油の匂いが染みついた工場の片隅で、俺は切れかけの蛍光灯を見上げていた。じじっと点滅する光は、もう三ヶ月もそのままだ。買える金も、買える気力も、今の俺には残っていなかった。机の上には、茶色い封筒に入った督促状が積み重なっている。開ける気にもなれず、ただ重しを乗せたまま放置していた。
俺の名前はたけし。四十二歳。町場で整備士をやっている。千盤を回し、機械を直し、油まみれになって生きてきた。それだけの男だ。ただ一つ違うのは、俺の兄が医者だということだった。
兄の孝太は子供の頃から優秀だった。成績はいつも一番。運動も器用にこなし、近所でも「はたけしさんとこのお兄ちゃんは大したもんだ」と評判だった。俺はその影で、ずっと泥のついた手を握りしめて生きてきた。劣等感はあった。ただ、それ以上に尊敬していた。兄が大学病院に務めることになった日、母は仏壇の前で泣いて喜んでいた。俺もその姿を見て誇らしかった。兄貴は俺の自慢だった。
あの夜のことは、今でも鮮明に覚えている。二年前の冬、兄が突然俺の家を尋ねてきた。「たけし、少し話せるか?」兄は珍しく疲れた顔をしていた。コートも脱がずに座り込み、分厚いノートをテーブルの上に置いた。革張りの表紙に、金の字で「研究記録」と書かれていた。
「俺は大学病院をやめようと思う。医療機器の開発に専念したいんだ」
俺は耳を疑った。兄が大学病院でどれだけ努力してきたか、俺はそばで見てきた。
「ある手術器具を開発したい。今まで救えなかった患者を救える可能性がある。資金繰りが厳しいんだが、どうしても挑戦したいんだ」
俺は兄の目を見た。医者になった頃と同じ、真っすぐな目だった。
「兄貴がそこまで言うなら、俺は止めない。何かできることがあれば言ってくれ。家族なんだから当たり前だろ」
兄は深く頭を下げた。「たけし、連帯保証人になってくれないか?これが完成すれば、何倍にもして返す」
俺は迷わなかった。迷う理由がなかった。兄が嘘をつく男じゃないことは、俺が一番よく知っている。判を押した俺の手を、兄はぎゅっと握った。「このノートを預かっておいてくれ。万が一の時の保険みたいなもんだ」
俺はその意味を深く考えなかった。考えていれば、何かが違ったのだろうか。それとも、何も変わらなかったのだろうか。今でも分からない。
兄が失踪したのは、それから一年と少し経った頃だった。事業はうまくいかず、開発資金は底をつき、兄は誰にも告げず姿を消した。残ったのは、三千万円の借金と、連帯保証人として判を押した俺の名前だけだった。
最初の取り立ては、ある朝突然やってきた。工場の入り口に黒い車が止まり、男が一人降りてきた。「たけしさんですね。お兄さんの件で参りました」男は名刺を差し出した。萩谷と書かれていた。工場長が軽い顔でこちらを見ていた。俺は男を外に連れ出し、自販機の前で話を聞いた。萩谷はタバコに火をつけ、ゆっくりと吐き出した。
「お兄さんは飛びましたね。三千万、耳を揃えて返してもらいますよ。あんた、判を押してるんだから」
「待ってくれ。兄貴を探してる。連絡が取れれば、必ず話をつける。少しだけ時間をくれないか」
萩谷の顔から表情が消えた。そして、俺の作業着の胸ぐらを掴んだ。俺は壁に押し付けられた。「逃げ場はないんですよ、はたけしさん。あんたには奥さんもいるそうじゃないですか?ミキさんでしたか。確か駅前のスーパーでパートをされている。毎日夕方の六時に上がる。そうですよね」背筋が凍った。「家族に何かあってからじゃ遅いですよ。よく考えてください」
萩谷はそう言うと、タバコを地面に落とし、靴で踏みつけた。黒い車に乗り込み、走り去っていった。俺はその場にしゃがみ込んだ。膝に力が入らなかった。
その日の夜、俺はミキに何も言えなかった。「あなた、どうしたの?顔色が悪いわよ」「ああ、ちょっと疲れただけだ。心配いらない。明日も早いから、先に寝るよ」俺は布団に潜り込み、天井を見つめた。兄貴、どこにいるんだ?何度も問いかけたが、答えるものはいなかった。
それからの俺は、ただひたすら働いた。昼は工場、夜は別の工場の夜勤。休みはなかった。休めば利息が膨らむ。利息が膨らめば萩谷が来る。萩谷が来れば家族が危ない。その思考だけが俺を動かしていた。家に帰っても、ろくに口を聞かなかった。口を聞く気力もなかった。ミキは何も聞かず、毎朝弁当を作り、毎晩風呂を沸かしてくれた。
ある夜、布団に入った俺の背中に、ミキが小さな声で言った。「たけしさん、私、何があっても一緒だから。一人で抱え込まないで。お願いだから、話して欲しいの」俺は背を向けたまま、何も答えなかった。布団の中で拳を握りしめた。
体の異変は、少しずつ進んでいた。朝起き上がる時に目まいがするようになった。食事が喉を通らなくなった。それでも俺は工場に出た。出るしかなかった。
その日は大型のエンジン整備の日だった。クレーンで吊り上げたエンジンの下で、俺はボルトを締めていた。汗が目に入り、視界がぼやけた。足元がぐらりと揺れた。工場の天井が回り始めた。「はたけしさん、大丈夫か?おい、はたけしさん」声が遠かった。工具を握った手から力が抜けた。膝が折れ、コンクリートの床に倒れ込んだ。頬に冷たい床が触れた。油の匂いが鼻先で広がった。ああ、これが俺の人生の終わりか。そんな考えが頭をよぎった。兄貴の顔が浮かんだ。ミキの顔が浮かんだ。子供の頃、兄と二人で川を走った夏の日が浮かんだ。兄は俺より早く、いつも先を走っていた。
サイレンの音が遠くから近づいてきた。同僚たちの怒鳴り声と、誰かが俺の名前を呼ぶ声が混ざり合っていた。意識がゆっくりと暗くなっていった。最後に見えたのは、切れかけの蛍光灯がじじっと点滅するその光だった。俺はそのまま闇に落ちていった。
目を覚ました時、最初に感じたのは消毒液の匂いだった。白い天井がぼんやりと見えた。腕には点滴の針が刺さっていた。ここはどこだと思った瞬間、ドアが静かに開いた。入ってきたのは白衣を着た女性だった。年は三十代半ばくらいか。凛とした顔をしていた。医者だと直感した。
「目が覚めましたね。はたけしさんですね。私は朝倉凛。この診療所の医師です」声は静かで淡々としていた。俺は身を起こそうとして目まいを覚え、また枕に頭を戻した。「無理しないでください。過労、栄養失調。それに脱水症状です。倒れた時、ちょうど近くを救急車が通って、こちらに搬送されました。三日間眠っていましたよ」
「三日ですか?すみません。ご迷惑をおかけして。仕事に戻らないといけないんで」凛は俺の言葉を聞き流すように、カルテに視線を落とした。「はたけしさん、失礼ですが、お兄様はいらっしゃいますか?」
俺は息を止めた。なぜこの医者がそんなことを聞くのか、分からなかった。「お名前を見て、もしかしたらと思ったんです。はたけし孝太先生という医師をご存知ですか?」
「兄です。孝太は俺の兄貴です。先生は兄貴を?」凛はわずかに表情を動かした。「三年前の学会で発表を聞きました。心臓血管外科の補助器具に関する研究でした。会場にいた医師の半分は懐疑的でしたが、私は違いました。あの研究が形になれば、救える命が確実に増える。そう思ったんです」
俺は何も言えなかった。兄の研究を、こんなところで知っている人間がいるとは思わなかった。「お兄様は今どちらに?」「分からないんです。一年半前に姿を消しました。事業に失敗して借金を残して。俺が連帯保証人だったので、今その借金を背負っています。兄貴を探していますが、手がかりもなくて」凛は黙って聞いていた。「そうでしたか。点滴が終わったらまた来ます。今は休んでください」凛は静かに病室を出ていった。
退院はそれから二日後だった。俺は医療費の分割払いを頼み込み、頭を下げて診療所を出た。家に戻ると、ミキが玄関で泣き崩れた。連絡を受けた時の心情を思えば、当然だった。「たけしさん、もう隠さないで。全部話して。私はあなたの妻なのよ」
俺はその夜、初めて全てを話した。兄の借金、萩谷の取り立て、家族への脅し。聞き終わると、ミキは俺の手を握った。「話してくれてありがとう。一緒に考えましょう。あなた一人の問題じゃないから」
翌日、俺は押入れの奥からあのノートを取り出した。兄が「保険みたいなもんだ」と言って預けていった、革張りの研究ノート。二年間、開きもせずに眠らせていた。俺は意を決して診療所に向かった。朝倉凛という医者なら、このノートの意味が分かるかもしれない。そう思った。診察時間が終わった後の待ち合い室で、俺は凛にノートを差し出した。「兄貴が残していったものです。先生に見ていただきたい。俺には何が書いてあるのか、さっぱり分からないんです」
凛は黙ってノートを受け取った。最初のページをめくる。その指が止まった。二ページ目で凛の眉が動いた。三ページ目で凛は息を飲んだ。俺はその様子をただ見ていた。凛はページをめくる手を止めなかった。三十分が過ぎ、一時間が過ぎた。凛は最後のページを閉じると、ゆっくりと顔を上げた。「はたけしさん、これはただのノートじゃありません」
「どういうことですか?先生」
「学会で発表されたのは、研究の入り口だけでした。このノートにはその先がある。試作の数値、改良、特許に必要な技術仕様、全てお兄様の手で書き残されています。これは特許の原型です。事業化できれば、医療現場を変える力があります」
俺は言葉を失った。「お兄様は最後まで諦めていなかった。失敗の最中でも、誰かに託すために、ここまで書き残したんです」俺の手が震えた。兄が消える前、最後に握った俺の手の感触が蘇った。「保険みたいなもんだ」という言葉の本当の意味。兄貴は、こうなることをどこかで覚悟していたのかもしれない。
「先生、このノートをどうしたらいいんですか?俺には知識も金も何もない。ただの整備士です」
「一人、心当たりがあります。三栗総一さん。お兄様の元共同研究者で、今は医療機器メーカーのエンジニアをしています。連絡を取ってみます」
俺は深く頭を下げた。
三栗との再会は、それから一週間後だった。俺は都内のカフェで彼に会った。四十絡みの、静かな目をした男だった。「孝太とはよく似ていますね。連絡が途絶えてから、ずっと気がかりでした。あいつのことだから、無理をしていたんだろうとは思っていましたが」
俺は事情を話した。三栗はノートを丁寧にめくり、何度も頷いた。「これがあれば、試作品を再設計できます。私の会社では難しいですが、個人として協力させてください。孝太のためです。それに、はたけしさん、あなたのためでもある」三栗は静かに言った。「特許出願まで、半年あれば形にできます。ただ、それまで持ちこたえられますか?」
俺は答えに詰まった。萩谷の取り立ては、日に日に激しくなっていた。工場にも家にも、ほぼ毎週萩谷が現れるようになっていた。ある朝、萩谷は差し押さえの書類を持ってきた。家、車、工場の備品まで、全てリストに載せていた。「はたけしさん、もう待てません。来月までに半分の千五百万用意できなければ、奥さんの実家にも話が行きますよ」萩谷の口元が薄く笑っていた。俺は拳を握った。殴りかかりたかった。殴れば全て終わる。そのことだけは分かっていた。
その夜、俺はミキと向かい合って座った。茶ぶ台の上にノートを置いた。「ミキ、兄貴のノートに価値があるかもしれないんだ。三栗さんと朝倉先生が、特許にできると言ってくれている。半年持ちこたえれば、可能性がある」
「半年ね。ただ、半年持つかどうか分からない。家を取られるかもしれない。お前にも怖い思いをさせるかもしれない。それでも、俺は兄貴を信じたい。最後まで諦めなかった兄貴のノートを信じたい」
ミキはしばらく黙っていた。「たけしさん、家なんて、また立てればいいの。私が欲しいのは家じゃない。あなたが後悔しない人生を生きること。それだけよ。お兄さんのノートを信じましょう」
俺はミキの手を握った。握り返してくる手が震えていた。それでも温かかった。その夜、俺は押入れの奥からもう一つのものを取り出した。兄から預かったノートと一緒にしまっておいた、古い写真。兄と俺が子供の頃、川で並んで撮った写真だった。兄は俺より少しだけ背が高くて、いつも先を走っていた。窓の外で雪が降り始めていた。二年前のあの夜と同じ、静かな雪だった。
雪が溶け、桜が散り、青葉の季節になっていた。三栗と凛と俺の三人は、半年の間ほとんど休まなかった。三栗は会社の仕事を終えた夜、自宅の作業場で試作品を組み上げ、休日にはその図面を持って俺の家に来た。凛は診療所の患者を見ながら、医療現場での使い勝手を細かく指示してくれた。俺は工場の仕事を続けながら、夜は二人の手伝いをした。部品の切削、調整、磨き上げ。整備士として培ってきた俺の手が、初めて兄の夢のために動いていた。
萩谷の取り立ては止まなかった。差し押さえの予告は何度も来た。その都度、ミキが役所や弁護士事務所を回り、執行猶予を引き延ばしてくれていた。家計簿の数字は毎月赤くなっていった。それでもミキは一度も愚痴を言わなかった。
特許の審査結果が届いたのは、六月の終わりだった。ミキが後ろから覗き込んできた。「ミキ、開けてくれないか?俺には開ける勇気がない」ミキは黙って頷き、封を切った。「たけしさん」
「承認されてる。お兄さんの特許」
俺は膝から崩れ落ちた。しばらく顔を上げられなかった。兄貴、兄貴、聞こえるか?承認されたんだぞ。あんたの研究が認められたんだ。その夜、凛から電話があった。「はたけしさん、大手の医療機器メーカーから正式な打診が来ました。契約金は初期で三億円、ライセンス料は別。明日、先方の重役と会います」
俺は受話器を握ったまま、声が出なかった。「孝太のおかげです。あいつが残してくれたノートが、ここまで連れてきてくれた」
契約の席は、都心の高層ビルの一室だった。俺はくたびれたスーツを引っ張り出し、慣れない革靴を履いた。会議室の長机を挟んで、メーカーの重役たちが並んでいた。三栗が技術の説明をし、凛が医療現場での意義を語った。契約書にサインを終え、ビルを出た時、空は夕焼けだった。三栗が俺の肩を叩いた。「終わりましたね、はたけしさん」「いや、ここからが始まりか」凛は静かに微笑んでいた。「お兄様にご報告できますね」
俺は夕焼けの空を見上げた。兄貴が走っていったあの川の空と同じ色だった。
契約金が振り込まれた翌日、萩谷が工場にやってきた。以前と同じ黒い車。いつもと同じ灰色のスーツ。「はたけしさん、そろそろ年貢の納め時ですよ。今日で全て終わりにしましょう」俺は萩谷を事務所の奥に通した。事務所には三栗と凛が先に来て待っていた。萩谷は二人を見て、わずかに眉を潜めた。「お知り合いですか?立ち合い人のつもりで呼んだんですか?無駄ですよ。払えないものは払えない。差し押さえは法的手続きです」
俺は萩谷を机の前の椅子に座らせた。机の下から銀色のアタッシュケースを取り出し、机の上に置いた。萩谷の眉がぴくりと動いた。「何ですか、それは?」
「萩谷さん。半年前、あんたは俺の胸ぐらを掴んで『逃げ場はない』と言いましたね。家族にも手を出すと匂わせた。あの言葉、俺は一日も忘れていない」
萩谷の表情から薄笑いが消えていった。俺はアタッシュケースの止め金をゆっくりと外した。カチッと音がした。蓋を開けた。帯封のついた札束が、整然と並んでいた。萩谷の顔から血の気が引いていくのが、はっきりと見えた。俺は札束を一つ手に取り、机の上に叩きつけた。バンと乾いた音が事務所に響いた。「三千万。耳を揃えてある。利息も延滞金も全部上乗せして、三千二百万だ。受け取って、領収書を書いてくれ」
萩谷の口が半開きになっていた。俺はもう一束、机に叩きつけた。「これで終わりだ、萩谷さん。もう二度と俺の家族の前に現れるな。俺の妻の名前を、二度とその口から出すな」萩谷の手が震え始めていた。凛が静かに言った。「領収書、いただけますね。書面で残させていただきます」
萩谷は操られるように万年筆を受け取り、領収書に判を押した。その判を押す手が震えていた。萩谷は札束をアタッシュケースに戻し、無言で立ち上がった。黒い車が走り去る音を聞きながら、俺は椅子に深く腰を下ろした。
「はたけしさん、気持ちよかったでしょう」俺は首を振った。「いいえ、三栗さん。気持ちよくなんかない。ただ、終わったというだけです」兄貴の借金が、ようやく終わった。凛が窓の外を見ていた。夏の日差しが工場の屋根を照らしていた。
借金が消えた翌月、俺は工場長に退職を出した。工場長は何も聞かず、俺の手を強く握ってくれた。二十年勤めた工場を出る日、同僚たちが油まみれの手を振って見送ってくれた。俺は深く頭を下げた。ここで覚えた手の感覚を、俺は一生忘れないだろう。
凛と三栗と俺は、医療ベンチャーを立ち上げることになった。兄の研究を、ノートに眠っていた他のアイデアも含めて形にしていく会社だった。社名は二人と相談して決めた。「はたけしメディカル」
兄貴、見てるか?あんたの名前を、こうして残したぞ。事務所は凛の診療所の隣にある古い建物を借りた。ミキが小さな花束を持ってきてくれた。「たけしさん、おめでとう。ここから始まるのね」「ああ。何年かかるか分からない。失敗するかもしれない。それでも、やってみる」ミキは微笑んで、花束を受付に飾った。
その日の夕方、俺は一人で行った。子供の頃、兄と並んで走ったあの川だった。夕焼けが川面を赤く染めていた。俺は土手に腰を下ろし、ポケットから古い写真を取り出した。兄と俺が並んで映っている、あの写真。
兄貴、俺は今ようやくあんたに追いついたよ。いや、まだ追いついていないかもしれない。それでも、走り出した。兄が志した道を、俺なりに走っていく。医者にはなれなかった。でも、誰かを救う仕事はできる。整備士の手で、医療を支えることはできる。それでいいだろう、兄貴。
風が吹いて、川の草が揺れた。兄の声が聞こえた気がした。俺は写真をポケットに戻し、立ち上がった。夕暮れの風が頬に優しかった。



