「行かない方がいい」
その声は、さっきまで雑談をしていた時とはまるで別人のものだった。心臓がドキッと大きく跳ねる。何が起こっているのか、頭が追いつかない。
窓の外に人影が見えた。視線を向けると、そこにはキミカが立っていた。私を迎えに来たのだろう。タクシーを降りようとドアに手をかける。しかし、運転手の様子がおかしい。彼はキミカをひどく恐れているように見えた。
外にいる彼女は、不思議そうに私を見ている。
過去にこの2人の間に何かあったのか。
再びメモを見る。「行くな」
紙に書かれた三文字が、妙に震えて見えた。
「どうしてですか?」
彼はキミカが車から少し離れているのを確認すると、アクセルを踏んだ。
「実は……」
友春の話は衝撃的で、鳥肌が立った。ふと視界に入ったスマホには、キミカが発信元の着信が何十件も来ていた。その現実に、背筋が凍った。
私の名前は川口さやの。46歳のパート主婦だ。47歳の夫・カズマと、ごく普通の一軒家で仲良く暮らしている。彼との出会いは高校生の頃。しかし、その時はお互いただの同級生としか見ていなかった。
そんな関係が変わったのは、高校を卒業して10年後に開かれた同窓会だった。会場はとある居酒屋。最初は別々の席で飲んでいたが、人が入り乱れた結果、カズマが偶然にも私の隣にやってきた。
「そういえば昔ってあまり話してなかったよな」
「うん。3年間も同じクラスだったのにね」
カズマが話しかけてくれたことで、同じ趣味を持っていたり、近くに住んでいたりすることが判明し、とても盛り上がった。
「もしよかったら、今度2人で飲まないか? もっと話したいなって思ってさ」
彼の提案を承諾し、連絡先を交換した後、再び話に花を咲かせた。
1時間後、同窓会が終わり、2次会へ行く人と帰る人に別れた。私とカズマは帰る方を選び、2人で最寄り駅まで歩いた。駅のホームで彼が言う。
「家に帰ったら連絡しろよな。心配だからさ」
その一言に心が温かくなる。
「ありがとう。カズもお願いね」
カズマは優しく笑い、先に電車に乗り込んだ。彼を見送った後、近くのベンチに座る。同窓会で新たに仲良くなる人がいるとは思わず、嬉しくなる。
30分後、帰宅した私はカズマにメッセージを送る。彼はすでに家にいると、数分前に連絡が来ていた。その流れで次に会う日時の約束をし、お風呂へ入る。入浴中、早くカズマに会いたいという思いがずっと頭の中にあり、気持ちが高ぶった。
その日を境に、私たちは頻繁に顔を合わせるように。そして同窓会から半年が経った頃に交際を開始し、2年後に結婚した。駅に近い場所に一軒家を建て、新しい生活を始める。私は結婚を機に仕事をやめ、家の近くのスーパーでパート主婦として働き出した。子供はいないものの、毎日とても幸せで、カズマと再会できて良かったと思いながら暮らしていた。
15年後、両親や義母が亡くなるなどの困難はあったものの、2人で支え合いながら過ごす中、私は街中である人物に出会う。話しかけてきたのは向こうだった。
「もしかして、さやの?」
誰か理解できず、反応に困る。
「急に話しかけられてもって感じだよね。私、安藤キミカ。高校生の頃に3年間同じクラスだった」
名前を聞いた瞬間、鮮明に彼女との日々が頭の中に浮かんだ。
「キミカ、久しぶり。昔とはすごい変わってて、全然分からなかった」
私が知っているキミカは、ふくよかで髪が短かった。しかし目の前の彼女は、学生の頃の面影はなくスラッとしており、綺麗な髪を一つに束ねていた。
「前と全然違うでしょ。実は大学生になってからイメチェンしたのよ」
「似合うわ、素敵」
再会の場は駅近くのファミレスの前。時間はちょうど昼時を少し過ぎた頃だ。
「この後時間ある? せっかくだしご飯でもどう?」
「私もそう言おうとしてた」
「よし、じゃあ行こう」
そして私たちはレストランへ入った。ご飯を食べながら思い出話やお互いの近況などに花を咲かせる。彼女は現在クリニックの院長をしているらしい。
「開業したの?」
「もちろん。昔から自分の病院を作るのが夢だったの」
キミカは高校生の頃、医者になりたいとよく言っていた。夢が叶ったのだと、私は嬉しくなる。
「院長、すごいわね」
「大変なことも多いけど、なんだかんだ楽しいのよ。スタッフもいい人ばかりでさ」
彼女の表情は明るく、今の仕事が本当に楽しいのだと分かる。その後、話題は結婚や住まいについてに移った。キミカは結婚はしていないそうだ。両親が買ってくれた一軒家に住み、1人で快適に過ごしているとのこと。
「家をプレゼントされるなんて」
「ほら、うちって両親が揃って医者でしょ。お金はあるけど使う場面がないって言ってね」
彼女の親は現在、飛行機の距離に住んでいるらしい。
「私には縁のない世界だわ」
「そうかな」
そう言ってキミカは食後のコーヒーをすすった。
30分ほど滞在し、ファミレスを出る。連絡先の交換もしたので、いつでも彼女とやり取りができる。
「さやの、今はパートだったよね」
「そうだよ」
「よかったら今度うちに来ない? またこうして話しましょう。もし手段がなければ迎えに行くわ」
まさかの誘いに驚く。しかし、このように招いてくれるのは嬉しい。私は二つ返事で承諾した。後日、詳しい日時などを決める流れとなり、それぞれの帰路につく。
帰宅しスマホを見ると、キミカから「今日はありがとう」とメッセージが届いていたため、同じく感謝の言葉を返す。
「楽しみだな」
シフトを確認している中、そんな声が漏れた。私は胸が高鳴るのを感じつつ、キミカに連絡するため再びスマホを手に取った。
その日の夜、夕食の席でカズマに今日の出来事を伝える。
「キミカって覚えてる?」
「ああ、高校の時のか。懐かしいな。急にどうしたんだ?」
「街中で会ったの」
カズマは目を見開き驚く。そしてそのまま話題の中心は彼女へ。どんな子だったか、部活はどこか、成績はどの辺りかなど。話せば話すほど思い出がどんどん浮かんでくる。
「よくそこまで覚えてるね」
「記憶力だけはいいからさ。でもあいつ、同窓会なかったよな」
同窓会は私とカズマが再会したもの以降、されていない。彼はその1回について話しているのだろう。
「忙しかったんでしょ? ほら、お医者さんなんだし」
「それもそうか」
カズマは納得し、目の前のおかずに箸を伸ばす。私が彼女の家に行くと言っても、特に止めず「楽しんで来いよ」と言ってくれた。彼は束縛するタイプではないので、事は分かり切っていたものの、少し安心した。
1ヶ月後、キミカと会う日がやってきた。彼女は車で迎えに来てくれた。車内では以前のごとく話が盛り上がり、一緒にいて心地よい。
家までは10分もかからずに着いた。車を降り、目の前に広がる光景に驚く。
「ここがキミカの家?」
「そう。自分で言うのも恥ずかしいけど、結構立派でしょ?」
外装や庭は住宅街に馴染んでいないほど豪華で、輝いて見えた。キミカについて家の中に入る。内装も家具も何もかも綺麗だ。緊張しつつ、座るように促されたソファーに腰を下ろす。気づけば彼女が私の前に紅茶とお菓子を置いていた。
「そんなに緊張しなくていいのに」
「だって私には異世界だし」
「何回も来てたら慣れるって。ほら、紅茶でも飲んでリラックスしな」
恐る恐るカップに手を伸ばし、鼻先に近づけた。その瞬間、一気に緊張がほぐれた気がする。私の表情を見て分かったのだろう。キミカが微笑んだ。
3時間ほど過ぎ、太陽が傾き始めた頃に帰路につく。再びキミカが送ってくれて、ありがたい限りだ。
「今日はありがとう。またね」
笑顔で伝えると、彼女は「こちらこそ」と言い手を振ると、そのまま車を発進させた。
家の中に入り、キミカの家で過ごした時間を振り返る。ゆっくり世間話ができてよかった。またこんな機会が作れたらいいなと考えつつ、着替えるために寝室へ足を運んだ。
この日を境に、私はキミカの家へお邪魔することが増えた。買い物やレストランで食事をする日もあり、彼女と顔を合わせるたびに再会できて嬉しいと感じる。
ある日、私はキミカと意外な人物の接点を見つけた。
ある土曜日の午後、私はタクシーで彼女の家へ向かった。チャイムを押し、返事を待つ。すぐに中から足音が聞こえてきて、玄関のドアが開いた。
「今日は迎えに行けなくてごめんね」
「いいえ、大丈夫」
キミカに合わせたい人がいるらしい。私に思い当たるのは同級生だけだ。仲良しだった人たちを振り返りながらリビングへ向かう。しかし、ソファーに座りこちらを見ていたのは、全く想像していなかった人物だった。
「お母さん?」
義母だ。なぜここにいるのか、理解が追いつかない。
混乱している私に、キミカが事情を教えてくれる。キミカと義母は、とある習い事の教室で知り合いになったらしい。2人ともすでにやめたが、波長が合うため交流は続けていたそうだ。
「あなたの苗字や結婚した相手の話を聞くと、もしかしたらって思ってね」
「まさかさやのさんとキミカさんが同級生だとは知らなかったわ。急いで家にある卒業アルバムを見たら、同じページに2人とも写ってるんだもの。もうびっくりしちゃった」
義母は手を叩きながらはしゃいでいる。最後に会ったのは1年前の正月だ。意外と変わっておらず、安心できた。
「あの子のこと、カズマは知ってますか?」
「私とキミカさんの関係、知らないはずよ。何も聞いてないでしょ」
カズマなら知った時に話してくるだろう。私は納得し、いつの間にかソファーに座っていたキミカの隣に腰を下ろした。
「まさかここであなたと会うなんてね。引き合わせてくれたキミカさんには感謝しかないわ」
「いえ、さすがに黙ってられませんよ」
その後、3人で雑談をする。つい時間を忘れてしまうほどだ。気づけば時刻は17時になっていた。
「あ、もうこんな時間。私、夕食の準備をしなきゃいけないので帰ります」
「あら、そろそろカズマが帰ってくるのね。今日は何を作るのかしら?」
「カレーです」
帰り支度をしながら答える。同時にアプリでタクシーを呼んだ。
「あの子と何も変わらないのね。暗くなってるし、気をつけて帰るのよ」
「ありがとうございます」
数分ほど経ち、タクシーがやってくる。
「今日はありがとうございました。また話しましょう」
「また連絡するね」
2人は玄関から見送ってくれた。車が出発するまでその場にいてくれ、改めて彼女たちの優しさを感じた。
数時間後、仕事を終えて帰ってきたカズマに、先ほどまでのキミカの家でのことを伝える。
「キミカとお母さんが知り合いだったんだって。びっくりよね。まさか合わせたい人がお母さんだとは思ってなかったし。でも相変わらず元気そうで安心したわ」
義母の様子を話すと、彼は胸を撫で下ろす。
「それならよかった。家同士は近いのになかなか会う話にならないだろう。俺たちが持ちかければいいだけなんだけどさ」
私たちの家と義母の家は車で10分程度だ。近くに住んでいるので、あえて会おうという話にはならない。
「父さんもいないし、寂しいのかな? 面倒かもしれないが、会ってやってくれ」
確かに、一軒家で1人暮らしは寂しいのかも。
「次またお母さんと会う機会があったら、色々近況も聞いてみるわね。今日はそういう話はしなかったから」
「ああ、頼んだよ」
彼は笑い、着替えのために寝室へ向かう。私も夕食の準備を終わらせようとキッチンへ足を運んだ。
義母と会ってからというもの、キミカは私と同じ時間帯に彼女も家に呼び、3人での時間が増えた。義母はすでに年金暮らしだが、私とキミカは働いている。タイミングが合う日に3人でよく集まっていた。買い物や外食なども楽しむようになり、私の生活はさらに潤っていく気がした。
しかし、そんな生活に暗い影を落とす出来事が起こったのだ。
それは普段通りキミカの家に行った時のこと。私がリビングに戻ろうとした際、中から物騒な会話が聞こえてきた。
「いつ頃やります?」
「あの人ってすごい鈍感だし、いつやっても大丈夫そうですよね」
「確かに。あなたの方の準備は大丈夫なの?」
「え、私は院長ですよ。それっぽい理由をつければ、薬を持ち出すなんていつでも簡単にできちゃいます」
彼女たちは何かを企んでいるのだろうか。最初はサプライズの類いだと思い込んでいたものの、「薬」という単語が聞こえた瞬間、一気に背筋が凍る。さすがに2人が狙っている相手は私ではないはず。これ以上ここで話を聞き続けるのも怪しまれそうだ。私は何も聞いていないふりをして、彼女たちの元に戻った。
「お帰りなさい」
2人は普段通りに接してくれる。バレていないようで安心した。しかし、その日からキミカの家に行くたび、似た会話をよく耳にするようになった。「いつあいつを消そうか」などの物騒なことも聞こえてきて、手が震える。決して私の前ではせず、キミカと義母の2人きりになった時だけ。何を話しているのか聞くべきだと思ったものの、そこまでの勇気は出せない。
カズマに相談した方がいいかもとも考えた。でも、もし私が大きな勘違いをしていたら、カズマたちに迷惑をかけてしまう。どうしても彼女たちが悪いことに手を出す人たちだとは思えない。私に対してはとても優しいし、いつも楽しく話をしてくれるのだ。
カズマとの生活が嫌というわけでは決してないが、毎日同じ人たちと似た話をするのは疲れることもある。そんな私にとって、彼女たちはいい刺激になっていた。
だがある日、急にキミカと義母の態度に不穏なものを感じ始めた。きっかけは、私の体調が悪くなった時のことだ。理由は分からないが、日々の疲れが出たのだと勝手に結論を出した。特に熱や咳もなく、体がだるいだけなので、パートなどには休まず行っている。
しかし、やはり休日は外に出たくない。私はなるべくキミカの家へ行く機会や買い物などの回数を減らした。そんな生活を送る中、キミカが電話をかけてきた。寝室のベッドに横たわったまま応答する。
「はい」
「さやの、今日は会う約束してたよね。なんで来ないの?」
約束はしてなかったはずよ。視界の端に入ったカレンダーを見ても、そのような予定は書かれていない。
「それに今、体調が悪いの。体がだるいだけなんだけど、家を出るのはちょっと……」
医者である彼女なら、私の言い分を分かってくれるはずだろうと思った。だが、その考えはすぐに覆された。
「いや、いいから来なって。なんなら私が見てあげるし」
でも……と言いかけた私に腹を立てたのか、彼女は声を荒げる。
「私がいいって言ってるの。20分以内ね」
キミカは全く話を聞かず、勝手に電話を切ってしまう。このまま放っておけば、再び怒られるかもしれない。なんとか体を起こして、出かける準備を始めた。
10分後、私はキミカの家にいた。「見てあげる」と言われたものの、彼女は普段通り世間話をするばかり。キミカの横には義母が座っていた。
家に来て20分ほどが経った頃、話が途切れたタイミングで彼女に尋ねる。
「ちょっといいかな?」
「どうしたの?」
キミカは私を見る。義母も同じ反応だ。
「さっき電話で体調が悪いって言ったでしょ。少しだけ相談に乗ってくれないかな?」
「ああ、そうだったわ」
すると、キミカの目つきは急に鋭くなる。その代わりに、体がビクッと動いた。
「病院には行ってないのよね」
「うん」
「じゃあ私が何とかしてあげる」
「それは嬉しいけど……」
彼女の病院へ行くということだろうか。私は静かに話の続きを待った。
「でも病院には来なくていいわ」
「ならどうやって?」
「それはおいおい話すから。とにかく絶対に病院には行かないでね」
キミカの言っている内容があまり理解できない。しかし、医者なりの考えがあるのだろう。
「あ、分かった。でも本当にいいの?」
「私がいいって言ってるのよ」
義母は無言でこちらを見ているだけ。私はしぶしぶ頷いた。
「ああ。でも、これはカズマには言わないでおいて」
キミカの提案に疑問を抱く。
「どうして?」
「正直、私がこうして病院外で治療をするって、あまり良くないことなのよ。本当は受診しなさいって言うべき立場だからさ」
「ああ」
さらに彼女は話を続ける。
「カズマが職場とかで色々言ったら、大変なことになっちゃう。あの子、優しいけど鈍感な部分があるしね」
義母の発言には納得できた。キミカの立場などを考慮すれば、私はおそらく病院を受診するというべきだ。だが、通院の手間や金銭的な問題を考えると、彼女に任せたいのが正直なところ。
「分かった。誰にも言わない」
この返事に2人は満足そうに微笑んだ。
けれど、その後も私の体調は良くならないまま。調子がいい日と悪い日が交互に来て、精神的にも追い詰められていた。しかし、キミカが送ってくるこちらの体調を気遣うメッセージがあったため、なんとか気持ちを保てたのだ。また、彼女は再び家に誘ってくるように。時々見えるキミカの態度に疑問を抱いていたものの、私を心配してくれているのは確かだ。私は来てほしいと言われることもあり、彼女の家への訪問を再開した。
そんな生活を送り、1ヶ月が経った頃、キミカの家に行った際にある話をしようと決めた。私の体調についてだ。彼女はなんとかすると言っていたものの、具体的な行動は起こさない。それに、キミカに頼りっぱなしは申し訳ないとも思う。
約束の日、タクシーでキミカの家に着く。若干だるさがあったが、大丈夫だろう。チャイムを押すと、玄関のドアが開いた。
「さ、入って」
少しふらつきながら彼女に続いてリビングに入る。そこにはいつも通り義母の姿があった。彼女は立ち上がり、こちらへやってくる。
「さやのさん、こんにちは。あら、少し体調が悪いのかしら」
私の歩き方が気になったのか、義母はそう言った。
「ちょっとだけだるいだけですよ」
「そう。なら早くこっちに行きなさいよ」
義母はまるで自分の家のごとく、私をソファーへ誘導した。案内された場所に腰を下ろし、ほっと息をつく。いつの間にか目の前には、キミカが入れてくれた紅茶が置かれていた。普段通りの光景に安心する。
「ありがとう。家に呼んでくれて」
キミカは「どういたしまして」と言った。その後、私は彼女と話しているうちに、先ほどより体調が回復していくのを感じる。気を紛らわせることは重要なのだと気づく。
「1人で家にいるのは色々考えちゃうからね」
キミカは私の心を読んだかのようにそう言った。
「そういえば、カズマはさやのさんの体調には気づいているの?」
キミカは改まった表情で訪ねてくる。
「ええ、最初は黙ってたんですけど、さすがに一緒に生活しているので気づかれました。今日も出勤前に気遣う言葉をかけてくれましたよ」
隠そうとしていたが、無理だった。カズマは心配の言葉をかけてくれ、よく家事などを交代してくれている。
「そう、さすがにあの子もね」
義母はなぜか少し残念そうな顔をする。だが、話題は再び世間話に戻った。
「そうだ。昨日、病院でね」
私もパート先であったことやカズマとの生活について話す。義母は楽しそうに紅茶をすすっていた。
キミカの家に来て2時間が経った頃、私は帰る支度を始めた。
「あれ、もう帰るの?」
「うん。せっかくだし、買い物でもして帰ろうかなって」
家の近くのスーパーまでタクシーで行き、帰りは歩こうと考える。
「分かったわ。今度カズマに言っておくわ。ちゃんとさやのさんを見てあげてねって」
「いえいえ、十分大切にされてるので大丈夫ですよ」
微笑んで返すと、義母は笑った。
30分後、私は買い物を終え、家に帰っていた。冷蔵庫に商品を入れた後、キミカにお礼のメッセージを送った。1分も経たないうちに彼女からの返信が来て、少し驚く。その瞬間、体調について聞くことを忘れていたと気づいた。
「また次でいいか」
そんな言葉が漏れた。夕食は弁当を買ってきたため、特に準備することはない。私はスマホをリビングのテーブルに置いた後、ソファーに座り、テレビをつけた。
いつの間にか寝ていたらしい。私は帰ってきたばかりであろうカズマに起こされた。
「あ、よかった。全然起きなくて焦ったよ」
彼は少し困った顔をする。
「疲れが溜まってるんじゃないのか」
「私もそう思うわ。だけど、どれだけ休んでも治らなくて。ひどくなったら病院に行くんだぞ」
優しいカズマは詰問してこない。そこも彼を好きになった理由だ。
「分かった。ありがとう」
私は起き上がってキッチンに行き、電子レンジの中にしまってあった弁当を取り出す。
「今日はお弁当にしたの。食べる時に声をかけてね」
「おお、唐揚げ弁当か。ありがとう。落ち着いたら言う」
カズマが喜んでくれて嬉しい。私は笑顔で再び弁当を元に戻した。
1ヶ月が経っても、体調が完全に良くなることはない。ただ、以前よりはマシになった。パート先で心配される機会も減り、今まで心配をかけてしまっていた分、懸命に働かなければと考えた。
2週間後、会う約束ができたため、普段通りキミカの家にいた。当然、義母もいる。3人で世間話をする中、話題が途切れたのを見計らって口を開いた。
「キミカ、ちょっと質問があるんだけど」
「どうしたの?」
「私の体調って、なんで悪くなったのかな?」
途端にキミカは黙り込む。純粋な疑問だったため、彼女の反応に戸惑った。
「何か変なこと言った?」
「いや、そうじゃないけど」
様子がおかしい。やはりキミカに迷惑をかけていたのだろう。私はさらに言葉を続ける。
「やっぱり病院に行った方がいいかな」
その瞬間、キミカの表情が変わった。
「絶対に病院にはかかっちゃだめ。さやのは私が見るって約束したでしょ」
キミカはさらに私に迫ってくる。
「私はさやのと頻繁に話せるし、あなたもお金がかからなくて済む。それでいいってなったじゃないの。急に意見を変えるのはやめて」
「う、ごめん」
義母もキミカに同意する。
「キミカさんはお医者さんなのよ。絶対に彼女の言う通りにしておいた方がいいわ」
急に声を荒げられて驚いたが、彼女たちの言い分に頷く雰囲気に飲まれていたのかもしれない。
「とにかく、分かったら病院に行くのはやめてね。私に全部任せて」
「う、じゃあさ」
しかし、これだけは聞くべきだと話を続ける。キミカが鋭い視線をこちらに向けるが、ひるまなかった。
「何よ」
「原因は何かな? それが分かれば、自分でも生活習慣を直すとかできそうだから」
彼女は鼻で笑った。
「そんなの知るわけないでしょ。検査も何もしてないし」
「その検査をするために病院へ……」
「じゃあ、そのうち私の病院で日程を組む」
キミカから前向きな返事が聞けて安堵する。
「分かった」
「なら、この話は終わり。新しいクッキーを持ってくるわ。待ってて」
そのまま彼女は逃げるようにキッチンへ向かった。リビングで義母と2人きりになる。何か彼女に言われるかと思ったが、特に会話もないうちにキミカが戻ってきた。
「いつもさやのが帰るのは16時くらいよね。今日も?」
頷くと、彼女は私のカップに紅茶を注いだ。家を出る時間まで30分ほどある。私は不審感を覚えつつ、クッキーを口にした。
それからというもの、体調に振り回されることはさらに減った。以前の生活に戻れて嬉しい限りだ。
「最近元気そうで良かった」
「でも無理は絶対にするなよ。何かあったら俺に頼るんだぞ。母さんやキミカでもいい」
「うん」
優しい彼に救われる。しかし、実際に頼れるのは誰かを考えた。カズマとキミカは仕事がある。年金暮らしの義母は基本的に家にいるはずだが、高齢の彼女に声をかけるのは気が引けた。
家で1人になったタイミングで、ついため息が漏れる。カズマにも2人に無断で相談はできない。探せば抜け道があるはずだ。しかし、今の私には考える気力がなく、この状況を脱することは難しい。相変わらず生き方が下手だと、自分をさらに嫌いになった。
キミカに怒られた日以降、私は以前と同じく彼女と義母の3人で、何も考えずに世間話を楽しむようにしている。悩む体力もないためだ。調子が良くなったと思えば、自らを責めたせいで元に戻ってしまう。全く検査の予定を入れてくれないキミカは、普段と変わらず笑顔だ。その表情の裏には何が隠れているのか、知ってみたいという欲だけがどんどん募っていった。
2ヶ月ほどが経ったある平日の昼間。私はどうしても体調が悪く、キミカに電話をする。ちょうど彼女は仕事が休みのはずだ。
「あの、今日って休みだったよね。家に行っても大丈夫? 体調が悪くて、1人でいるのが心細いの」
「もちろん。ちょうどあなたを誘おうと思ってたのよ」
「お母さんもいる?」
「ええ」
念のため義母の存在を確認した。
「迎えに行こうか?」
「や、タクシーで行くし大丈夫。ごめんね」
「じゃあ、気をつけてくるのよ」
なんだかんだ、キミカは優しい。私は返事をして通話を切った。
そして急いで準備を済ませ、タクシーを呼ぶ。この頃には体調は落ち着いており、わざわざ彼女の家に行く必要があるのか悩んだ。それでも、1人でいる間に何があるか分からないし、キミカにも家に行くと言ったため、撤回も気が引ける。数分後、タクシーが来たので外に出て車内に乗り込む。
「お願いします」
キミカの家の住所を伝えると、運転手は少し間を置いた後、「はい」と返事をした。そして仕事の記録用なのか、紙に何かを書き始める。私は特に気にせず、窓の外に視線をやった。
数秒後、タクシーが動き出す。ふと、助手席にある運転手の名前と顔写真が記載されたパネルが視界に入った。彼の名前は村田と言うらしい。話し方や顔などから、正直彼に怖い印象を抱いた。
しかし、彼と同じ空間にいるのもほんの数分だ。私は気にせず、今度はスマホに視線を落とす。キミカに家を出たと連絡をし、再び窓の外を見た。するとバックミラー越しに、村田が話しかけてくる。
「今日はいい天気ですね」
急な出来事で驚いたものの、ただの何気ない会話だ。また、しっかり聞いてみると、意外と彼の声色は優しい。このように話しかけてくれる人は珍しく、私たちは雑談を続けた。数分限りの、とても短い関係である。
「行き先はお友達の家ですか?」
「はい」
少し気になる質問もされたが、拒否せず回答する。
「いいですね。遊びに行かれるんですか?」
「まあ、そういうところですね。あと、今私ちょっと体調が悪くて、友達のそばにいれば安心かなと」
「それは大変だ。早く治るといいですね」
話しているといつの間にかキミカの家の前に着いた。村田に金額を伝えられ、ぴったり現金で出す。
「ありがとうございました」
支払いが終わり、タクシーを出ようとする。しかし、なかなかドアが開かない。ロックもかかっており、恐怖を覚えた。
「あの……」
私が村田に問いかけた瞬間、彼が1枚のメモを渡してきた。恐る恐る内容を見る。そこには意味深な内容が書かれていた。
意味が分からない。村田に理由を聞こうとした時、彼はこう言った。
「行かない方がいい」
その声色は先ほどより何倍も重く、心臓がドキッとした。あまりにも突然の出来事で、何が起こっているのか理解できず、頭がうまく追いつかない。
抱いた疑問を彼にぶつけるために口を開いた瞬間、窓の外に人影が見えた。視線を向けると、そこにはキミカの姿があった。私を迎えに来たのだろう。支払いが終わったので、タクシーを出るためドアに手をかける。しかし、村田の様子がおかしいことに気づいた。キミカにひどく怯えていたのだ。外にいる彼女は、不思議そうに私を見ていた。
過去にこの2人の間に何かあったのか。
再びメモを見る。「行くな」
紙に書かれていた三文字が妙に震えており、村田に訪ねる。
「どうしてですか?」
彼はキミカが車から少し離れているのを確認した後、アクセルを踏んだ。
「実は……」
村田の話は衝撃的で、鳥肌が立つ。ふと視界に入ったスマホには、キミカが発信元の着信が何十件も来ていた。その現実に、背筋が凍った。
「少しだけ時間をいただけますか? 近くに私の会社があるんです。もっと詳しくお話しできればと思いまして」
「あ、はい」
私は一体誰を信じるべきなのか。混乱で息が苦しいが、今は村田を信じる他ない。彼の提案を受け入れ、一緒にタクシー会社へ向かった。その後、応接室に通され、目の前のソファーに座った彼をじっと見る。
「いきなりすみません。びっくりしましたよね」
「えっと、あの……」
「私の名前は村田です」
村田が自己紹介をしつつ、名刺を渡してくれた。私も同じく名乗る。
「名刺は持ってなくてすみません」
「いいえ、大丈夫ですよ」
お互いに一息ついた頃、私は口を開いた。
「あの、車内で話してたこと、本当なんですか?」
「もちろんです。わざわざあんな不快に思わせる行いをするわけありません。ましてや勤務中に」
確かに車内では、村田が簡単にキミカとの接点について話してくれた。彼には妻がいるらしい。約4年前、彼女が体調を悪くし、キミカのクリニックへ連れて行った。診断結果は肺炎のなりかけだったらしく、数日の入院を勧められた。
しかし、個室に入った彼女は、キミカの診察の際に暴言を浴びせられたり、手を上げられたりしたそうだ。なんとか数週間で退院できたものの、病院での出来事がトラウマになり、人が怖くなってしまったとのこと。基本的に日常生活では目立った症状はないが、キミカに似ている人物を見ると体が震えるらしい。
正直、話を聞いただけでは信じられない。
「証拠とかはあるんですか? 私はキミカとの付き合いが長いので、今日初めて会ったあなたの言い分を鵜呑みにするわけには」
タクシー内での行動や発言は、まるで彼女を全面的に悪いと決めつけているようだ。もしただの憶測であれば、彼を信じるのは違う。私は強めに村田に訪ねてみた。
「いえ、証人がいます」
「証人?」
予想外の展開だ。
「私の友達が、あのクリニックで看護師をしていました。それで何があったのかを全て話してくれて」
「そんな……」
完全に隠蔽されていた。看護師の友達が、院長に直接妻の件について物申したんだそうです。でも結局首になって。
最近キミカの様子がおかしいとは思っていたが、過去にそんな悪行をしていたとは想像もしていなかった。
「カルテに書いているわけもなく、証拠という証拠もありません。妻は何回も看護師や他のスタッフに院長の行いを話そうとしましたが、実際その場面になると怖くて無理だったと」
「私に声をかけた理由は何ですか?」
誰構わず話しかけているわけではないだろう。なぜピンポイントで私に伝えたのか。
「車内で、これから友達の家に行くって言っていましたよね。体調が悪いし、お世話になると」
先ほどの会話を振り返る。
「言いました」
「実は以前、妻の件で院長の家にお邪魔した機会があったんです」
「なぜですか?」
「クリニックの受付で院長と話がしたいと言ったところ、実際に出てきてくれて。ただ文句があるなら家に来いと、住所の書いた紙を渡されました」
かなり図々しい行為だ。だが、キミカからすればクレームなど痛くも痒くもなかったのか。同時に、絶対に言い負かせる、訴えられないという気持ちも持ち合わせていたそうだった。
「妻は院長の顔を見たくないと言い、私1人で行きました。本当に出てきて、中に入れてくれたんです。まあ、証拠がないなどと反論されて追い出されたんですけどね」
なぜそんなクリニックが今でも経営できているのだろうと、不審感を覚えた。きっと他の医者や看護師などは、首になるため口答えできない環境になっているのだろう。
「もしかして、私が何か被害に遭うかもと思ってくれたんですか?」
「はい。体調が悪いからあの家の人にお世話になるなんて。友達という関係なので大丈夫かと考えたんですけど、やはり心配だったんです」
「私を助けてくださったんですね」
優しさが染みる。先ほどまで彼に抱いていた不審感は、すっかり消えていた。
「厄介なことをされたと感じられても構わないと考えていました」
「実際どうだったんですか?」
村田は恐る恐る聞いてくる。彼を安心させるように、最近のキミカの様子や義母と交わしていた物騒な会話について伝えた。
「実は、頻度は低くなったものの、まだ時々誰かを手にかける計画が聞こえていたんです。全て私が席を離れていた時である」
ここまで状況が揃っていれば、さすがの私も気づいた。
「もしかしたら、私、狙われていたんですかね?」
「絶対そうですよ。でも、何か心当たりはあるんですか? さすがに院長がむやみやたらに人を傷つけるのは……」
必死に思考を巡らせる。でも、彼女たちの標的になり得る出来事は全く浮かばない。
「何も。だけど、あの時声をかけていただけなかったら、私はキミカの言われるがままになっていたんですね」
「そうですね。とりあえず、勇気を出してよかったです」
だが、問題が出てくる。キミカをどうすればいいのか。全てを知ってしまった以上、放っておくとさらなる被害者が出てしまう。しかし、証拠はないと言われているため、どうやって彼女を追い込めばいいのか分からない。
「村田さんはどうしたいですか?」
「正直、どうにもならないと諦めています。被害者が減ればいいとは思っていますがね」
「なるほど」
私が彼らの架け橋になる他ないと考えた。
「もしよかったら、私に何か協力させていただけませんか?」
「え、大丈夫なんですか? それに、何年も経った今、何をすればいいんですか?」
目を見開き驚く彼に、優しく言う。
「今、事情を知ってキミカに接触できるのは私しかいません。なんとか証拠になりそうな会話を録音してみます。立派な事件ですよ。訴えられる可能性もあるはずです」
「でも、あなたも狙われてるんですよ」
「大丈夫です。これからは出されたものは一切口にしないようにします。ダイエットとか理由をつければいけるかと」
村田はまだ心配そうにしていたものの、他にいい方法はないと思ったのだろう。静かに頷き、「よろしくお願いします」と言ってきた。
その後、私たちは詳細を詰め始めた。証拠が揃い次第弁護士に依頼すること、キミカと義母に1度会いに行くこと、早いうちに村田の友達である看護師に合わせてもらうことなど、私たちの意見はすぐに一致し、早々に話はまとまった。
「では、そろそろ帰ります」
「分かりました。ではお送りいたしますね。先ほどの料金も全てお返しします」
悪いなと思いつつも、彼の提案を受け入れる。数分後、私は自宅についていた。
「何か緊急なことが起こったら、さっき教えた電話番号かアドレスに連絡してください。プライベート用なので」
「ありがとうございます」
軽く会釈をし、タクシーから少し離れる。そしてドアが閉まり、車は走り去っていった。私の連絡先も教えたため、キミカが村田に対し危害を加える事態となれば、すぐにこちらにも伝わってくれるはずだ。
いつの間にか、体調は良くなっていた。ここ数ヶ月の体調の悪さは、キミカたちのせいではないかと思ってしまう。私は大きく背伸びをし、家の中に入った。
当日の夜、カズマと共に寝る準備を済ませてリビングでテレビを見ていた時、昼間の出来事を彼に話そうとした。
「ちょっといいかな? 真剣な話があるの」
「改まってどうしたんだ?」
義母も絡んでいる話のため、カズマが自らの母の行いを知った際、何を感じるのか怖かった。しかし、真実を伝える義務が私にはある。
「あのね……」
私は姿勢を正し、今までのキミカと義母のこと、村田やその家族のこと、義母たちが私の命を狙っていることなどを話す。
「お母さんたちに黙っててって言われてたんだけど、こんな大事になったらさすがにね」
カズマは適切な言葉が見つからないのだろう。視線を泳がせている。
「あの、どこでそれを……」
「今日たまたま、奥さんが被害にあった村田さんのタクシーに乗ってね、色々教えてもらったんだ。行き先を伝えたり、私の体調について聞いたらピンと来たみたい」
まず憎むべきはキミカだが、義母も犯罪に加担する気なのは事実だ。話が終わるまで、私の心臓は普段よりも大きく音を立てていた。
「ごめん。母さんが変なことをして」
彼は床に膝をつき、土下座をする。
「だって、ソファー座ってよ。あなたは何も悪いことはしてないでしょ」
「だって、でも……」
「あなたたちは別の人間よ。実際、今までさっき話した事実は知らなかったんだよね」
カズマは力なく頷く。相当のダメージを受けたと分かる。
「俺、どうしたらいい? 何か手伝えるか?」
「落ち着いて」
混乱中のカズマを落ち着かせるため、そっと抱きしめた。最初は激しい心臓の鼓動が聞こえてきたが、だんだんと普段通りに戻る。ゆっくり体を離せば、彼の表情は少しだけ柔らいでいるように見えた。
「どう?」
「ありがとう。取り乱しすぎた」
「私もきっと同じ反応をするわ」
微笑みかけると、彼も目元を緩ませる。お互いに心を休ませたところで、私は彼にして欲しいことを伝えた。
「とりあえず、私を見守ってて欲しいの」
「大丈夫なのか?」
「うん。村田さんと話し合って、キミカを訴えるから、その証拠集めで少しの間あの子の家に通うわ。だけど、絶対に出されたものは口にしない」
相変わらずカズマは不安そうだ。
「それに、お母さんも多分警察のお世話になると思う」
「大丈夫かな?」
「それはもちろん。罪を犯そうとしている母さんを親と認識したくない。縁を切ってもいい」
「大事なのはさやのだ」
彼の返答に安堵した。
「ありがとう。でも、これでキミカも母さんも頼れなくなったか」
「体調が悪い時とか、万が一2人が来た時は電話して欲しい。仕事を抜けてくる」
体調について話され、もう1つ大事なことを話す。
「多分、体は大丈夫のはず」
「なんでだ?」
「2人に内緒で病院に行ったのか?」
「キミカたちの行いとか村田さんの話を聞いて家に帰ってきた後、なんとなく体が軽くなった気がしたの」
私の話をカズマは不思議そうに聞く。
「それで、もしかしたら体調不良の原因はキミカたちなのかなって。最初は純粋に2人と話すのが楽しかったけど、いつの間にか窮屈に感じるようになってたの」
「窮屈だったのか」
「そんなところ。でも、何かあったら連絡とかはするから安心して」
改めて連絡の意思を伝えると、彼は「ああ」と笑った。ふと時計を見れば、時刻はすでに23時を過ぎていた。
「そろそろ寝る。私も明日仕事だし」
「そうだな」
短く言葉を交わした後、私たちは一緒に階段を登り、それぞれの寝室に入った。
朝、整頓できなかったベッドに飛び込む。部屋の中を暗くし、スマホの明るさを布団の中で浴びる。先ほどは一旦落ち着いた。でも、静かな空間で1人になった途端、急に緊張感が込み上げてきた。
「大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟く。
「寝よ」
私は現実から逃れるため、まぶたを閉じた。
1週間後、私はキミカの家へと足を運んだ。「行くよ」とメッセージを送れば、すぐに「分かった」と返事が来る。この時、村田と初めて会った際に大量に送られてきた連絡に対し、何も返していなかったことを思い出す。だが、彼女はあの日以降特に何も送ってこなかったので、大丈夫だろうと踏んだ。
準備をし、タクシーに乗り込む。今回は運転手は村田ではなかった。ラジオが静かな車内で流れる。数分後、キミカの家に着いた私は、玄関のチャイムを押した。少しだけ時間が空いた後、ドアが開く。
「久しぶりね。元気だった?」
「ええ、まあ」
「とりあえず入ってよ」
想像より怒っておらず、安堵する。リビングに入ると、相変わらず義母がいた。
「さやのさんじゃないの」
「はい、お久しぶりです」
つい縮こまってしまう。
「久しぶりって言ったって、1週間でしょ」
「確かにそうですね」
慎重にソファーに座る。キミカは紅茶を出してくれたが、絶対に口にはしない。重い空気が場を包む。最初に口を開いたのはキミカだった。
「なんで前は勝手に帰ったの? タクシーの運転手と話してたけど、関係ある?」
「いや、ちょっとここにいられるような体調じゃなくなって」
「ふうん。家の前まで来て帰るってどうなの?」
彼女の視線は怖い。さらに義母が攻めてくる。
「せっかくキミカさんが外まで迎えに行ってあげたのにね」
「急に1人になりたいって思う時とかありませんか?」
キミカには口では勝てなさそうだと察する。
「まあいっか。過ぎたことだものね」
「そうですね」
「だけど、連絡を全く返さなかったのはどうなの?」
キミカは自らのスマホを取り出し、こちらへの連絡の履歴を見せてきた。電話が10件にメッセージが30件といったかなりの量で、背筋が凍る。
「色々あって返せなかったのよ。あなただってそういう時があるでしょ。私より忙しいんだし」
「そう。ま、私も先週はちょっと忙しかったし、許してあげる」
なんとか納得してくれた彼女は、しぶしぶスマホをテーブルの上に置いた。キミカも義母も、以前より性格がさらにきつくなっているのは気のせいだろうか。私は変わってしまった彼女たちに、なんとか話を合わせていた。
1時間後、3人でテレビを見ている時、私はトイレだと言って席を立った。わざとスマホは伏せて置いたままである。録音がバレないようにするアプリを入れたため、2人に画面を見られても大丈夫だ。
わざと数分ほど時間を開け、リビングの方へ静かに向かう。すると中から物騒な会話が聞こえてきた。
「怪しくないですか? 最近のさやの」
「私も思ってたのよ。まさか私たちの考えがバレたとか?」
「そんなわけ。あの鈍感なさやのですよ」
「でも、じゃあなんで怪しく見えるんだって話だけど、やっぱりさっさと手をかければよかったのよ」
「今行動を起こそうとしても、絶対に警戒されるし、うまくいかないのは目に見えてるの」
やはり2人は私を害そうとしている。理由を話してくれれば、1つの録音だけで立派な証拠になる。
「ねえ、いつに……」
義母の話の途中で、私はリビングに入る。会話の終わりを待っていたと知られないためだ。
「トイレ、貸してくれてありがとう。何を話してたの?」
「今日の夜のテレビについて。私と安藤さんって趣味が合うし、何を見るかって」
必死に頷く義母が面白い。私は笑いをこらえながら「いいね」と返した。
さらに1時間後、普段より早いものの、証拠は入手できたと思い、家を後にすることに決めた。帰り支度を始めれば、キミカが不思議そうにこちらを見る。
「あれ、もう帰るの? まだ時間じゃないし」
「ちょっと用事があってね」
本当は何もないが、この言い訳を使えば帰してくれるはずだ。
「用事って何? どこか行くの?」
「デパートです」
突っ込まれるとは予想しておらず、咄嗟に出た行き先を伝える。
「商品を予約してたのをすっかり忘れてて」
つい不必要な情報まで言ってしまった。そこまで話せば、さすがに義母は納得する。
「そう。じゃあ、玄関まで送るよ」
デパートはキミカの家の近くにある。
「大丈夫だよ。ありがとうね」
私は彼女の申し出を断り、平静を保ちながら家を出た。外の空気は美味しい。やはり証拠集めというものは緊張する。大きく空気を吸えば、気分が一気に晴れやかになった。
腕時計で改めて時間を確認したところ、カズマが帰ってくるまでだいぶ余裕がある。せっかくなら本当にデパートを少し覗いていこうと、足早に目的地に向かった。
4時間後、カズマが帰ってきた。すでに家で夕食の準備を終わらせておいた私は、リビングのソファーから挨拶をする。
「お疲れさま」
「さやのこそだよ」
彼にはキミカの家へ訪問する旨は伝えている。
「どうだった?」
「もう最悪よ。録音聞いたんだけど、なんでこんなにひどいことが言えるのかなって感じ。しかも本人が同じ屋根の下にいる中でね」
カズマは頭を抱え、再び謝ろうとするが、私は彼を止めた。
「謝るの禁止でしょ」
「分かった」
優しいカズマは、義母の話をするたびに謝罪の言葉を口にしてくるのではないか。そう考えた私は、彼に謝罪禁止令を出したのだ。
「そうだ。音声聞く?」
「大丈夫なのか?」
「もちろん」
私はスマホを手に取り、音声ファイルをタップし、昼間の会話を再生した。数分後、眉間にしわを寄せたカズマが口を開いた。
「ひどいな。これは」
「当然の感想でしょう」
「もっと確かな証拠を集めて、警察に突き出してやるわ」
「よし、その意気だ」
なぜか2人で気持ちが高ぶり、思わずハイタッチをする。大変な事態に巻き込まれているはずなのだが、前向きになれるのは支えてくれるカズマのおかげだと感じた。
その後も、私は行ける際はキミカの家へ足を運び、録音を続けた。溜まっていくファイルを見ると、頑張りがいがある。
そんな生活を送る中、村田に駅近くの喫茶店に呼び出された。彼にクリニック内の事実を話した看護師ののどかに合わせたいとのことだ。
時間の少し前に指定された店に行けば、すでに村田と1人の女性が奥の席に座っていた。
「すみません。お待たせしてしまって」
「いえ、こちらが少し早く着きすぎちゃいましたので」
彼は立ち上がり、看護師であろう女性を紹介する。
「あのクリニックの元看護師である、のどかです」
「初めまして、のどかと申します。川口さんについては村田から色々聞いてます」
のどかも起立し、礼儀正しく自己紹介をしてくれた。私も軽く名前を言った後、3人で座り直す。少し雑談をし、やがて本題に入った。
「村田さんの奥さんって、さやのさんが担当してらっしゃったんですか?」
「いえ、主に後輩が受け持っていました。彼女に色々相談されて、まずい流れになってしまったと思ったんです」
のどかは淡々とクリニックでの出来事を話してくれる。彼女は村田の奥さんについて知った瞬間、キミカを説得したようだ。最初は「大丈夫だよ」と言い続けていたキミカだが、このままでは同じ事態が再発すると考え、のどかは何度も詰め寄った。結果、その場で首を宣告されたらしい。不当解雇だと言っても聞く耳を持ってくれず、労働基準監督署へ相談に行っても証拠がないと帰らされたという。
「やっぱり証拠は大事なんですね」
「はい。でも、私の場合は急すぎて何もできませんでした。全部院長の思い通りだと想像するだけで腹が立ってしまって」
彼女の気持ちはよく分かる。私は頷きながら、のどかの話を聞き続けた。
「すみません。私ばかり話していました」
「いえ、今日はさやのさんの体験を聞きに来たので」
「他に何かあるか?」
「今はないかな? そのうちどんどん出てくるはず」
村田とのどかは簡単に言葉を交わし、私に向き直る。
「現段階では、たとえ何か証拠があってもクリニックを巻き込むことはできません。私はやめさせられた身ですので」
「はい。それは分かっております」
彼女は微笑み、ある提案をしてきた。
「今度、院長の家へ直接話に行くんですよね。元々勤めていた私がいれば、何かを役に立てるかもしれません。一緒に連れて行っていただけませんか?」
確かにのどかがいてくれれば安心だ。ただ、彼女が再びキミカに会って傷ついて欲しくない。今回は義母もいるはずなので、なおさらだ。
「本当にいいんですか?」
「はい」
力強い返事が聞けて、考えを変えた。そもそも、のどかはキミカに直談判しに行った人物だ。精神的にも強い。もし何かあれば、私が守ろうと決めた。
「じゃあ、お願いします」
私がそう言うと、彼女は微笑んだ。
気づけば喫茶店に来て1時間半ほどが経っており、そろそろ行きましょうかという流れになった。会計を済ませた後、のどかと連絡先を交換して解散という流れになった。
「では、今日はありがとうございました。また今度」
それぞれの言葉を言い、帰路につく。若干緊張していたからか、気持ちが軽くなった。おそらくこのまま行けば、キミカと義母の悪行が暴かれる。私の胸は高鳴るばかりだった。
ふと、服のポケットの中にあるスマホの振動に気づく。のどかが早速連絡してきてくれたのだろうか。期待しながら画面を確認する。
「お母さん」
だが、相手は義母だった。内容は私に対する文句のようなもの。最近の私の態度が気に入らないらしい。「意地を張っている」「冷たい」などの文字が目に入り、一気に暗い気持ちになる。しかし、これも証拠の1つになるはずだ。私はメッセージを残しておくことにした。
その後、着々と弁護士の目星をつけたり、音声やメッセージを集めたりなど、準備を進めた。キミカと義母は気づかず、決して人前で話してはいけない非人道的な話をするばかり。それらを聞く私の身にもなってほしい。あまりにもひどく、音声の確認を数回断念したほど。だが、くじけたら終わりだと気合いを入れ直し続けた。
半年後、証拠集めが終わり、キミカと義母に話をする日がやってきた。カズマは休日出勤のために朝早く家を出た。村田が車で家まで迎えに来てくれて助かる。後部座席に乗り込めば、助手席にはのどかが座っていた。
私は村田に「お願いします」と言い、ドアを閉める。2人とも想像よりも緊張していないらしい。車内では静かで落ち着いた雰囲気が漂っていた。
数分後、キミカの家に着いた。事前に訪問するとは伝えてあったため、特に恐れず玄関のチャイムを押せた。ただ、彼女たちに伝えていないのは、村田とのどかも一緒ということ。2人にはモニターの役割になるであろう位置にいてもらい、家主の登場を待つ。
すぐにこちらへ近づいてくる音が聞こえ、ドアが開いた。その瞬間、隠れていた村田たちに出てきてもらう。
「いらっしゃい」
「う、後ろの2人は……」
「あなたと話したいって言ってたから、連れてきちゃった。どっちも覚えてるよね」
キミカは眉をひそめ、2人を見る。
「女の方は、さやのさんだけクリニックで働いてた。男の方は見覚えないんだけど」
「ひどい話ですね」
村田はため息をつく。キミカはその態度に腹を立てたらしい。
「急に来て、覚えてるかって聞かれても、知らないって。さやのさんも、何の用よ。今日はさやのだけが来るはずだったんだけど」
私はわざと重箱の隅をつつくようなことを尋ねた。
「いつ、私だけって言った?」
「だって、普段はあんただけじゃない」
「質問に答えてよ。だけど、その前に家に入れて欲しいな。お母さんもいるんだよね」
キミカはしぶしぶ頷く。
「ちょうどお母さんにも話があるのよ」
「じゃあ、お邪魔します」
私は強引に家に上がった。リビングに入り、ソファーでくつろぐ義母に話しかける。こちらは全員立ったままだ。彼女を見下ろす構図になる。
「お母さん、こんにちは。今日は知り合いも一緒なんです」
「あ、誰?」
義母はこちらの話を聞いていないらしい。村田たちを見て、持っていたカップを落としかけた。
「知り合いだって言ってますよね。連れてくるなら、事前に話を通しておくのが筋でしょう」
「常識がない人に言われても、何も響きません」
義母は黙り込む。もう彼女と話すのは最後になるはずだ。私は今までの鬱憤を晴らすかのごとく、今までずっと我慢していた思いを伝えた。そんな会話をしていると、リビングにキミカが入ってきた。
「何、勝手に安藤さんにも紹介してるの?」
「お母さんが困っちゃうでしょ」
「知らない人と一緒に入ってきたら、あなたは2人を知ってるはずだから、わざわざ詳細は話さなかったけど」
キミカは本当に村田を覚えていないようだ。
「さやのさんは知ってるけど、もう1人には見覚えがないんだって」
しびれを切らしたのか、村田が口を開く。
「数年前、あなたのクリニックで妻が入院したんです」
「そんな人、何人もいるわ」
「妻は肺炎と診断されました。数週間で退院できたんですが、あなたの診察の際に毎回暴言を浴びせられたんです」
キミカは思い出したのか、目を見開く。
「まさか」
「今、彼女は家にいます。あなたの被害にあってから、なかなか家を出られません。人が怖いと言っていました。これだけでも相当なトラウマをつけられたと分かりますよね」
キミカの手が震える。義母も慌てたらしい。カップをテーブルに置き、こちらに向き直った。
「あの時の人、しつこかったから、家に呼んだ覚えがあるわ」
「文句があるなら来いって言ったんでしょ」
話に入ると、キミカはこちらを見る。
「んで、知ってるの? ここに来る前に事情を聞いたに決まってるじゃない」
彼女は唇を噛みしめる。
「私が一度、この家の前に来てタクシーを降りずに帰った時があったの、覚えてる?」
約半年前の出来事だが、キミカはすぐに思い出したようだ。
「もしかして、あの時の運転手……」
「はい。私が川口さんに妻のことなどを話しました」
「なんでよ」
「川口さんが危ないと感じたんです。住所を聞いた段階で警戒していて、車内で体調が悪いから友達に世話になりに行くと聞き、それで……」
キミカと義母の顔が歪むのが分かる。
「さやの、誰にも言わないって約束したのに」
「カズマには言っちゃだめとしか言われてないわ。他の人へは大丈夫なのよね」
彼女は何かを言おうとしたが、話す隙は与えない。
「そもそも、私はタクシーの運転手があなたの被害者だとは思っていなかった。でも、ペラペラ自分の体調について話すのは違うでしょ」
キミカはこちらへ迫ってくる。激しい剣幕なので一瞬ひるんだものの、すぐに気持ちを切り替えた。
「キミカとお母さんが好きな世間話よ。私たちがいつもしてるじゃないですか。あの家の子供はこうだとか、あそこの家の嫁は浮気してるだとか」
私はキミカと義母の3人しか知らない話題を挙げる。
「正直、今思えばすごい不愉快な話ばかりでしたね。あの輪の中にいたなんて恥ずかしいです」
「あんただって色々言ってたでしょ」
実際、私はただ笑っていただけだけれど、共犯だと捉えられても仕方がない。それでも、勝手なことを言われるのは腹が立った。
「私が話した内容を言ってくれる? 覚えてないから教えて欲しいの」
「それは……」
「安藤さんなら知ってるはず」
「私に話を振られても困るわよ」
言い合いを始める2人を見て、幼稚だと思ってしまう。
「変な嘘をつくのはやめてちょうだい」
私の一言で彼女は黙った。
「とにかく、私が運転手の村田さんに話してこうなったのは奇跡ということよ」
ようやく本題を話せると思ったが、キミカは負けずに話題を振ってくる。
「じゃあ、なんでさやのさんがいるわけ? 無関係のはず。年齢も違うし、同級生とかではないでしょ」
急に話を振られたのどかは、少し動揺する。心配で私がフォローに入ろうとした際、彼女の口が開いた。
「私、村田さんの友達なんです。あなたに首にさせられた後、すぐに奥さんの話をしました」
「何を余計なことを。あんたは私の言いつけに黙って従っていればよかったの」
「首になったのに、今になってそんな話を持ち出してくるなんて」
キミカがのどかに責任転嫁を仕掛けたので、すぐに割って入る。
「村田さんの奥さんに暴言を吐かなければよかったのよ。そもそも、なんでそんなことをしたの?」
先ほどまで威勢が良かったキミカは黙り込んだ。
「理由を聞かれるのは嫌なのね。そんなあなたが院長をしてるなんて」
「腹が立ってたの」
あまりにもひどい理由に、何を言えばいいのか分からない。だが、村田が空気を破ってくれた。
「なぜですか?」
キミカは怒りを露わにする。
「あの頃、私はプライベートがうまくいっていなかったの。そういう時期にあんたの嫁が入院してきて、こいつなら気が弱そうだし、何を言っても誰にもばらさないと思っただけ」
「あなたの身勝手な事情のせいで、村田さんの奥さんは苦しんでるのよ」
「どうでもいいわ。そもそも、さやのに説教される筋合いはないから。クリニックの内部のことも患者のことも、あんたには関係ないでしょ」
それこそ私がキミカのクリニックに口を出すのは違う。彼女の行いは良くないことだが、当事者が話すべきだ。私はキミカと義母を見つめて問う。
「まさか、私が村田さんの奥さんについてだけの文句を言いに来たと考えてる?」
「何が言いたいの?」
「他にも言わなきゃダメなことがあるのよ」
2人は困惑した表情を浮かべた。
「キミカたち、私に何か隠してることあるわよね?」
「いや、ないけど」
「急に私たちが悪者みたいになって、気分が悪いわ」
白を切るのは分かっていたので、私は畳み掛ける。
「知ってるのよ。キミカとお母さんが、私の命を狙ってるって」
場の空気が凍る。
「いえ、そんなわけ……」
「被害妄想が激しいわよ」
「私が体調が悪いと言っても、家に来いとか病院には行くなと命令してきたわよね。あの頃は余裕がなくて従ってたけど、私をだんだん弱らせる魂胆だったんじゃない?」
この推理が当たっているのか、2人は口をつぐむ。
「タイミングを伺ってたのも分かってる。でも、お母さんの言う通り、バレちゃいましたけど」
なぜ知っているのかと言いたげに、義母はこちらを見た。
「弱らせる理由は?」
しかし、キミカはまだ笑う余裕があるらしい。彼女の様子を見て、義母も調子を取り戻したのか、口を上げている。
「それが分からないのよ」
「ねえ、なんで私を狙ってたの?」
当然だが、聞いても答えてくれないので、私は次の手段に出ることにした。
「ここまで話してまだ分からない? 私があなたたちの話を知っていたということは、もうシラを切り通せる時期は過ぎたの。逃げ場はないのよ」
けれど、キミカと義母は黙ったまま、不敵な笑みを浮かべている。腹立たしい。ここまで来れば、1人ずつ話した方がいいだろう。最初のターゲットを義母に定めた。
「お母さん、実は今回の件、カズマに話してるんです。私が把握できてること、全部」
その瞬間、彼女が身を乗り出す。
「あの子の反応は? カズマなら私を信じてくれるはず。大切なのは私の方ですって。お母さんとは縁を切ってもいいと言っていました」
その瞬間、彼女は力が抜けたようにソファーの背もたれに体を預けた。相当ショックを受けたようだ。
「そんなこと……だって、私はあの子を育ててきたのよ。絶対に裏切るなんてしないわ」
「いえ、現実を見てください」
「いやよ」
話が済まず、腹が立つ。私ははっきりと伝える。
「その反応を見る限り、お母さんは罪を犯そうとしてる自覚はないんですね。謝罪の1つもできないなんて。私がどれだけ怖い思いをしながら生活を送ってたのか、分かりますか」
一度爆発した気持ちは抑えられなかった。どんどん言いたいことが溢れてくる。
「油断するんじゃないわよ、キミカ。あなたにも聞きたいことはたくさんあるんだから、さっさと言いなさいよ。早く自分の罪を認めたら、クリニックの件も私への件も」
キミカはまだ反論を試みているようだ。口をパクパクさせ、懸命にタイミングを計っていた。
「いや、あなたはもう医者として表に立つことはないわね。だって、通報するんだもの」
「ふざけないでよ。そもそも、誰にも口出ししなさそうなやつを選んだって言ったでしょ。私にとって患者はただの金づる。お金を落としていればいいの」
勝ったと思ったのか、口元が上がる。
「今の発言、しっかり録音させてもらったわ」
私は嬉しさを抑えきれず、スマホを掲げる。
「実は、ここ半年間のキミカとお母さんの会話を録音してたのよ。どうやって私を害するかや、村田さんの奥さんについてをね」
「そんな……」
「やめて」
「スタッフの悪口とかも言ってたわよね。勝手にクリニックから薬を持ち出す計画も立ててた。証拠が揃った音声がたくさんあるのよ。こっちには」
キミカは必死にスマホを取り上げようと、掴みかかってきた。しかし、私は彼女より身長が高く筋力もあるので、余裕で勝てる。義母は力が入らないのか、ソファーに座ったままだ。最終的には村田とのどかも協力してくれ、無事に端末を守り抜けた。
「まあ、これを壊されても、パソコンとかUSBに移してるし、今日の会話がなくなることくらいよ」
「なんでよ、もう」
悔しがるキミカは滑稽だ。
「いい加減、全て認めてちょうだい。あなたたちの味方はいないのよ」
キミカはその場に崩れ落ちる。自分の華やかだった人生が潰されたとでも思っているのだろうか。泣きそうな顔でこちらを見上げる彼女は、何かに気づいたらしい。
「もしかして、私たちが裏で話してたこと、全て知ってたの?」
「ええ、全部録音してたのよ。あなたたちの悪行を暴く証拠になるかなと考えてね」
義母は項垂れた。
「まさか、全部知ってたなんて」
そう言い、キミカは床に手をつく。傍から見れば彼女が被害者だと勘違いされそうだが、立派な加害者だ。
「で、なんで私を手にかけようとしたの?」
これが今1番聞きたいことだ。私はキミカの目線に合わせるようにしゃがみ込み、質問する。
数秒の沈黙の後、彼女はぽつりと話し始めた。
「私、高校生の頃からずっとカズマが好きだったの」
「そうなの?」
2人が交際している話を聞いた記憶はない。キミカの片思いなのだろう。
「結局、告白できずじまいでね。同窓会で気持ちを伝えたかったけど、私は仕事で出席が無理だったの」
「ああ、来てなかったわね」
では、なぜ彼女は私とカズマが結婚したと知っているのか。そう尋ねようとした瞬間、キミカが勢いよく話す。
「安藤さんと出会って、カズマとさやのが結婚したって聞いてさ。すごいショックだったの」
「そんな中で、私と出会ったのね」
「ええ、そうよ。何年もカズマを思い続けていた彼女が真実を知り、落ち込むのは理解もできる」
でも、犯罪に手を染める必要はなかったはずだ。
「略奪したかったの。既婚者に手を出すのはダメだと分かってた。だから、あなたを排除して、悲しんでいるカズマに近づこうと思ったの。私が優しくすれば、彼は惚れてくれるはず」
カズマを侮辱されて、一瞬息ができなくなった。
「彼女に協力していた義母は、私よりキミカの方がいいと思ったのだろう」
「好きな相手に対して、随分な言い草ね」
「そういうつもりじゃ……」
呆れて、言葉も出ない。
「カズマは、優しくされただけでコロッと落ちる男性じゃない。お母さんも、息子が軽い人だと捉えているんですか?」
「違うわ。ただ、私はキミカさんの方がお似合いだと感じただけ。それで手伝ってたの」
「どっちにしろ、もう何もかも遅いですけどね」
私は立ち上がりながら言った。キミカと義母がこちらを見る。
「理由は、さっき言ったでしょ。もう全部カズマには伝えたって。お母さんのことを話した時、当然あなたの名前も挙げてるのよ」
キミカはうずくまる。背中が跳ねるように動いており、泣いていると分かった。しかし、現実は変わらない。身勝手な行いをした報いだ。
「詰めが甘かったわね。ああいう話題は、ターゲットがいない時に話すのが普通なのに。まあ、悪行はいつかバレるから無駄だけど」
本当はもっと言いたいことがあったが、2人には響かないだろうと判断し、撤退を選んだ。
「じゃあ、私たち帰るわね。村田さん、のどかさん、行きましょう」
彼らは私の後ろについてくる。玄関で靴を履き、振り返る。キミカと義母はリビングで動けなくなっているからか、姿は見えなかった。ただ、彼女たちの鳴き声だけが耳に入ってきた。
外に出て、村田の車に乗り込む。
「大変でしたね」
シートベルトを閉めた彼が言う。
「でも、川口さん、かっこよかったですね」
「そうですか?」
「それはそうだな」
つい熱くなってしまいました。お恥ずかしい限りです。
「そんなことないですって」
隣に座っているのどかは、私の肩を優しく叩く。その瞬間、一気に気が抜け、笑いながらシートに背中を預けた。
村田の通報やのどかの証言、私の取った録音などが証拠となり、キミカのクリニックには調査が入ることに。その結果、彼女は逮捕されて、賠償金の支払いと執行猶予を命じられた。同時に、キミカが経営してきたクリニックは閉鎖となった。幸い、務めていたスタッフは全員、次の就職先が見つかったらしい。現在は請求された金額を払い終わり、檻の中にいる。私と村田とのどかは、最初から裁判を傍聴していた。村田の妻は、やはりキミカの顔を見られないと言い、弁護士に全てを託した。
判決が下った日、村田は裁判所を出た後、晴れやかな顔で「少し報われた気がするよ」と言い、彼の横に立っているのどかも頷いた。
義母もキミカに手を貸したため連行されたものの、実際に行動を起こしたわけではないため、すぐに釈放されたらしい。彼女がわざわざ私とカズマの家にやってきて、ことの顛末を教えてくれたのだ。でも、全くかわいそうという感想は抱かない。早く帰って欲しいと考える中、一緒に玄関で義母の話を聞いていたカズマが口を開く。
「俺は、あんたみたいな人を母さんて呼びたくない。大切なさやのに近づかせるのも危険だ。縁を切るよ。今後一切、来ないでくれ」
普段なら彼女は反論しただろう。けれど、今はその気力もないようだ。義母は頷きもせず、とぼとぼと家を後にしていった。
「あの人の背中って、あんなに小さかったっけ? まあいいか」
カズマはそう言い、私の手を優しく握ってくれた。
私の体調は、キミカと義母と関わらなくなってから回復した。以前はどんなに彼女たちが怪しい行動をしていても、2人に頼っていれば治ると思う。いわば洗脳状態だった。1番の原因を遠ざけられて、安心するばかりだ。
今、私はカズマと2人で生活している。パートしながらの静かな暮らしは、とても快適だ。カズマは変わらず仕事を続けており、毎日楽しそうだ。年度が変わるのと同時に昇進するらしい。とても優しく真面目な彼なので、昇進して環境が変わったり仕事が増えたりしても大丈夫だろう。それでも、もしかずがくじけそうになったら、私が支えると決めている。
村田とは特に連絡は取っていない。しかし、たまにタクシーを利用すると、彼が運転する車がやってくることがしばしば。そこで数分程度、近況を報告し合うのが楽しみになっている。彼の妻は徐々に回復しているらしい。このまま普通の生活に戻れたらいいなと思う。
のどかとは、1人の友達として連絡を取り合う仲に発展した。40代で親しい人ができるとは考えていなかったが、優しい彼女と仲良くなれて喜ばしい限りだ。
命を狙われた人間は、そう多くはないだろう。もし村田があの時のタクシー運転手でなかったら、のどかが何も聞いていなかったら、など最悪なことが脳裏をよぎる機会がある。そんな時は、カズマの顔を見ると落ち着くのだ。
生き方が下手で鈍感なのは、自分でも分かっている。だからこそ、周りにもっと頼ってもいいのではないか。考えを改めさせてくれる事件だったなと、1人、大好きな紅茶を飲みながら振り返った。



