結婚して半年、私は夫の吉雄を透明人間として扱うことにした。人だと思うから辛いのだ。
私は奈美、29歳。吉雄とは大学の同級生で、学生時代はほとんど接点がなかったけれど、2年前の同窓会で隣の席になったのをきっかけに交際が始まり、めでたく結婚した。今はアパートで二人暮らし。吉雄が次男で、私が二人姉妹の長女だったこともあり、吉雄が私の家に婿入りしてくれた。そのことにはとても感謝していた。
ただ、ここに来て問題が一つ。吉雄が気分次第で私を無視するようになったのだ。
吉雄は元々あまりおしゃべりな方ではない。どちらかと言うと無口で、聞き役タイプ。喧嘩しても怒鳴るよりは黙る。私もそこまでおしゃべりではないけれど、吉雄よりは社交的な方だと思う。だから普段の会話も、私が話しかけたりきっかけを作り、吉雄がそれに乗って話す、という形だった。
吉雄との関係がこじれたのは、結婚して3ヶ月を過ぎた頃だった。
吉雄が職場でちょっとしたミスをして、バレないようにこっそり隠蔽しようとしたら、同僚のおしゃべりな女性社員に見つかって、全部言いふらされたらしい。上司から厳重注意を受けたそうだ。
その時の私の慰め方が気に入らなかったようなのだけど、正直なところ全く覚えていない。そもそもミスをしたのは吉雄で、バレないようにする方が悪いのではないか。厳重注意を受けるレベルの失敗は、ちょっとしたことではないと思う。
吉雄は言葉が足りないというか、都合の悪いことをあえて言わない節がある。口下手な吉雄が手軽にできる反撃方法は無視すること。会社ではできない分、ターゲットは私になった。
だから最初の無視は、吉雄の八つ当たりだったのだ。私からしたら、ある日突然吉雄から無視されたわけで、驚いて吉雄の機嫌を取ってしまった。
「どうしたの?風邪でも引いた?喉が痛いの?」
喋れない理由があるかと思って聞いても、吉雄は無視。
「ご飯できたよ。今日はあなたの好きなハンバーグにしたけど、どうかな?」
会話を振っても無視で、「いただきます」も「ごちそうさま」も何もなし。
たまらずに「私、何か悪いことしたかな?全然気づかなくてごめんね」と、自分が悪いとは思えないまま謝ってしまった。
「しょうがない。ちゃんと謝ったし、許してやるよ」
謝られた吉雄は、上から目線で満足げに頷く。私は納得がいかずモヤモヤする気持ちはあるものの、吉雄とまた会話ができることにほっとして受け入れてしまい、吉雄がモラハラする土壌を私が育ててしまった。
実は、私、父を交通事故で亡くしている。忘れもしない。高校2年生の冬。
絶賛反抗期だった私は、前の日の夜に些細なことで父と喧嘩をした。スマホの料金が高かったとか、学業をおろそかにしたらスマホを没収するぞ、とか、そういった類いのことだったと思う。
「お父さんのバカ!気持ち悪い!ひどいよ!」
と散々暴言を吐いた。冷静に考えれば私が悪いのだけど、当時は若かったのだ。
翌朝、私は父から話しかけられても無視して、先に出勤していく父に「行ってきます」と言ったのに、「行ってらっしゃい」と言わなかった。高校生の付き合いに理解のない父に腹が立っていたからだ。
でも、まさかその直後、路面凍結でスリップした車に父が跳ねられるなんて、夢にも思っていなかったし、昨日の夜の言い争いが父との最後の会話になるなんて想像もしていなかった。
もう二度と言葉を喋ることのない父を見た時、私は涙が止まらなかった。変な意地を張らないで謝れば良かった、と思い、体が震える。昨日は普通に会話していた父が冷たくなって横たわっている。せめて「行ってらっしゃい」の一言だけでも、父に言ってあげたかった。
だから私は、大切な人と喧嘩をしたままでいる、ということが本当に嫌だし怖い。私だって成人だし、人間だから、もちろん衝突することはある。それでも、夜に喧嘩をすれば、朝仕事に行くまでには仲直りをしたい。朝は笑顔で「行ってきます」を言いたいし、あんな後悔や辛い思いは二度と味わいたくないのだ。
次の日まで喧嘩を持ち越さない。いつしかそれは私の中で譲れないルールになってしまっていた。
吉雄は私と違って、両親は次男のお人好しだけど健在だし、身内を亡くしたことはない。次の日に喧嘩を持ち越したくないのは、私だけのルールだった。
私は吉雄にも父の話を何度もして、次の日まで喧嘩を続けたくないと訴えた。けど、結局のところ吉雄は、自分の怒りが収まるまで何日喧嘩が続こうが構わないのだ。吉雄は逆に、どんなに夜のうちに私に理不尽な八つ当たりをしても、次の日には私から折れて謝る、ということだけを学習した。
吉雄は決して手を出してこない。暴力を振るうことはないけど、私のことを無視する。無視されれば、私は吉雄に気を使ってちやほやして、吉雄の機嫌を取ってしまう。
私が悪いわけじゃないと思いつつ、落ち着かず自分の落ち度を探す。「何か言いすぎたかな」「知らずに傷つけたかな」と。悪循環だった。
吉雄も私も感覚が麻痺していき、吉雄が満足するまで、些細なことで無視されるようになった。1日2日と無視が続くと、私は胸が苦しくなって吐き気がしてくる。動悸が止まらないし、汗が出て目が回るし、お腹がキリキリと痛くて食欲が全然ない。ひどい時は1週間も無視が続き、私はノイローゼのようになってしまった。
「ごめんなさい、あなた。無視しないで。もう許して」
「そんな謝り方じゃだめだ。誠意が足りない」
吉雄が満足するまで私は謝る。心と体がバラバラになりそうな不思議な気分がした。でも、会話をしているということは、無視されていない。吉雄は生きている。それならまあいっか。私は完全に異常だったと思う。
目が覚めたきっかけは父だった。ちょうど命日が近づき、母から父の13回忌をするという連絡が来たのだ。家族だけの予定だけど、吉雄は婿養子だし、二人で来て、と母から招待された。
ところが、この頃には吉雄はすっかり暴君になっていて、私に全く気を使わなくなっていたのだ。
「ああ、面倒だな。もうだいぶ前に亡くなっているんだし、お父さんとは会ったこともないから、俺関係ないじゃん。お前だけ出ればいいだろう」
「わかった」
私も吉雄を怒らせたくないから、素直に了承する。吉雄は無視するだけで直接暴力を振るうわけではないし、私さえ我慢すればうまくいく、と思っていた。
当日、一人で実家に向かうと、妹は私を見るなり、
「姉ちゃん、どうしたの?いくらなんでもげっそり痩せすぎだよ。ダイエットじゃないよね」
と顔色を変えた。母も驚いて、
「どうしたの?吉雄さんは何も言わないの?」
私のことを心配し、親身になってくれる母と妹の存在がありがたくて、私はポロポロと涙が出た。そういえば、久しぶりに来た喪服が随分緩いとは思ったけど、言われるまでそこまで見て分かるくらい痩せているなんて、自分で気づきもしなかったし、吉雄も何も言わなかった。
ぽつりぽつりと事情を話すと、母と妹は激怒した。
「信じられない。なんでそんな、奈美が最も嫌がることができるのかしら。奈美がお父さんのことでトラウマになってるの、分かってるのに。この義理って、どんだけ鬼畜なのよ」
「離婚するなら、子供がいない今よ」
母と妹が自分の気持ちを代弁してくれて、吉雄からつけられた私の心の傷が癒えていく。
「お父さんもさ、お姉ちゃんがこんな目にあってるって知ったら、めちゃくちゃ怒るよ。私だって面白くないし、お兄さんのこと絶対に許せない」
「でも、殴ったり蹴ったり暴力を振るうわけじゃないから」
私はつい癖で吉雄をかばおうとすると、
「言葉で傷つけるのも暴力よ」
母がきっぱりと否定した。
「あの夜の奈美とお父さんの親子喧嘩とね、吉雄さんの無視は全く違うものなの。吉雄さんのは一方的なDVよ。あなたが我慢する必要なんて、全くないのよ」
それから法事も無事に終わり、久しぶりに家族水入らずで思い出話をした。小さい頃のアルバムを見て、時には大笑いをして、時にはしんみり泣いて、私はこんなにも家族に愛されていたんだな、と思う。
「奈美、随分無理しているんでしょう。いつでも戻ってきていいのよ。あなたの部屋はそのままあるんだから」
「そうだよ。お姉ちゃん、離婚しなよ。離婚」
何度も離婚を進められているうちに、私も気持ちがすっかり離婚に傾いた。我慢する必要なんてなかったんだ。そうだよね。自分のことを大事にしてくれない相手のためにご機嫌を取って、何でも言うことを聞いて、私は本当にバカみたいだった。
「私、吉雄と別れる」
私は離婚に向けて動き出した。どうせ離婚すれば、いないのが当たり前。じゃあ空気じゃん。人がいると思うから辛いんだし。透明人間で、見えないと思えばいいんだ。発想の転換というか、私は吹っ切れた。
それからしばらくしたある日、また無視され始めたけど、無視されることが当たり前になり、「ああ、また八つ当たりか」としか感じない。吉雄の機嫌を取ることをやめた。
吉雄は最初「あれ?」と思ったようで、様子見のように「おい、お茶」と言ってきた。リビングでテレビを見ていた私は無視する。
「おい、聞こえないのか?お茶だよ。お茶」
私は無言でテレビのボリュームを上げる。
「聞こえないのか?お茶をくれって言ってるだろう」
吉雄はイライラと声を荒げた。そこで私は初めて冷めた目で吉雄を一瞥した。
「静かにしてくれる?」
「え?」
私の反応は吉雄の思ったものと違ったようで、鳩が豆鉄砲を食らったような顔だ。ちょっと怒鳴れば私が言うことを聞くと思ったのだろう。私はまたテレビに集中し、吉雄のことを完全に無視した。
私の態度が今までと違うことに気づいた吉雄は、
「おい、お前、どこかおかしいのか?なんだ?具合でも悪いのか?」
と焦って気を使い始めた。ちゃんとおかしい。この程度の無視でビクつくなんて、とんだ小物だ。私は吉雄から1週間も無視されたのに。今更心配?
焦る吉雄に、私は「もう遅いのよ」と告げた。吉雄は何も言わずにリビングを出ていった。
すると、不思議なことが起こって、吉雄が私のことを気にし始めた。
「あのさ、ケーキ買ってきた」
ご機嫌取りのつもりか、吉雄は私にちょっとしたお土産を買ってくるようになったのだ。と言っても、コンビニスイーツ程度だけど。
「ありがとう」
人として最低限の礼儀は失いたくないのでお礼はする。でもそれだけでおしまい。冷蔵庫にしまって、吉雄がいない時に食べる。一緒にお茶を飲んでケーキを食べたりはしない。
食事は今まで通り出したけど、何も言わない。以前は「ご飯ができたよ」とか声をかけていたけど、やめた。すると、やっぱり不思議なことに、吉雄から「いただきます」「お、これ美味しいな」と話しかけられるようになった。私は声をかけられるたびにちらっと顔は見るけど、何も言わない。
そして数日経ったある日、吉雄は、
「ほら、これ」
照れ臭そうな顔で花束を渡してきた。誕生日でも何でもないけど、花でもやっておけば私が機嫌を直すと思っているのかもしれない。もう遅いのに。
私は吉雄を一瞥し、「ありがとう」とだけ言って受け取る。
「おい、他に何かないのか?」
吉雄は慌てるが、肩をすくめて放置してやった。
それからさらに数日、離婚の準備が整い、私は、
「あなた、お茶でもいかが?」
と吉雄に声をかけた。吉雄が嬉しそうに笑う。
「お気が利くな。ありがとう」
いそいそとテーブルに着く。お茶と一緒に、そっと離婚届を出した。
吉雄の顔色がみるみる変わる。
「な、なんだこれ?」
「何って?分からない?」
「ねえ、私のことを無視して、人のように扱ったでしょう。お望み通り、いなくなろうと思って」
「すまん」
吉雄はその場に土下座をしてきた。びっくりするほど心に響かない。
「あのね、もう遅いのよ」
「俺が悪かった。もう無視しない。許してくれ。愛しているんだ」
吉雄はカーペットに頭を擦り付けながら真剣に謝っている。もしかしたら吉雄は本気で反省しているのかもしれない。でも、もう無理だ。
私は何度も吉雄に訴えてきた。父のことも話したし、無視は嫌だって。それを聞かなかったのは吉雄なのだから。
「あなたも分かったでしょう。無視されることの辛さ。私はそれでも最低限の会話をしたし、家事もやった。あなたは何もしなかったのよ。無視するってことは、相手を嫌っていて、見下しているのを態度で示しているわけでしょう。そんな相手から『愛している』『許してくれ』って言われても、信じられるわけないでしょう。なんでまだ私があなたのことを愛せると思うのよ」
吉雄はその場に泣き崩れたけど、私は無視する。いくら嫌いになった相手でも、泣いている相手を無視することに、ほんの少し罪悪感がある。でも、吉雄はちょっと八つ当たり程度で無視できる男なのだから、今許したらまたきっと無視をしてくるだろう。
「なんでだよ。俺、そんな悪いことしてないじゃないか。ちょっと口を利かなかったぐらいで大げさだよ」
吉雄は泣きながら訴えてきたけど、私はぞっとした。やっぱり吉雄にとっては、妻である私を1週間無視し続けるという行為が、大したことではなかったらしい。離婚を決意して本当に良かった。価値観が違いすぎて、遅かれ早かれ離婚していただろう。だったら早い方がいい。これ以上、意味も分からず夫の機嫌次第で傷つけられるなんて真っ平だ。
「早く書いて。それと、これから先、私があなたと直接話すことはないわ。財産分与とか細かい相談には、弁護士を通してちょうだいね。あ、慰謝料も請求するから、よろしく」
そこまで言われて、吉雄が本気だと悟った。遅すぎるし、きっと本当のところでは、無視という行為がどれだけ他人を傷つけるのか理解していないだろう。でも、もう離婚して他人になるのだから、無視する。
吉雄は涙と鼻水でベチャベチャの顔で、離婚届に署名した。
こうして、私を無視する吉雄と無事に離婚。弁護士を通したおかげで財産分与もでき、慰謝料はきっちり振り込まれた。婿養子も解消したため、彼は元の家に戻ることになった。例のおしゃべりな女性社員からきっと何か言われるだろうが、ざまだ。
私は実家に戻って、会話の大切さを実感している。



