兄が亡くなってから、もう三年が経った。それでも俺はまだ、兄のカメラを手に取ることができなかった。
兄は五つ上で、俺が高校生の頃に両親を事故で失ってからは、ずっと兄と二人で暮らしてきた。写真の面白さを教えてくれたのも兄で、今の俺の仕事も、兄のおかげだ。
そんな兄が、四年前に結婚した。相手はなみさんという女性で、とてもおしとやかそうな人だった。兄の隣に並ぶと、本当にお似合いで、俺は心から祝福した。
両親がいないことを気にしていた兄は、派手な結婚式はせず、二人だけで海外で式を挙げた。だから、なみさんの親や友達のことを、俺はほとんど知らない。
兄が結婚して一年が経とうとした頃、突然、兄から電話があった。
「俺、余命一ヶ月だって」
何の冗談だと思った。親を失った俺にとって、兄は唯一の身内だ。そんな兄が、いきなり悪い冗談を言い出すなんて。
でも、兄の口調は真剣だった。末期がんで、全身に転移していて、もうどうしようもないらしい。
「お前との約束、守りたかったんだけどな」
兄は、いつか一緒に写真集を出そうと言っていた。その約束を守りたかったのだろう。
「そのためにも、今いなくなったら困るんだよ」
俺はそれだけ言うのが精一杯で、涙が流れる前に電話を切った。その瞬間、スマホが手から落ちて、俺はその場に膝をついて号泣した。
それから三ヶ月後、兄は両親の元へ旅立った。
余命一ヶ月と言われていたのに、三ヶ月も耐え抜いた。葬式でも、俺は涙が止まらなかった。なみさんはしっかり振る舞っているのに、俺はなんて情けないんだと思った。
それから数年経った今でも、俺は兄の死から立ち直れていない。両親が亡くなった時は、兄がいてくれた。兄と二人で必死に生きていこうと誓ったから、乗り越えられた。でも、今はもう一人だ。
兄の遺産も受け取ったが、そのお金に手をつける気にはなれなかった。兄の荷物の大半も、片付けとして受け取ったが、それを出すこともできずにいた。
そして、兄の三回忌がやってきた。
「これが終わったら、きちんと向き合おう」
そう心に決めて、法要を終えた。すると、なみさんに呼び止められた。
彼女は笑顔で、とんでもないことを言い放った。
「これで縁切りにします。以後、連絡しないで」
「え、どういうことですか?」
「飲関係終了届けも出すつもりだから、私たちもう関係なくなるしね」
「あの、それって縁を切るってことですよね」
「お互い、その方がいいでしょ」
なみさんはそう言って笑った。
まだ三回忌なのに。そう言いたかったが、俺には口にできなかった。確かになみさんも若いし、今後再婚したい人が出てくるかもしれない。それは分かるけど、なんだろう、この違和感は。
俺は違和感を覚えたまま、家に帰った。一人になってため息をつく。三回忌が終わったら立ち直ろうと決めていたのに、まだすぐにはできそうもない。
なみさんのあの言葉は本心だろうけど、笑顔で言うことなのか。色々考えたけど、分からない。俺はそのまま眠りについた。
それから一週間後、俺はまだモヤモヤしたままで、自分自身に苛立ち始めていた。
「今日は飲もう」
そう決めて、昔、兄とよく行っていたバーに向かった。
繁華街を歩いていると、見覚えのある女性が目の前を通り過ぎていった。隣の男性と腕を組んで歩いているのは、なみさんだ。
俺の知っているおしとやかな印象ではなく、夜の町が似合うような派手な雰囲気だった。
まあ、別に彼女がどこで誰と何をしようと、関係ないんだけど。
モヤモヤは一層増してしまった。
久しぶりにバーに入ると、まだ早い時間だからか、他に客はいない。
「彩斗君、久しぶり」
マスターは、俺と兄のことを知っている数少ない人だ。俺は一連のことをマスターに愚痴として話していたが、マスターは最後にこう言った。
「でもさ、君がずっとそんな風に悲しんでたら、お兄さんも悲しいと思うよ」
優しい口調で言われて、俺は思わず涙がこぼれてしまった。
そして、その日を境に、俺はなんとか前を向くことができた。
翌日、俺は片付けで受け取った兄の撮影機材の入った箱を開けた。
「これが一番大切なものだ」
そこには、昔から兄が使っていたカメラも入っている。片付けの時、なみさんがこれが欲しいと言っていたけど、これだけはどうしても譲れないと無理を言って、譲ってもらったものだ。
何度か箱を開けて風を通したけど、手に取って自分で使うようになったら、兄がいなくなったことを認めるような気がして、複雑な思いで手に取ることができなかった。
それを今、ようやく手に取って、その重みを感じていた。
「兄貴の大事なカメラは、この先俺が使わせてもらうよ」
兄はもういないから、これから新しく二人で写真を撮ることはできない。そういう意味では、いつか一緒に写真集を作って出版しようという約束は、もう叶わなくなってしまった。
でも、このカメラで撮ったものなら、兄と一緒に撮ったも同然だ。
俺は箱の中身を出して、一つ一つ丁寧に並べていく。そして、カメラ本体をケースから出すと、カメラと一緒に何かが落ちた。
なんだろうと思って拾い上げると、それは俺への手紙のようだった。手紙だと分からないようにするためか、何回か折って、カメラのケースに入れられていた。
それを開くと、「彩斗へ」と書かれていて、その内容は、俺の知らない余命宣告をされてから書いたもののようだった。
そこには、保険金の受け取り人は俺になっているから、今後の人生に役立てて欲しい。でも、もしかしたら妻の手によって受け取り人が変えられているかもしれないから、確認して欲しいと書かれていた。
その保険は、随分前からかけていたもののようで、高校生の俺と一緒に暮らしている時、自分に何かあったら俺が困るだろうと、年齢にしては多くの金額をかけていたということを、俺は後に知ることになる。
この保険金は、もちろん俺は受け取っていない。ということは、なみさんが。
俺はなみさんのこういう関係を全く知らない。聞くとなれば本人に直接聞くことになるが、今更俺から連絡するのは気が引ける。かと言って、兄の思いを無駄にするのも違う。
俺が尊重するのは、やっぱり兄の思いだ。
俺はそう思って、まだ消去していなかったなみさんの電話番号へ電話をかけた。
「誰?」
けだるそうに出る相手の声は、俺の知っているなみさんの声ではなかったが、俺は意を決して話を始めた。
「なみさん、俺です。彩斗です」
「はあ、もう連絡するなって言ったよね」
完全にキャラが変わってるけど、こっちが彼女の本性なんじゃないかと、俺はなんとなく気づき始めた。
「単刀直入に言いますけど、あなた保険金詐欺しましたよね」
「はあ、何言ってるの?」
「兄貴の保険金、受け取りましたよね」
「保険金? そりゃ妻が保険金を受け取るのなんて当然でしょ」
「それ、受け取り人は俺になっていたはずです」
「え、違うでしょ。私が受け取ったんだから、受け取り人は私なの」
「もしかして、お金に困ってたんですか?」
やっぱりこの人の本性はこっちなんだ。俺は全く見抜けなかった。でも、兄は結婚した後に見抜いたんだろうか。
「お兄さんなんて、結婚したら妻を受け取り人にするのは当然でしょう。なんかの勘違いじゃないの?」
「結婚する前まではあんたが受け取り人だったかもしれないけど、あの人が死んだ時には私が受け取り人だったのよ。おかげで私は優雅な暮らしが堪能できるんだけどね」
そう言って笑うなみさんに、俺は苛立ちを隠せなかった。
「ふざけるな。兄貴のことを何だと思ってるんだ」
「あんたには関係ないでしょ。これは夫婦の問題だったんだから。分かったら二度と連絡してこないでね」
俺は電話を切られたスマホの画面を見て、ため息をついた。
それから一ヶ月後、今度は俺の目の前になみさんが現れた。
「そろそろ来る頃だと思っていた」
「久しぶりね、彩斗君」
そこにいるのは、俺の知っている初めて会ったあの時のおしとやかななみさんだった。よくここまで表裏を変えられるものだ。
「何ですか?」
俺は不機嫌に答える。
「ねえ、あの人の残したもの、他にあったんでしょ? それって私にも受け取る権利あるよね」
「ああ、写真集のことですか?」
「そう、印税も受け取る権利あるわよね」
「はあ。なんで?」
「なんでって? 私はあの人の妻なんだから」
どうしてこんなことになったのかと言うと、あれは兄が亡くなってしばらくしてからのことだ。
俺の目の前には、出版社のごとうさんという人が座っていた。兄とはかなり前に知り合っていたらしく、俺と兄の作品を写真集にしたいと、俺を訪ねてきてくれた。
片付けでもらったカメラで兄が撮っていたデータをごとうさんが持っていて、兄と話を詰めていたらしいが、兄がいなくなったことで頓挫してしまい、話はそのままになっていたという。
でも、兄が病室から送った手紙を読んで、この写真集を完成させたいと思ってくれたそうだ。
俺はもちろんその話に乗った。俺と兄は、いつか二人で撮った作品を出版しようと約束していたからだ。
売れるとか売れないとか、そんなことは二の次で、とにかく作品として手元に残したいというのが俺たちの思いだった。
そうして出版したが、結論から言うと、無名の俺たちの写真集は売れなかった。
相変わらず俺は細々と生活していたけど、ある日突然、生活が一変する。
あの写真集がインターネットで評判になり、買い求める人が殺到していると、ごとうさんから連絡があったのだ。
二年も前の写真集が話題になることなんてあるのかと疑問だったが、それを聞いてインターネットで調べてみると、確かにあの写真集が話題になっている。
有名なインフルエンサーがSNSで絶賛し、その記事が拡散されていた。
その写真集が話題になったことで、さらに次の写真集の出版も決まり、俺は堂々と写真家を名乗れるほどになった。
どこで知ったのか、なみさんはその印税を目当てに俺の元に現れたというわけだ。
ここから俺の反撃が始まる。
「あの写真集は、俺と兄貴がいつか出版したいと思っていたものだ。あんたなんかにその領域を穢されたくない。帰ってくれ」
「何綺麗事言ってるの? そんなのはどうでもいいのよ。それぞれに印税が入るんでしょ。だから、それを受け取る権利が私にもあるでしょ」
初対面の印象はどこへやら。この人はお金にしか興味がないようだ。
俺は兄のことを何だと思っているのかと、腹が立って仕方ない。縁を切ったはずなのに、こんなことがあればのこのこと出てこられる神経も分からない。
「それよりも、保険金の話です」
「保険金? あ、まだ言ってるの? 今はそのことはどうでもいいわ」
「どうでも良くはないですけど」
「じゃあ先に写真集の話をしますよ。あれは俺たちの自費出版で、印税は入らないんです。次に出した俺の写真集は、今印税がガッポガッポ入ってきてますけどね」
「はあ。何それ? どういうこと?」
「そういうわけなんで、あなたが受け取れるお金は一銭足たりともありません。それよりも、あなたは保険金詐欺で訴えられる身ですけど、どうします?」
「だから保険金詐欺なんてしてないって、まだ言ってるの?」
「受け取った三千万、何に使ったんだよ」
「あれは受け取り人は確かにあんたの名前になってたけど」
そこまで言うと、話は遮られる。
「そうでしょ。だから私のお金でしょ」
「だけど、それは兄貴が亡くなる直前に変更されていたんだ。筆跡鑑定の結果、いつでも出せるけど」
まどろっこしいのはもう嫌だ。俺は結論をはっきり言ってやる。
なみさんは明らかに顔色を変える。
「筆跡鑑定って」
「あんたは兄貴が入院すると、保険金のことを調べ始めたんだろ。それで受け取り人が俺になっていることを知った。このまま兄貴がいなくなったら、保険は自分には一切入らない。だから、受け取り人の変更を申請した。兄貴の許可もなく、自分で書いてな」
青ざめたなみさんは後ずさるが、俺は容赦しなかった。
「兄貴が俺に手紙を残してくれてた。あんたが受け取り人を勝手に変更することを見通してたんだろうな。だから筆跡鑑定をした。証拠は揃ってるんだよ」
「そんなの、そんなの何かの間違いでしょ」
「あんたは兄貴の保険のことを知って、その金額に目がくらんだんだろ。違うか。兄貴の残した手紙には、保険金の話が出てからあんたの性格が豹変したって書いてあったよ」
なみさんは何も言えないのか、俺を睨みつけるだけで口を開かない。
「それを知ってからは、兄貴とはほとんど保険金の話しかしなかったらしいじゃないか。もう兄貴は長くないと知って、金のことしか見えなくなっていたんだろうな。兄貴を馬鹿にしすぎだよ」
「ふざけるな。違う。そうじゃない」
「何が違うんだよ。それに気づいた兄貴が離婚しようとしても、話をはぐらかして、結局兄貴は打つ手がなくなったんだよ。兄貴が生きてる間に俺に何も言わなかったのは、それでもあんたはそんなんじゃないって信じたかったからなんだよ。あんたはそれを裏切った。大方、保険金を手に入れた瞬間に生活が変わって、金遣いも見た目も派手になっていったんだろ」
「ひどい。そんなこと」
なみさんは反論してくるものの、覇気がなくなっている。
「じゃあ、出るとこ出るか。保険金詐欺の罪は重いらしいけど、全額返してくれるなら、なくてもいい」
「全額って、一千万近くはもうないのよ。そんなのどうすれば」
なみさんは自分の罪を認めたようだ。しかし、そんな大金、こんな短時間で何に使ったのやら。
「ようやく自分のしたことを認めたんだな。で、どうすんの?」
人が青ざめていく瞬間を初めて見たが、なみさんの顔色はどんどん悪くなり、その場にへたり込んだ。
「分かったわ。全額、なんとかします」
その後、俺は全額の三千万を受け取った。
なみさんは保険金で買ったブランド品を全て売りさばいたが、主に男に貢いでいたようで、微々たる金額しか用意できなかったらしく、実家に泣きついたそうだ。
両親からはこっぴどく叱られ、足りない分は両親が立て替えると、お父さんからわざわざ謝罪の連絡があった。
なみさんは両親の監視のもと、朝から晩まで働き詰めで、両親にお金を返しているという。
俺は写真集の出版も決まって、写真家として活躍している。
それもこれも、全部兄のおかげだ。


