鈴木が俺の隣に座り、小声で耳打ちしてきた。

「何ですかね、これ。同島さんが仕切る会議って、あんまり記憶にないんですけど」

「さあ。ただ、いい話じゃない気がする」

定刻になると、同島が会議室の正面に立った。その隣には見慣れない顔が並んでいた。スーツ姿の男たちが3人。外部の人間だということは一目で分かった。そして、その中の1人と俺は目があった。斎藤健二。かつて7年間共に働いた親友。そして俺を裏切り、婚約者まで奪っていった男だった。古い傷がじくりと疼いた。だが俺は表情を動かさなかった。動かすわけにはいかなかった。

「本日は皆さんに重要なご報告があります。アークライトは、海外投資ファンド『クロスボーダーキャピタル』への事業売却を決定しました」

会議室が静まり返った。1秒後、ざわめきが広がった。雇用はどうなるのか。なぜ事前に知らされなかったのか。社員たちの声が次々と上がった。

「経営判断として、副社長権限の範囲で進めてきた案件です。朝倉社長にも本日付けでご報告済みです」

その言葉に俺は違和感を覚えた。「ご報告済み」という言い方がどこかおかしい。相談ではなく報告。つまりマリはこの瞬間まで知らされていなかったということだ。視線を動かすと、会議室の端にマリが立っていた。いつもと変わらない表情を保っていたが、その手が資料の端を強く握りしめていた。

会議が紛糾し始めたのは、社員からの質問が相次いでからだった。同島は一つ一つを淡々とかわしていった。感情のない言葉で数字だけを並べた。

俺は手を上げた。

「売却後の事業計画について、具体的な資料はありますか? 社員の雇用条件に関する契約上の保証も確認させてください」

同島の目が俺を捉えた。その目の奥に、明らかな敵意があった。

「相沢さん、あなたは入社してまだ数ヶ月ですよね。会社の内情も歴史も知らない方が、この場で発言するのは少し早くないですか?」

静かな、しかし刃のある言葉だった。

「それに、確か前職では問題があって辞めることになったとか。前の会社を追われた方に、この会社の未来を語る資格があるのでしょうか」

会議室の視線が一斉に俺へ向いた。知っている者も知らなかった者も、全員が俺を見ていた。あの日と同じだった。追い詰められ、晒され、黙って頭を下げることを求められる。

だが、俺はもうあの頃の俺じゃない。

ゆっくりと立ち上がり、同島を見た。

「確かに私は前の会社を追われました。信じていた人間に足を救われ、何も言えずに去った。それは事実です。でも、ここでは同じ過ちは繰り返しません。今この瞬間、私はこの会社の仲間のために話しています」

誰も声を出さなかった。その時、静かな足音が聞こえた。マリが俺の隣に立った。言葉はいらなかった。マリが隣にいる。それだけで俺は揺るがなかった。

同島の口元がわずかに歪んだ。斎藤はその一部始終を腕を組んだまま眺めていた。その表情は読めなかった。だが俺と目があった時、彼はわずかに視線を落とした。

会議が終わった後、立花が俺のデスクに無言で近づいてきた。手には薄いクリアファイル。

「読んでください。売却契約の草案です。共有フォルダーに入っていたので、保存しておきました」

「いつの間に?」

「3日前です。気になっていたので」

彼女はそれだけ言って、自分の席へ戻った。俺はすぐにファイルを開いた。数ページ読んで眉を潜めた。ページをめくるたびに、違和感が確信に変わっていく。知的財産の譲渡項目、競業避止義務の範囲、売却後3年間の経営介入権。これは売却ではない。実質的な吸収だ。

俺は鈴木を呼んだ。

「この契約、技術面から見てどう思う? 特にこのシステム資産の評価額」

鈴木はしばらく資料を眺め、やがて顔を上げた。

「安すぎます。うちのコアシステム、業界水準で見たら少なくともこの3倍の価値はあるんです。なんでこんな数字になっているんですか?」

「それをこれから説明する」

翌日、俺はマリに時間をもらった。立花の資料と鈴木が算出した技術の評価を並べ、一つ一つ説明した。マリは黙って聞いていた。途中で何度かメモを取り、最後まで俺の言葉を遮らなかった。

「この条件で売却すれば、社員の雇用は2年で切られる可能性が高い。会社の名前だけが残って、中身は別物になります」

マリは静かに目を閉じ、一つ息を吐いた。そして顔を上げた時、その目には怒りが宿っていた。取り繕った怒りではなく、大切なものを踏みにじられた人間の、静かで深い怒りだった。

「分かりました。私が直接動きます。それと、同島さんには私から話します。大丈夫ですか?」

「大丈夫です。やるんです」

その一言が胸に刺さった。

夕方、再び全社員を集めた場で、俺は契約の問題点を数字で示した。鈴木が技術的な観点から補足し、立花が財務上のリスクを淡々と読み上げた。社員たちの表情が少しずつ変わっていくのが分かった。動揺から怒りへ。そして怒りから意思へ。説明が終わった時、マリが同島へ向き直った。会議室がしんと静まり返った。

「同島さん、一つだけ聞かせてください。なぜ私に話さなかったんですか?」

静かな声だった。だからこそ、その怒りの深さが伝わった。同島は口を開きかけ、そのまま黙った。反論の言葉を探しあぐねているように見えた。

外し側の斎藤たちはまだ席を立たなかった。交渉はまだ終わっていない。本当の勝負はここからだった。

沈黙が会議室を支配していた。同島はマリの問いに答えられないまま、視線を泳がせていた。社員たちは誰も声を出さず、ただその場の空気を息を殺して見守っていた。その時、外し側の席から一人の男がゆっくりと立ち上がった。斎藤ではない。その隣に座っていた白髪混じりの男だった。クロスボーダーキャピタルの幹部とだけ紹介されていた人物だ。男はまっすぐ俺を見た。その目がどこか探るような光を帯びていた。

「少しよろしいですか?」

室内の視線が一斉に俺へ集まった。

「相沢、その名前、偶然ではないでしょう。私どもの業界では知らない者はいない。相沢グループ。その創業家のご子息が、なぜこのような小さな会社に?」

会議室が静まり返った。今度は先ほどとは種類の違う沈黙だった。相沢グループといえば、国内屈指の複合企業だ。不動産、金融、IT、インフラ業界をまたいで絶大な影響力を持つ。その名前は、外資の幹部たちにとっても無縁ではないはずだった。

「あなたは、相沢グループ創業家のご子息ですね」

俺は何も言わなかった。否定もしなかった。それが答えだった。

同島の顔がみるみる青ざめていくのが分かった。外資幹部も、先ほどまでの余裕がすっと消えた。鈴木が俺を見た。立花が小さく息を飲んだ。マリだけが静かに俺を見つめていた。社員たちのざわめきが波のように広がっていく。俺はただ正面を向いたまま立っていた。

最初に声を荒げたのは同島だった。

「相沢、なぜ最初から言わなかった? それだけの家の出なら、最初に言えば話は違った。なぜ隠していたんだ?」

その言葉に、俺は静かに息を吐いた。

「隠していたわけじゃない。ただ、言う必要がなかった」

「必要がない? あれだけの家柄を」

俺は同島から視線を幹部へ移した。そして静かに、しかしはっきりと言った。

「父に電話一本入れば、この話は強制的に終わります。でも、それはしたくない。私はここの社員として、ここで決着をつけたいんです」

会議室がしんと静まり返った。外資幹部は口を開きかけ、そのまま閉じた。同島は何も言えなかった。

俺は続けた。

「私はここに、相沢グループの人間として来たわけじゃない。ただの相沢工事として、もう一度やり直したかっただけです。家の名前で戦うために来たわけじゃない。この会社を、この人たちを守りたかっただけです」

会議室に静寂が戻った。

その時、後ろの方から声が上がった。

「俺、一個だけ言っていいですか?」

全員が振り返った。鈴木は立ち上がり、少し照れくさそうに頭を掻きながら、はっきりと言った。

「相沢さんは、最初から俺たちの仲間です。家がどうとか、そんなの関係ない」

誰かが小さく拍手をした。それが広がった。静かに、しかし確かに、会議室に拍手が満ちていった。幹部はしばらく室内を見渡していた。そして斎藤と短く目を合わせ、静かに口を開いた。

「今回の件は、再検討が必要かもしれません。持ち帰らせてください」

同島が何か言おうとしたが、もう遅かった。売却の話はその場で白紙に戻った。

翌日、同島は退任届を提出した。誰も引き止めなかった。斎藤は会社を去る前、俺の前で一度だけ立ち止まった。何かを言おうとして、やめた。そのまま廊下の奥へ消えていった。

その夜、マリから短いメッセージが届いた。

「屋上に来てもらえますか?」

階段を登ると、夜風が頬を撫でた。東京の夜景が遠くまで広がっている。フェンスの近くにマリが立っていた。ジャケットを脱いだままの姿で、静かに夜景を見つめていた。俺が近づくと、マリはゆっくりと振り返った。その目に、うっすらと涙が光っていた。

「泣くつもりじゃなかったんですけど」

「いいんじゃないですか。たまには」

マリは小さく笑って、また夜景に目を向けた。しばらく二人とも何も言わなかった。風の音だけが静かに流れていた。

「あなたが何者でも、私は最初から分かってました」

「履歴書を閉じたあの日から、ずっとですか?」

「家の名前なんて関係なかった。あなたが誠実に、真剣にこの会社のために動いてくれた。それだけで十分でした」

俺は返す言葉が見つからず、ただ夜景を見つめた。マリが小さく息を吸い込んだ。

「会社の未来も、私の未来も、あなたと歩きたい。結婚してくれませんか?」

風が一瞬だけ止まったような気がした。俺はマリを見た。涙をこらえながら、まっすぐ俺を見ている。取り繕ったところが何一つない。あの面接の時と同じ目だった。

「俺でいいんですか? 家も過去も、全部ひっくるめて」

「全部ひっくるめて、あなたがいいんです」

胸の奥で、長い間閉まっていた扉が音もなく開いた。

「分かりました。俺もあなたと歩きたい」

マリは涙をこぼした。声を上げるわけでもなく、ただ静かに頬を伝っていった。裏切られた過去も、追われた記憶も、全てがここへ来るための道だったのかもしれない。

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