6月の朝、妻が黙ってテーブルに広げていた年金通知書。そこには、去年まであったはずの「家族加給年金」の欄が消えていた。所得税は倍近くに跳ね上がり、振り込み額は激減。年金事務所で調べると、息子が私の知らないうちに扶養から外れていた。そして、私の名義で所得が申告されているという。電話をかけても、息子は出ない。あの日、私はまだ何も知らなかった。これが、すべての始まりだった。 続きはコメントで読めます。

6月の朝、妻が黙ってテーブルに広げていた年金通知書。そこには、去年まであったはずの「家族加給年金」の欄が消えていた。所得税は倍近くに跳ね上がり、振り込み額は激減。年金事務所で調べると、息子が私の知らないうちに扶養から外れていた。そして、私の名義で所得が申告されているという。電話をかけても、息子は出ない。あの日、私はまだ何も知らなかった。これが、すべての始まりだった。 続きはコメントで読めます。

6月の朝、黒川総一の左手が震えていた。激しい感情や疲れ、何か重大なことが迫る時、彼の左手は意思と無関係に震え始める。医者には神経の問題だと言われ、治療法はないと言われた。ストレスを避けるように言われて以来、病院には行っていない。

その朝、総一は夜勤明けで帰宅した。物流倉庫の警備員として、夜の10時から朝の6時まで倉庫の敷地内をパトロールカーで回り、防犯カメラを確認し、出入り口を施錠する。孤独な仕事だった。

玄関のドアを開けると、台所から妻の気配がした。しかし何かがおかしかった。いつもなら、夫が帰ってきた音を聞けばすぐに声を出す。お帰りとか、ご飯はどうするとか。それが今朝は何もなかった。足音もない。

総一は上着を脱ぎながら台所へ向かった。妻の美和子が椅子に座っていた。テーブルの上に2枚の紙が広げられていて、彼女はその一点を見つめたまま動いていなかった。首にかけたメガネの鎖がわずかに揺れていた。老眼鏡は外れていて、テーブルの隅に置かれたままだった。

総一は声をかけようとしてやめた。妻の表情が普通ではなかった。怒りでも悲しみでもなく、何か別のもの。言葉が全部抜け落ちてしまったような、ただそこに座っているだけの顔。

総一は妻の横に立って、テーブルの上の紙を見た。1枚は年金額改定通知書。もう1枚は年金振り込み通知書。年に1回、6月に届く書類だ。

総一は椅子を引いて座った。美和子はその時初めて夫の存在に気づいたように顔を上げたが、何も言わなかった。ただ通知書の方に視線を戻した。

総一は紙を手に取った。数字を追うのに少し時間がかかった。老眼が進んでいて、小さい文字がにじむ。それでもなんとか読んでいくと、今回の振り込み額という欄に書かれた数字が前回より明らかに少なかった。いや、少ないという表現が正確かどうか分からない。激減していた。

総一は紙を持ち直し、もう1度最初から見た。所得税の欄、住民税の欄、介護保険料の欄。差し引かれる項目が並んでいる。その中の所得税と住民税の金額が、去年の通知書に記憶していたものとかなり違う。

今年の春、政府が所得税の減税措置を発表した時、美和子は喜んでいた。ニュースを見ながら「これで少し楽になるかもしれない」と言っていた。年金も今年は1. 9%引き上げられると報じられていた。そのお金で空気清浄機を買いたいと言っていた。自分の喘息がひどくなっているから、寝室にあれば少し楽になるかもしれないと。

しかし今目の前にある数字はそういう方向を向いていなかった。

「これ、去年よりも少ないよな」

総一は言った。声が自分でも思っていたより低かった。

美和子は返事をする前に少し間を置いた。

「うん。所得税が去年の倍近くになってる」

「なんでだ」

「さっきからずっと考えてた」

2人はしばらく黙って紙を見た。美和子がスマートフォンを手に取った。画面はガラパゴス携帯と呼ばれるタイプのもので、折りたたみ式の古い機種だったが、銀行アプリだけはインストールしていた。通帳の代わりに残高と入出金を確認するためだ。

彼女は画面を開いて残高を確認した。

「振り込まれてるのはこれだけ」

彼女は画面を総一に向けた。総一は数字を見た。何かが頭の中で止まるような感覚があった。この金額では、2人分の国民健康保険料と家賃を払えば食費がほとんど残らない。総一の夜勤の給与があるが、それでも今月は苦しい。

総一は通知書をもう1度手に取り、より細かく見た。1番下の方に小さな文字で項目が並んでいる欄があった。「控除と加算の内訳」。その中に、去年の通知書にはなかった項目があった。

「家族加給年金」という欄が、今年の通知書には存在しなかった。去年までその欄に毎年40数万円という金額が記載されていた。配偶者や扶養家族がいる場合に加算される手当てだ。それが今年の通知書から完全に消えていた。

総一は自分の左手が振動し始めるのを感じた。テーブルの上に置いた左手が、一人でに細かく震え始めていた。それを止めようとすると余計に意識してしまうから、総一はいつも見ないふりをする。

「加給年金がない」

総一は声に出した。

美和子はメガネを手に取って通知書を取り上げた。

「本当だ」と彼女は言った。「去年は確かにあった。削られたのかな」

「なんで急に」

「分からない。自然に消えることはないだろう」

総一はため息をつかなかった。ため息をつく代わりに、通知書を丁寧に4つ折りにしてテーブルの上に置いた。

「年金事務所に行こう」

美和子はすぐに頷かなかった。しばらく自分のスマートフォンの画面を見ていた。それから「うん」と短く言った。

その日の午後、2人は最寄りの年金事務所へ向かった。梅雨の晴れ間で空は青かった。しかしそういう日に限って、空の青さが少しも慰めにならないことがある。

バスに乗って20分ほど揺られた。美和子は窓の外を見ていた。総一は膝の上で手を組んでいた。左手を右手で包んでいた。

年金事務所の待合室は、平日の昼間というのに混んでいた。プラスチックの椅子が並び、番号を引いて待つ形式だった。総一は74番の札を受け取った。今呼ばれているのは52番。2人は端の椅子に座って待った。

隣には60代くらいの男性が1人で座っていて、書類の束を膝の上に広げて読んでいた。反対側には高齢の女性が付き添いの若い男性と来ていて、男性は説明を紙に書き直しながら何かを伝えようとしていた。

待合室には似たような年齢の人間が多かった。総一は周囲を見ながら、ここにいる人たちの多くが同じような気持ちで来ているのかもしれないと思った。それが正しい推測かどうかは分からない。しかし年金事務所という場所にはある種の共通した空気がある。誰も楽しそうにしていない。

40分ほど待って74番が呼ばれた。窓口は細かく仕切られていて、担当の職員は40代くらいの男性だった。名前のプレートをつけていたが、総一は読まなかった。

総一は通知書2枚を窓口に並べた。

「家族加給年金が今年からなくなっています。理由を教えてください」

職員は通知書を手に取って確認した。それからキーボードを叩いてパソコンの画面を見た。数秒後、また画面を見た。

「確認いたします」

職員は席を外して奥の部屋に消えた。3分ほどして戻ってきた。

「黒川様の奥様のご長男、大木さんとおっしゃる方が今年の1月に届け出を行われまして、扶養関係の変更手続きをされています」

総一は一瞬意味が取れなかった。

「はい。扶養者の変更届けが提出されまして、黒川総一様の扶養者リストから関係者様のお名前が削除されています」

美和子が総一の隣で少し身体を固くした。

「それは誰が手続きをできるんですか」と総一は聞いた。

「こちらの手続きは、被保険者ご本人あるいは委任状をお持ちの代理人の方が行えます」

「私は頼んでいない」

「どうおっしゃいましても、手続きはされていますので、異議があったということになるかと思います」

総一は窓口の台に両手を置いた。左手の震えが職員に見えているかもしれないと思った。

「もう1つ聞く。うちの所得税がなぜ上がっているのか」

職員は再びキーボードを叩いた。

「税務署からの通知に基づいて天引きをしておりますので、詳しくは税務署の方にお問い合わせいただく必要がありますが」と言ってから、彼は少し声を落とした。「記録を見る限り、前年の課税所得が前々年と比べてかなり増えております」

「増えるはずがない。私の収入は変わっていない」

「お名前でご申告されている所得が増えているという記録です」

総一は黙った。税務署での話と年金事務所での話が頭の中でゆっくりと繋がり始めた。大木が1月に手続きをした。扶養から外した。同時に課税所得が増えている。

総一は窓口の台から手を離して、通知書を丁寧に2つに折った。「ありがとうございました」と言って席を立った。

外に出ると、梅雨の晴れ間の空はまだ青かった。バス停まで歩く間、美和子はずっと吸入器を握っていた。使わなかったが、ポーチから出してそのまま手に持っていた。総一はそれを横目で見ながら何も言わなかった。

バス停のベンチに2人で腰かけた。

「大木に聞かなきゃいけない」

美和子は言った。

「ああ」

総一は上着のポケットから携帯電話を取り出した。番号を探して発信した。呼び出し音がなった。1回、2回、3回。誰も出なかった。4回目がなり始めた辺りで総一は電話を切った。

美和子は総一の横顔を見ていた。総一は遠くのバス停の看板を見ていた。

バスが来た。2人は乗り込んだ。帰りの車内も、行きと同じようには窓の外を見ていた。しかし今度は何かが違った。総一には妻が何を見ているのか分からなかった。窓の外を見ているようで、実際には何も見ていないような気がした。

帰宅して、総一は台所の椅子に座った。水を1杯飲んで、シンクの前に立ったまま少しの間動かなかった。

総一は今朝から持っていた通知書を台所のテーブルの上に置いた。その横に去年の通知書を引き出しから出して並べた。数字の違いが並べてみるとより明確になった。加給年金の欄が今年の通知書には完全にない。課税所得の欄から逆算すると、誰かが総一の名義で何らかの所得申告をしている。そういうことになる。

長男の名前が頭の中に浮かんだ。40歳になる。数年前から事業を始めたと言っていた。最初は飲食関係で、次に何か別のことをやると言った。詳しくは話さなかった。景気はどうかと聞くと「まあまあだ」と言った。

金を求めてきたのは1年半前だった。会社の運転資金が一時的に不足しているから、1ヶ月だけ貸して欲しいと言ってきた。総一は断った。年金と警備員の給与で2人分の生活をやりくりしている状態で、まとまった額を出す余裕はなかった。その旨を告げると、大木は「分かった」と言って電話を切った。

それ以来、連絡はほとんどなかった。年賀状も来なかった。年末に美和子が電話をかけると、短い会話の後で「今年は行けないかもしれない」と言ってそれきりだった。

そして今年の1月に、大木は総一の知らないところで手続きをした。

総一は通知書を手に取ってまた4つ折りにした。鉄の小箱に入れようとして立ち上がりかけた。そこで左手が急に強く震え出した。指先から手のひらまで。止めようとしても止まらない。総一はテーブルに左手をついて、息を1度ゆっくり吐いた。

美和子がそれを見ていた。彼女は何も言わなかった。ただ総一の左手を見て、それから視線をそらした。

「もう一度かけてみる」と総一は言った。

美和子は頷いた。

今度も電話は繋がらなかった。発信音が7回なって、留守番電話に切り替わった。大木の声で「ただいま席を外しております」というメッセージが流れた。総一はメッセージを残さなかった。電話を切った。

外はまだ明るかった。6月の夕方は長い。美和子が台所で何かを始める音がした。冷蔵庫を開ける音、包丁がまな板に当たる音。夕飯を作り始めたのだと分かった。

総一は通知書を鉄の小箱にしまった。その箱には、これまで受け取った全ての年金通知書とスーパーのレシートと公共料金の領収書が時系列に並んで入っていた。どれも丁寧に折りたたまれていた。蓋を閉めて棚に戻した。

今月の家賃、電気代、水道代、健康保険料、食費。頭の中で数字が並んだ。総一の夜勤の給与を足して、引くべきものを引いていく。加給年金が消えた穴は数万円では埋まらない。それでも今月はなんとかなるかもしれない。問題は来月だ。そして再来月だ。

総一は棚の前に立ったまましばらくそこを見ていた。台所から美和子の咳が聞こえてきた。短く乾いた咳だった。彼女が台所で咳をする時、喘息の匂いが残っているせいで発作が出ることがある。総一には分かっていた。しかし今夜はその咳が長く続かなかった。少ししてまた包丁の音がした。

総一は台所に戻り椅子に座った。美和子は総一を向かずに野菜を刻んでいた。2人の間に言葉はなかった。言うべきことが多すぎる時、人はむしろ何も言えなくなることがある。総一はそのことを今夜改めて知った。

7月に入ると、総一の夜勤のシフトが増えた。自分から頼んだわけではなかった。しかし倉庫の同僚の1人が腰を痛めて休業に入り、署長から声をかけられた。週に4回だったシフトを5回にできないかと言われた。総一はその場で頷いた。断る理由を見つけられなかった。

帰宅した夜に告げた。「シフト増やすことになった」

美和子は夕食の片付けをしながら、少し間を置いてから「そう」と言った。それだけだった。振り返らなかった。総一も特に付け加えなかった。理由を説明する必要はなかった。2人とも今月の数字が頭に入っていた。

夜勤が5回になると、身体的な負荷よりも睡眠の問題が大きくなった。帰宅するのが朝の6時過ぎで、起きるのが夕方の5時頃。その間に食事をしてまた仕事に出る。夜と昼が逆転した生活は、68歳の身体には容易に馴染むものではなかった。

左手の震えが以前より頻繁になっていた。夜間の巡回中、懐中電灯を持つ手が揺れることがある。カートのハンドルを握っている時、ふとした拍子に震えが走る。総一はその都度右手で左手を抑えた。そういう動作が自然になってきていた。

美和子の方も7月から作業場所が変わっていた。区の行政センターに隣接した地下の文書保管庫だった。通常の清掃区域に加えてそこを担当することになったと彼女は言った。新しい人員が入ってくるまでの間だけ頼まれたと。

しかし総一には、妻が自分から頼んだのだという気がした。地下の保管庫は湿気が多く、古い紙の埃が常に漂っている場所だ。通常の清掃よりも時間がかかるし、体への負担も大きい。美和子はそれを知りながら引き受けた。

「地下はきつくないか」と総一は1度だけ聞いた。

「慣れれば平気」と美和子は答えた。それ以上は聞かなかった。

7月の半ばを過ぎた頃から、美和子の咳が変わり始めた。以前は短くて乾いた咳だった。清掃中に出て、少し休めば収まる。しかし7月の後半になると、夜中に咳で目が覚めることが増えた。総一は夜勤に出る前の時間帯に仮眠を取っていたが、隣の部屋から妻の咳が聞こえてくると目が覚めてしまう。

美和子は総一が目を覚ましたと知ると、咳を抑えようとした。布団の中に顔を埋めて音を出さないようにする。それが返って辛そうに見えた。

「薬を変えた方がいいんじゃないか」と総一は言った。

「今の薬で足りてる」

「病院に行けば、もう少し強いのを出してくれるかもしれない」

「今度行く」

「今度」という言葉がそのままになっていくことを総一は知っていた。薬局の棚に並んでいる市販の吸入薬は処方薬よりも弱い。それを美和子は使っていた。処方薬を出してもらうには診察が必要で、診察代と薬代がかかる。それを美和子は計算していた。総一には分かっていた。分かっていて、それ以上言えなかった。

8月の初め、玄関のチャイムが鳴った。夕方の5時頃だった。総一はその日夜勤に備えて部屋で横になっていた。美和子が台所で何かをしていた。

チャイムの音で総一は身体を起こした。美和子が玄関に出る音がして、しばらく沈黙があった。それから聞き慣れないくぐもった声が聞こえてきた。男の声だった。

総一は廊下に出た。玄関の引き戸が半分開いていて、外に男が立っていた。大木だった。40歳の息子。総一が最後に顔を見たのは、確か1年半前の秋だった。その頃より痩せていた。頬がこけていて、目の周りに影がある。来ているシャツは白かったが、洗いすぎて少し黄ばんでいた。

大木は総一を見ると、少し身体を縮こまらせた。

「親父」

総一は何も言わなかった。

「急に来てごめん。電話に出られなくて。7月も鳴らした」

「分かってる。出られなかった。事情があって」

総一は引き戸を広く開けた。玄関先に立ったまま話すつもりだったが、美和子が廊下の奥から「上がりなさい」と言ったので、大木は靴を脱いだ。

台所のテーブルを挟んで3人が座った。美和子が麦茶を出した。大木はそれを両手で受け取った。一口飲んでから、テーブルの上に視線を落とした。

「6月の年金の件から電話があったの」

「分かってた。それで出なかったのか?」

「違う。そうじゃなくて、その頃は本当にバタバタしてて」

「1月に私の扶養の変更手続きをしたな」

大木はテーブルを見たまま少しの間黙った。

「それは会計士のミスなんだ」と彼は言った。「本当に申し訳ない。こっちも知らなかった。会社の決算処理を頼んだ会計士が、手続きをいくつかまとめてやる中で、間違って父さんの名前を使ってしまったみたいで」

「名前を使った?」

「父さんの委任状に、1回もらったやつ。そのコピーが残ってて」

総一は委任状のことを思い出した。3年前、大木が会社を立ち上げる際に、銀行口座の連帯保証人になるための書類に署名したことがあった。その時以来、何か書類を頼んだことはない。

「あの委任状は期限が切れている」

「そうなんだけど、会計士がそれを確認せずに使ってしまって。本当に父さんや母さんには迷惑をかけた。今年末には税務申告の修正をして、過剰に引かれた税金を還付してもらえるようにする。絶対にそうする」

大木の声は低く落ち着いていた。総一にはそれが不自然に感じられた。謝罪にしては、どこかうまく整いすぎていた。言葉の端々に、何かを先回りして抑えたような形があった。

美和子は麦茶のコップを両手で持ちながら、大木の顔を見ていた。

「今、会社はどうなの?」と美和子が聞いた。

大木は少し間を置いた。

「正直に言うと、厳しい状態が続いてる。でも、ちょうど今新しい事業の話があって、それがうまくいけば立て直せる」

「どんな事業?」

「会社を立ち上げようと思ってる。法人向けの清掃サービス。小規模から始めて、受注を増やしていく形で」

美和子はコップを置いた。

「清掃。事務所清掃とか、小さいビルのメンテナンスとか。ちゃんと需要はある。俺も色々調べた。ただ、問題は物件なんだよな。事務所の場所を1箇所確保しないと、法人登記ができなくて、仕事の受注もできない」

大木はそこで少し前傾姿勢になった。

「それで、お願いがある」

総一は大木を見た。

「事務所を借りるのに連帯保証人が必要で。父さんの年金振り込み通知書を証明として使わせて欲しい。それで保証人になってもらえれば、物件を借りられる」

総一は何も言わなかった。

「母さんにも、もしよかったら事務所の管理をお願いしたいと思ってる。受付とか書類整理とか、体に負担のかからない仕事。清掃の現場には出なくていい。今みたいに埃の多い場所で働かなくて良くなる」

その言葉が出た瞬間、総一は大木を見る目を変えた。息子は美和子の体のことを知っていた。知っていて、それを言葉に使った。そういう計算が見えた。

「帰れ」

総一は短く言った。

大木が顔を上げた。

「親父」

「話は聞いた。帰れ」

「俺は本当に立て直したいと思ってる。母さんのことも」

「立て直したいなら、自分の力でやれ。6月の損害をどうするかも決まっていないのに、今度は何をしたいって言いに来た。出ていけ」

声はあげなかった。ただ言葉を切り詰めた。

大木は美和子を見た。美和子は視線を外した。大木は静かに立ち上がり、玄関で靴を履いた。ドアを開ける前に1度振り返って「ごめん」と言ったが、誰に向けて言ったのかは分からなかった。

ドアが閉まった。台所に沈黙が戻った。美和子はコップに残った麦茶をゆっくり飲んだ。総一は椅子の背もたれに身を預けて、天井を少し見た。

「言いすぎたか」と総一は言った。

「いいえ」美和子はすぐに答えた。「正しかった」

しかし彼女の声には何かが混じっていた。

夜、総一が夜勤に出た後、美和子は1人になった。家の中が静かになると、余計なことを考えやすくなる。彼女は台所の椅子に座ったまま、大木の顔を頭の中で反芻した。痩せていた。目の下に影があった。シャツが黄ばんでいた。

息子がうまくいっていないことは分かっていた。それは前から分かっていた。しかし今日直接顔を見て、その痩せた顔を見て、美和子の中に母親としての何かが揺れた。それを総一に言うつもりはなかった。言っても仕方がないことだとは思っていた。

美和子は薬局で買ってきた吸入薬を手に取った。使用回数の目安を超えていたが、もう少し使えると思っていた。1回だけ吸い込んで、少し待った。咳は収まった。

冷蔵庫の中を確認した。今月の食費をあと何日で何に使うか、頭の中に大体の計算がある。特売のチラシを取り出して、来週の献立を考えた。大木のことはそれ以上考えないようにした。

しかし寝る前に、彼女は1度だけ大木の携帯番号に電話をかけた。繋がった。2回目のコールで繋がった。

「お母さん?体は大丈夫?」

美和子は聞いた。

「大丈夫。ちゃんと食べてる?」

「食べてる」

しばらく沈黙があった。

「父さんにまた連絡してみなさい」と美和子は言った。「誠実に話せば、聞く人だから」

大木は返事をするまでに少し時間がかかった。

「分かった」と彼は言った。

美和子は電話を切った。それから、自分が何のために電話をかけたのか少し考えた。よくわからなかった。ただかけたかったからかけた。そういうことだった。

その後10日ほど、何も起きなかった。総一は夜勤を続けた。美和子は地下の文書保管庫の清掃を続けた。2人の会話は必要最低限のことに絞られていた。お金の話、食事の話。今日は何度が出たかという話はしなかった。総一も美和子もしなかった。

ある朝、総一が夜勤から帰ってきた時、美和子がキッチンのシンクに両手をついていた。背中が小さく何度も上下していた。

「大丈夫か?」

少し待って、急に咳を使う音がした。総一はその場に立ったまま待った。美和子がゆっくり身体を起こした。顔を洗ってタオルで拭いた。それから振り返って総一を見た。

「地下は暑くて。今日はひどかっただけ」

「やめろ」と総一は言った。

「何よ?」

「地下の清掃、別の人に変わってもらえ」

「代わってくれる人、いないから私が」

「なんでお前が喘息を悪化させながら続けないといけない」

「やめたら収入が減る。それ以上やったらもっと悪くなる」

美和子はタオルを畳みながら、少し考えるような顔をした。

「来週、署長に話してみる」

「来週じゃなくて、明日にしろ」

「明日は署長が休みで」

「じゃあ明後日」

美和子は頷いた。

その夜遅く、総一はなかなか眠れなかった。夜勤明けで身体は疲れているのに、頭が止まらない。今月の収支が頭の中をぐるぐる回る。美和子の咳の音が耳の中に残っている。大木の顔が浮かんだ。

あいつは本当に会計士のミスだと思っているのか。それとも知っていてそう言ったのか。総一には確かめる方法がなかった。年金事務所の職員は、正規の委任状が出ていると言った。3年前の古い委任状が使えるはずはない。それなのに手続きが通ったということは、委任状が本物に見える形で出されたということだ。大木がそれを知らないはずがないと総一は思った。しかし確証はなかった。確証がないまま息子を責めることを総一はできなかった。それが自分の弱さなのか、それとも公平なのか、よくわからなかった。

そのまま眠りに落ちた。

次の日の夕方、大木がまた来た。今度はチャイムを押さずにドアをノックした。総一が出ると、大木は1枚の書類を持っていた。

「昨日のことをもう少し説明させて欲しい。書類も持ってきた」

「昨日のことはあった。分かってる。でも、少しだけ話を聞いて欲しい。追い返すなら、聞いてからでも遅くないと思うから」

総一は大木の顔を見た。昨日よりも疲れた顔だった。睡眠が足りていない顔だった。

しばらく間があって、総一はドアを開けた。

台所で大木は書類を広げた。物件の賃貸借契約書の草案だった。連帯保証人の欄に名前を書く形式になっていた。

「この物件を借りれば、清掃会社を立ち上げられる。最初の受注先はもう確保してある。3ヶ月以内に最初の売上が立つ。その後は毎月の売上から、保証人に負担をかけることは絶対にない」

「『絶対』という言葉を使うな」と総一は言った。「事業に絶対はない。それくらい分かるだろう」

「もちろん分かってる。でも今回は本当に見通しがある状態で動こうとしてる。今までと違う」

総一は書類を見た。物件の賃料と保証金の金額が書かれていた。連帯保証人として署名した場合、もし大木が支払えなくなれば、その額が総一に請求されることになる。

「年金振り込み通知書が必要だと言ったな。それを収入証明として提出すれば、審査が通りやすくなる」

「私の年金が担保になる」

「形式的なものだから。父さんが実際に払うことになるような状況は想定していない」

総一は大木を見た。大木は総一の目を見て、視線を外さなかった。

その時、台所の奥から美和子の咳が聞こえてきた。長い咳だった。急に咳を使う音が続き、それから少し収まった。

総一は書類に視線を戻した。

「今日は帰れ」と総一は言った。「置いて行くな。持って帰れ」

大木は書類を静かに畳んで鞄にしまった。

「考えてくれるか?」

「帰れ」

大木は立ち上がった。廊下に出て靴を履いた。ドアを開ける前に振り返り、今度は総一の目を見た。

「母さんの体のこと、ずっと気になってた」

総一は何も言わなかった。ドアが閉まった。

その夜遅く、総一は眠れなかった。美和子はすでに眠っていた。寝室から不規則な呼吸の音が聞こえてくる。喘息の症状が出ているわけではなさそうだが、深く眠れていない音だった。

総一は台所に来て椅子に座った。テーブルの上に何もなかった。棚の上の鉄の小箱が目に入った。

収支を頭の中で確認した。夜勤を5回に増やしても、加給年金が消えた分と税金の増額分は埋まらなかった。美和子が地下の清掃をやめれば、さらに収入が減る。美和子の吸入薬は市販のものだった。処方薬を出してもらえば症状は改善するかもしれないが、そのためには病院に行く必要がある。総一の夜勤の日、美和子が1人で病院に行くことはできるが、費用のことを彼女は気にしている。

全部が繋がっていた。金がなければ薬が買えない。薬がなければ体が悪くなる。体が悪くなれば働けなくなる。働けなくなれば金がなくなる。

総一は棚の小箱を取り出した。蓋を開けると、6月の年金振り込み通知書が1番上にあった。丁寧に4つ折りにされた。それを総一は広げた。振り込み金額の欄、課税所得の欄、差し引き項目。見慣れた数字なのに、見るたびに腹が立つ。

大木の書類が頭に浮かんだ。連帯保証人の欄。この通知書を収入証明として使えば、審査が通ると言っていた。

総一は通知書を畳んで元に戻した。小箱の蓋を閉めた。そのまま動かなかった。

15分ほど経って、また小箱を開けた。通知書を取り出した。もう1度数字を見た。

寝室からくぐもった咳が聞こえてきた。1度、また1度。それからゆっくりと収まった。

総一は立ち上がって引き出しを開けた。大木が昨日置いて行きそうになった書類はなかったが、大木が言っていた物件名と連絡先を総一は頭に入れていた。

もう一度大木に電話をかけた。深夜だったが、大木はすぐに出た。

「書類、明日持ってこい。それだけだ」

電話を切った。総一は台所の椅子に座ったまま、しばらくそこにいた。自分がいつ決めたのか分からなかった。眠れない夜の中で、何かがゆっくりと傾いていただけだった。

翌日の夕方、大木は書類を持ってきた。総一は6月の年金振り込み通知書と書類を並べてテーブルの上に置いた。美和子は台所にいたが出てこなかった。

総一はペンを持った。左手が震えていた。右手でそれを抑えながら、連帯保証人の欄に名前を書いた。印鑑を押した。通知書のコピーを取られた。大木がコンビニでコピーしてきたものと照合するというので、総一は原本を渡した。

全部で10分もかからなかった。大木は書類を受け取りながら「ありがとう」と言った。感謝の言葉は短かった。総一は頷かなかった。

大木が帰った後、総一は台所に戻った。美和子が振り向いた。

「書類、書いた」総一は言った。

美和子は総一の顔を見た。「そう」それだけだった。美和子はガスコンロの方を向いた。鍋の中のものをかき混ぜながら、何も言わなかった。

総一は椅子に座った。左手を右の手のひらで包んだ。震えはすでに収まっていた。

台所の空気はいつもと同じ温度だった。鍋から湯気が立ちのぼり、窓ガラスが少し曇った。それが正しかったのかどうか、総一はまだ分からなかった。分かろうとしなかった。今夜は夜勤があった。夜の10時には家を出ないといけない。それだけが確かなことだった。

10月の声を聞くと、空気が変わる。9月の終わりまであった生ぬるさが消えて、朝晩の風に芯が入る。倉庫の敷地を歩くと、夜半には吐息が白くなりかけた。総一は薄手の作業着の下に長袖を1枚足したが、それでも夜明け前の4時頃は肩に寒さが染みてきた。

10月は特別な月だった。年金の本徴収が始まる月だ。日本の年金制度では、1年分の所得税や住民税を後から徴収する仕組みになっている。前年の確定所得を基に算出した税額が、10月の年金から本格的に差し引かれ始める。仮徴収の段階では暫定的な金額が引かれていたが、本徴収になると確定した数字が適用される。

総一はそのことを頭では分かっていた。ただ、今年の数字が確定するまでは、正確にいくら引かれるかが分からなかった。大木が総一の名義に付け替えた顧問業収入という名目の所得がどれだけ計上されているか。税務署がそれをどう処理したか。総一には確かめる術がなかった。

10月に入って5日目、郵便受けから封筒を取り出したのは美和子だった。総一は前日の夜勤明けでまだ眠っていた。美和子は封筒を持ったまましばらく台所のテーブルの前に立っていて、総一が目を覚ました気配がすると静かに声をかけた。

「起きてる?」

「ああ」

「年金の通知。来てる」

総一は起き上がった。台所に行くと、美和子は開けずにテーブルの上に置いていた。総一は封筒を手に取った。6月の時と同じ書式の日本年金機構からの封筒だった。封を切った。通知書を広げた。数字を目で追いながら、総一は何も言わなかった。

所得税の欄、住民税の欄、介護保険料の欄。6月の通知書よりさらに大きな数字が並んでいた。本徴収が始まったことで、大木が付け替えた所得分が完全に反映された。差し引いた後の実際の振り込み額は、6月よりもさらに少なかった。家賃を払えば食費がほぼ残らない金額だった。

美和子は総一の顔を見ていた。総一は通知書を1度置いて、また拾った。同じ数字を2度確認した。2度見ても変わらなかった。

「いくら?」と美和子が言った。

総一は金額を口に出した。

美和子は手元の老眼鏡を取り上げたが、掛けなかった。

「米と醤油だけ」と彼女は小さく言った。

冗談ではなかった。皮肉でもなかった。ほぼそういう計算になるという意味だった。

総一は通知書を4つ折りにして鉄の小箱に入れた。蓋を閉める前に少し考えて、また開けて通知書を取り出した。数字をもう1度見た。それから戻して、今度こそ蓋を閉めた。

2人の間に言葉はなかった。美和子が立ち上がって台所に行った。冷蔵庫を開けて、中を確認するでもなく見た。それから閉めた。その動作を総一は見ていた。

10月の第2週に入った頃、美和子の職場で事故が起きた。地下の文書保管庫での清掃作業中だった。美和子の隣にある書棚の列をモップがけしていた。狭い通路で、書棚と書棚の間は人が通れる程度の幅しかない。

その時、発作が来た。後から本人が言うには、前兆は少しあったが、今日は大丈夫だと思って続けていたという。しかし地下の空気が特に悪い日があって、その日はちょうどそれだった。古い書類の一部が湿気で劣化していて、ページが崩れる時に細かい埃が舞い上がっていた。

発作が出た瞬間、美和子は息ができなくなって、壁を掴もうとした。持っていたモップのバケツを蹴ってしまった。バケツが横に倒れ、水が廊下に広がった。そのまま美和子は膝をついて壁に寄りかかった。同僚がすぐに駆けつけた。

問題は、倒れたバケツの水が廊下を伝って隣の書棚の底部に流れ込んだことだった。書棚の下段に置かれていた保管書類の束が水を吸った。区の保管文書の一部が濡れて損傷した。

その日の午後、美和子は事務所に呼ばれた。署長ではなく、施設管理の担当者が出てきた。40代の男性で、美和子は名前を知らなかった。

担当者は、安全衛生管理上の問題があったと言った。持病を抱えた状態での作業は、本人にとっても職場にとってもリスクになるとの説明だった。美和子は黙って聞いていた。

「今月いっぱいで雇用を終了させていただくことになります」と担当者は言った。

美和子はすぐに「分かりました」と答えた。抵抗しなかった。言い訳もしなかった。事務所を出てロッカーに向かいながら、彼女は手の中の吸入器を強く握っていた。

帰宅したのは夕方の4時頃だった。総一はその日、珍しく昼間から起きていた。夜勤のシフトが2日開いていた。美和子が帰ってきた時、総一は台所で茶を飲んでいた。帰る時間が早いことに気づいて顔を上げた。

美和子は靴を脱ぎながら「仕事、終わりになった」と言った。

「どういうことだ?」

「今月末まで」

「なぜ」

美和子は廊下に立ったまま、今日の経緯を話した。発作のこと、バケツが倒れたこと、書類が濡れたこと。感情を込めずに順番に話した。総一は途中から口を挟まなかった。

話を終えると、美和子は台所に来て椅子に座った。老眼鏡を外してテーブルの上に置いた。

「署長に言えばよかったな。地下はやめるって」と総一は言った。

「言ってたら、もっと早く終わっていただけ」

「そうじゃなくて」

「分かってる」と美和子は言った。「でも、結果は同じだった」

総一はそれ以上言わなかった。台所の窓から夕方の光が斜めに入っていた。隣の家の屋根の上に雲がかかっていて、空の色が白と鼠色の間にあった。

美和子が立ち上がって夕食の準備を始めた。冷蔵庫から白菜と豆腐を出した。2人はその夜、白菜と豆腐の鍋を食べた。具はそれだけだった。

それから数日後の夕方、総一の携帯電話に知らない番号から着信があった。夜勤の準備をしていた時間帯だった。出ると、男の声が聞こえてきた。

「こちら、株式会社ファーストクレジットサービスと申しますが、黒川総一様でいらっしゃいますか?」

総一は「そうだ」と答えた。

「黒川大木様に関連した保証契約についてご確認させていただきたく」

「保証契約?」

「8月にご署名いただきました、物件賃貸借に付随する保証契約です。ご記憶はございますでしょうか?」

「ある」

「大木様とのご連絡が取れない状況が続いておりまして、契約の履行について確認が必要になっております」

総一は立ったまま、左手が揺れ始めるのを感じた。

「連絡が取れないというのは、どういうことか」

「物件の賃料が2ヶ月分未納の状態です。加えて、契約締結時に購入された機材のリース費用についても」

「機材?」

「業務機材のリース契約が同時に組まれておりまして、そちらも滞納状態となっております。保証人様にはまず状況をお伝えしようと思いまして」

総一は電話を持つ右手に力を込めた。

「大木はどこにいる?」

「現在、連絡が取れない状態で、ご自宅も退去されている様子でして」

電話を切った後、総一はすぐに大木に電話をかけた。繋がらなかった。コール音もならず、すぐに「現在使われていない番号です」という機械音声が流れた。総一はその音声を最後まで聞いた。それからまた同じ番号にかけた。同じ音声が流れた。

美和子を呼ぼうかと思った。やめた。まだ確認できていないことがあると自分に言い聞かせた。直接言って確かめるべきだ。

翌朝、夜勤明けで帰宅した後、総一は2時間だけ仮眠を取った。それから着替えて、大木が暮らしていた高層マンションに向かった。電車を乗り継いで40分ほどかかる場所だった。

エントランスのインターフォンを押した。大木の部屋番号を入力した。しばらく待った。出てきたのは女の声だった。

「はい」

「黒川大木の父です。大木に用がある」

少し間があって、エントランスの電子錠が解除された。エレベーターで上に上がり、廊下を歩いた。部屋の前に立つと、ドアが少し開いていた。隙間から覗くように、若い女が立っていた。30代前半くらいだった。細い顔で、化粧をしていないが整った顔立ちだった。髪を後ろで無造作にまとめていて、部屋着のような格好をしていた。

大木の妻だった。総一は1度だけ大木の結婚式で会ったことがある。それ以来だった。

「大木はいるか」と総一は言った。

「いません」と由香は言った。

「どこにいる?」

「知りません」

短い言葉だった。感情が乗っていなかった。

「連絡は取れるか?」

「取れません。いつから?」

「先月の末から帰ってきていません。私にも何も言わずに」

総一は由香の顔を見た。怒りがあるのか、悲しみがあるのか読み取れなかった。ただ疲れた顔をしていた。

「金融会社から連絡が来た。大木が借りた事務所の賃料と機材のリースが未払いになっている。私は保証人になっている」

由香はそれを聞いて、少し目を細めた。

「そうですか」

それだけだった。

「それだけか」

「私も同じですよ」と由香は言った。「私名義のカードで大量に買い物をして、消えました。義父さんに言えることは何もありません。あなたも被害者でしょうけど、私も被害者ですから」

声は平板だった。感情を使い果たしたような声だった。

総一は廊下に立ったまま、少しの間黙っていた。

「どこに行ったか、本当にわからないのか」

「友人の話だと、九州の方に行ったかもしれないとは聞きました。でも確かめていません。確かめても意味がないと思って」

「意味がない?」

「帰ってきて欲しいとは思っていませんから」

それが本当なのか、そう言うしかないから言っているのか、総一には判断できなかった。

「とにかく」と由香は続けた。「私には何もできることがないので」

彼女はドアを閉めようとした。総一は「待ってくれ」とは言わなかった。言っても仕方がないとは思っていた。

ドアが閉まった。廊下に総一1人が残った。エレベーターで降りる間、総一は壁を見ていた。エントランスを出て外に出た。10月の昼間の光が眩しかった。

電車に乗って帰る途中、総一はずっと窓の外を見ていた。景色が流れていくのを見ながら、頭の中で数字を並べていた。賃料の未払い分、リースの残額、それを保証人として請求された場合の総額、自分たちの月々の収入からそれをどう捻出するか。答えは出なかった。出るはずがなかった。

帰宅すると、美和子がいた。

「どこ行ってたの?」

「大木のところ」

美和子の顔が変わった。総一はコートを脱ぎながら、今日のことを話した。クレジット会社からの電話のこと。大木の番号が使われていないこと。由香に会ったこと。大木が先月末から姿を消していること。

美和子は話を聞きながら、首から下げたメガネの鎖を指でなぞっていた。聞き終わっても、すぐには何も言わなかった。

「九州」としばらくして彼女は言った。

「由香さんが聞いたという話だ。確かじゃない」

「そう」

また沈黙があった。

「連絡来ると思う」美和子は言った。「あの子は、逃げても戻ってくる」

総一はそれに答えなかった。母親の目から見た息子と、総一が見ている息子が、今は違うものを指しているような気がした。しかしそれを言葉にする気にもなれなかった。

その夜、総一は夜勤に出た。倉庫のパトロールカーを運転しながら、総一は大木のことを考えないようにした。考えても何も変わらないから。変わらないことを考え続けることが、今の自分には1番消耗することだとは思っていた。でも考えてしまった。

8月に署名した書類。あの時、総一は大木の言葉を信じようとした。信じたかったのではなく、信じる方を選んだ。この咳の音を聞きながら選んだ。それは自分の決断だった。誰かに強制されたわけではなかった。その事実が今になって重くのしかかってきた。

パトロールカーのエンジン音だけが、夜の倉庫に響いていた。

10月の終わり近く、金融会社から書面が届いた。内容証明郵便だった。連帯保証人としての債務履行を求める通知書だった。賃料の未払い分とリース費用の残額を合わせた金額が記載されていた。

総一はその書面を鉄の小箱には入れなかった。テーブルの上に置いたまま、椅子に座って眺めた。美和子が横から覗いた。金額の欄を見た。

「払える額じゃない」と彼女は言った。

「分かってる」

「どうする?」

「弁護士に相談しなければいけないかもしれない」

弁護士という言葉を口に出したのは初めてだった。そこまで来てしまったという感覚があった。美和子は何も言わなかった。総一は書面を折りたんだ。しかし小箱には入れず、引き出しの中に入れた。小箱には入れたくなかった。

その翌週、倉庫の前に男が来た。夜勤の途中、午前2時頃だった。総一が外周をパトロールカーで回っていると、正門の前に人影が見えた。車を止めて降りると、作業着に着た中年の男が2人立っていた。

「夜分に失礼します」と1人が言った。声は丁寧だったが、目が笑っていなかった。「黒川総一さんとお会いしたくて」

「何の用だ」

「大木さんに貸した金の件で、ご連絡させていただいております。お父様の方にも、少しご確認いただけることがありまして」

貸金業者だった。総一には分かった。しかし金融会社の内容証明に記載されていた名称とは違う業者名を名乗った。

「大木とは別の件か」

「はい。大木さんが個人で借りていらしたもので、お父様が保証人になっているということで伺いました」

「私は保証人になった覚えはない」

「書類はそうなっておりまして」

総一は男たちを見た。

「警備会社の敷地内にいる。ここは私の職場だ。帰れ」

「少しだけお話が」

「帰れ。来るなら昼間に来い」

男たちは顔を見合わせた。それからお辞儀をして、歩いて去っていった。総一はその後ろ姿を正門の前で見送った。

自分の名前で、自分の知らない借金の保証人になっている。そういうことが起きているかもしれない。そのことが倉庫に戻ってからもずっと頭から離れなかった。

翌日の夜、男たちはまた来た。今度は3人だった。正門ではなく、倉庫の裏手の搬入口の辺りに立っていた。1人が倉庫の外壁にコピー用紙を貼り始めた。総一は近づいて確認した。

年金振り込み通知書のコピーだった。総一が大木に渡したものだった。その上に赤いマジックで「債務者」という文字が書かれていて、その下に金額が記載されていた。

総一は紙を剥がした。男が別の場所に貼ろうとした。総一はそれも取り上げた。男は笑いながら「もっとたくさんある」と言った。

その夜、倉庫の署長が深夜に呼ばれてきた。署長は50代の男で、普段は穏やかな人物だった。しかし夜中に事態を確認した後、翌朝早く総一を事務所に呼んだ。

「黒川さん、正直に聞きますが、これは個人的な問題ですか?」

「そうです」と総一は言った。

「このままここで続けてもらうのが難しい状況になってきていますが」

「分かっています」

「何かこちらでできることがあれば」

「ありません」

署長は机の上で指を組んだ。

「あの業者が今後も来るようであれば、うちの業務に支障が出てしまいます。お分かりですね」

「分かっています」

「であれば」

総一は署長の言葉の続きを待たなかった。

「退職届を書きます」

「そこまでとは」

「書きます」

総一は立ち上がった。署長が何か言おうとしたが、総一はすでに事務所を出ていた。

退職届はその場で書いた。用紙を借りて、ボールペンで書いた。左手が震えていた。右手で抑えながら書いた。「一身上の都合により」という定型文を書きながら、「一身上の都合」という言葉が自分の口の中で転がるような気がした。

印鑑を押して、署長の机の上に置いた。ロッカーから荷物を取り出して、倉庫を出た。外はまだ暗かった。夜明け前の4時頃だった。バスの時刻まで時間があった。

バス停のベンチに座って、総一は空を見た。雲がなく、星がまだ出ていた。手が震えていた。今度は止まろうとしなかった。

帰宅すると、美和子はまだ眠っていた。総一は台所に来て、電気もつけずに椅子に座った。暗い部屋の中で、外が少しずつ明るくなってくるのを待った。

夜が明けて、美和子が起きてきた。台所の電気をつけて、総一がそこにいることに気づいた。

「帰ってたの?気づかなかった」

総一は美和子を見た。

「仕事、やめた」

美和子は電気のスイッチの近くに立ったまま、総一の顔を見た。

「なぜ?」

「業者が職場に来た。向こうに迷惑がかかる」

美和子はゆっくりと台所に入ってきた。椅子を引いて、総一の向いに座った。

「業者って、どこの?」

「大木が個人で借りていたらしいところ。私が保証人になっていると言っていた」

「本当に保証人になってるの?」

「わからない。大木が私の名前を使ったかもしれない」

美和子は老眼鏡を外したまま、テーブルの上を見た。総一は続けた。

「仕事を失った。お前の仕事も今月末まで。年金は削られている。借金の請求が来ている。大木は連絡が取れない」

1つ1つ整理するように言った。感情を込めずに言った。美和子はそれを聞いていた。しばらく沈黙があった。外から近所のゴミ収集車の音が聞こえてきた。

「ご飯」美和子は言った。それだけだった。立ち上がって米を研ぎ始めた。総一はその後ろ姿を見ていた。水を注ぐ音がした。米を研ぐ音がした。炊飯器のスイッチを入れる音がした。

美和子は作業しながら咳を1度した。短い咳だった。それからまた何かを台所で始めた。総一は椅子に座ったまま、その音を聞いていた。

台所に朝の光が入ってきていた。テーブルの上の鉄の小箱が、窓からの光を鈍く反射した。何も言えることがなかった。言葉を使うことが、今は何もできなかった。ただそこに座っていた。それだけが今できる唯一のことのような気がした。

11月になった。空が低くなった。朝、カーテンを開けると、灰色の雲が屋根の上に張り付いていて、光が薄い。日中でも気温が上がらず、室内でも息が白くなりかけるような日が続いた。

集合住宅の1階は特に冷える。床から冷気が上がってくる感覚が、靴下越しに伝わってくる。総一は電気ストーブの設定を最低にして使っていた。電気代のことがあった。今月の支払いは来月に繰り越せないから、使いすぎると来月の収入からさらに削られる。最低限の温度を保って、後は厚着でしのぐ。

送料計算をしながらダイヤルを動かした。美和子は台所で作業をする時、薄手のカーディガンの上にもう1枚羽織るようになっていた。それ以上のことは2人とも言わなかった。

仕事を失って最初の1週間、総一は朝から近くの公共施設のロビーに行っていた。ハローワークで求人票を探したが、68歳という年齢が最初の壁になった。警備員の求人は複数あったが、多くが65歳までという条件だった。65歳以上可と書かれたものは、経験者優遇か勤務地が遠い案件が多かった。電車賃を考えると、遠い職場は現実的ではなかった。

総一は求人票の束を持ったまま、ロビーのプラスチック椅子に座っていた。隣には同じように求人票を抱えた高齢の男性が座っていた。2人は何も話さなかった。

その日の夜、美和子にまだ見つかっていないと告げた。美和子は頷いて、それ以上聞かなかった。

翌週から、総一は近くの公園に行くようになった。公園の金属製のゴミ箱の周りに、アルミ缶が落ちていることがある。土曜と日曜の朝は特に多い。ベンチの下や植え込みの脇、時には噴水の縁の辺りに転がっている。総一はビニール袋を持って、それを拾って回った。

最初の日は23本だった。スーパーの裏手にある資源回収所に持っていくと、1kgあたりの単価で引き取ってもらえる。金額は少なかった。しかし何もしないよりはという計算だった。

缶を拾っている間、総一は誰とも目を合わせなかった。公園で犬を散歩させている人間がいると、総一は少し遠回りをした。見られているという感覚が嫌だったわけではなかった。ただ誰かと目が合うと、何かを言われそうな気がした。何も言われなくても、何かが伝わりそうな気がした。それが嫌だった。

美和子の仕事は10月末で終わっていた。11月に入ってから、彼女は午前中に近くのスーパーに行き、夕方の値引き時間帯に合わせてもう1度行くという習慣をつけた。1日に2度行くのは体力の無駄のように見えるが、夕方に3割引きや半額になる食材や野菜を買うことで、同じ金額でより多くのものが手に入る。

美和子はそれを総一に説明しなかった。ただ夕飯の献立が変わった。夜遅い時間に食べるものが増え、昼食が軽くなった。総一はそれに気づいたが、何も言わなかった。

吸入薬の残量が少なくなっていた。美和子はそれを総一に言わなかった。薬局で処方薬より安い市販の吸入薬を探して、1番小さいサイズを買ってきた。それを総一に見せないように、引き出しの奥にしまっていた。

総一は気づいていた。気づいていて、先に言い出せなかった。言い出すと病院に行けという話になる。病院に行くと診察代と薬代がかかる。今月その余裕があるかどうか、正確な数字を総一はまだ計算しきれていなかった。計算できていないのではなく、計算した結果を認めたくなかった。

11月の中旬、倉庫の業者とは別の封筒が届いた。弁護士事務所の名称が記載された封筒で、中には催告通知書が入っていた。倉庫のリース会社が弁護士に依頼して、連帯保証人である総一への請求手続きを開始したという内容だった。請求額が明記されていた。

総一はその金額を見て、封筒をテーブルの上に置いた。美和子が隣から覗いた。金額の欄を見て、1度だけ小さく息を吐いた。

「これは払えない」と総一は言った。

「うん」

「弁護士に相談するしかない」

「ただ、相談が無料の制度がある」と美和子は言った。

「知っているのか」

「テレビで見た。収入が少ない人でも弁護士に相談できる国の制度らしい」

総一は美和子を見た。彼女はテーブルの上の封筒を見たまま続けた。

「電話番号を調べておいた。かけてみてもいいと思う」

「いつ調べた?」

「先週」

先週。総一は缶を拾って歩いていた。美和子は家で次の手を調べていた。総一はそれ以上何も言わなかった。

その夜、総一は夜中に目が覚めた。眠れなかった。台所に来て水を飲んだ。窓の外は暗く、風が弱く吹いているのが音で分かった。ガラスがかすかに震えていた。

総一は棚の上の鉄の小箱を見た。今月の支払いの内訳を頭の中で並べた。家賃、電気代、水道代、ガス代、国民健康保険料、美和子の吸入薬、食費。それぞれの金額を足していくと、今月分の年金振り込み額を超えた。総一の夜勤収入はもうない。美和子のパート収入もない。残っているのは2人分の年金だけだった。その年金も、課税所得の問題で大幅に削られている。差額を埋めるか。答えは今のところなかった。

11月の下旬に入って、電力会社から支払い督促のはがきが届いた。先月分の電気代が未払いになっていた。総一は覚えていた。先月、振り込もうとして金額が足りなかった。今月払えばいいと思っていたが、今月も足りなかった。はがきには「期日までにお支払いがない場合、供給を停止する場合がございます」という一文があった。

総一はそのはがきを美和子に見せなかった。翌日、近くのコンビニで一部だけ払った。全額ではなかった。残りは来月に回すしかなかった。

コンビニを出て少し歩いたところで、総一は立ち止まった。寒かった。コートの中まで風が入ってくるような気がした。

道の向こうに、スーパーの袋を両手に下げた老婦人が歩いていた。総一より年上に見えた。足取りがゆっくりで、袋が重そうだった。総一はその人を見ながら、何も考えなかった。ただ見ていた。それから歩き始めた。

家に帰ると、美和子が台所で大根を煮ていた。

「電気代、一部払ってきた」

美和子は鍋をかき混ぜながら「ありがとう」と言った。ありがとうという言葉が、今は少し違う響きを持っていた。感謝ではなく、確認のような言葉だった。状況を共有したことへの応答のような。

その夜、2人は大根の煮物と白飯を食べた。具はそれだけだった。

美和子が「これ、美味しい」と言った。総一は頷いた。

「出汁の取り方を変えた。煮干しを丁寧に取ったから」

「そうか」

「煮干し、安いから」

それが会話の全てだった。

11月の最終週、美和子がスマートフォンの画面を総一に見せた。

「これ見て」

画面には政府の広報ページが表示されていた。12月の年金振り込みについての案内だった。美和子が指で画面を拡大して、特定の箇所を示した。

「2026年分の所得税については、年末の年金振り込み時に精算が行われる。過剰に仮徴収された分については、12月の振り込みにおいて還付される場合がある」という趣旨の文章だった。

「還付」と総一は声に出した。

「今年、税金が多く引かれてたでしょう。それが戻ってくるかもしれない。12月に」

総一は画面をもう1度見た。大木が付け替えた所得の分も、いずれ修正が入れば、過剰に引かれた分が戻ってくる計算になる。

「確かか、確かじゃない」

「でも、制度の説明を読む限り、そういう仕組みになってる。去年も12月の振り込みは少し多かった。覚えてる」

総一は去年の12月のことを思い出そうとした。鉄の小箱に入っている通知書を見れば分かる。立ち上がって小箱を開けた。去年の12月分の通知書を探して広げた。確かに12月の振り込み額は他の月より少し多かった。

「所得税の還付がされている」と総一は言った。

「今年は引かれた額が大きかったわけ。戻ってくる額も大きいかもしれない」

総一は通知書を持ったまま椅子に戻った。

「12月は15日に振り込まれる」美和子は言った。「あと3週間ほどか」

「電気代と食費と薬。それだけでいい。それだけ賄えれば、弁護士の相談の費用も出る」

美和子の声は静かだった。興奮していなかった。ただ計算を口に出しているだけだった。しかし総一には、その計算の声が今まで聞いた中で最も現実的な声に聞こえた。

「12月15日まで持てるか」と総一は言った。

美和子はしばらく考えた。

「やってみる」

その言葉に何かが含まれていた。総一には分かった。約束ではなく、試みの宣言だった。

翌日から、総一は公園に加えて駅の周辺のアルミ缶を探して歩くようになった。駅前のロータリーや商業施設の裏手の路地。朝の8時から11時くらいまで歩いて、集めたものを資源回収所に持っていく。それだけで1日が半分終わる。

疲れたとは思わなかった。疲れているかどうかを考える余裕がなかった。歩いている間は、12月15日のことだけを考えていた。あと何日か。残りの食費はいくらか。薬があと何回分あるか。

ある日の午前中、総一は駅のロータリーでアルミ缶を拾っていた。白い軽自動車が路肩に止まり、窓が開いた。中から女が声をかけてきた。40代くらいだった。

「すみません。缶を集めてらっしゃるんですか?」

総一は振り向いた。

「うちの子が学校のリサイクル活動で缶を集めてて、もしよかったらお渡しできるかと思って。今、トランクに2袋あるんですが」

総一は少し間を置いた。

「いただけますか?」

「もちろんです」

女はトランクを開けて、大きなビニール袋を2つ取り出した。かなりの量が入っていた。

「重いですね。持ちますか?」

「大丈夫です」

総一は2袋を受け取った。

「ありがとうございます」と女は言った。

「こちらこそ」と総一は言った。

車が走り去った後、総一は袋を両手に下げて立っていた。何かを言うべきだったかもしれないとは思わなかった。ただ袋が重かった。それは良いことだった。

11月の終わりに、美和子が着ていた冬のコートを質屋に持っていった。総一には言わなかった。午前中に外出して、昼頃に帰ってきた。台所でお茶を飲んでいた時、美和子は鞄から封筒を出してテーブルに置いた。

「これ、預けてきた」

総一は封筒を見た。

「いつ?」

「今日。駅の近くに質屋がある」

「私のも持っていけばよかった」

「あなたのは仕事に必要でしょう」

「今は仕事がない」

「でも、面接に来ていくものが必要」

総一は封筒に手をつけなかった。美和子が封筒を引き出しの中にしまった。

「春になれば戻せる」と美和子は言った。

春という言葉が、今の季節には少し遠かった。

12月が近づくにつれて、2人の話す内容が少なくなった。言葉が減ったのではなく、言うべきことが削り落とされていった。余分なことを言う体力がお互いになかった。必要なことだけを言った。今日の食費がいくらだったか。薬の残りがあと何日分か。水道の請求がいつ来るか。それ以外のことは言わなかった。

しかし夜、総一が眠れない時に台所に来ると、美和子がすでに起きていることがあった。スマートフォンの画面を見ていた。銀行アプリか、年金の情報ページか、どちらかだった。総一が来ると、美和子は画面を伏せた。

「眠れないのか」と総一が言うと、

「少し下がる」と美和子が言う。

総一は水を1杯飲んで部屋に戻る。それを何度か繰り返した。

12月1日、電力会社から最終督促のはがきが届いた。「期日までにお支払いがない場合、12月10日を持って電力の供給を停止いたします」と書かれていた。12月15日より前に、電気が止まる可能性があった。

総一はそのはがきを持ったまま、しばらく台所に立っていた。美和子が郵便受けから戻ってきて、総一の顔を見てはがきを受け取った。

「4日だ。10日までか」

「いつか足りない」

「少しだけ払って、止められないようにできないか」

「先月も一部払った。今月また一部だと」

「電力会社に電話して、事情を話せないか」

総一はそれを考えていなかった。

「そういうことができるのか、分からない。でも、話してみる価値はある」

美和子は電力会社の番号を調べた。総一が電話をかけた。自動音声の後、オペレーターに繋がった。総一は状況を説明した。年金生活者で、今月の収入が不足していること。12月15日に年金が振り込まれる予定で、そこから全額支払えること。それまでの間、供給を続けてもらえないか。

オペレーターは少し待たせてから戻ってきた。

「12月15日までのご猶予ということでご確認ですが、その日に確実にお振り込みいただけますでしょうか?」

「できます」

「承知いたしました。特別猶予の形で対応いたします。12月15日に、未払い分を含めた全額のお支払いをお願いいたします」

電話を切った後、総一は受話器を持ったまま、少しの間動かなかった。美和子が「どうだった」と聞いた。

「15日まで待ってもらえる」

美和子は小さく息を吐いた。安堵ではなく、期限が伸びたことの確認だった。

「15日まで持てばいい」と彼女は言った。

「ああ。米はまだある。大根も玉ねぎも。あとは缶を拾えばいくらかになる」

「吸入薬は、もう1本だけある」

「病院は15日以降にする」

2人は台所の椅子に座って、残りの日数を指折り数えるように確認し合った。ガスの請求は15日以降だった。水道は先月分を払っていたから、今月はまだ大丈夫だった。食費は1日500円以内で納める計算になった。

「500円?2人分で1日500円」

美和子はその数字を聞いて、何も言わなかった。ただ立ち上がって冷蔵庫を開けた。中を確認して閉めた。

「大丈夫」と彼女は言った。

それが本当かどうか、総一には分からなかった。しかし美和子がそう言ったから、総一は「そうか」と答えた。

12月の最初の2週間は静かだった。静かというのは、何も起きなかったということではない。毎日ギリギリのところで何かを調整しながら過ごしたという意味だ。総一は缶や瓶を集めた。美和子は値引き品を探してスーパーを2度往復した。

食卓に並ぶものは日ごとに単純になっていったが、美和子は工夫した。同じ大根でも、今日は塩を揉み、明日は味噌汁の具に、明後日は細く切って炒める。それだけで別の料理になった。総一はそれをいつも残さず食べた。美味しいかどうかを考えたことはなかった。食べられることが、今は十分なことだった。

ある夜、美和子が咳で目を覚ました。総一もその音で目が覚めた。隣の部屋から続けざまに咳が聞こえてきた。吸入器を使う音がした。少し待った。また咳が来た。

総一は起き上がって、隣の部屋のドアを開けた。美和子が布団の上に起き上がって、壁に寄りかかっていた。両手を胸の前で組んで、息をゆっくり整えようとしていた。

「大丈夫か?」

「少し待って」

総一は部屋の入り口に立ったまま待った。美和子の呼吸が少しずつ戻ってきた。

「寒いから、出てくるなよ」と彼女は言った。

「いい。廊下は暖房が効いてるから」

総一はそこに立ったまま、美和子の呼吸が安定するまで動かなかった。部屋の電気はつけなかった。廊下の薄明かりだけが入っていた。

「もう1本、吸入薬がある」と美和子は言った。

「分かってる」

「15日になれば、病院に行ける」

「分かってる」

「分かってる」と返事を繰り返しながら、総一は廊下の壁に肩を預けた。この呼吸の音だけが、暗い部屋に続いていた。

12月14日の夜、総一は眠れなかった。明日、年金が振り込まれる。振り込み通知書はまだ来ていなかった。しかし毎年12月15日に振り込まれることは、過去の記録から分かっていた。

美和子はぐっすり眠りについていた。総一は台所に来て、鉄の小箱を開けた。去年の12月の通知書を取り出した。振り込み額の欄と所得税還付の欄を見た。今年はどうなるか。大木が付け替えた所得分が税務署でどう処理されているか。それが還付の計算にどう影響するか。総一には分からなかった。

しかし美和子が言っていた制度の説明を読む限り、過剰に引かれた分は還付される。信じるしかなかった。今はそれを信じることが、2人が15日まで持てた理由の1つだった。

総一は通知書を元に戻して、小箱の蓋を閉めた。電気ストーブの設定を最低にしたまま、椅子に座っていた。足先が冷たかった。靴下の上からもう1枚何か履ければよかったが、厚手の靴下はすでに美和子が使っていた。

明日になれば、少し変わる。そう思いながら、総一は台所の暗い窓を見ていた。外は静かだった。風もなく、音もなかった。12月の夜はそういうものだった。

12月15日の朝は雪だった。前日の夜から降り始めていたらしく、総一が目を覚ました時には、すでに窓の外が白くなっていた。集合住宅の駐車場のアスファルトが薄く覆われていて、向かいの家の屋根の上に雪が積もっていた。それほど深くはなかったが、降り続けていた。

総一はカーテンを少し開けて外を見た。吐息が白かった。昨夜、電気ストーブを切って眠ったせいで、室内の温度が下がっていた。

今日、年金が振り込まれる。その一点だけが、目が覚めた瞬間から頭の中にあった。

美和子はまだ眠っていた。昨夜の咳が続いていたから、総一は起こさないようにした。台所に行って湯を沸かした。茶を1杯だけ飲んだ。

冷蔵庫の中には、白菜の残りと豆腐が半丁あった。今日の昼には、電気代の未払い分を含めた全額を払いに行ける。美和子の吸入薬を処方薬で買い直せる。そのためにまず病院に行く必要があるが、診察代も出せる。大根と玉ねぎ以外のものを、今夜は食卓に並べられる。

総一はそれらを頭の中で並べながら、茶を飲んだ。熱い茶が喉を通った。窓の外では、雪がまだ降り続けていた。

美和子が起きてきたのは8時頃だった。台所に入ってきて、窓の外を見た。

「雪、昨夜から降ったみたいだ」

美和子は咳をした。短い咳ですぐ止まった。吸入器を1度使って、流しの前に立った。

「今日だね」と彼女は言った。

「ああ」

「振り込みの確認。朝1番でできる。銀行が開く前でも、ATMで確認できる」

「そうか」

美和子が湯を注いで、2人分の茶を入れた。2人でテーブルに向かい合って座った。

「薬、今日のうちに病院に行けるといいね」と美和子は言った。

「昼過ぎに行こう。私が付き合う」

「1人で行ける」

「付き合う」

美和子は総一の顔を見た。それから小さく頷いた。

茶を飲みながら、2人はしばらく窓の外を見ていた。雪が落ちてくる速度は均一で、風がないせいでまっすぐに降っていた。特別なことは何も言わなかった。それでよかった。

9時を過ぎた頃、美和子がスマートフォンで銀行アプリを開いた。

「まだ入ってないかな?」

「入金は早いと9時頃には反映される」

美和子は画面を見た。しばらく待って、更新ボタンを押した。

「入ってる」

その一言だけで、総一の肩から何かが降りるような感覚があった。

「いくら?」

美和子が金額を読み上げた。総一は計算した。通常の振り込み額より多かった。所得税の還付分が含まれているようだった。美和子が言っていた通りだった。

「還付が入ってる」と総一は言った。

「うん。これだけあれば、電気代と薬と食費と、ホウテラスへの相談費用も出る」

2人は顔を見合わせた。笑うような場面ではなかった。しかし美和子の目の端に、何か柔らかいものが一瞬だけ浮かんだ。総一にはそれが見えた。

「ATMで引き出してから、電気代を払いに行こう」と総一は言った。

「コートがない」と美和子は言った。「質屋に預けていた」

「私の着て行け」

「あなたが着ないと」

「重ね着すれば平気だ」

美和子は少し考えてから、「そうする」と言った。

外に出る準備をした。美和子は総一のコートを着た。サイズが合わなくて、袖が余った。しかし文句を言わなかった。総一はセーターの上にジャケットを重ねて、その上にもう1枚薄手の上着を着た。

2人で玄関に立った。

「行こう」と総一は言った。

ドアを開けると、冷気が入ってきた。雪はまだ降っていた。最寄りのコンビニエンスストアの前にATMがあった。徒歩で5分ほどの距離だった。

雪道を2人で並んで歩いた。美和子の足取りが、ここ数週間で少し遅くなっていた。総一には分かっていた。体力が落ちているせいもあるが、足元が滑るのを気にしながら歩いているせいでもあった。総一は少し歩幅を縮めた。

コンビニの前に着いた。ATMの前に並んでいる人は1人だった。少し待って、順番が来た。総一がカードを入れた。暗証番号を押した。左手が細かく震えていた。右手の親指で左手の甲を軽く押さえながら、ゆっくりとボタンを押した。

引き出し金額を入力した。確認画面が出た。総一が確定ボタンを押そうとした瞬間、画面の表示が切り替わった。エラーメッセージではなかった。「お取り扱いできません」という文字の代わりに、別の画面が出た。残高照会の画面だった。

総一は一瞬、操作を間違えたかと思った。もう1度引き出しの操作をしようとした。そこで気づいた。残高の欄に表示されている数字が0だった。

総一はその数字を見た。もう1度見た。手順を間違えたのかと思って、カードを抜いた。もう1度入れた。暗証番号を押した。残高を確認した。ゼロ。

さっき美和子がスマートフォンで確認した金額は、確かに入っていた。それは間違いなかった。

「どうしたの」と美和子が隣で言った。

総一は画面を閉じた。美和子がスマートフォンを出した。銀行アプリを開いた。更新した。画面を見た美和子の顔が止まった。

「入出金履歴」

彼女は画面を総一に向けた。今朝振り込まれた年金の入金記録の直後に、同じ金額の出金記録があった。適用欄に「差し押さえ」という文字が表示されていた。

総一はその文字を見た。

「差し押さえ」

声に出して読んだ。ATMの脇に立ったまま、総一はその文字の意味を頭の中で追った。差し押さえ。裁判所の命令による口座の差し押さえ。大木が残した保証契約をもとに、金融業者が訴訟を起こして、勝訴判決を得て、口座を差し押さえしていた。8月に署名した書類の、あの金融会社だった。

美和子が先に入金を確認した時点では、まだ差し押さえの処理が反映されていなかった。数分の間に、自動的に引き落とされた。年金の振り込みと差し押さえの執行が、ほぼ同時に行われた。

総一はカードを財布にしまった。ATMの前から離れた。コンビニの入り口のガラス扉の前に立った。美和子が横に来た。2人とも何も言わなかった。

雪はまだ降っていた。コンビニの軒先から、溶けかけた雪がポタポタと落ちていた。

美和子がスマートフォンの画面をもう一度確認した。残高の数字を見た。それからアプリを閉じた。

「全部」と彼女は言った。「全部だ。電気代も薬も食費も、全部引かれた」

声に感情がなかった。総一も同じだった。感情を動かす余力が、今はなかった。

コンビニの前に、プラスチックの椅子が一脚置いてあった。店員が休憩に使うものだろうか。それとも誰かが置き忘れたものだろうか。椅子の座面に薄く雪が積もっていた。

美和子がその椅子の前に立った。

「少し座りたい。ここか、少しだけ」

総一は雪を払った。しかし完全には払えなかった。美和子は構わずそこに腰を下ろした。総一は美和子の隣に立った。

コンビニから客が出てきて、2人の横を通り過ぎていった。傘を開きながら、雪の中を歩いていった。

美和子が急に吸入器を取り出した。1度吸い込んだ。少し待った。また1度吸い込んだ。

「これで最後」と彼女は言った。

「吸入器が」

「うん。もうない」

総一は前を向いたまま、それを聞いた。道路の向こうに小さな公園があった。ブランコが一基と砂場があるだけの小さな公園だった。砂場が雪で白くなっていた。ブランコの鎖が、風もないのにわずかに揺れていた。

「弁護士に相談すれば、差し押さえを解除できないのか」と総一は言った。

「できるかもしれない。でも、相談費用が」

「ホウテラスは費用を立て替えてくれると言っていた。電話で予約しないといけない」

「今日できる」

「うん」と美和子は言った。

しかし2人とも、すぐには動かなかった。それがすぐに解決できる問題でないことは分かっていた。弁護士に相談して、差し押さえが解除されるまでに時間がかかる。その間、電気代をどうするか、食費をどうするか、薬をどうするか。1つを解決すれば、別の問題が出てくる。それはずっとそうだった。6月にこの話が始まった時から、ずっとそうだった。

美和子が首を傾けて、総一の肩に頭をもたせかけた。ゆっくりとした動作だった。総一はそのまま動かなかった。美和子の呼吸が肩越しに伝わってきた。少しだけ詰まるような呼吸だった。薬が切れかけているせいだった。

総一は左手を見た。震えていた。今日は特に強く震えていた。寒さのせいか、それとも別の何かのせいか、総一には分からなかった。

美和子が総一の左手を、自分の両手で包んだ。冷たい手だった。総一のより小さく薄い手だった。それでも包んでくれた。震えは止まらなかった。しかし包まれていた。

雪が降り続けていた。道路に積もった雪の上に、誰かの足跡があった。コンビニに入る人の足跡と、出ていく人の足跡が交差していた。総一はそれをぼんやり見ていた。

さっき、この道を歩いてきた時の足跡が、どこかに残っているはずだった。しかし雪が積もって、もう見えなかった。

「家に帰ろう」と総一は言った。

「うん」

美和子はゆっくりと立ち上がった。総一が腕を差し出した。美和子が腕に手をかけた。2人で雪道を歩き始めた。来た道を戻った。

足元の雪を踏みながら、総一は歩いた。美和子の歩幅に合わせて、ゆっくり歩いた。今日の昼に何を食べるか考えた。冷蔵庫に白菜と豆腐の残りがあった。それで何かを作れる。食べられる。電気は今日のところはまだ使える。今夜一杯は大丈夫なはずだ。

明日のことは、明日考えるしかなかった。それは逃げているのかもしれない。しかし今の総一には、それしかできなかった。

集合住宅が見えてきた。外壁が雪で少し白くなっていた。1階の窓が、いつもより暗く見えた。

美和子が立ち止まった。

「ねえ」と彼女は言った。

「何だ」

「春になったら、コートを質屋から出そう」

総一は美和子を見た。

「出せるようになったらな」

「出せるようになる」

「そうか」

「あなたのではなくて、私のコートの方が色がいいから」

総一は返事をしなかった。美和子は前を向いて歩き始めた。総一も歩いた。

玄関のドアを開けた。中に入った。靴を脱いで、廊下に上がった。2人の足音が廊下に響いた。

台所に入ると、窓の外に雪が見えた。鉄の小箱が棚の上にあった。総一はそれを見た。今年1年分の通知書があの中に入っている。6月のものから始まって、10月のもの。そして今日届くはずだった12月のものも、いずれ届く。全部丁寧に4つ折りにして、並べて入れることになる。

美和子がコートを脱いで椅子にかけた。それから台所に立って、冷蔵庫を開けた。

「白菜と豆腐でお味噌汁にする。それでいい」

「カツオ節、少し残ってるから、ちゃんと出汁を取る」

「分かった」

美和子は白菜を取り出してまな板に置いた。包丁を持った。白菜を切り始めた。音がした。包丁とまな板の音が台所に響いた。

総一は椅子に座った。その音を聞いていた。白菜を切る音、鍋に水を入れる音、ガスを点ける音、カツオ節を出す音。美和子が1度咳をした。短い咳だった。それから続けた。

窓の外では、雪がまだ降っていた。

今、この後何をすべきかは分かっていた。ホウテラスに電話する。弁護士の相談を予約する。差し押さえの解除について確認する。電力会社にもう1度電話して、事情を説明する。全部、今日やれることではないかもしれない。しかし1つずつやるしかなかった。

総一は左手をテーブルの上に置いた。震えていた。見ていた。震えている手を、ただ見ていた。右手で包んでやるのはやめた。今日は包まなくていいと思った。震えているなら、震えたままでいい。

台所の空気が、少しずつ暖かくなっていった。鍋の中で湯が立ち始める音がした。

美和子が「もうすぐできる」と言った。

「ああ」と総一は答えた。

窓の外の雪は、やむ気配がなかった。積もった雪の上に、今朝2人で歩いた足跡があるはずだった。コンビニまで行って戻ってきた足跡が。しかし今は、新しい雪がその上に積もって、もう分からなくなっていた。どこを歩いたか、どこまで行ったか、もう跡が残っていなかった。

ただ、今ここにいる。それだけが、今確かなことだった。

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