私は緑、39歳のOL。母子家庭で育ち、父が10歳の時に亡くなってからは母が必死に働いて私を大学まで行かせてくれた。裕福ではなかったけれど、母の犠牲に感謝していた。そんな私が出会ったのが、取引先の社長の息子・トール。イケメンで女性に優しい彼に、会社の女性たちはみんな夢中になったが、私は興味を持たないようにしていた。金持ちオーラの強い男性は私には合わないと思っていたからだ。
しかし、それがトールには新鮮だったらしい。これまで何人もの女性と付き合い、デートのたびに奢らされていた彼は、会社の帰りに偶然私を見つけて食事に誘った時、私が「ありがとうございます。母が夕食を作って待ってくれていますから」と高級レストランを断ったのが驚きだったという。本当はナイフとフォークをうまく使えないからだったのだが、トールは妙に感激し、それから怒涛のデートの誘いが始まった。
こまめに付き合い始めて2年ほど経ち、私が29歳の時に結婚した。しかし、母はこの結婚に反対した。トールは社長の長男で、下に弟のケンジがいる。トールが会社を継ぐことは決まっていて、それが気に入らない弟と仲が良くないらしい。母は「そんな家に嫁いだらお家騒動に巻き込まれるし、何より生きてきた世界が違いすぎる」と何度も言った。正直、私もそう思った。トールは私の家庭の事情を理解してくれたけれど、義弟は私のことを母子家庭の出だと馬鹿にしたのだ。しかし、トールの両親が私をとても気に入ってくれて、結婚を後押ししてくれた。
ところが、トールと一緒に住み始めると、生きてきた世界の格差がすぐに表面化した。ほんの些細なこと。例えば、トイレットペーパーの選び方からして、夫と私では考え方が違っていた。新居はトールが親からもらったマンションの一室で、夫は独身時代ずっとそこに一人で住んでいた。トイレには有名メーカーの色付き香り付きの高級な2枚重ねペーパー。対して私は実家でずっと格安の何の変哲もないシングルを使っていた。色や香りなんて不要だし、テレビでシングルの方が1回の使用量が少なくお得だと検証していたからだ。それをトールに言うと、呆れたように「そんな貧乏生活、恥ずかしいからもう忘れなよ」と言った。私はついむっとして「すみませんね。私はトールみたいに高級なお尻してないから」と嫌味を返してしまった。
しょっぱなからこんな感じだったから、格差はあれよあれよという間に広がった。部屋着に何万もかける夫と、ファストショップでセールを狙って買う私。3大キャリアのスマホの夫と、格安SIMの私。スマホ本体の価格だって、夫は10万超え、私は1万台だ。とはいえ、結婚しても働いていた私は自分の分は自分で払っていたから、特に問題ないだろうと思っていた。しかし、トールは「自分の妻がそんな安物を使うなど許せない」と言い出した。「じゃあ私の分も払ってくれる?」と聞けば、「なんで君だって働いてるじゃないか。俺やうちの金を当てにしないでくれよ」だって。じゃあ、グダグダ言わないでよと思った。新婚1年にして、この結婚はやっぱり間違いだったなと、義両親に押されて承諾してしまったことを後悔し始めた。
さらに腹が立ったのが家事だ。夫は独身時代、週2回家政婦さんを呼んで掃除や洗濯をしてもらっていたらしい。だから家事の大変さが全く分かっていない。結婚と同時に家政婦を呼ぶのをやめ、私にやらせるようになったのだが、「君のやることは雑だな。家政婦は完璧だったぞ」とか言う。カチンと来て「そりゃそうでしょ。あちらはお金をもらってるプロだもの。私は無償の素人なんだから、完璧になんて無理に決まってるじゃない」と言ったら、「つまり君に掃除や洗濯をきちんとやってもらうには金が必要だってことか。貧乏人はこれだから」と皮肉を言われた。さらに私の目の前で以前来ていた家政婦さんに電話をかけ、また週2回来てくれるよう頼んだのだ。私に対してはケチるくせに、自分の快適さのためには湯水のようにお金を使う。しかも私にはその恩恵を受けさせない。家政婦さんにも掃除はトールの部屋だけ、洗濯もトールのものだけするように依頼していた。「トイレとかリビングなんかはどうするのよ」と聞いたら、「リビングは2人とも使わなければいいじゃないか」と屁理屈で返してきたので、「じゃあトイレはあなたよく汚すから、家政婦さんに掃除してもらうべきじゃない」と提案したら怒鳴られた。「彼女はそんなことのために呼んだんじゃない」
「彼女、そんなこと?」その言葉に驚いてトールの顔を見ると、しまったと言わんばかりの顔。慌てて「い、いや、若い女性に男のトイレを掃除させるのはかわいそうじゃないか。これまでもトイレは自分で掃除してたし」としどろもどろで言い訳してきた。ねえ、確か同じ家政婦さんに何年も来てもらってたって言ってたわよね。つまり私と付き合ってた頃から二股ってこと?と詰め寄ると、最初はぎこちなく否定していたが、ついに「いいだろう。ちょっとした女遊びだよ。別に付き合ってたわけじゃない」と開き直った。もうどうでもいい。そう思った私は「ふうん。じゃあこれからもトイレはあなたが掃除してね。私は自分が使った時だけ綺麗にするから、家政婦さんにもそう伝えてね」と言って、さっさと引き上げた。
結婚後まだ数年だったけれど、私はもう絶対に別れようと思った。仕事が終わってもあのマンションに帰る気がせず、町をぶらぶらしていると「あれ、緑姉さん」と声をかけられた。振り向くと、トールの弟のケンジだった。結婚前、ケンジから私が母子家庭であることを散々馬鹿にされたので、愛想だけしてその場を去ろうとすると、ケンジは「やあ、俺これから飯なんです。一緒に食べませんか」と誘ってきた。前と随分感じが違うなと思い、お腹も空いていたので応じることにした。席に着くと、ケンジは開口一番「結婚前、色々言ってしまってすみませんでした」と私に頭を下げた。びっくりしていると、「あの兄さんとあまりうまくいってないんじゃないですか。さっき会った時すごく暗い顔をしてたから」と言われた。どう答えたらいいかわからず黙っていると、「俺、緑さんが兄さんと結婚したら絶対不幸になると思って。兄さん、外面はいいけどすごく金に汚いんです。金持ちなのをいいことに寄ってくる女性を食い散らかして、プレゼントは全部父の家族カードからの支払いです。兄さん、緑さんが契約社員なのを知って、自分やうちの金が減らないだろうって結婚したんですよ」
ああ、そうか。そういうことね。結婚をやめさせようと思って、わざと私にきつく当たったのね。「ありがとう」とお礼を言うと、「でも、女手一つで緑さんを育ててくださったお母さんのことを、下げるような言い方すべきじゃありませんでした」とまた平謝りしてくれた。トールが私の連絡先も勤務先も教えなかったため、他に方法がなかったのだと説明。トールがケンジのことを悪く言ったのは、私に悪印象を抱かせて接しないようにしていたからだと分かった。ケンジは「自分にできることがあれば何でもするから」と約束してくれ、私は泣きそうになりながらお礼を言い、離婚の決意を新たにした。
しかし、そう決心し離婚届を取ってきた日、実家の母が勤務先で倒れた。長年の無理がたたって腎臓をやられ、命の危険があるとまで診断されたのだ。私は会社を退職し、毎日母の入院先に見舞いに行った。結婚後、実家の家具などを自分の貯金から出した上に、病院への交通費などもかかり、私の貯金はほとんどなくなった。もちろんトールは一銭も出してくれない。それどころか「貧乏人はろくなもの食ってないから病気になるんだよ」と嘲るように言われた。こんな最低夫とは本当に離婚したかったが、その後の生活費のことを考えると、一旦離婚を諦めざるを得なかった。
入院を繰り返していた母の体調がようやく安定した頃、私たち夫婦に引っ越しの話が持ち上がった。義両親はこれまで都心のタワマンに住んでいたのだが、年寄り2人には住みづらいからと売りに出そうとしていた。それを知ったトールが「自分が残りのローンを払うから住む」と義両親を説得したのだ。義両親はなぜかその申し出を断ったが、トールが強引に押し切った。金持ちのステータスのタワマン。しかもかなり上の階に住めるのだから。上機嫌の夫に、私は「母を一人にしたくないから同居させて欲しい」とお願いした。するとトールは「お前、今金持ってないだろ。どうせしないくせに何言ってんだ。お前の実家は貧乏人だから、親子してうちの資産狙ってるんだろう」と即座に拒否してきた。確かに今、母は治療費などでほぼ無一文だし、私も貯金を使い果たし、最近始めたパートでお金を貯め出したばかり。間違いなく貧乏だけれど、だからってトールの資産を狙おうなんて考えたこともない。もう1日だって一緒の空気を吸いたくない。でもお金がない。
そう悩んでいるところに、トールの弟であるケンジから電話が入った。そして挨拶もそこそこに「1日も早く兄と離婚してください」と言ったのだ。「私だってしたいです。でもお金が」と言うと、ケンジは私の口座番号を聞き、その場でスマホを使って100万振り込んでくれたのだ。そして「足りなかったらまた言ってください。俺、銀行員でそこそこ高給取りですから」と笑って言ってくれた。「必ず返すから」と泣きながらお礼を言った私に、ケンジはとんでもないことを教えてくれた。なぜ義両親がタワマンから引き上げることにしたかを。「全く自分の親ながら恥ずかしいですよ。まあ兄貴と似た者同士ってことですかね」と自虐的に言うケンジにもう一度お礼を言って、私はすぐに行動を起こした。
トールに離婚届を突きつけたのだ。トールはあっさりと離婚を認め、署名した。「お前の貧乏臭い母親に乗り込まれるなんて冗談じゃないからな」と言って。私はすぐにそれを役所に提出し、びっしりシフトを入れたパートの合間に私物をまとめ、母の住むアパートに送った。そしてタワマンを出ていく日、トールに言ってやった。「これから大変だと思うけど、頑張ってね」と。「大変?何がだよ」とヘラヘラ笑うトールに、私はケンジから聞いたことを教えてやった。実はトールの父親が経営する会社がかなりやばい状態で、今月従業員への給料も払えるか分からないほどの状態だったのだ。「え、嘘だろ?」呆然としているトールに「大手銀行に勤務している弟の情報だから確かだろう」と言ってやると、真っ青になっていた。「そんなこと、ここのローンどうするんだよ」トールは自分の趣味に散財していたから、貯金はほぼゼロのはずだ。さらに義両親は管理費・修繕積立金を1年以上滞納しており、それが100万近くとなり、組合から訴えられている。今や部屋の名義がトールになった以上、滞納分は全てトールが払う。「そう、嘘だ、嘘だ。親父が俺を嵌めるなんて」と泣き叫び、焦って義両親に電話し、揉め合っていた。「義両親が不動産屋に売ると言っていたのに、強引に買い取ったのはあなたでしょ。ちゃんと説明しなかった義両親も意図的だったと思うけど、まあもう私には関係ないことだ。じゃ、頑張ってね」ともう一度言って、ドアを閉めた。
その後、義両親の会社は倒産し、義両親の会社や自宅、トールのタワマンに取り立てが押し寄せたらしい。彼らは夜逃げしたものの捕まり、今は消息不明だ。気の毒にも思うが、自業自得だろう。私は母とアパートで暮らしながら、ケンジと付き合い始めた。堅実で優しいケンジから申し込まれ、母も大賛成。彼が銀行の家族ローンに申し込んでくれ、もうすぐ母と一緒に引っ越す予定。今度こそ、幸せな家庭を築いていきたい。


