「こんな地味な女兄貴で十分だろ」
弟がそう言って、一枚の見合い写真をテーブルに放った。写真は滑って俺の湯のみにぶつかり、止まった。写っていたのは黒ぶちの眼鏡をかけた女性だった。灰色のブラウスを着て、両手を膝の上にきちんと重ねている。写真館で撮ったものだろうに、まるで謝っているような顔で笑っていた。
「そうね。この子にはもっと華やかな人がいいわ」
母は弟の湯のみにお茶を注ぎながら言った。父は腕を組んだまま俺を見た。
「じゃあお前が代わりに結婚しろ」
俺はすぐには言葉が出なかった。この家で俺の言葉が通ったことは一度もない。ただテーブルの上の写真を見ていた。この人は今ここで自分が笑われていることを知らない。そのことだけが妙に胸に残った。俺は写真を拾い上げて、テーブルの端に立てかけた。その後、父も母もその写真を二度と見なかった。父はもう次の話を始めていたし、母は弟のさらに肉を盛っていた。
あの晩、俺があの写真を拾い上げたことが、俺と弟の人生を丸ごと作り替えてしまうとは、その時の俺はまだ知らなかった。
俺の名前は真宮港。29歳、派遣社員だ。東京の品野にある大きな物流センターで働いている。入ってきた荷物を数えて棚に納め、出ていく荷物をまた数える。それが俺の毎日だ。時給は1450円。残業を入れて手取りは月に21万ほど。そこから8万円を実家に入れている。母に言われて出す金はそれだけではない。
家族は4人。父の野草が58歳。町の建材屋の社長をしている。母の高子が56歳。ずっと専業主婦だ。そして弟の陸が26歳。この家のたった一つの希望であり、2年半ほど前からほとんど家を出ていない。
俺は物心着いた頃からずっとこの弟と比べられて生きてきた。比べられて、そして負け続けてきた。だからさっきの父の言葉にも正直そこまで驚かなかった。俺の役目はいつだって、弟がいらないといったものを引き取ることだったからだ。
俺と陸は3つ違いだ。物心着いた頃からこの家の真ん中にはいつも陸がいた。一番古い記憶は入学式の写真だ。俺の入学式の写真はアルバムに1枚しかない。校門の前で俺が一人でぽつんと立っている。陸の入学式の写真は14枚ある。父も母も一緒に映っていて、みんな笑っている。俺はそのことに長い間気づかなかった。気づいたのは中学に上がってからだ。
陸は本当に何でもできた。小学2年生の正月に親戚が集まった時、叔父が冗談のつもりで難しい計算を出したことがある。3桁の掛け算を頭の中でやってみろというようなものだった。陸は湯のみを持ったまま少し天井を見て、それから答えを言った。叔父の顔が固まった。大人たちが騒いで、もっと難しいのを出せと言い出した。陸はそれも当てた。
「この子は本当に天才なの」
母はそう言って陸の頭を撫でた。帰りの車の中で父は運転しながら何度も同じことを言っていた。
「うちの希望は全部あの子にかかってる」
助手席の母が頷いた。後ろの席にいた俺のことは誰も話に出さなかった。
陸の記録はそこから止まらなかった。中学2年で受けた全国模試で1桁の順位を取った。学校から表彰が来て、父はそれを額に入れて今の壁にかけた。高校では学校のパソコンを使って独学でアプリを作り、大きなコンテストで賞をもらった。数学の全国大会の候補にも選ばれた。担任の先生が家まで来て、「この子は本気で伸ばした方がいい」と父に言ったこともある。父はその夜、缶ビールを4本も開けて上機嫌だった。
俺の方はと言うと、何をやっても普通だった。テストで80点を取って帰ると、母はこう言った。
「陸なら100点だったでしょうね」
悪気があったわけではないと思う。母は本当にそう思っていただけだ。だから余計に応えた。中学の部活で剣道会に出たことが一度だけある。初戦で負けたけれど、俺にとっては生まれて初めて何かの舞台に立てた日だった。家に帰って報告すると、父はテレビから目を離さずにこう言った。
「で、陸の模試の結果はいつ出るんだ?」
俺はそれ以来、自分の話を家でしなくなった。
高校を出て県内の私立大学に入り、卒業して中堅の食品会社に就職した。総務の仕事だった。給料は多くなかったが、自分の机があるのが嬉しかった。けれど、その会社は俺が3年目の時に事業を畳んだ。同じ部署の人たちは次々に転職を決めていたが、俺には何も残らなかった。資格もない、実績もない。面接で「学生時代に打ち込んだことは?」と聞かれるたびに言葉に詰まった。
そうして派遣で働くようになった。倉庫、工場、コールセンター。また倉庫。契約は3ヶ月ごとに切れる。切れるたびに次の現場を探した。今の物流センターは3年目に入る。派遣としては一番長く続いている場所だ。
朝は6時に起きる。実家から電車で1時間10分かけて品野へ行く。作業着に着替えて名札を胸につける。名札には「真宮」とだけ書いてある。センターの現場主任は戸田誠一さんという人だ。52歳で、頭の白いところをいつも短く刈っている。口数が少なくて、初めて会う人は大抵怖がる。俺も最初はそうだった。けれど、戸田さんは俺が入荷の伝票の数字の間違いを一つ拾い上げた時のことを覚えていた。
「真宮、お前あの箱が2つ足りないの、なんで分かった?」
「箱の高さが揃ってなかったんです。それだけです」
「『それだけ』って言うな。それができるやつが一番少ねえんだ」
戸田さんは俺の肩を軽く叩いて、そのまま行ってしまった。褒められたことがなかったから、その日は帰りの電車の中でずっとそのことを考えていた。
物流センターには短い期間だけ来る人が多い。3日でやめる人もいるし、応援で来る人もいる。名札はつけているのだが、社員も長い派遣もそういう人の名前はまず覚えない。「そこの人」「短期の子」で済ませてしまう。俺はそれが昔から嫌いだった。自分が名前で呼ばれない側にずっといたからだと思う。だから短期で入ってきた人には初日に必ず名札を見て、その日のうちに一度は名前で呼ぶようにしていた。「田口さん、そっちの台車お借りしていいですか」という風に。それだけのことだ。大した意味はないけれど、呼ばれた人は大抵少し驚いた顔をする。そして次の日から少しだけ背筋が伸びる。俺はその変化を見るのが好きだった。
戸田さんに一度だけ、「なんでそんな面倒なことをするのか」と聞かれたことがある。俺はうまく答えられなかった。
「名前で呼ばれると、その日のことを覚えてもらえた気がするので」
「変わったやつだな」
戸田さんはそれ以上何も言わなかった。
家に帰るのは大抵夜の8時を過ぎる。玄関を開けると居間のテレビの音がする。陸がソファーに寝転がってゲームをしている。俺は台所で自分の分の飯を温める。母が俺の分を用意していることはほとんどない。陸は家のことを何一つしなかった。皿を下げたこともない。風呂の掃除もゴミ出しも正月の飾り付けも全部俺の仕事だった。中学生の頃、一度だけ母に言ったことがある。「陸にも何かやらせたらどうか」と。母は洗い物の手を止めずにこう答えた。
「あの子はやることがあるのよ。あんたと違って」
失礼なことを言っても陸が叱られることはなかった。親戚の集まりでおばの料理を「味が濃い」と言った時も、父は笑ってごまかしただけだった。俺が同じことを言えば、その場で頭をはたかれていたと思う。
進路も生活も全部が陸に合わせて決まった。俺が受けたかった大学は少し遠くて下宿がいると分かった時点で消えた。陸の学費がかかるからだ。誰も俺に謝らなかったし、俺も何も言わなかった。この家ではそれが当たり前だったからだ。
陸が大学を出て、誰でも名前を知っている「姿勢テクノロジー」という会社に入ったのは3年前の春だ。両親は近所中に行って回った。父は取引先にまで電話をかけた。けれど、陸はそこで初めて壁にぶつかった。会社には陸と同じくらい頭のいい人間がいた。それどころか、陸より遅くまで残って手を動かす人間もいた。陸が担当していた機能で不具合が続き、上司に呼ばれて厳しく指摘された。担当を外されたのはその翌週だったと後から聞いた。
陸はそれに耐えられなかった。生まれてから一度も「できない奴」として扱われたことがなかったのだ。天才と言われ続けた人間にとって、自分より早い人間が同じ部屋に座っているという事実は、多分俺が想像する何倍も怖い。7ヶ月で陸は会社を辞めた。それから家にこもるようになった。昼過ぎに起きて夜通しゲームをして、明け方に眠る。それが2年半続いている。
父と母は一度も陸を責めなかった。
「あの子は今充電してるだけよ。天才には普通の会社が合わなかったんだ」
そのくせ俺には別のことを言う。「お前は派遣でも働いてるだけマシだ。だが陸の邪魔はするなよ」
「港、あんた今月だけ1万円出してくれない? 陸の通信費が高くて」
俺は頷いた。頷くしかなかった。
仕事で遅くなった日に台所で飯を食っていると、陸が水を取りに来ることがある。冷蔵庫を開けながらこちらを見せずに言う。
「派遣って大変だね。俺ならそんな働き方しないけど」
「そうか」
「時給で人生売ってんの、正直よく耐えられると思うよ」
俺は箸を止めた。言い返す言葉は頭の中にいくつも浮かぶけれど、口から出したことは一度もない。言い返せばこの家に俺の居場所がなくなるからだ。陸はペットボトルを持って階段を上がっていった。俺は冷めた味噌汁を飲み干して、自分の茶碗だけ洗って部屋に戻った。
ただ、たまに階段の下を通ると陸の部屋から低い音が漏れてくることがある。ゲームの音でも音楽でもない。人が枕に顔を押し付けて出す音だ。俺はそれを聞くたびに足を止めて、それから何もせずに自分の部屋へ入った。
弟が嫌いだった。同時に弟がかわいそうでもあった。その2つは俺の中でずっと混ざったままだった。
自分に自信があったことなど一度もない。成績も普通、運動も普通。仕事も派手ではない。29年生きてきて、俺には人に誇れるものが何一つなかった。ただ一つだけ。俺は自分でもそう思うことがある。俺は人を見下したことがない。見下される側にずっといたから、それがどれだけ人を削るかを知っているのだ。それは才能でも取り柄でもない。ただの癖のようなものだと思っていた。金にもならないし、誰も褒めてくれない。むしろこの家ではそういう甘さこそが俺の欠点だと言われ続けてきた。
縁談の話が持ち上がったのは6月の初めだった。父の会社は「真宮建材」という、ダンボールや乾燥剤を仕入れて工場や店に納める小さな会社だ。社員は28人。年商は4億2000万ほどで、銀行への借入れがずっと8000万ある。父はそれを一度も減らせないまま20年やってきた。その父が、珍しく上機嫌で帰ってきた。取引先の統合会長という人から縁談を頼まれたのだという。
「瀬川さんっていう家だ。テナントやってるらしい。うちにとっても悪い話じゃない」
母が身を乗り出した。父は湯のみを両手で包んで言った。
「陸に合わせる。陸ももう26だ。いい家と縁ができれば、働き口だって向こうがどうにでもしてくれる」
俺はその会話を台所の入り口で聞いていた。誰も俺を見なかった。この家で結婚の話が出る時、その相手はいつも陸だ。俺が29になっても、俺の縁談の話が食卓に出たことは一度もない。
父が瀬川という家をどこまで知っていたのかは、後になっても分からない。ただ縁談を持ってきたのは父の取引先の統合会長だった。その統合会長が「あそこは硬い家だ」と言ったらしい。父はそれを自分の都合のいいように受け取った。「硬い家」というのは父の中で「金のある家」に変わり、「金のある家」というのは「うちの借入れをどうにかしてくれるかもしれない家」に変わっていった。
夕食の時に父はその話をした。
「向こうの家がどれくらいの規模なのか、どこかで聞いてこようとしたらしいが、結局はっきりしたことは分からなかったようだ。まあ、大きい会社の名前は出てこなかったな」
「じゃあ、そんなに期待できないんじゃないの?」
「いや、硬い家は硬いなりに持ってるもんだ」
母は納得したような顔をした。この家の人間は自分に都合のいい話だけを信じるのがうまい。
写真が届いたのはその3日後だった。父はわざわざ食事の時間に合わせて封筒を開けた。母が身を乗り出し、陸がスマホから顔を上げた。父が写真をテーブルに置いた瞬間、母の顔から表情が消えたのを俺は見た。
「あ、あら」
陸は写真を指先でつまんで持ち上げ、頭にかざすようにして眺めた。それから鼻で笑った。
「陸、こんな地味な女、兄貴で十分だろ」
そして写真をテーブルに放った。写真は滑って俺の湯のみにぶつかり止まった。
「そうね。この子にはもっと華やかな人がいいわ」
母は陸の湯のみにお茶を注ぎながらそう言った。父は腕を組んだまま俺の方を見た。
「じゃあお前が代わりに結婚しろ」
その一言の後、居間はしばらく静かだった。父が箸を動かし始め、母が皿に移し始めた頃、俺は立てかけた写真をもう一度手に取った。取ってみると、写真の女性の指先が少しだけ震えているのが分かった。膝の上で重ねた両手の、上になった方の指がシャッターの瞬間に動いてわずかにぶれている。緊張していたのだ。この人はこの1枚のために多分朝から準備をして、慣れない写真館に行って「笑ってください」と言われて、それでも怖くて笑いきれなかった。
「この人、何も悪くないだろう」
自分でも思っていなかった言葉が口から出た。父は俺を見た。
「そうだ。何も悪くない。だからお前が行け」
「そういう意味で言ったんじゃない」
「じゃあどういう意味で?」
俺は答えられなかった。
「あんた、断れる立場だと思ってるの?」
母の声は柔らかかった。柔らかいのに刃物のようだった。
「でしょ? ボーナスもないでしょ。この先どうするつもりなの? 向こうさんがいいって言ってくださってるうちに行きなさいよ」
「そうだ。それに陸の将来を潰すわけにはいかん。あれは今大事な時期なんだ」
大事な時期。2年半、昼過ぎに起きてゲームをしている人間の大事な時期。俺は父に聞いた。
「陸が断ったのになんで俺なんだ。この話、なかったことにすればいいだろう」
「バカを言うな。会長の顔を潰す気か。うちの取引がどうなると思ってる?」
「じゃあ俺は取引のためか」
「そうだ」
父は言い切った。ためらいもなかった。俺はその潔さに一瞬笑いそうになった。少なくともこの人は嘘をつかない。俺は昔からこの家で道具として数えられていただけだ。それがこの時はっきり言葉になっただけのことだった。
俺は一度だけ言い返そうとした。口を開きかけたところで、陸がソファーの上から笑った。
「へえ、いいじゃん。兄貴。ちょうどいい相手だよ。地味でさえない同士でさ、お似合いだって」
その一言で俺の中の何かが静かに折れた。言い返しても意味がないことを、俺は29年かけて学んでいた。この家では俺が何を言っても最後は「じゃあ出ていくのか」に行きつく。出ていける貯金は俺にはなかった。家に8万円を入れて、大学の奨学金を毎月1万4000円返して、定期代と昼飯代とスマホ代で3万円が消える。その上、母は陸の小遣いだ、本代だ、食費だと言っては、これとは別に7万円を持っていく。気がつけば俺の口座には毎月1万6000円しか残らない。
その晩、俺は自分の部屋で天井を見ていた。腹が立っていたのは両親にでも陸にでもなかった。自分にだ。29歳にもなって、自分の人生の一番大きな決定を人に押し付けられて、それを黙って受け取ろうとしている自分に。
けれど天井を見ながら俺はもう一つのことを考えていた。あの写真の人は今頃どうしているんだろう。向こうにも家があって、多分向こうの家でも同じように写真を回して、同じようにため息をついている人間がいるのかもしれない。俺が断れば、この人はまた断られた側になる。断られた回数を数えて生きるようになる。俺はそれがどういうことか知っている。断られるというのは、その日1日が終わらなくなるということだ。夜中に何度も自分の何が悪かったのかを数えて、朝になっても答えが出ない。それを繰り返すうちに、人は先に自分を下げるようになる。「すみません。私なんかが」というようになる。あの写真の顔はもうそこまで行っている顔だった。
だったら俺が行けばいい。そう思ったのは同情ではなかったと思う。もっと身勝手なものだ。俺は多分、自分と同じ側にいる人間をこれ以上一人にしたくなかっただけだ。
翌朝、品野のセンターで荷下ろしをしながら、俺は戸田さんに言った。理由は自分でも分からない。ただ誰かに一度だけ声に出して言っておきたかった。
「戸田さん、俺、結婚するかもしれません」
「ああ? 弟に来た縁談です。弟が断ったんで俺が」
戸田さんは台車を止めて、フォークリフトの中でしばらく俺を見ていた。それから作業手袋を外して、俺の胸の名札をトントンと指で叩いた。
「真宮。相手の顔は見たのか?」
「写真だけです」
「じゃあ何も分かってねえな。会ってから決めろ。押し付けられた縁でも、会うのはお前だ。決めるのもお前だ。そこだけは誰にも渡すな」
俺は頷いた。頷いた瞬間に、自分の背中が少しだけ真っすぐになった気がした。
その日の昼休み、俺は休憩室で缶コーヒーを飲みながらもう一度あの写真のことを考えていた。持ってきていたわけではない。頭の中に残っていただけだ。黒ぶちのメガネ、灰色のブラウス、膝の上の手。母は写真を見て「あら」と言った。陸は鼻で笑った。父ですら「悪い話じゃない」と言いながら、写真そのものは1秒も見ていなかった。あの家であの写真を最後まで見たのは俺だけだ。そう思うとなぜだか少しだけ気持ちが落ち着いた。
戸田さんが休憩室に入ってきて、俺の向かいに座った。缶の蓋を開ける音がして、それから戸田さんは天井を見たまま言った。
「俺はな、嫁とお見合いだ」
「そうなんですか」
「親父が勝手に決めてきた。腹が立って、当日わざと汚ねえ作業着で行った」
俺は思わず戸田さんの顔を見た。戸田さんはまだ天井を見ていた。
「そうしたらな、あいつが笑ったんだ。『働いてきたんですね』って」
戸田さんは天井を見たまま続けた。
「30年経つけど、あの一言で決まったんだと思ってる」
戸田さんは缶を一気に開けて立ち上がった。
「相手が何を見てるかはこっちの都合じゃ決まらねえ。待ってこい」
会う日は6月の終わりの土曜日に決まった。都心のホテルのラウンジだと父が言った。父は当日、俺のスーツの襟を見て、下唇を出した。
「そんなよれたのしかないのか。ま、いい。向こうも似たようなもんだろ」
俺はその言葉には何も返さず家を出た。
ホテルのラウンジは天井が高くて、椅子と椅子の間隔が広かった。俺は間違ったところに来てしまったと思いながら、案内された席で背筋を伸ばして待っていた。約束の10分前にその人は来た。写真通りだった。黒ぶちの眼鏡をかけて、紺色の地味なワンピースを着ている。髪は後ろで一つに結んでいた。化粧はしているのかどうか分からないくらい薄い。彼女は席の少し手前で立ち止まり、それから深く頭を下げた。
「瀬川しおりと申します。本日はお時間をいただきましてありがとうございます」
話には縁談の話で何度も聞いた苗字のはずなのに、それとは別のどこかでも聞いた気がした。どこでかは思い出せなかった。品野のセンターには短期の人が年に何十人も来る。名札を見て名前を呼んでも、次の名前で上書きされていく。声が小さかった。周りの食器の音に消えそうなくらいだった。俺も慌てて立ち上がった。椅子が鳴った。
「真宮港です。あの、すみません。座ってください」
彼女は椅子に浅くかけた。膝の上で両手を重ねた。写真と同じ手の重ね方だった。それを見た瞬間、俺は写真の指の震えを思い出した。
飲み物が来るまでの間、彼女は一度も顔を上げなかった。俺も何を話せばいいのか分からなかった。父からは「向こうの家の資産の話をそれとなく聞け」と言われていたが、そんなことを聞ける空気ではなかったし、聞きたくもなかった。先に口を開いたのは彼女の方だった。
「あの、すみません」
「え?」
「私なんかと結婚することになってすみません」
彼女は膝の上の手を握った。指の関節が白くなっていた。
「お話をいただいた時からずっと申し訳なくて。真宮さんのご家族もきっとがっかりされたと思います。だから、もし今日この場でお断りになっても、私は」
俺は彼女の言葉を遮った。遮ってから自分でも驚いた。人の話を途中で止めたことなんて、俺の人生でほとんどなかったからだ。
「あなたが謝ることじゃないです」
彼女がようやく顔を上げた。メガネの奥の目がまっすぐこちらを見た。
「俺も勝手に決められただけです。2人とも決めたのは自分じゃない。だから多分俺たちは同じ側にいます。でも、だからこそお互いを雑に扱うのはやめませんか?」
彼女は何も言わなかった。ただ目を見開いていた。俺は自分が変なことを言ったのだと思って、慌てて続けた。
「すみません。うまく言えなくて。つまり、その、あなたのことをはれものみたいに扱ったりはしないという意味です。俺もそうされたくないので」
長い沈黙があった。それから彼女は眼鏡の下に指を入れて目の辺りを押さえた。そして小さく息を吸って、初めて笑った。
「変な人ですね」
「よく言われます」
「褒めています」
その日、俺たちは2時間近く話した。彼女は本を読むのが好きだと言った。休みの日は美術館に行くとも言った。仕事のことは「実家の会社の事務のようなこと」とだけ言って、それ以上は話さなかった。俺は自分が派遣であること、実家に金を入れていること、弟がいることを話した。隠しても仕方がないと思った。彼女はどれを聞いても顔色を変えなかった。
「真宮さんは荷物を数えるお仕事なんですね」
「まあ、そうですね。地味な仕事です」
「地味なんですか?」
彼女は本気で不思議そうな顔をした。
「誰かが数えないと荷物は届かないですよね」
俺は返事ができなかった。29年生きてきて、俺の仕事をそんな風に言った人間は一人もいなかった。
別れ際、彼女は駅の改札の手前で立ち止まってもう一度頭を下げた。
「今日ありがとうございました。真宮さんが最後まで私の目を見て話してくださったこと、私、覚えておきます」
改札を抜けていく細い背中を見送りながら、俺は妙なことを考えていた。この人は「覚えておきます」と言った。「楽しかったです」でも「また会いたいです」でもなく、「覚えておきます」と言ったのだ。それは多分、覚えておかなければ消えてしまうようなことばかりを生きてきた人の言い方だった。
話はそこから早かった。両親は俺の意向をほとんど聞かずに日取りを決めた。8月の平日に区役所で婚姻届を出した。仕事の昼休みを長めにもらって、作業着の上にジャンパーだけ羽織っていった。しおりさんは黒いスーツで来ていて、俺の格好を見ると少しだけ困ったように笑った。
「作業着、初めて見ました」
「すみません。時間がなくて」
「ええ、いいと思います」
彼女は俺の胸の名札をじっと見ていた。「真宮」とだけ書かれた、すり切れかけた名札だ。しばらくして彼女は何も言わずに窓口の紙に判をした。
住むところは俺が探した。高輪区の2部屋に台所がついたアパートだ。家賃は9万2000円で、俺の給料ではギリギリだった。実家に金を入れるのは、家を出る時にやめさせてもらった。母は3日に渡って電話をよこしたが、父はその件では何も言わなかった。父が口を開いたのは、指輪や家具の金をどうするのかと俺が聞いた時だけだ。
「向こうが持ってくるだろう。持ってこなかったら、じゃあお前が働け。それだけの話だ」
引っ越しの日、しおりさんの荷物はダンボールが三つだけだった。実家がどんな家なのか、俺はまだ見ていない。彼女は「散らかっていますので」と言って俺を家に上げなかった。その代わり、彼女は荷物の中から一つだけ丁寧に取り出したものがあった。小さな黒い手帳だった。表紙の角が全部丸くなるまで使い込まれている。彼女はそれを本棚の一番端に立てて、それから満足そうに頷いた。
「大事なものですか?」
「はい。またお話しします」
俺はそれ以上聞かなかった。人には言えないことがあるのは当たり前だと思っていたし、俺の方にもあったからだ。
2人の暮らしは驚くほど静かに始まった。俺は朝7時に出て夜8時に帰る。しおりさんは俺より遅く出て、俺より早く帰っていた。実家の会社の事務だと聞いていたから、そういうものだろうと思っていた。最初の夜、彼女は台所に立って味噌汁と焼き魚と青菜のおひたしを作った。俺が食べ始めると、彼女は自分の箸を持ったままこちらをじっと見ていた。
「おいしいですか?」
「はい。すごく」
「よかった」
彼女は本当にほっとした顔をした。後で知ったことだが、彼女が誰かのために料理を作ったのはその日が5年ぶりだったのだそうだ。
俺の作業着は毎日汚れる。ダンボールの粉と油と汗だ。俺は自分で洗うつもりでいたけれど、一緒に暮らし始めて3日目の朝、玄関のフックに綺麗に畳まれた作業着がかかっていた。
「え、いいですよ、そんなの」
「私、やりたいんです。1日中働いてきた服を洗うのって、なんだかいいなと思って」
彼女は少しだけ得意そうな顔をした。俺はその日、その作業着を着ながら何度か袖を見た。
夜は2人で食卓に向かい合って座り、その日あったことを話した。俺は倉庫の話をした。パレットが崩れた話。新しく入ってきた若い子が伝票を裏返しに読んで大騒ぎになった話。しおりさんはそういう話を目を丸くして聞いた。
「真宮さんの話は、みんな人の名前が出てきますね」
「そうですか?」
「はい。戸田さん、渡辺さん、高橋さん、誰の話かちゃんと分かります」
彼女はそこで少し黙って、それから言った。
「私の周りの話は、大抵名前が出てこないんです」
その意味が分かるまでには、まだしばらくかかった。
呼び方も少しずつ変わった。最初は「真宮さん」だったのが、8月の終わりには「港さん」になった。俺の方はずっと「しおりさん」のままだった。彼女がそう呼んで欲しそうだったからだ。
一つだけ気になることがあった。夜中に彼女の電話が鳴ることがある。彼女は寝室からそっと出て、玄関のたたきに座って小声で話す。その時の声がいつもの彼女の声ではないのだ。低くて短くて迷いがない。一度だけ、その言葉が聞こえてしまったことがある。
「その条件では受けられません。数字は明日の朝にもう一度出してください」
電話を切ってから、彼女は少しの間玄関で座っていた。そして寝室に戻ってくる時には、また元の小さくて柔らかい声に戻っていた。
「起こしてしまいましたか? すみません」
「ええ」
俺は聞かなかった。聞かないことがこの人への礼儀のような気がしたからだ。
9月に入って最初の壁が立ちはだかった。式の話だった。母から電話がかかってきて、開口一番こう言われた。
「式は親族だけでいいわよね。12人くらいで」
「うん。それでいい」
「それでね、お金のことなんだけど、うち今ちょっと出せないの」
俺は電話を持ったまま台所の壁に手をついた。
「陸のこともあるし、あの子色々考えてる時期でしょ。何かあった時のために置いておかないと」
弟のために置いておく金はあって、長男の式に出す金はない。母はそれを何の矛盾も感じずに言った。
「向こうさんには何て言うんだ?」
「向こうが出してくれるんじゃないの? そういうお家なんでしょ」
俺は電話を切った。切ってからしばらく壁に手をついたままでいた。
式場は都内の小さなホテルの一室で見積もりを取った。挙式と会食で12人でも56万はかかると言われた。俺の口座には32万しかなかった。
その週、父からも電話が来た。
「港とちょっと相談があるんだが。うちの支払いがな、今月ちょっと厳しい。50万、なんとかならんか」
俺は思わず笑ってしまった。
「俺が今、金で困ってるのは知ってるだろう」
「だから相談してるんだ。父親が息子に頭を下げてるんだぞ」
「頭は下げてないだろう」
「なんだと?」
父の声が跳ね上がった。俺は電話を持ち替えた。
「お前は昔からそうだ。人の気持ちってものを考えん。陸を見てみろ。あれは何も言わずに我慢してる」
「陸は何も言わずに寝てるだけだろ」
言ってからしまったと思った。父は電話口で息を吸って、それから低い声で言った。
「お前にうちの何が分かる?」
電話は切れた。俺は携帯をテーブルに置いて、両手で顔をこすった。
その上、仕事の方にも影が差した。品野のセンターに入って3年目に入っている。派遣という働き方には、同じ部署にいられる期間の決まりがある。その期限が来年の春に来るのだと、派遣会社の担当から告げられた。
「決まりで期限が来ますので、こちらから先方に真宮さんを直接雇ってもらえませんかとお願いを出すことができます。出しますか?」
「お願いします」
「大抵は断られます。それでも記録に残して、次の現場をご紹介します。次の現場のこともそろそろ考えておいてください。戸田さんには言ってあります」
残念ながら、積み上げてきたものがまた3年で全部ゼロになる。俺の人生はずっとこれの繰り返しだ。
その夜、俺は帰ってから何も話さずに飯を食った。しおりさんはそれに気づいていたと思うけれど、何も聞かなかった。皿を下げて茶を入れて、俺の向かいに座った。しばらくして、彼女は封筒をテーブルに置いた。
「あの、これ、何ですか?」
「式のお金です。私が出します」
封筒は分厚かった。俺は封筒を見て、それから彼女の顔を見た。
「なんで、そんな。私の家のことで港さんに負担をかけているので」
俺はしばらく黙っていた。そして封筒を彼女の方に押し返した。
「ありがとうございます。でも受け取れません」
「どうしてですか?」
「押し付けられた結婚で、金まで出してもらったら、俺には本当に何も残らないから」
言ってから自分でも情けなくなった。ただの意地だ。しおりさんは俯いた。俺は慌てて続けた。
「すみません。今のは俺のつまらないこだわりです。でも、これだけは自分でやらせてください。式の日に俺があなたの隣に立つ理由が、それしかないので」
彼女は顔を上げた。眼鏡の奥の目が少し赤かった。
「分かりました。じゃあ、私、料理をもっと安く上手に作ります」
「それは助かります」
彼女は笑った。その日からうちの夕飯にはもやしが増えた。
9月の終わりの日曜に、しおりさんを実家へ連れて行った。式の前に一度は挨拶をしないわけにはいかなかった。俺は前の晩から言いたくなかった。何が起きるか分かっていたからだ。
玄関を上がって居間に通すと、母はソファーから立ち上がりもせずにしおりさんを上から下まで見た。それから聞こえるように言った。
「あら、写真より地味なのね」
しおりさんは深く頭を下げた。
「しおりと申します。至らないものですが、よろしくお願いいたします」
「ふん、港にはちょうどいいかもしれないわね」
父は座敷の向こうで腕を組んでいた。父が最初に聞いたのは、しおりさん自身のことではなかった。
「しおりさん、お父様はどういうご商売を?」
「私の父の会社で、事務のようなことをしております」
「いや、お父様の方です。どのくらいの規模の」
「小さな会社です」
父の眉が動いた。分かりやすい人だ。父の頭の中で、この縁談の値打ちが目に見えて下がっていくのが分かった。
そこへ陸が階段を降りてきた。パジャマのままだった。しおりさんを見て片手を上げて笑った。
「どうも、断った方です」
「陸!」
本当のことだ。母は陸を咎めなかった。父は聞こえないふりをした。俺はしおりさんの手を見た。膝の上で重ねた指先が震えていた。あの写真と同じだった。
30分で切り上げて家を出た。駅までの道を2人で歩いた。俺は謝らなければと思っていたのに、うまく言葉が出なかった。先に口を開いたのは彼女だった。
「港さん」
「はい」
「あの家に、港さんの席はないんですね」
俺は足を止めた。居間の座敷に俺の席は決まっていない。父の席、母の席、陸の席はある。俺はいつもその時空いている場所に座る。しおりさんは30分でそれに気づいたのだ。
「気にしないでください。慣れてます」
「慣れなくていいです」
彼女ははっきりそう言った。小さな声だったのに、はっきりしていた。
「私は今日、初めて港さんに腹が立ちました。港さんのご家族にではなく、港さんにです。あんな風に言われて、当たり前みたいな顔をしないでください」
俺は返す言葉がなかった。彼女は前を向いて歩き出した。俺は少し遅れてついていった。その背中を見ながら、俺は生まれて初めて自分のために怒ってくれる人がいるということを知った。
俺は夜勤に入るようにした。夜勤は割り増しがつく。週に2回、深夜のセンターで体をさばいた。夜中の3時、休憩室で温かい缶コーヒーを飲んでいると、戸田さんが入ってきた。戸田さんは夜勤の日ではない。
「戸田さん、なんでいるんですか?」
「だ。嘘だと思った」
戸田さんは俺の隣に座って、カバンからパンを2つテーブルに置いた。
「食え。夜勤は腹が減る」
「すみません」
「真宮、お前、無理してんな」
「そんなことないです」
「無理してる奴は『無理してない』って言うんだよ」
戸田さんは自分の分のパンの袋を破りながら、天井を見て言った。
「金がなくて結婚する男は大抵強くなる。金がなくて結婚から逃げる男は一生弱いままだ。お前は前者だ。もう決まってる」
俺は缶コーヒーを両手で包んだ。手のひらがじわりと温かくなった。
その日、家に帰るとしおりさんが起きて待っていた。テーブルに小さな封筒が置いてあった。中身は3万円だった。
「これは私が働いて、私の口座に振り込まれたお金です。全部ではありません。今の私が、皆さんに受け取っていただいても平気だと思える分だけです。家のお金じゃありません。これなら受け取っていただけますか?」
俺はしばらく封筒を見ていた。それから頭を下げて受け取った。
「ありがとうございます」
「よかった」
彼女は本当にほっとした顔をした。俺はその3万円を式の花代に使った。式まであと1ヶ月だった。
10月に入ると、2人で式の準備をした。準備と言っても大したことはできない。招待状は自分たちで作った。しおりさんが宛名を書き、俺が近所のコンビニで印刷した。会食の席次は大きめの紙にボールペンで丸を12個書いて決めた。その夜、2人で紙を広げて丸を動かしながら、しおりさんがふと言った。
「港さん、私、こういうの一度もしたことがないんです」
「結婚式ですか?」
「ええ。誰かと一緒に、自分たちのことを決めるということを」
彼女はボールペンの尻で自分の名前の丸を軽く叩いた。
「私の家では、私に関することは全部、私のところで決まっていました。学校も習い事も着るものも会う人も」
俺は丸を見ていた。彼女の丸と俺の丸は、紙の真ん中で並んでいた。
「じゃあ、これが初めてですね」
「はい、初めてです」
彼女はその紙を後で丁寧に畳んで、あの黒い手帳に挟んでいた。
見合いの話を彼女がしたのはその次の週だった。風呂上がりの彼女はメガネをかけていなかった。眼鏡のない顔を見たのはその時が初めてだった。俺は正直少し驚いた。眼鏡がある時とない時で顔の印象が随分違ったからだ。俺の視線に気づいて、彼女は慌ててメガネをかけた。
「すみません。見苦しいもの」
「いや、そんなことはないです」
「港さんは優しい嘘をつきますね」
彼女はソファーに座って膝を抱えた。それからぽつりぽつりと話し始めた。これまでに見合いを11回したこと。そのうち9回は相手の家から断られたこと。断り方はいつも同じで「ご縁がなかった」という言葉で来ること。残りの2回は私から断ったこと。
俺は聞いた。「なぜですか」と。彼女はしばらく黙っていた。
「その方たちは、私の家のことを先に知っていたんです。そうすると、皆さん急に優しくなるんです。私の話を目を見て聞いてくださるようになるんです。でも、それは私の話を聞いているんじゃないんです。私の後ろにあるものを見ているんです」
彼女は膝に顔を半分うずめた。
「途中で分かってしまうんです。この人は私が何を言っても『そうですね』と言うんだなって。私、一度だけわざと間違ったことを言ってみたことがあります。『空は赤い色をしていますね』って。相手はなんて?」
「『そうですね』とおっしゃいました」
俺は言葉が出なかった。それがどれだけ人を一人にするか、想像はできても実感まではできない。
「それ、俺なら怒りますよ」
「怒っていいんですか?」
「怒っていいです。空は青いです」
彼女は顔を上げて、それから声を出して笑った。俺が彼女の笑い声を聞いたのはその時が初めてだった。
「港さん、私、港さんのそういうところが」
彼女はそこで言葉を止めて、また膝に顔をうずめた。最後までは言わなかった。俺も聞かなかった。
その頃から、俺たちの生活には小さな決まり事が増えていった。朝先に起きた方が味噌汁を作る。夜先に帰った方が風呂を洗う。日曜日の午前中は2人でスーパーに行き、その週の献立を決める。しおりさんは特売のシールを見つけるのがだんだん上手になっていった。
「港さん、鶏もも肉100g58円です。買いです。2パック行きましょうか?」
「行きましょう」
俺はそのやり取りが好きだった。この人は多分、人生で一度もこんな話をしたことがなかったのだと思う。そしてそれをとても楽しそうにしていた。
式の10日前に、俺は彼女の眼鏡のことに気づいた。朝、洗面所で顔を洗っている彼女の眼鏡が台に置いてあった。何気なく見ると、片方のつるが少し内側に曲がっている。かけると左だけ下がるはずだ。よく見ると、蝶番のネジも1本緩んでいた。夜勤明けの日、家に帰るとその眼鏡が洗面所の台に置いたままになっていた。彼女は気づかずに出かけたらしい。俺はそれを持って駅前のメガネ屋に入った。
「お預かりします。あの、これ、随分古いものですね」
「そうなんですか」
「今はもう作っていない型です。大事に使われてますよ」
俺は1000円札を出した。調整だけなら500円だと言われた。その晩、俺は何も言わずに眼鏡を洗面所の台に戻しておいた。
翌朝、彼女は眼鏡をかけて、それから動きを止めた。かけ直して、また止まった。そして洗面所から出てきて、俺の顔をじっと見た。
「港さん、これ」
「ああ、すみません。勝手に触りました。眼鏡のつるが曲がってたので」
「お店に出してくださったんですか?」
「はい。500円でした」
彼女はメガネを外して両手で持った。そしてそのメガネを胸のところまで持っていって、しばらくそのままでいた。
「ありがとうございます」
声が震えていた。俺は自分が何か大きなことをしてしまったのかと思って、慌てて言った。
「そんな、500円の話ですよ」
「500円の話じゃないんです」
彼女はメガネをかけ直した。そして少しだけ首をかしげて、鏡を見ずに笑った。
「まっすぐです。ずっと、少し傾いていたんです」
俺はその時、その言葉がメガネのことだけを指していないような気がした。けれど、何を指しているのかは分からなかった。
一度だけ妙なことがあった。日曜の帰りにスーパーの袋を下げてアパートの前まで来ると、通りに黒い車が止まっていた。運転席に人が座っていて、こちらを見ていた。しおりさんはその車を見て一瞬だけ足を止め、それから何事もなかったように歩き出した。運転席から女の人が降りてきた。50代くらいの、きちんとした紺のスーツの人だった。その人はしおりさんを見て一歩前に出て、それから頭を下げようとした。しおりさんが小さく首を横に振った。ほんの少しだけだ。俺が見ていなければ気づかないくらいの動きだった。女の人は動きを止めて、そのまま何も言わずに車に戻った。車は静かに走り去った。
「知り合いですか?」
「昔お世話になった方です」
「挨拶しなくて良かったんですか?」
「はい。今はまだ」
「今はまだ」という言い方が引っかかったけれど、彼女がスーパーの袋を持ち直して歩き出したので、俺もそれ以上は聞かなかった。聞かないことにはもう慣れていた。この人には言えないことがある。それは俺と結婚する前からずっとこの人の中にあるもので、俺がせかして開けていいものではない。そう思っていた。ただ、あの時しおりさんが首を振った動きだけが妙に頭に残った。あれは遠慮ではない。止める側の動きだった。
その頃、職場では戸田さんの話を聞くようになっていた。夜勤の休憩室で、戸田さんは息子の話を一度だけした。息子は今30歳で名古屋にいるのだそうだ。
「口を聞いてない」
「何かあったんですか?」
「大学をやめたいって言った時に、俺が殴った」
戸田さんはコーヒーの缶を握りつぶすように持っていた。
「殴った後にな、あいつが言ったんだ。『父さんは俺の話を一度も最後まで聞かない』って。その通りだった。だから何も言い返せなかった。それから7年だ」
俺は何と言えばいいのか分からなかった。戸田さんは立ち上がって、いつものように缶を捨てた。
「真宮、話は最後まで聞け。それだけだ」
式の前の晩、俺は眠れなかった。隣の布団でしおりさんも眠れていないのが息で分かった。俺は暗い天井を見たまま言った。
「しおりさん」
「はい」
「明日、うちの家族が何か言うかもしれません。多分、言います」
「はい」
「その時は、先に謝っておきます」
しばらく間があって、彼女の声がした。
「港さん、謝らないでください。私は明日、港さんの隣に立ちます。それだけで、11回分の元は取れています」
俺は暗闇の中で笑った。彼女も笑ったのが分かった。眠りに落ちる前に、俺はもう一度だけ思った。この結婚は誰にも祝福されていない。それでも、この人の隣は思っていたよりずっと居心地がいい。
式は10月の第4土曜だった。朝から曇っていて、式の前に少しだけ日が差した。式場は都内の古いホテルの、小さな和室のついた一室だった。畳の間に椅子を12脚並べただけの式だ。俺は借りた黒い礼服を着た。しおりさんは白い和装を選んだ。着付けの部屋から出てきた彼女を見て、俺は少しの間言葉が出なかった。彼女はメガネをかけたままだった。着付けの人が「外されますか」と聞いたのを、彼女は断ったのだそうだ。俺は理由を聞かなかった。ただ、その眼鏡は俺が500円で直したものだった。それが一番大事な日にそこにあることが、俺には嬉しかった。
出席者は12人。うち俺の側が8人で、彼女の側はしおりさんを入れて4人だった。彼女の側から来たのは、おばあさんだという年配の女性と、あの紺のスーツの女性と、もう一人白髪の男の人だった。3人とも背筋が真っすぐで、口数が少なかった。紺のスーツの人は高梨さんと言った。しおりさんは「昔から家のことを手伝ってくださっている方です」と俺に紹介した。高梨さんは俺に名刺を出そうとして途中で手を止め、代わりに深く頭を下げた。
「高梨と申します。しおり様のことを、どうぞよろしくお願いいたします」
「しおり様」という言葉が耳に残った。俺はそれを古い家の言い方なのだろうと思って流した。白髪の男の人は最後まで名乗らなかった。ただ式の間中、俺のことを見ていた。値踏みするような目ではなかった。何かを確かめている目だった。
彼女の父親は来なかった。「仕事で海外」だと伝えられていた。それを聞いた父の顔を、俺は覚えている。父は口の端を下げて母の方へ身を寄せて、こう言った。
「娘の式にも来られん商売か。じゃあ、やっぱりそんなに大した家じゃないのね」
2人はそれで完全に納得したようだった。この日から、両親の中でしおりさんの値段は決まった。
式そのものは静かに終わった。誓いの言葉を交わし、指輪を交換した。俺の指輪は1万8000円で、彼女の指輪は2万4000円だった。夜勤の割り増しとそれまでの貯金を足して買ったものだ。彼女はそれを左手にはめて、その後何度もそっと右手で触れていた。
問題はその後の会食だった。料理が2品目に入った頃、陸がグラスを置いて、部屋中に聞こえる声で言った。
「兄貴、似合ってるよ。地味同士でさ」
隣の席で母が小さく笑った。父は聞こえないふりをして箸を動かしていた。陸はそこで止めなかった。むしろ母が笑ったことで火がついたようだった。彼はグラスを取り上げ、しおりさんの方へ軽く掲げた。
「いや、俺が断って正解だったな。地味でさえない人には、地味でさえない人ってことだよ。世の中うまくできてるわ」
部屋が静かになった。俺の側の親戚も箸を止めていた。誰も陸を止めなかった。この家ではそれが普通だったからだ。おばあさんという人が箸を置いた。紺のスーツの人の表情が消えた。白髪の男の人は膝の上で手を組んだ。3人とも何も言わなかった。ただ、その静けさが空気を重くした。
俺はしおりさんを見た。彼女は笑っていた。何も聞こえなかったという顔で、まっすぐ前を向いて笑っていた。慣れているのだ。9回断られて、「空は赤い」と言っても「そうですね」と返されて、それでも顔に出さない練習をこの人はずっとしてきたのだ。けれど、膝の上の手が震えていた。白い着物の袖の下で、指先が細かく震えていた。あの写真と同じだった。実家の居間で見たのと同じだった。この人は3度目だ。3度目に、俺はその震えをただ見ているのか。
気がついたら、俺は立っていた。
「やめろ」
自分の声が思ったより大きくて、自分で驚いた。部屋の全員がこちらを向いた。陸がグラスを持ったまま口を半分開けて、俺を見た。
「は? 兄貴が俺に説教?」
陸の顔に浮かんだのは怒りではなかった。驚きだった。26年生きてきて、この弟は人前で兄に声を上げて止められたことがない。犬が突然喋ったような顔をしていた。母が慌てて口を挟んだ。
「港、やめなさい。おめでたい席で」
「座りなさい」
俺は座らなかった。膝の裏が震えていた。声も震えていた。それでも、俺はこの29年で初めて弟に向かって言い返した。
「俺のことはいい。今まで何を言われても黙ってた。俺のことなら、これからも黙ってる。でも、妻を笑うな」
自分の口から出た「妻」という言葉が、自分の耳に妙に響いた。
「今日、この人は俺の隣に立つために来たんだ。この部屋で誰よりも緊張して、誰よりも早く来て、誰にも文句を言わずに座ってる。その人を笑うなら、出ていけ」
陸はグラスを置いた。何か言おうとして、言葉を探して、見つからなかったらしい。彼は椅子を鳴らして立ち上がり、母の方を見た。母は何も言わなかった。父も何も言わなかった。陸はそのまま部屋を出ていった。
しばらく誰も口を利かなかった。仲居さんが次の皿を運んできて、部屋の空気に気づいて足を止めた。俺は座って、その人に「お願いします」と言った。会食は続いた。俺は自分の膝が震えているのを、テーブルの下でずっと抑えていた。
その時、隣から小さな音がした。しおりさんが箸を置いた音だった。彼女は前を向いたまま、けれど俺の方へ顔を少しだけ動かして、俺の横顔を見ていた。見ていたというより、確かめていた。眼鏡の奥の目が何かをずっと探していて、それがやっと見つかったという目をしていた。
俺は前を向いたまま、小さく言った。
「すみません。台無しにしました」
彼女は首を横に振った。そしてテーブルの下で、俺の震えている手の上に自分の手を重ねた。その手も震えていた。震えている手と震えている手が重なって、不思議なことに両方とも少しずつ止まっていった。
「港さん、私、今日この日のことを一生忘れません」
彼女はそう言って、その後何も言わなかった。
会食が終わって、俺が会場の外の廊下で靴を履き換えていると、父が追いかけてきた。父は俺の腕を掴んで、柱の影まで引っ張った。
「お前、何をやってるか分かってるのか?」
「分かってる」
「会長に恥をかかせてどうするつもりだ? あいつは今、大事な」
「大事な時期だろ? 何回聞いたか分からない」
父の手に力が入った。
「向こうさんの前だぞ。うちの取引がどうなると思ってる?」
「取引の話、まだしてるのか?」
「当たり前だ。うちがどれだけ苦しいと思ってる?」
俺は父の手をゆっくり外した。外してから、自分でも意外なほど静かな声が出た。
「父さん、今日、うちの側でしおりさんのことを一度でも名前で呼んだ人がいたか?」
「何の話だ?」
「誰もいない。父さんも母さんも『向こうさん』って呼んでた」
父は口を開けて、そして閉じた。
「俺は今日、あの人と結婚したんだ。取引相手と結婚したんじゃない」
父は何かを言おうとして、結局言わずに背を向けた。廊下の曲がり角で、母が陸と何か話しているのが見えた。陸はもう笑っていなかった。俯いて、母の言葉に何度も頷いていた。
俺はその2人を見て、それから会場の方へ戻った。しおりさんが着物の裾を持って、俺を待っていた。
式が終わってアパートに帰ったのは夜の8時過ぎだった。玄関で靴を脱いで、部屋の電気をつけた瞬間、彼女は立ったまま声を出して泣いた。俺は何もできずに突っ立っていた。しばらくして、彼女は着物のままの姿勢で、両手で顔を覆ったまま言った。
「嬉しくて泣くのって、こんなに苦しいんですね」
やがて彼女は顔を上げて、赤い目のまま少し笑った。
「港さん、私、今日、名前で呼ばれました」
「え?」
「あの部屋で、港さんが『妻』って言ってくださいました。名前じゃないのに、生まれて初めて名前で呼ばれた気がしたんです」
俺はうまく返事ができなかった。ただ頷いた。俺はその夜、彼女が泣き止むまでそこに立っていた。
翌日は日曜だった。前の晩に泣いた顔がまだ少し晴れていたけれど、しおりさんはいつも通り6時半に起きて味噌汁を作っていた。俺も起きて、2人で朝飯を食べた。式の話はどちらもしなかった。食器を洗い終わって、彼女が台所からエプロンのまま出てきた。手に何か持っている。
「港さん、これ、渡しておきます」
テーブルに置かれたのは1冊の通帳だった。俺は手を拭いて椅子に座った。
「何ですか?」
「生活費です。必要な時はここから使ってください」
俺は少し笑った。生活費なら財布でいいだろうと思ったからだ。
「そんな、堅苦しい。いくら入ってるんですか?」
「見ていただいた方が早いです」
俺は通帳を開いた。最初のページを見て、俺は数字の意味が分からなかった。桁が多すぎて目が滑ったのだ。俺はもう一度、一番下の行を指でなぞった。5億と少し。それがこの通帳の残高だった。指が止まった。5億。5億円だ。心臓の音が耳の中で鳴り始めた。俺の手取りだと150年分働いても届かない金額だ。
「え、嘘だろ? どういうこと?」
声がかすれていた。しおりさんは向かいの椅子に座って、両手を膝の上に重ねていた。あの手の重ね方だ。彼女は少し身を乗り出して、口元に人差し指を当てた。そしていつもの敬語ではない言い方で、こう言った。
「内緒にしてね。実は私」
彼女はそこで一度言葉を切って、深く息を吸った。それからまっすぐ俺を見て言った。
「あなたにだけ話します」
俺は通帳を閉じることも、開けたままにすることもできず、両手で持ったまま座っていた。
彼女の話は静かで、順番が整っていた。多分、何度も頭の中で練習をしていたのだと思う。
瀬川の家は「名和ホールディングス」という会社をやっている。彼女の父の総一郎という人が名和の会長を務めている。グループには12の会社がある。連結の売上は2400億円だと彼女は言った。俺にはその数字の大きさが分からなかった。分からない方がマシだったかもしれない。彼女自身は、その持ち株会社である名和ホールディングスの取締役だった。グループ全体の仕入れの方針を見ているのだという。
「取締役。28歳で。創業家ですから、役員名簿に名前が乗っているだけの人間ではありませんけれど」
そして通帳の金のことを彼女は説明した。7年前に亡くなった彼女の母から相続した名和の株のうち、一部だけを売った代金だった。手続きの途中で普通の口座に置かれたままになっていて、彼女はそれを動かさずにいた。使い道が思いつかなかったのだそうだ。
「置いてあるだけのお金です。誰かのために使ったことが、一度もありません」
俺はようやく通帳をテーブルに置いた。手のひらが汗で湿っていた。
「じゃあ、あの、なんで?」
言葉が出てこなかった。「なんで」の続きがいくつもありすぎたからだ。なんでうちに来た? なんで地味な格好をしている? なんで俺なんかと? なんで11回も見合いをして9回断られた? 彼女は俺のその全部を分かっているような顔をしていた。
「私、華やかな格好をしていた時期があります」
彼女は自分の袖を見ながら言った。
「18歳から23歳まで、父の会社の名前も隠していませんでした。そうすると、皆さん優しくなるんです。男の人だけじゃありません。小売店も店員さんも、誰も彼もが。23歳の時に、3年付き合った人が、私の父の会社の資料をずっと写真に撮っていたことが分かりました」
俺は息を飲んだ。
「それから、眼鏡をかけて地味な服を着るようになりました。そうすると、人がすごく分かりやすくなるんです。肩書きを言う前と言った後で、人の顔がどう変わるかを見ていれば、それで大体分かります」
彼女はそこで初めて俯いた。
「ひどいことをしていると思います。人を試しているんですから。でも、そうでもしないと、私は誰のことも信じられなかったんです」
彼女は少しだけ笑った。
「港さんのご実家で『小さな会社です』と申し上げました。あれは嘘ではないんです。私が毎日いるのは、机が10ほどしかない部屋なので」
俺はもう一つだけ聞いた。一番聞きたかったことだ。
「じゃあ、なんで俺だったんですか? うちは、その、見ての通りの家です。父の会社は借金があるし、俺は派遣だし、弟はああいうやつだし。あなたの家からしたら、断る理由しかないでしょう」
しおりさんは眼鏡の位置を直した。それは彼女が言葉を選ぶ時の癖だと、俺はもう知っていた。
「あの縁談は、私の父の古い知り合いの方が持ってきた話です。知り合いの方の、お父様の取引先の統合会長という方です」
つまり、うちの父が言っていた取引先の会長というのが、しおりさんの家とうちの会社の両方を知っている人だったということだ。
「そのお話が来た時、私は書類を見て『受けます』と言いました」
「即答したんですか?」
「はい」
俺は驚いた。縁談の書類には、うちが借金持ちの小さな建材屋だということも書いてあったはずだ。それでも受けたのか。
「なんでですか?」
「それは、もう少ししたらお話しします」
俺はもう一つ気になっていたことを聞いた。お父様は反対しなかったのかと。彼女は少し笑った。
「私の父は、書類を一度見て『お前が決めたなら何も言わない』とだけ言いました。母が亡くなってから、父が私のことに口を出したことは一度もありません」
彼女はそう言って、本棚の端に立ててある黒い手帳の方を一度だけ見た。
「今日はお金の話だけにさせてください。私にはもう一つ、港さんにお話ししなければならないことがあります。一遍に話すと、港さんがどちらに驚いたのか分からなくなってしまうので」
俺は妙な言い方だと思ったけれど、その日はそれ以上聞かなかった。頭の中がもう限界だったからだ。
普通なら、ここで金の話をするのだろうと思う。「5億」という数字を前にして、頭の隅では確かに何かが動いていた。式の56万。父に頼まれた50万円。俺の口座の32万円。夜勤の割り増し。全部がこの数字の前ではただの粉みたいなものだった。けれど、俺の口から出たのは違うことだった。俺は通帳を手に取って、表紙をきちんと閉じた。そしてテーブルの真ん中に、彼女の方へ向けて置いた。敬語を探す余裕が、その時の俺にはなかった。
「こんな大金を隠して生きるの、しんどかっただろう」
彼女の動きが止まった。
「誰にも言えなかったんだろう。言ったら人が変わるから。言わなかったら『地味だ』って笑われるから。どっちを選んでも、あなたのことは誰も見てくれない。それがずっと続いてたのか。しんどかっただろう」
しばらく部屋の中は本当に無音だった。やがて、しおりさんの肩が小さく上下し始めた。彼女は眼鏡を外して、両手で目を押さえた。指の間から水が落ちて、テーブルに小さな染みができた。
「そんなこと」
声が出ていなかった。彼女はもう一度息を吸って、やっと言った。
「そんなこと、初めて言われました」
彼女はテーブルに突っ伏して泣いた。今度は先ほどの人とは違う泣き方だった。喉の奥から出る、隠しようのない声だった。俺は立ち上がって水を汲んで、彼女の前に置いた。それしかできなかった。
その日から、俺の中に別の壁ができた。夜、布団に入ってからも眠れなかった。頭の中で同じことがぐるぐる回っていた。俺は派遣社員だ。手取り21万。資格もない。実績もない。積み上げたものは3年ごとに0になる。その俺の隣で、この人は2400億円の会社の家に生まれて、28歳で取締役をしている。俺があの人にしてやれることは何だ? 眼鏡を500円で直したこと。特売の鶏を2パック買ったこと。式で弟に立ち向かって言い返したこと。そんなものが5億円の前で何の意味を持つのか。
その夜、俺は通帳を引き出しの奥に入れた。そして自分に一つだけ決めた。この金にはただの一度も手をつけない。式の残りも来月の家賃も、これから先の何もかも、全部自分の給料から出す。引き出しを閉める時、木の擦れる音が夜けに大きく聞こえた。理由は自分でもうまく言えなかった。ただ、この通帳に手をつけた瞬間、俺はあの人が長い間かけて見分けてきた「顔の変わる人間」の一人になる。それだけは絶対に嫌だった。
11月になっても、俺たちの暮らしは何も変わらなかった。日曜の午前中は2人でスーパーへ行った。しおりさんは相変わらず特売のシールを探した。俺は相変わらず夜勤に入った。式の残りの支払いは、11月の給料と夜勤の割り増しを全部つぎ込んで、どうにか片付けた。引き出しの奥の通帳は一度も開けなかった。しおりさんも自分の給料の話をしなくなった。後で聞いたのだが、振り込まれるものには手をつけずに置いていたのだそうだ。彼女は、横から金を足せば俺が決めたことにならないと思ったそうだ。
一つだけ、俺は自分から言ったことがある。夜勤明けの朝、2人で味噌汁を飲みながら、俺はしおりさんに言った。
「しおりさん、この先、うちの父が金の話をしてくると思います」
「はい」
「もし来ても、聞かなくていいです。俺が断ります」
「港さんが困ったら、どうしますか?」
「困ります。でも、困ったまま働きます。それが普通です」
彼女は箸を持ったまま俺を見ていた。それから小さく笑った。
「港さんはいつもそうですね」
「そうですか?」
「はい。困ったことを、困ったまま置いておける人です。私の周りには、困ったことをすぐお金で消す人しかいませんでした」
そのことに最初に気づいたのは、しおりさんだった。ある晩、彼女は食卓で箸を止めて、こう言った。
「港さん、あの通帳、使っていませんよね」
「使ってないです」
「どうしてですか?」
「あれはしおりさんのお金だからです」
「私は生活費だと言いました」
「じゃあ、生活が困ったら使います。今は困ってないので」
彼女はしばらく俺を見ていた。それからふっと肩の力を抜いた。
「港さん、今、私、試すようなことを言いました」
「知ってます」
「え?」
「多分、試されてるんだろうなと思いながら答えました」
彼女は目を丸くして、それから吹き出した。
「これ、ずるいです」
「ずるくないです。正直に言ったんですから」
彼女は笑いながら、また少しだけ泣いた。
高梨さんが訪ねてきたのは、その週の土曜だった。インターホンが鳴って俺が出ると、あの紺のスーツの人が頭を下げて立っていた。しおりさんは出かけていて、家には俺だけだった。
「真宮様、少しだけお時間をいただけますでしょうか?」
「真宮でいいです。あと『様』はやめてください。落ち着かないので」
高梨さんは一瞬だけ困った顔をして、それから「では、真宮さん」と言い直した。俺は茶を入れた。安い茶葉だったが、高梨さんは両手で湯のみを持って、丁寧に飲んだ。
「しおり様は、いつも私の入れたお茶を残されるんですけれど、こちらのご様子を伺うたびに、しおり様が湯のみを空にされていると聞きます」
俺は返事に困った。高梨さんは湯のみを置いて、膝に手を置いた。
「私はしおり様が9歳の時から、あの家におります。奥様、しおり様のお母様が亡くなられた時も、そばにおりました」
高梨さんはそこで言葉を切った。
「しおり様が23歳の時、あの方がどんな目に遭われたか、私は存じておりました。相手の方が資料を撮影しておられることに、私は先に気づいておりました」
俺は湯のみを持ったまま動けなかった。
「けれど、申し上げませんでした。しおり様があんなに幸せそうにしておられるのを、壊すのが怖かったのです。私が半年黙っていた間に、しおり様は人を信じるということを一生分使い果たされました」
高梨さんの声は震えていなかった。それが却って、この人が何年もこの話を自分の中で繰り返してきたことを示していた。
「あれから、しおり様は眼鏡をおかけになりました。私はその眼鏡を見るたびに、自分の罪を見ているような気もしておりました」
そして高梨さんは初めて、俺の顔をまっすぐ見た。
「式の日に、しおり様の眼鏡がまっすぐになっていました。あのメガネは長い間、左が下がっておりました。私が何度も『お直しに出しましょう』と申し上げても、しおり様は『いいの』とおっしゃって」
俺は自分の手を見た。500円だった。
「真宮さん、あなたが直してくださったのですね」
「つるが曲がってたので。はい」
「5年間、曲がったままでした」
高梨さんは深く頭を下げた。畳に手をつくような下げ方だった。
「ありがとうございます」
俺は慌てて止めようとしたが、高梨さんは頭を上げなかった。俺はただ座って、その人の頭を見ていた。その眼鏡が誰のものだったのかを知るのは、もう少し後のことだ。
戸田さんのことも、この頃に動いた。夜勤の休憩室で、俺は勇気を出して聞いた。
「戸田さん、息子さんに手紙とか書いたことはありますか?」
「書くわけねえだろ」
「なんでですか?」
「なんで書くんだ? 『悪かった』の一言か? 7年も経ってから」
俺は缶コーヒーを両手で包んだ。
「戸田さん、俺に言ったじゃないですか。『話は最後まで聞け』って。それ、書けばいいと思います。『悪かった』の一言より、『これからは最後まで聞く』って書いた方が、息子さんは返事しやすいんじゃないですか」
戸田さんは黙っていた。長い沈黙だった。やがて戸田さんは立ち上がって、缶を捨てて、俺の方を見ずに言った。
「真宮、お前、うちの息子より年上だな」
「1つ下です」
「そうか」
戸田さんは休憩室を出ていった。その背中は少し丸まっていた。
そして11月の半ば、実家に思いがけない客が来た。俺が父から借りていた工具を返しに寄った時、玄関に見知らぬ男が立っていた。スーツを着て、紙袋を下げている。
「あの、真宮さんの弟さんで合ってますか?」
「弟の知り合いですか?」
「同期です。姿勢テクノロジーの新藤と言います」
母が出てきて、露骨に嫌な顔をした。
「陸は今、体調が悪いんです」
「そうですか。では、これだけお渡しだけますか?」
袋の中は缶コーヒーの詰め合わせと、大きめの茶封筒だった。母はそれを受け取って、そのまま下駄箱の上に置いた。後で捨てるつもりだったのだと思う。俺は新藤さんを門の外まで送った。歩きながら聞いた。
「弟がやめた時のことを、聞いてもいいですか?」
「お兄さんですよね」
「はい」
新藤さんは少し迷ってから話してくれた。陸が担当を外されたのは事実だ。けれど、あの規模の会社では新人が一度外されるのは珍しいことでもない。半年後にもう一度チャンスが来るのが普通で、実際、上司はそのつもりだったらしい。
「陸君はそれを待てなかったんです。外された次の日から来なくなって、1週間後に退職の連絡が来ました。僕、電話したんですよ。何度も。一度だけ出てくれて、その時、陸君、こう言いました」
新藤さんは足を止めた。
「『次にできなかったら、俺には何も残らない』って」
俺は門の柱に手をついた。
「僕らからしたら、意味が分からないんです。一度外されたくらいで、何が残らないんだって。でも、あいつはずっとそう言われて育ったんだろうなって、後から思いました」
「今日、なんで来てくれたんですか? 3年も経つのに」
「何度か来てるんです。ええ、今日で5回目です。毎回『体調が悪い』って言われて返されます」
俺は実家の玄関の方を振り返った。
「でも、あいつが一番できたやつだったのは本当なんで。1年目の時、俺が徹夜で詰まってたのを、あいつが横から見て10分で直したんです。それだけは忘れられなくて」
新藤さんは頭を下げて帰って行った。俺は玄関に戻って、下駄箱の上の茶封筒を取った。母は見ていなかった。俺はそれを黙って自分の鞄に入れた。
封筒の中身は、同期の人たちが陸に書いた寄せ書きだった。日付は3年前だ。陸が辞めた直後のものだった。「誰かが戻って来い」と書いていた。「誰かが一緒にやりたかった」と書いていた。3年間、この封筒は誰にも渡されずにどこかにあったのだ。実家を出る時、2階の窓のカーテンが揺れた。
家に帰ってから、俺はその寄せ書きを何度も読んだ。書いた人はみんな走り書きだった。そのうちのいくつかは、こう書いてあった。「陸、あの日のこと誰も気にしてないよ。戻って来い。席はまだある」「一緒にやりたかった。お前がいなくなって、あの機能、結局3ヶ月かかった」。最後の1枚だけ少し長かった。新藤さんの字だった。
「陸。お前に助けられた。お前は覚えてないと思う。10分で直してくれたやつ。あれで俺はやめずに済んだ。だから、今度は俺の番だと思ってる。何回でも来る」
俺はそれを封筒に戻して、鞄の内側に入れた。渡すタイミングを間違えてはいけないと思った。3年間、この9人分の言葉は、実家の玄関先で5回、母の一言に止められていたのだ。
その日から、陸の様子が変わっていた。母から電話で聞いた話では、あれから昼間に起きるようになったのだそうだ。母はそれを「元気になってきた」と言っていたが、俺はそうは思わなかった。一度、夜に実家へ寄った時、台所で陸とすれ違ったことがある。陸は俺を見て、何かを言おうとして口を閉じた。そして冷蔵庫を開けもせずに階段を上がっていった。昔の陸なら、必ず何か嫌みを言っていた。言えなくなったということは、多分あの日から何かが崩れているということだった。
そしてその翌週、父の会社に大きな引き合いが来た。父から電話が来たのは水曜の夜だった。父の声は3年ぶりくらいにはずんでいた。
「港、でかい話が来た」
「でかい話?」
「物流の会社が、資材を一括で切り替えるんだと。年間で1億2000万だ」
1億2000万円。うちの会社の年商の3割近い。父の会社にとって、それは会社が別のものに変わる規模の話だった。
「来週、先方に呼ばれた。本社まで来いとさ。お前も来い」
「なんだよ、俺が」
「息子が2人いると見せておきたい。陸も連れて行く」
俺は電話を切ってから、しばらく携帯を見ていた。
その話をしおりさんにしたのは、その夜だった。俺は何気なく言ったつもりだった。父の会社に大きな話が来たらしい、と。しおりさんは味噌汁のお椀を持ったまま手を止めた。そして静かに置いた。
「そのお話、いつ聞かれましたか?」
「さっき電話で。物流の会社としか聞いてない」
「私は先月から知っていました」
俺は箸を止めた。
「10月に、来年の調達の候補の一覧に『真宮建材』という名前を見つけました。その時から、お話しようかとずっと考えていました」
彼女は立ち上がって、本棚の端から黒い手帳を持ってきた。
「港さん、今日、お話します。本当はもう少し先でもいいと思っていたんですけど、順番が来てしまったので」
彼女は俺の向かいに座って、手帳をテーブルの上に置いた。表紙の角が全部丸くなっている、あの手帳だ。
「港さん、去年の7月に、品野のセンターに3週間だけ短期の応援の人が入ったのを覚えていますか?」
俺は記憶をたどった。短期の人は年に何十人も来る。すぐには出てこなかった。
「女の人です。帽子とマスクで顔をほとんど隠していて、動きが遅くて、伝票の読み方が最後まで覚えられなくて」
そこまで言われて、俺の背中がすっと冷えた。覚えていた。夏の入り口の暑い時期だった。本社から研修に来たと聞かされた女の人だった。全く作業に慣れていなかった。帽子を目深にかぶって、暑いのにマスクもしていた。俺はあの人の顔をまともに見たことがなかったのかもしれない。台車の向きを間違えて角にぶつけ、伝票を裏返しに読み、パレットの積み方を3回教えても覚えられなかった。他の人はすぐに「あの子」「短期の人」と呼ぶようになった。俺はその人を名前で呼んでいた。胸の名札に「瀬川」と書いてあったからだ。
「瀬川さん」
口に出してから、目の前にいる人を見た。ラウンジで苗字を聞いた時に引っかかったのは、これだったのか。名前だけが行き先の分からないまま、頭の隅に残っていたのだ。
しおりさんは頷いた。眼鏡の奥が濡れていた。
「はい。私です」
俺は椅子の背に手をついた。頭の中で、去年の3週間が勝手に順番に並び直していった。台車の向きを直してやったこと。伝票の読み方を紙に書いて渡したこと。昼に一人で外に座っていたので、「休憩室の方が涼しいですよ」と声をかけたこと。最終日に、誰にも気づかれないうちに帰ろうとしていたのを、俺が呼び止めて「瀬川さん、3週間ありがとうございました」と言ったこと。俺にとっては何百回もしてきたことのうちの1回だった。
しおりさんは手帳を膝に置いたまま続けた。
「あれは、うちのグループの調査でした。派遣会社は通していません。うちの調査の部署と先方の総務の間で話をつけて、3週間だけ先方の短期のスタッフとして雇っていただきました。雇い入れの時の安全衛生教育も、現場のルールの説明も、他の短期の方と同じものを受けました。名目だけは『本社からの研修』ということにしていただいて」
「港さんの働いていらっしゃる品野のセンターは、うちのグループの取引先です。その取引先の現場が、私たちが聞いている話の通りにもなっているかどうかを、自分の目で見るために入りました。役員が現場を見る時、案内されて見るものは大抵、本当のものではないんです」
彼女は手帳を開いた。中は細かい字で埋まっていた。日付と、作業の内容と、気づいたことが書いてある。ページの隅に、俺の知らない記号もいくつかあった。そして、その中の1ページに、俺の名前があった。
「7月12日。真宮さん、名札を見て名前で呼ぶ。棚の高さを先に聞いてから台車を回す。他の人がやっていない」
「7月19日。真宮さん、新しく来た年配の男性に、自分の休憩を半分使って伝票の読み方を教えていた」
「7月26日、最終日。誰にも言わずに帰るつもりだったが、真宮さんに呼び止められた。名前を呼ばれた。『3週間ありがとうございました』と言われた」
その後に、一行だけ字の大きさが違うところがあった。
「私が何者かを知らないまま、ここまでしてくれる人がいる」
俺は手帳から目を上げられなかった。
「私、あの3週間、自分が何者かを一度も言っていません。『瀬川』という姓だけで、うちの家のことに気づく人はまずいません。会社の名前は『瀬川』ではなく『名和』ですから。だから、あの現場の人たちは誰も、私が何者か知りませんでした。知らないのに、港さんだけが私を一人の人間として扱ってくれたんです」
彼女は手帳を閉じて、その上に手を置いた。
「現場のことは報告しました。でも、お名前は書いていません。この手帳は会社のものではなく、私が自分のために書いたものです。私は、あなたが何者か知らない時のあなたを見ました。あれが、私が誰のことも疑わずにいられた3週間でした」
俺はようやく声を出した。
「じゃあ、縁談は偶然です」
「本当に偶然でした。統合会長が持ってきた書類に、ご家族のことが書いてありました。『長男 真宮港 29歳 派遣社員 勤務先は品野物流センター』。その一文を読んだ時、私、椅子から立ち上がりました。高梨に『この話を受けます』と言いました。写真も見ずに」
「じゃあ、あの3週間から縁談の話が来るまで、探そうと思えば名札の名前で探せました。でも、調べて会いに行った時点で、あの3週間が嘘になってしまう気がして、できませんでした」
俺は笑おうとして、うまく笑えなかった。
「でも、縁談の相手は俺じゃなくて、陸だったんですよ」
「はい。だから、私、お断りされるつもりでお受けしました」
彼女はそこで少し笑った。困ったような笑い方だった。
「弟さんが受けたら、その時はお断りするつもりでした。ずるいですよね。でも、そうはなりませんでした」
「あの日、『荷物を数えるお仕事なんですね』と言いましたよね」
「はい。知らないふりでした。でも、『覚えておきます』だけは本当です。1年前から覚えていたことを、もう忘れなくていいという意味でした」
俺は目を閉じた。あの晩、陸が写真を放り投げた。父が俺に押し付けた。俺はそれを人生で一番惨めな夜だと思っていた。その同じ夜を、この人はずっと待っていたのだ。
最後に、彼女は眼鏡を外してテーブルに置いた。
「これ、母のものです」
俺は眼鏡を見た。黒ぶちの古い型のメガネ。メガネ屋が「今はもう作っていない型です」と言ったものだ。
「度は入っていません。伊達なんです。母は目が悪くなかったので」
7年前に亡くなった彼女の母。瀬川静江さんは、名和の家に嫁いだ人だった。元は小さな洋品店の娘だったのだ。
「母は、家に来る人がみんな父の肩書きに向かって話しているのを、ずっと見ていました。それで母が言ったんです」
彼女は眼鏡のつるを指でなぞった。俺が直した、まっすぐなつるだ。
「『人は肩書きでは温まらない』って」
俺は何も言えなかった。
「母が亡くなった後も、この眼鏡はしまったままでした。かけるようになったのは、23歳であの人に裏切られてからです。古いレンズなので、かけると少し世界が歪みます。でも、歪んだままの方が、本当のことが見えるような気がしていました」
彼女は眼鏡をかけ直した。そしてまっすぐ俺を見て言った。
「港さん、あなたは、私にとって母の言葉が本当だったという証拠です」
俺は長い間黙っていた。嬉しいはずだったけれど、俺の中に真っ先に来たのは別の感情だった。
「俺、そんな大した人間じゃないです」
「知っています」
「え?」
「港さんが大した人間だなんて、私、一度も言っていません」
彼女は真面目な顔でそう言った。
「私が言っているのは、港さんが人の名前を呼ぶ人だ、ということだけです。それは大したことじゃありません。誰にでもできることです」
「誰にでもできること、誰もやらないんです」
俺は自分の手のひらを見た。ダンボールの粉で荒れた、傷だらけの手だ。29年、俺はこの手で何も積めなかったと思っていた。成績も運動も仕事も、全部普通だった。人に誇れるものは何一つなかった。その俺が唯一やっていたことを、この人は手帳に書いて1年余り持っていた。
「ずるいですよ、それは」
「はい、ずるいです」
彼女は笑った。俺も笑った。笑いながら、俺は袖で目の辺りを押さえた。
しばらくして、彼女が姿勢を正した。
「それで、順番の話です」
「順番?」
「お父様の会社に来た引き合いのことです」
彼女は湯のみを両手で包んだ。
「先ほどの候補の一覧の通り、お父様の会社に資材の引き合いを出したのは、うちのグループです。ただ、決定のことは私からは申し上げられません」
俺は黙って続きを待った。
「来週、お父様が呼ばれている席に同席するのは、グループの調達を見ている名和ホールディングスの取締役です。私です。と言っても、私はこの件を決める側にはいません。最後に顔を合わせるだけです」
俺は椅子から立ち上がりかけて、また座った。
「父はそれを知らないんですか?」
「知りません。うちのグループの調達は会社の名前で動きます。役員個人の名前は先に出しません。どこまで話が固まったか、私には知らされておりません。ただ、私からお願いをしたことは一度もありません。数字と現場を見て、部門が進めています」
俺は頭を抱えた。
「しおりさん、それ、行くんですか?」
「行きます」
「行ったら、うちの家族は分かってしまいます」
彼女は湯のみを置いた。
「港さん、行かない方が、会社の理屈では正しいんです。当日は誰かに任せれば、私の名前はお父様に出ずに済みます。でも、それをすると、私はまた『何者か』を隠したまま人と付き合う人間に戻ります。私、もうそれをやめたいんです」
俺は彼女の顔を見た。眼鏡の奥の目には迷いがなかった。あの夜中の玄関で聞いた、低くて短くて迷いのない声の持ち主が、今俺の前にいた。
「分かりました。一緒に行きます」
父には言わなかった。言えば、父は当日までに頭の下げ方を練習するだけだ。そうなれば、この人はまた「しおりさんの後ろにあるもの」に向かって話しかける。それだけは避けたかった。
当日は朝から雨だった。大手町の名和ホールディングス本社は、ガラスと石でできた32階建てのビルだった。父はビルの前で足を止めて、上を見上げた。
「でかいな」
「まあ、こういうとこは大体でかいだろ」
陸はスーツを着ていた。式の時以来のスーツだ。式に出たことで父はもう連れ出せると踏んだらしく、前の晩から言い聞かせていた。母がアイロンをかけたのだと聞いた。ズボンの折り目が少し余っていた。俺もスーツを着ていた。式で借りた礼服ではなく、就職活動の時に買ったものだ。8年前のものだから、肩の形が古い。
受付で名前を言うと、案内の人が来て、20階の会議室に通された。長い机の片側に、俺たち3人が並んで座った。父が真ん中で、右が陸、左が俺だ。父はさっきから同じ言葉を繰り返していた。
「いいか? 用件は俺がする。お前らは黙って座ってろ。陸、お前は顔だけ出してればいい。若いのがいると印象がいい」
俺は何も言わなかった。膝の上で手を組んで、扉の方を見ていた。
10時ちょうどに扉が開いた。先に入ってきたのは、名和ロジスティックスの調達部長という男の人と、担当の若い社員だった。父が立ち上がって名刺を出した。その後にもう2人が入ってきた。高梨さんが扉を押さえた。その後ろから、もう1人が入ってきた。黒ぶちのメガネ。後ろで一つに結んだ髪。紺色ではなく、この日は落ち着いたベージュのスーツだった。それだけの違いだった。それ以外は、あの見合いの写真の人と何一つ変わらなかった。
部屋の空気が止まった。父の手から名刺入れが落ちた。床にぶつかる音が、明け方に大きく響いた。調達部長がその人の方へ手を向けた。
「持ち株会社の名和ホールディングス取締役の瀬川でございます」
彼女は机の向こう側の一番奥の席に座って、深く頭を下げた。
「瀬川しおりと申します。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
陸が椅子を鳴らして半分立ち上がりかけ、そのまま固まった。顔から血の気が引いていくのが、横目でも分かった。父は口を開けたまま、落ちた名刺入れも拾わずに立っていた。俺はしおりさんを見ていた。彼女は俺を見なかった。仕事の顔をしていた。
打ち合わせそのものは、拍子抜けするほど淡々と進んだ。調達部長が切り替えの規模と時期を説明した。年間の数量、納入の頻度、品質の基準。担当の若い社員が資料をめくり、数字を読み上げた。数字の説明が一段落したところで、しおりさんが手元の資料を閉じた。
「先に申し上げます。私は本件の評価にも、選ぶ側の決定にも加わっておりません。ですので、この場では何も伺いません」
そう言い切って、しおりさんは打ち合わせが終わるまで一言も発しなかった。調達部長が3つだけ質問した。
「御社の在庫の回転は、反応にどのくらい変わりますか?」
「不良が出た時の、現場での止め方を教えてください」
「28人の会社で1億2000万を受けると、どこかに無理が出ます。どこに出そうですか?」
3つ目の質問に、父は答えられなかった。
「いや、それはもう全力でやらせていただくということで」
「全力の中身を伺っています」
父の額に汗が浮いていた。俺はそれを見ながら、この人が誰かに「中身」を出せと言われたのを初めて見たと思っていた。しおりさんは資料に目を落としたまま、顔を上げなかった。
1時間で打ち合わせは終わった。調達部長たちが先に席を立った。しおりさんは資料をまとめて、最後に立ち上がった。その時、父が動いた。父は机を回り込んで、彼女の前に立った。そしてこれ以上ないくらい深く頭を下げた。
「しおりさん。いや、瀬川様。存じ上げませんで、大変失礼しました。うちの港が、その、お世話になっております」
式の日まで「向こうさんの家」と呼んでいた口だ。
「ええ、実はうちの港が瀬川様と一緒になりまして。色々ご縁もございまして。この件と、どうぞよろしくお願いいたします。うちは、娘、いや、嫁の会社さんとして」
そこで、扉のところで足を止めていた調達部長が振り返った。
「真宮社長、今は何とおっしゃいましたか?」
父の顔が、その時初めて青ざめた。調達部長は表情を変えずに続けた。
「ご親族の関係にあることは、瀬川取締役から社内に届け出が出ておりますので、私も承知しております。今おっしゃったのは、それをこの件のお願いとして持ち出されたということでしょうか?」
「いえ、いえ、ええ、その」
しおりさんがはっきりと言った。
「真宮港は私の夫です。真宮建材の社長は、義理の父に当たります。この引き合いが上がった10月のうちに、私からコンプライアンス部門へ届け出ております。以来、本件の評価と決定からは外れております。今日は決める立場にありません。その届け出の上で、同部門の了解を得て、最後の顔合わせに同席しております」
調達部長は資料を胸に抱えて、しばらく黙っていた。それから静かに言った。
「承知しました。ただ、社長、今のお言葉は記録に残します。取引先に個人の縁故を持ち出されるお取引先とは、弊社は原則としてお付き合いできません」
父が一歩前に出た。
「待ってください。今のは言葉の綾です。私はただ」
調達部長は扉の前に立ったまま言った。
「では、なぜご親戚だという話をなさったのですか?」
父は答えられなかった。調達部長は一礼して部屋を出た。若い社員と高梨さんが続いた。扉が閉まった。部屋には、父と陸と俺としおりさんの4人だけが残った。
父はしおりさんに詰め寄った。
「しおりさん、今のお取り消ししてもらえませんか? あなたが一言、部長さんに言ってくださればいいだけの話でしょ。うちは、うちはこの話を前提に、銀行の返済の組み直しを頼んでしまっているんです。亡くなったら、来年持つかどうか」
しおりさんは資料を持ったまま、静かに父を見ていた。
「お父さん」
彼女がうちの父にそう呼びかけたのは、その時が初めてだった。
「取引は人を見るものですけれど、今日、あなたは私を見ませんでした。あなたが見たのは、私の後ろにあるものです」
父の口が動いたが、音は出なかった。
「あなたは私の夫を、値打ちのない縁談の引き取り手になさいました。その後、私の値打ちを知った途端に、『息子の嫁の会社だから』と、この件のお願いを持ち出されました。決めるのは私ではありません。今のお申し出は、私からコンプライアンスへ伝えます。会社として申し上げられるのは、そこまでです。その上で、一つだけ、義理の娘として申し上げます。家族を道具のように扱う人と、私は信頼関係を作れません」
父は椅子の背に手をついた。足に力が入っていないのが分かった。
その間、陸は一言も発していなかった。俺が横を見ると、陸は座ったまま机の一点を見ていた。両手を膝の上で握りしめていた。爪が食い込んでいた。やがて、陸が震える声で言った。
「俺」
しおりさんが陸の方を見た。
「俺、写真だけ見て、ひどいこと言った」
それは謝罪ではなかった。事実の確認だった。それでも、陸がその言葉を口に出すまでに何が起きたかは、俺には分かった。「悪かった」とはまだ言えない。言ったら、俺、本当に何もなくなるから。
しおりさんは資料を机に置いた。そして陸の方へ一歩近づいた。
「陸さん」
「何ですか?」
「あなたは人を見下すようで、本当は失敗するのが怖いんですね」
陸の顔が真っ赤になった。彼は立ち上がった。何か言い返そうとして口を開けた。そしてそのまま、何も言えなかった。言葉が出なかったからだ。
しおりさんは声を荒げなかった。ただ、いつもより少しだけ丁寧に言った。
「天才と言われ続けた人ほど、失敗できなくなります。一度でも負けたら、自分の値打ちが全部なくなる気がするんです。私も少しだけ分かります。でも、働くというのは勝ち続けることじゃありません。失敗しても、次の日にもう一度立つことです。それだけです」
陸は俯いた。肩が上下していた。俺は初めて、この弟の中身を見た気がした。26年間、俺はこいつを「全部持っている側」の人間だと思っていた。違った。こいつは「天才でいなければならない」という檻の中に、生まれた時から閉じ込められていたのだ。その檻を作ったのは俺の父と母だった。けれど、しおりさんはそこで終わらせなかった。
「陸さん、一つだけはっきり申し上げます。あなたが苦しかったことと、人を傷つけていいことは別です。あなたが私に言ったことは、あなたが苦しかったからと言って、消えません」
陸は顔を上げた。目が赤かった。
「はい」
弟が生まれて26年。俺が初めて聞いた陸の「はい」だった。
ビルを出ると、雨は上がっていた。父は先に歩いて行った。タクシーを拾って、俺たちを待たずに乗り込んだ。陸はその背中を見送って、それから傘を持ったまましばらく歩道に立っていた。
俺のスマホが鳴ったのは、その30分後だった。母だった。
「港、今、お父さんから聞いたわよ」
母の声は、俺が生まれてから聞いたことがないくらい高かった。
「しおりさん、そんな大変なお家の方だったの? どうして先に言ってくれなかったの?」
「俺も先月知った。それに、聞かれもしなかった」
「あのね、そういう問題じゃないでしょ。私、失礼なこと言っちゃったじゃない」
俺は歩きながら聞いていた。母の言葉は途中から、俺への文句に変わっていった。
「大体、港が悪いのよ。あんたがちゃんと説明していれば、こんなことにはならなかったわ。しおりさんに謝りたいの。今度、うちにいらしてって伝えてくれる? お茶でも出すから」
俺は返事をしなかった。そして母は最後に、こう言った。
「というか、やっぱり陸と結婚してもらった方が良かったんじゃないの?」
俺は足を止めた。歩道の真ん中で通行人にぶつかりそうになった。それでも動けなかった。
「母さん、何?」
「今の、しおさんの前で言えるか?」
「え?」
「言えないなら、俺にも言うな」
俺は電話を切った。切った後、手が震えていた。腹が立っていたのではない。29年かかって、俺はやっとこの人たちに「言うな」と言えたのだ。それだけのことに29年かかった自分が、少しだけ悔しかった。
12月の初めの日曜に、しおりさんは陸を呼び出した。場所は、うちのアパートから2つ先の駅にある古い喫茶店だった。彼女は「後で会社の応接室でも、うちの実家でもない場所にしたかった」のだと言った。どちらでも、陸は立場の中で座ることになるからだ。俺は少し離れた席に座っていた。「同席してください」としおりさんには言われたのだが、話は2人でした方がいいと思ったのだ。
陸は約束の時間の15分前に来た。スーツではなく、洗ったばかりのシャツを着ていた。しおりさんはコーヒーを2つ頼んで、それから本題に入った。
「陸さん、本気で変わりたいなら、うちの会社に来ませんか?」
陸が顔を上げた。
「名和システムズという会社があります。グループの中で使う仕組みを作っている会社です。そこの中途採用に、自分で応募してください。ただし、私は先行しません。応募があったことと、あなたが私の義理の弟であることは、人事とコンプライアンスに書面で先に伝えます。その上で見てもらいます。お父様の会社の件で私が口を聞けば、選ばれなかった会社から機会を奪います。取引は会社と会社の話ですから。けれど、採用は一人ずつの話です。私が差し上げられるのは椅子ではありません。応募していいという一言だけです。だから、私は口を聞くのではなく、名前を出して届け出ます」
陸は言葉を探しているようだった。何を疑えばいいのか分からない顔をしていた。
「その上で、条件があります」
彼女はコーヒーに口をつけて、置いてから続けた。
「中途採用の枠で、他の方と同じ試験と面接を受けてきます。落ちることもあります。特別扱いはありません。幹部候補でもありません。最初は契約社員です。月給は21万円。1年ごとの更新です。配属は運用のチームです。電話も取ってもらいますし、会議室の準備もしてもらいます。資料の整理もあります。あなたを天才として扱う人は、あの会社には一人もいません」
陸はテーブルの上で手を組んだ。指が白くなっていた。
「それでも来ますか?」
長い沈黙があった。俺は離れた席から、弟の背中を見ていた。逃げ場のない場所で、人と1対1で向かい合っている背中だ。丸まっていた。それでも、逃げなかった。昔の陸なら、鼻で笑って席を立っていたと思う。「そんな仕事は俺に合わない」と言って。彼はその言葉を、この3年で何百回も自分に言い聞かせてきたはずだ。
やがて、陸が小さく言った。
「結局」
「はい」
「兄貴と同じですね」
しおりさんは何も言わなかった。陸はコーヒーを一口飲んだ。それから机に向かって言うような、小さな声で言った。
「行きます」
俺は窓の外を見た。見ていないと、変な顔をしてしまいそうだったからだ。
喫茶店を出た後、俺はしおりさんに聞いた。なぜあそこまでしてやるのかと。同情なら、あの弟には過ぎたものだと思ったからだ。しおりさんは首を横に振った。
「同情ではありません。うちの会社には、若くて優秀な人がたくさん来ます。そして、毎年何人かやめていきます。やめる理由は大抵同じです。『できない自分』に耐えられないんです」
彼女はマフラーを直しながら言った。
「私、その度に面談の記録を読んできました。でも、どう書いてあっても分からなかったんです。なぜ、あんなに優秀な人が、一度の失敗で全部を捨ててしまうのか。陸さんを見て、初めて少し分かりました。あの人たちは失敗が怖いんじゃないんです。失敗した後の自分に、名前がなくなるのが怖いんです」
俺は黙って聞いていた。
「だから、うちに来てもらいます。特別扱いはしません。その代わり、あの人が失敗した日にも、あの人を名前で呼ぶ人がいる場所にします」
俺は思わず彼女の顔を見た。彼女は少しだけ笑った。
「港さんから習いました」
しおりさんは駅で先に帰った。帰り道、陸は俺と並んで歩いた。2人でこんな風に歩いたのは、多分高校生の時以来だ。しばらく黙って歩いてから、陸が言った。
「兄貴は反対しないのかよ」
「なんで反対するんだ?」
「俺、今まで散々ひどいこと言ったのに」
俺は少し考えた。適当なことは言いたくなかった。
「許したわけじゃない」
陸が横で息を飲んだのが分かった。
「お前が言ったことを、全部覚えてる。『派遣って大変だね』『地味同士』もな。あれは消えない。しおりさんが言った通りだ」
陸は俯いた。
「でも、やり直そうとしてるなら、笑わない」
陸が立ち止まった。俺も立ち止まった。
「俺はずっとお前に笑われてきた。だからこそ、やり直そうとしてる人間を笑う側にはなりたくない」
言ってから、俺は自分の言葉に少し驚いた。ずっと胸の底にあったものが、そのままの形で出てきた気がした。陸は何も言わなかった。しばらく俯いたまま立っていた。街灯の下で、アスファルトに小さな水の跡が2つできた。
俺は鞄から茶封筒を出した。
「これ、預かってた」
「何、これ?」
「同期の新藤さんって人が、実家に5回来てる。母さんが毎回追い返してた」
陸は茶封筒を受け取って、中を見た。そして動きが止まった。
「寄せ書きだ。3年前の日付の。『戻って来い』って書いてあった。勝手に読んだ。悪い」
陸は封筒を両手で持ったまま、街灯の下でずっと動かなかった。やがて、彼は袖で顔をこすった。
「あのさ、俺、あの会社で多分また失敗するよ」
「するだろうな」
「慰める気ないの?」
俺は笑った。陸も少しだけ笑った。
「失敗したら、また立てばいいって言われたんだろ」
「うん」
「じゃ、立てよ。俺は3年ごとに現場が変わるから、その度に1から立ってる。慣れると、意外とどうってことない」
陸は封筒を鞄に入れて、それからぽつりと言った。
「兄貴、そういうの、いつからできるようになったの?」
「昔からだ。お前が見てなかっただけだ」
陸は何も言い返さなかった。ただ、その夜は駅まで俺の隣を歩いた。
父の会社の話は、それから2週間で決着がついた。名和ロジスティクスの資材の一括切り替えは、別の会社が受けた。埼玉にある、社員が60人ほどの会社だそうだ。最終の選考で外れた。理由は書かれていなかった。「今回は見送らせていただきます」とだけ書かれた1枚の紙が来たと、後で父が電話で言っていた。
あの日、調達部長は3つ目にこう聞いた。「どこに無理が出ますか?」。あの問いの意味が分かったのは、俺が現場を回る仕事について、同じような現場をいくつも見てからだ。年商4億2000万の会社に、1億2000万の仕事が来る。年商の3割だ。受け入れれば、まず折れるのは金だ。資材は先に仕入れて在庫で抱える。仕入れの支払いは翌月末に来るのに、売った代金が入るのはその先だ。月に1000万売り上げるのに、800万の支払いだけが先に来る。20年借金を減らせなかった会社に、その立替えの当てはない。次に置き場だ。ダンボールは軽いくせに、場所だけは一人前に食う。最後に人だ。28人のうち現場に出られるのは10数人で、その全員が今の得意先で埋まっている。数字が悪かったわけではないのだ。通った後にいるものが、父の会社にはなかった。
父はその紙を読み上げながら、俺を責めた。
「お前が余計なことを言ったからだ」
「俺は一言も喋ってない」
「そういうことじゃない。お前が嫁を止めなかったからだ」
俺は電話を切った。この人は多分、一生このままだ。不思議なことに、腹は立たなかった。ただ、少し寂しかっただけだ。
陸が名和システムズの試験と2度の面接を受けて、契約社員として入ったのは、年が開けた1月だった。最初の半年は、俺が横で見ていても分かるくらい、うまくいっていなかった。電話の取り方が分からない。誰にどう取り継げばいいのか判断がつかない。会議室のプロジェクターの線を刺す順番を3回教わっても間違える。年下の社員に「そこ、逆です」と言われて、顔を真っ赤にさせる。でも、陸は行き続けた。
月に一度、うちのアパートに飯を食いに来るようになった。しおりさんが作った飯を、陸は黙って食べた。最初の頃は15分で食べて帰って行った。3月のある晩、陸が箸を止めて言った。
「今日、俺が作った資料、全部作り直しになった」
「そうか」
「昔なら、こんなの1時間でできたのに」
台所から茶を持ってきたしおりさんが、湯のみを置きながら聞いた。
「陸さん、それ、部長さんに言いましたか?」
「言えるわけないだろ。恥ずかしくて」
「じゃあ、明日行ってください」
「なんで?」
「言わないと、あなたが何が分からないのか、誰にも分からないからです」
陸は口を尖らせて、それでも次の日に行ったのだそうだ。部長は「そこは誰でも最初は分からん」と笑って、30分かけて教えてくれたらしい。その話をする時、陸は少しだけ得意そうだった。
変化があったのは、入社して10ヶ月が過ぎた秋だ。陸は運用のチームで、毎日同じ作業をしていた。倉庫や工場から上がってくる報告を、手作業で表に入れ替えて集計して、翌朝までに出す。決まった作業だ。誰も文句を言わずにやっていた。陸はその作業に無駄があることに気づいた。同じ数字を3回打ち直している。書式が違うだけで中身は同じものを、人が目で見比べている。それを機械にやらせれば、毎晩2時間かかっていた作業が15分で終わる。
昔の陸なら、その場で「こんなのばかげてる」と言っただろう。今度は違った。陸は2週間、自分の休みの時間を使って動くものを作った。そしてそれを持って、部長のところへ行った。
「あの、これ、勝手に作ったんですけど、間違ってたら捨ててください」
部長は黙ってそれを動かして、それからチームの全員を呼んだ。改善案は翌月から使われることになった。夜の残業が消えて、一番喜んだのは小さい子供がいる女性の社員だった。その人が陸のところに来て、陸を苗字で呼んだ。
「真宮さん、助かりました」
陸はその夜、うちに来た。玄関で靴を脱ぎながら、こう言った。
「兄貴、俺、今日初めて『助かった』って言われた」
「初めてってことはないだろう」
「あるんだよ」
陸はテーブルに座って、しばらく手を見ていた。
「模試で1位取っても、コンテストで賞を取っても、みんな『すごい』って言うんだ。『助かった』とは言わない。『すごい』って言われるのと、『助かった』って言われるの、全然違うんだ」
俺は何も言わずに茶を入れた。しおりさんは台所で、こちらに背を向けたまま笑っていた。
陸が俺に謝ったのは、その帰り道だ。駅までの道の途中で、陸は立ち止まって、俺に向かって頭を下げた。
「兄貴、ごめん」
「姉さんにも、今日言ってきた。あの時、ひどいこと言って悪かったって。やっと言えた」
俺は黙って聞いていた。
「それと、兄貴にも言わなきゃいけないことがある。俺、ずっと兄貴を下に見てた。でも、本当は、兄貴みたいにちゃんと働き続けられる人が羨ましかった。俺、『天才』って言われるのが怖かったんだ。失敗したら、俺には何も残らない気がしてた」
俺は少し考えてから言った。
「もう、天才じゃなくてもいいんじゃないか。普通に働いて、普通に謝れて、普通に誰かに感謝できるなら、それで十分だろう」
陸は顔をくしゃくしゃにして、それから駅の柱に手をついて、声を上げて泣いた。スーツの男が人通りのある道で泣いているのを、通る人がみんな見ていった。俺は横に立っていた。
その年の暮れ、陸は実家で初めて両親に言い返した。俺も呼ばれていた。父は正月の話をしながら、いつもの調子でこう言った。
「お前、そろそろ正社員の話は出ないのか? しおりさんに言っておけ」
母が身を乗り出した。
「そうよ。あなたなら、会社を任される日も近いわ。だって、天才なんだから」
陸は箸を置いた。
「やめてくれ」
父と母が同時に見た。
「俺を天才扱いして、甘やかすのはもうやめてくれ」
「何を言ってるの? あなたは本当に」
陸は母の方を見た。
「兄貴を犠牲にして、俺を持ち上げるのも、もうやめろ。それと、母さん、新藤が5回も来てたのになんで俺に言わなかった?」
母の顔から表情が消えた。父はコップを持ったまま固まっていた。母は何か言おうとして口を開き、結局何も言わなかった。
「俺が壊れたのは、俺自身が弱かったからだ。それは俺の責任だ。でも、失敗できない人間にしたのは、あんたたちだ」
居間が静かになった。柱時計の音だけがしていた。俺はその言葉を聞きながら、胸の奥が熱くなるのを感じていた。ずっと言えなかったことを、この弟が代わりに言ったからではない。消えるようになるまでに、この弟がどれだけのものを捨てたかを知っていたからだ。
陸は立ち上がって、居間の壁の額を外した。中学の時の表彰だ。壁に四角い日焼けの跡が残った。父も母も止めなかった。父も母も謝らなかった。今も謝っていない。それでいいと思っている。人は変わらない方が普通だ。変わった方が例外なのだ。
陸が名和システムズに入った年から3年が過ぎた。順に話す。陸が入った年の春に、俺の品野での派遣の期限が来た。同じ部署に派遣でいられるのは3年までという決まりだ。更新すればまだいられると担当は言ったが、俺が3年かけて覚えたのは入荷のあの棚だった。前の年に出した直接雇用のお願いは、担当が言った通り断られた。戸田さんは最後の日に、名札を1枚くれた。俺が3年使った「真宮」の名札だ。
俺は今、名和グループの会社で働いている。声をかけてきたのはしおりさんではない。あの日の調達部長でもない。品野のセンターにいた最後の年に、うちの現場へ来ていた別の担当の人だ。名和ロジスティクスで現場を回る仕事をしている。その人は、俺が短期で来た人を名前で呼んでいたのを、半年ほど横で見ていたのだそうだ。「あれを、うちの倉庫全部でやって欲しい」と言われた。声がかかったのは、俺が品野を離れる日取りが決まった後だった。引き抜きにならないよう、その後でしか声をかけない決まりなのだそうだ。品野の会社と派遣会社に先に話を通してあると、その人は後で言った。
断ろうと思った。断らなかったのは、「現場を回って人の話を聞く仕事だ」と言われたからだ。入る時は中途採用の選考を受けた。役員の配偶者であることは、先に人事とコンプライアンスへ届けてある。しおりさんは面接に入らなかったし、俺の配属はしおりさんのいる会社とは別だ。名和グループの倉庫と工場を回って、現場の人の話を聞く仕事だ。役職はない。名刺には「現場調査担当」とだけ書いてある。給料は前より少しだけ上がった。
俺のやることは変わっていない。現場に行って、名札を見て、名前で呼ぶ。それだけだ。それだけのことで、他の誰にも言わないことを、俺に話してくれる人がいる。3年でそれが分かった。しおりさんはそれを「グループで一番値打ちのある報告書です」と言う。俺は未だにそれが本当かどうか、半分疑っている。
戸田さんは去年、名古屋へ行った。息子さんに会いに行ったのだ。手紙を書いたのだと、出発の前の日に照れ臭そうに言っていた。何を書いたかは教えてくれなかった。帰ってきた戸田さんは、それについて一言だけ言った。
「あいつの話、最後まで聞いた」
式に来ていた白髪の男の人は、しおりさんの父の代理だった。会社の古い相談役で、しおりさんの父の代わりに人を見に来る役目の人だ。あの日、あの人が何を見ていたのかを、俺は去年やっと聞いた。報告は一行だけだったそうだ。
「しおり様が笑い物にされた時に、真宮様は一人だけ立ち上がりました」
その相談役は今も、年数回とうちに顔を出す。俺はしおりさんの父にも、これまでに2度あった。2度とも、しおりさんの父は俺の手を見て、「いい手だ」とだけ言った。
去年の春、あの統合会長から一度だけ電話をもらった。あの縁談を父のところへ持っていった時、瀬川の家が名和の創業家だということは、わざと言わなかったのだそうだ。会長はこう言った。
「言えば、お父さんは必ず頭を下げに行く。頭を下げに行った時点で、あれはもう縁談じゃなくなる」
父の会社は今も続いている。銀行との組み直しは結局通らず、父は工場の2階を倉庫として人に貸してしまったらしい。大きくはなっていない。社員も28人のままだ。それを俺は去年、たまたま現場で会った運送屋の人から聞いた。
高梨さんは今も、しおりさんのそばにいる。うちに来る時は必ず茶葉を持ってくる。俺が安い茶葉を使っているのを知っているからだ。俺はその茶を、いつも高梨さんが来た日にだけ入れる。
陸は入社の前に、新藤さんに連絡をしたのだそうだ。何と言ったかは教えてくれない。ただ、去年の暮れに2人で飲みに行っていた。陸は同じ会社で働き続けている。3年目で契約社員から正社員になった。今は新しく入ってきた人に仕事を教える立場だ。この前、うちに来た時に聞いた。
「後輩に教えるの、どうだ?」
「難しい。俺、教えるのだけは下手だから。でもさ、名前は呼ぶようにしてる」
そう言ってから、陸は少し照れて味噌汁の椀を持ち上げた。
あの通帳は今も引き出しの奥にある。あれからずっと、俺はただの一度も金を使っていない。家賃も生活費も、陸の入社に送った腕時計も、全部自分の給料から出した。しおりさんはもう何も言わない。一度だけ、彼女が言ったことがある。
「あのお金、使い道が決まりました」
「何ですか?」
「港さんが使わなかったので、私、あれを基金にしました」
現場で働く人が資格を取るための費用を出す仕組みだそうだ。3年で400人以上が使った。フォークリフトの技能講習を受けた人もいれば、日本語の教室に通った人もいる。その仕組みの名前を聞いて、俺は笑ってしまった。
「名前基金」というのだそうだ。
「港さんが現場でやっていたことに、名前をつけました」
先日、しおりさんの母親の命日に、2人で墓参りに行った。線香を上げて、花を替えて、帰り道に彼女が言った。
「港さん、母の言葉、覚えていますか?」
「『人は肩書きでは温まらない』ですよね」
「はい」
彼女は歩きながら眼鏡を外して、レンズを袖で拭いた。度の入っていない、でも真っすぐなメガネだ。
「私、最近、この眼鏡をかけない日が増えました」
「そうですね」
「もう、人を試さなくて良くなったので」
俺は頷いた。俺はずっと「代わり」だと思われてきた。いらないと言われたものを引き取る係で、家の中の脇役で、名前で呼ばれることのない側の人間だった。しおりさんも、見た目だけで「地味だ」と決めつけられ続けてきた。でも、あの押し付けられた結婚は、俺たち2人に本当の居場所をくれた。そして弟にも、「天才」ではなく一人の人間としてやり直すきっかけをくれた。
今なら思う。人の値打ちは、才能でも肩書きでも通帳の残高でも決まらない。誰かを大切にできるか、失敗してももう一度歩き出せるか、相手の名前を呼べるか。それが、その人の本当の強さなのだと思う。



