9年間、一度も会えなかった息子の葬儀に呼ばれた。棺の前で元夫と義母は「お前が会いに来なかったせいで、レオは寂しい思いをした」と責め立て、挙句には「葬儀代を半分払え」と言い放った。私は必死に怒りを飲み込んだ。だって、会いに来なかったんじゃない。合わせてもらえなかったんだから。そして、あの時、私は知ってしまった。棺の中は空だってこと。息子は生きている。今、私は彼らの計画をすべて知った上で、反撃の…

9年間、一度も会えなかった息子の葬儀に呼ばれた。棺の前で元夫と義母は「お前が会いに来なかったせいで、レオは寂しい思いをした」と責め立て、挙句には「葬儀代を半分払え」と言い放った。私は必死に怒りを飲み込んだ。だって、会いに来なかったんじゃない。合わせてもらえなかったんだから。そして、あの時、私は知ってしまった。棺の中は空だってこと。息子は生きている。今、私は彼らの計画をすべて知った上で、反撃の...

「お前は9年間、一度もレオに会いに来なかったじゃないか。そのせいでレオがどれだけ悲しい思いをしたか分かるか?」

会いに来なかったのではない。合わせてもらえなかったのだ。面会を求めるたびに、あれこれ理由をつけて拒否され、連絡すら遮断された。今すぐ怒りと共に罵倒の言葉をぶつけたかったけれど、必死に耐えて口を閉ざす。悔しそうに唇を噛む姿は、自分の行いを後悔しているように見えるだろう。元夫の秋彦たちは満足な表情で私を見ている。私が演技をしていることに全く気づいていないようだ。

「父さん、あきさん、おばあちゃん、もうこんなことはやめにしよう。」

そして、亡くなったはずの息子レオの登場で、反撃の火が切って落とされた。

私の名前は飯塚まみ。43歳の専業主婦だ。地方都市の出身で、両親はごく普通の人だった。他の家と少し違うところがあるとすれば、父の経歴だろう。彼は大手企業で営業マンを務めた後、独立して小さな会社を立ち上げる。母は主婦をしながら父の会社を手伝っていた。父が経営者ではあるが、特に裕福な暮らしをした覚えはない。儲けはそこそこだったのだ。家族が食べていくのに困らなければそれでいい。そういう考えで父は会社をやっていたので、ごく普通の毎日を送っていた。両親は仕事で忙しくなると、私の子育てに時間が取れないのも嫌だったのだろう。2人は私にたくさんの愛情を注いでくれた。長期休暇になると会社も休みを取り、旅行に連れて行ってくれたのだ。思い出の中の両親の顔はいつも笑顔だった。将来結婚するなら、2人のような穏やかな家庭を築きたい。いつの間にか私の中にはそんな夢ができていた。

父は経営者ということもあり、頭が良かったけれど、私は勉強が得意ではない。成績はクラスの中で中の下。しかし先生からは「気配り上手」だと評判が良かった。小学校の時に行われた三者面談で「素直で優しい性格なので友達が多い」と先生に褒められ、帰り道に母に頭を撫でられたのを覚えている。

「勉強はまあできなくても別にいいわ。女は愛嬌よ。まみは自分の長所を伸ばしていきなさい。」

「うん。」

返事だけは立派で、母の言葉の意味はあまり理解していなかったと思う。愛情深い2人に見守られながら、私はすくすくと成長。特に大きな病気をすることもなく、平穏な日々を送っていた。高校2年生の時、進路を父に相談すると、こんな答えが返ってくる。

「勉強が苦手とは言っても、今の時代は学歴が大切だ。4年生の大学はまみにはちょっと厳しいかな。というわけで短大に進学しなさい。」

父のアドバイスもあり、経営が学べる短大へ進学した。経営を選んだのは父の影響だ。私に会社を立ち上げるのは無理だと最初から諦めているけれど、会社経営で家計を支えてくれた父の苦労を少しでも理解したかったのだ。勉強は苦手だが、数学はそこまで成績が悪くない。おかげで短大に進学した後も特に困らず、無事に大学を卒業できた。短大を出た後、私は地元の中堅食品メーカーに就職。タイミングよく経理課の空きがあったのだ。派手な仕事ではないけれど、私には向いていたらしい。地道にコツコツと頑張ったおかげで、徐々に周りから頼られるようになる。

「まみさんみたいな人を採用できてよかったよ。どんな仕事でも文句を一切言わずこなしてくれるし。愛想もいいしね。最近の若い子はってよく言われるけど、まみちゃんは別よ。ずっとこの会社で働いて欲しいわ。」

「え、ありがとうございます。」

頭が良くないので仕事を覚えるのは大変だったが、その分、人の倍以上努力した。頑張ればいつか必ず報われる。仕事を通して私は大切なことを学んだ。

しかし、世の中は努力だけでは報われないこともある。残酷な現実を知ったのは就職2年目。父の会社が倒産した時だ。父は決して無理な経営をしていたわけではない。ただ運がなかったのだ。

「すまない。かなり借金を背負うはめになった。これから借金返済のために出稼ぎに行ってくるよ。」

会社は多額の負債を抱えて倒産。父は知り合いの紹介で日本から離れた場所で働くことになった。数ヶ月間帰って来ない分、高収入で返済が早く終わるのだ。

「私もパートを掛け持ちするわ。私も頑張って働いて、一円でも多く返済する。」

父と離れ離れになるのは嫌だった。それに、海外での仕事は危険が伴う。1日でも早く平穏な生活を取り戻すため、私はこれまで以上に必死になって働いた。さらに会社に許可を得て、一時は副業も行う。とても大変な時期だったが、家族が一致団結し、絆を深める機会でもあった。

秋彦と出会ったのは、借金返済が半分を終えた頃だ。彼は不動産会社の若手営業マンで、我が社の取引先としてオフィスを訪れた。

「お茶をどうぞ。」

「ああ、ありがとうございます。」

応接室へお茶を持っていったところ、秋彦の口が不自然に途中で止まる。私をまじまじと見つめる視線に気づき、「何だろう」と首をかしげた。

「あ、すみません。お茶ありがとうございます。」

にこりと愛想のいい笑顔を浮かべる秋彦。この時は特に何も思っていなかった。しかし、秋彦は我が社を訪れるたびに私にやたらと話しかけてくる。

「あの、まみさんはクッキーとか好きですか? 次来る時にお土産に持ってこようかなと思ってるんですが。」

「ええ、好きですよ。お気遣いありがとうございます。」

その瞬間、秋彦の顔がぱっと明るくなるのを見て、鈍いと言われている私もさすがに気づいた。多分、彼は私に惚れているのだ。秋彦のアプローチは徐々に露骨になっていく。そして、彼と出会ってから1ヶ月後。

「連絡先をお聞きしてもいいですか?」

距離を詰めてきた彼に、私はあまりいい感情を持たなかった。男性とそういう関係になったことが一度もなかったのも理由の1つだ。加えて、秋彦の距離の詰め方が少々強引だと感じていた。

「すみません。それはちょっと…」

最初はやんわりと断っていたが、秋彦は諦めず熱心に私にアプローチを続ける。

「俺、どうしてもまみさんがいいんです。あなただけを見ています。」

人によってはマイナスに捉える言葉だろう。しかし、恋愛経験の少ない私は彼の熱意を素直に受け取る。最終的には押される形で彼と交際を始めた。

交際開始から半年後、ふと気になって尋ねたことがある。

「秋彦って、なんで私とそんなに付き合いたかったの? 見た目がいいわけじゃないし、頭も良くないのに。家だって借金があるのは知ってるでしょ。あなたならもっといい相手と付き合えると思うけど。」

秋彦は、どちらかと言うとイケメンだ。一方、私はどこにでもいる普通の女。あんなに必死になって私を口説く理由が分からなかった。彼は少し気まずそうにこんなことを口にする。

「怒らないで聞いてくれよ。俺、まみみたいな見た目の人が好みなんだよ。大学時代、俺が一目惚れした相手に似ててさ。」

見た目の好みはともかく、昔好きだった人にそっくりという理由はあまり嬉しいものではない。とはいえ、ごまかさず素直に打ち明けてくれたのは、彼の誠実さが感じられる。少しむっとしたが、それ以上深く追求することはなかった。

秋彦との交際は順調に進む。私が26歳の時に彼からプロポーズされ、結婚を決めた。入籍後は秋彦の実家の近くのアパートに同居。お互い一戸建てに住みたいと思っていたので、27歳の時に自宅を購入した。自宅も彼の実家の近くだ。お互いの会社に通いやすい場所にあるため、特に不満はない。私の実家からは車で1時間と少し遠いけれど、そこまで不便さを感じることはなかった。

自宅を購入した直後、人生の転機が訪れる。私の妊娠が発覚したのだ。仕事を続けるか悩んでいる時に、我が家を訪れた義母にこんなことを言われた。

「まみさん、会社はやめなさい。嫁というのは普通、家を守るものよ。それに、子供が生まれたら仕事なんかしてる余裕はないでしょう。今のうちにさっさと辞表を提出しなさい。」

義母はアドバイスのつもりなのだろうが、言い方というものがある。まるで私が仕事をしていたのが間違いのように聞こえた。一生懸命働いたおかげで借金はすでに返済済みで、働く必要はない。秋彦の稼ぎだけでも、贅沢をしなければ暮らしていけるだろう。とはいえ、長年働き続けた会社を去るのは未練がある。義母に反対されながら、私は出産ギリギリまで働き続けた。そして会社を辞めた直後、28歳で息子のレオを産んだ。

初めての子育ては分からないことだらけだ。

「これじゃあ確かに仕事をしてる余裕なんてないわ。」

子育て経験者の義母のアドバイスは的確だったと、出産直後に実感する。レオはとても元気な子だ。よく泣き、ミルクもたくさん飲む。ベビーベッドの上でも激しく動き回るため、少しも目が離せない。おかげで私は睡眠不足の日々が続いた。大変な毎日だが、育児に全力を注げる幸福感もある。可愛いレオの成長をそばで見守れる私は、この世で一番幸せだと思っていた。

一方で、うまくいかないこともある。秋彦との関係だ。彼は表向き、家事も子育て協力的な夫を演じているけれど、実際は何もやらない。レオにミルクをあげた回数は片手で足りる程度だ。家事も一切手伝わない。

「ねえ、お米とといてくれる? ちょっと手が離せなくて。」

ある日の土曜日、レオの体調が崩れてしまい、私は朝から看病に追われていた。とても忙しかったので、休みでのんびり過ごしている秋彦に手助けを求めたのだが。

「え、ちゃんと炊けるか分からないし、まみがやってよ。ていうか、家のことはまみの担当でしょ。休みの日くらいゆっくりさせてよ。」

ソファーでごろごろと寝転がりながら拒否され、愕然とした。家事は嫁がやるもの。彼の中にはそういう考えが根付いているらしい。偏った考えだが、それだけならまだましだ。けれど、困ったことに、彼は私と揉めると口数が減るという悪癖があった。私が折れるまで不機嫌ですよという態度を崩さない。その上、義母を味方につけて必要以上に攻撃する。少し揉めただけで義母に電話し、我が家に呼び寄せた。

「まみさん、あなたも色々言いたいことはあるでしょうけど、嫁というのは夫を立てるものよ。」

ねちねちと説教する義母に、心の中でそっとため息をつくのはもはや日常の一部だ。秋彦は怒られる私を見て満足そうに笑みを浮かべている。おそらく彼はマザコンなのだろう。

秋彦の父親は彼が大学生の時に亡くなった。以来、2人で支え合って生きてきたのだ。そういう経緯もあるため、義母と秋彦の距離が近いのは仕方ないと思う。しかし、私との関係にまで口出しするのはどうなのか。秋彦や義母の態度に問題を感じつつも、私は具体的な対応を取ろうとは思わなかった。そこまで大事ではないと捉えていたのもあるが、レオの子育てが大変だったことも理由の1つだ。他のことに構っている余裕はない。それに、私が大人しく秋彦に従っていれば、ことは丸く収まる。いつの間にか、私は自分の意見や感情を内側に溜め込んでいく癖が身についてしまった。

義母の態度が冷たくなったのは、レオが1歳になる頃だ。表向きは息子を思うが故の心配を装っている。しかし、実態はあらゆる角度から私に難癖をつける行為の連続だった。

「そろそろレオを保育園に入れようかしら。」

子育ては楽しいが、外に出て働きたいという気持ちもある。秋彦の稼ぎもそこまで余裕があるわけではない。家計簿を見ながら、1歳になったばかりのレオをあやし、秋彦が仕事から帰ってくるのを待っていた。すると、彼の帰宅予定時刻の少し前に、義母が突然我が家を訪れたのだ。

「ちょっと様子を見に来たわ。」

「はあ。すみません。今から夕飯を作るので、何のお構いもできませんが。」

「別にいいわよ。レオちゃんと一緒に遊んでるから。」

料理をしている間、レオの相手をしてくれるならありがたい。お言葉に甘え、私は手早く夕飯の支度を始めた。

「よし、できたわ。」

テーブルに料理を並べる。すると義母はそれを眺め、突然まさぐりをした。

「え、ちょ、何してるんですか?」

「うーん。この味付けは薄すぎるわね。あ、こういうのが好きじゃないのよ。」

驚き、若干引いている私に構わず、義母はため息混じりに言う。

「ちゃんと旦那好みの味で作らないと。それがあなたの仕事でしょ。」

言葉に詰まった私に、義母は満足したように笑みを浮かべる。彼女の目の奥には意地の悪い感情が宿っていた。しかし、秋彦が帰ってくると、義母は打って変わって明るい笑顔を見せる。

「あら、秋彦おかえり。まみさんが美味しそうな夕ご飯を作ってくれてるわよ。よかったわね。じゃあ、私はそろそろ帰るわ。」

「え、食べていけばいいのに。」

「いいのよ。私のことは気にしないで。」

義母はそう言いながら玄関へ向かう。だが、私の横を通り過ぎる際、秋彦には聞こえない声量で囁いた。

「まあ、勉強すればいいわよ。」

あくまで善意からのアドバイスという態度だ。口の端を持ち上げ歪んだ笑みを浮かべていなければ、私も素直に受け取っただろう。ちなみに、秋彦は私の作った料理を食べても何も言わなかった。

「ねえ、それ薄くない?」

「え、別に普通だよ。」

秋彦はけろっとした顔で返す。義母は味付けが薄いと言っていた。味の好みは人それぞれだが、彼女は本当にそう感じていたのだろうか。

義母の訪問は週に2度、3度と増えていく。来るたびに必ず私の家事に文句をつけてきた。

「まみさん、掃除の仕方が雑よ。玄関の隅を見てごらんなさい。ほら、誇りが溜まってるじゃないの。」

玄関の隅を指差し、義母は眉を潜める。目をこらして確かめると、少量の誇りが落ちていた。言いがかりレベルの汚れだ。それでも毎回、義母の目は必ずどこかに何かを見つけ出す。まるで、うちに来たら文句を言うのだと最初から決めているかのようだ。

「洗濯物にシワが寄ってるわ。適当な洗い方をしているのね。」

勝手にベランダに出て、洗ったばかりの洗濯物をべたべたと触る。嫌さに思わず眉を寄せるが、義母は気づかずねちねちと嫌味を続けた。

「レオちゃんに粉ミルクをあげてるの? そんなんじゃダメよ。粉ミルクは体に毒なんだから。」

偏った考え方で私の子育てにダメ出しすることも珍しくない。義母の来訪が増えるにつれ、あることが分かった。彼女にとって事実がどうであるかは問題ではない。大切なのは、何か1つでも私の落ち度を見つけること。私を責める口実さえあればいいのだ。そして、ある日義母は決定的だとも言える言葉を放った。

「短大卒なのに口は達者なのね。」

会話の流れで、私は学歴の話になったことがある。義母のこの発言は、他の批判とは明らかに重みが違った。料理の味付けや掃除の荒さを指摘されるのは何とか飲み込める。同じ主婦としてのアドバイスだと思えばいい。義母が文句を言えないレベルまで頑張ろうと自分に言い聞かせることができる。しかし、学歴への言及は、私という人間の根本を否定しているように聞こえた。短大を選んだのは、当時の私が一生懸命考えて出した答えだ。一切後悔していないし、間違った選択だとは思っていない。私の過去を何も知らない義母の口から学歴を馬鹿にされるのは、心底嫌な気持ちになった。胃の底に冷たい石が落ちたような感覚を覚える。しかし、反論は出てこなかった。

「そうですか。」

波風を立てないためのうわべだけの笑顔を浮かべる。ここで言い返しても義母の機嫌を損ねるだけだ。加えて、いつの間にか身についた自分の感情を内側に溜め込む悪癖が発動してしまった。すると義母は満足そうに鼻を鳴らす。タイミングよくレオが泣き出したため、嫌味はこれで終わった。

義母の発言は、いわゆる嫁いびりだ。私に対して怒鳴ることはないけれど、義母は確実に傷つく言葉を選んで放っていた。仮に義母が感情を剥き出しにして怒鳴り散らしてくるなら、私も多少なりとも言い返していただろう。笑顔の仮面の下で行われる攻撃に、私は言葉を持てなかった。日々の積み重ねは少しずつ私の精神を削っていく。

さらに義母は、秋彦に対しても働きかけていた。学歴のことを言われた際、義母の前では我慢できたが、時間が経つにつれ苛立ちが募っていく。

「さすがにあの言い方はないわよね。」

秋彦に相談しよう。このままではストレスが溜まる一方だ。限界を迎えた私は、仕事から帰宅した秋彦に早速相談する。

「ねえ、秋彦、少し前お母さんがうちに来たんだけど、こんなことがあって…」

しかし、帰ってきたのは予想外の反応だった。

「母さんに悪気はない。お前が気にしすぎなんだよ。」

「え、でも、あなただって学歴のことをとやかく言われたら嫌でしょ。」

「俺は別に気にしないし。あのさ、俺、仕事で疲れてるんだよ。こういうどうでもいい話はまた今度にしてくれない?」

私の相談を「どうでもいい」と一蹴する秋彦。義母に学歴のことをいじられた時よりショックだった。呆然と風呂場へ向かう彼を見送るしかできない。

「うえーん。」

レオの鳴き声にはっと我に帰った。

「よしよし。どうしたの?」

腕にレオを抱いてあやしながら、先ほどの出来事を思い返す。勇気を出して相談したのに、まともに話を聞いてくれないとは。この一件以降も、秋彦に義母の件で話をしたが、毎回私に原因があると言われた。そして、しばらく経つと、また口論になる。

話し始めた途端、たった5文字の言葉で遮られた。

「またか。」

秋彦はこちらを見ようともしない。

「ち、違う。口論じゃなくて、ちゃんと相談したいの。」

「母さんはお前のためを思って言ってるんだ。なのに、まるでお前は被害者みたいな態度じゃないか。母さんに失礼だと思わないのか。」

実際、私は嫁いびりの被害者だ。なのに、秋彦は私が加害者だという前提で話している。

「お前はいつもそうやってことを大げさにするんだ。結婚する前から思ってたけど、直した方がいいぞ。それに、母さんに感謝こそすれ、文句を言う筋合いはないだろう。」

反論の言葉が喉の奥に詰まった。一体、義母に何を感謝しろというのか。毎週のように我が家へやってきては難癖をつけ、私を疲弊させる。そんな相手をなぜありがたいと思わなければならないのだろう。

レオが2歳になった頃には、秋彦に相談しようという気持ちは徐々に薄れていく。何を言っても無駄だと悟ったからだ。両親にも何も言えない。2人は私が結婚して幸せな生活を送っていると信じているからだ。

「秋彦の言う通り、私の気にしすぎな部分もあるかもしれないわ。」

誰にも相談できない。そんな環境が私を追い詰めていく。いつの間にか、自分の心を守るため「大したことではない」「意識しすぎだ」と思い込むようになった。そうして私が我慢するという道を選んだため、表向きは平穏な日々が過ぎていく。

「私の実家はそこそこお金持ちだったのよ。いわゆる地方名門の家ってやつね。夫がどうしても私と結婚したいって言うから、普通の家にとついであげたのよ。」

義母は嫌味と同じくらい自慢話もしていた。彼女の実家はここから新幹線で4時間も離れた場所にある。そこで様々な商売をしていた過去があり、周辺に住んでいる人で義母の実家を知らない人はいないらしい。

「まみさんは普通の家の子だから、名門の家ってどういうのか想像もできないわよね。」

自分の家柄をネタにして私を見下すこともあった。そんな義母を見ながら、「いいところのお嬢さんだったという過去は本当なのか」と心の片隅で疑ってしまう。しかし、私は毎回口を閉ざし、義母の嫌味と自慢話を大人しく聞く。何か言ったところで意味がないからだ。

当時の私にとって、レオの成長だけが心の支えだった。本当は保育園に入れたかったが、義母と秋彦から猛反発を受け、結局幼稚園まで私が1人で育てあげた。おかげでレオはすっかりママっ子に成長。

「ママ、これあげる。」

「あら、ありがとう。大切にするわね。」

幼稚園で書いた絵には、レオと私が仲良く並んでいる姿が書かれていた。

「パパがいないわね。」

「この前公園にいた時の…だから、パパは家でお留守番してたでしょ。」

1週間ほど前のことを思い出す。休日、レオを連れて近くの公園にピクニックに出かけた。前日までは秋彦も一緒に行く予定だったが、当日の朝になりドタキャンされたのだ。

「飲みすぎて頭痛いんだよ。2人で行ってくれば。」

レオは秋彦と出かけるのを楽しみにしていたため、かなり落ち込んでいたけれど、道中なんとか機嫌を直し、公園に着く頃には2人で楽しく過ごせた。

「そっか。次はパパも一緒にお出かけしようね。」

「うん。」

笑顔で返事をするレオに、手を洗ってくるようにと洗面所へ向かわせた。もらった絵は机の奥にしまっておくことに。自分が書かれていないと知ったら秋彦は機嫌を損ねると思ったからだ。子育てには非協力的なくせに、彼はレオに慕われていると信じている。面倒なことは私に押し付け、育児の楽しいところだけ満喫しているのだ。

「はあ。全く。」

無意識のうちに口がこぼれてしまう。慌てて片手で口を抑えた。レオの前で秋彦や義母に対する文句は言えない。彼は自分の父親と祖母が好きだからだ。それに、大人たちがギスギスしているところを子供に見せるわけにはいかなかった。

「レオの教育に悪いしね。」

頬を叩き、気持ちを切り替える。秋彦と義母も、さすがにレオの前で私をこき下ろすことはしない。レオは私の心の支えであると同時に、お守りのような存在になっていた。

レオがいないところでは、相変わらずいびりは続いている。むしろ昔よりひどくなっていた。義母の嫁いびりはアドバイスという形をなくし、直接的な罵倒の言葉を平気で浴びせてくる。秋彦はそんな義母に感化されたのか、家事や子育てに対してあれこれ難癖をつけるようになった。

「低学歴で平凡な家の子はこれだからダメなのよ。お前の子育てのやり方じゃ、レオは立派な大人になれない。もっとしっかりしてくれよ。」

2人からの棘のある言葉を右から左へ受け流す。まともに聞いても私が傷つくだけだ。黙って聞いているふりをすればいい。離婚の2文字が脳裏に浮かぶこともあった。しかし、自分の置かれた状況を冷静に見ると、その選択肢は消えてなくなる。私は専業主婦で稼ぎがない。レオはまだ小さい子供で、父親と祖母を奪うのはかわいそうだ。私とレオのためには、この生活を守ることが最適解だと思っていた。

そして、日々はどんどん過ぎていく。レオは大きな病気をすることもなく、すくすくと元気に育っていった。そして、レオが小学校2年生になった頃、義実家で親戚の集まりが行われた。

「みんなでこうして集まるのも久しぶりね。」

「そうね。あなたの旦那さんが亡くなってから、あまりこちらに来る機会もなかったし。」

義父が存命の頃は、定期的に義実家に集まり食事会を開いていたそうだ。この場に集まっているのは、近くに住んでいる義父側の親族だけだ。義母は久しぶりの賑わいに笑顔を浮かべている。

「秋彦君、飲んでるか?」

「ええ、頂いてます。」

秋彦は隅の席に座り、楽しそうに親族たちと交流していた。一方、私は義家の台所と、みんなが集まっている客間を往復しっぱなしだ。

「まみさん、飲み物が足りないわ。急いで準備して。」

「はい、ただいま。」

義母があれこれ命令してくるため、座っている暇がない。客は酒が進むに連れ、穏やかな雰囲気になっている。楽しそうで羨ましいと思いながら、せっせと動き回っていた。

レオが気になり、客間に行った際に様子を伺う。秋彦の隣に座り、静かにご飯を食べていた。昔はよく泣いていたが、ある程度成長した今、レオはどちらかと言うと大人しい子に育った。大人が集まる場所では、特別騒ぐことなくじっとしていられるのだ。お酒が入って場が打ち解けてきた頃、義母の声が座敷に響いた。

「そういえば、この話したかしら。うちの嫁の父親。昔は会社を持ってたんだけど、借金抱えて倒産したのよ。」

「あら、そうだったの?」

「まだ借金があるらしいわよ。秋彦も苦労するわね。」

さも当然のように、しかし客間にいる全員に聞こえるように義母が言い放つ。私はこの時、廊下にいて客間に食事を持っていこうと扉に手をかけていた。廊下に立ち尽くしながら、顔に血が上るのを感じる。父が経営していた会社が不況の煽りを受けて倒産したのは、もう随分前のことだ。借金は家族全員で必死に働いて、とっくに返済を終えている。義母はそのことを知っているはずだ。なのに、まだ借金があると嘘を言った。事実と異なることを親族全員の前で口にしたのは、私を馬鹿にしたかったからだろう。

「失礼します。」

無表情を取り繕い、部屋の扉を開ける。すると、にこにこと笑みを浮かべた親族の女性が私に声をかけてきた。

「ねえ、まみさん、あなたのご実家に借金があるって本当なの? なんで教えてくれなかったのよ。親戚の私たちにも迷惑がかかるかもしれないじゃない。」

「ご心配なく。借金はとっくに返済してますので。」

「え、そうなの?」

無表情を崩さないまま、はっきりと否定する。

「あら、私ってば勘違いしてたみたいね。でも、借金があった過去は本当でしょ? まみさん。」

「ええ、そうですけど。」

「どんな理由があるにせよ、お金を借りるなんて普通じゃ考えられないわよね。よほど無理な商売をしていたのかしら。」

義母と親戚たちは、私の実家をネタにして勝手に盛り上がった。秋彦は聞こえていないふりをしてビールを飲んでいる。私をかばおうという考えはないようだ。悲しみを感じると同時に、秋彦にあまり期待していなかった自分に驚く。私はいつの間に彼に頼ることをしなくなったのか。

集まりが終わり、私は酔っ払った秋彦を抱えて自宅に戻った。レオは心配そうな顔で私の横を歩く。帰宅後、レオが少し落ち込んだ様子でこんなことを口にする。

「なんでおばあちゃん、あの時楽しそうにしてたの? ママは笑ってなかったのに。」

「え?」

「ママの方のおじいちゃんが借金があるって言った時だよ。おばあちゃん、僕のクラスの意地悪な子と同じ顔してた。その子、いつも嫌なこと言うんだよ。みんなに嫌われてるんだ。」

まだ小さな彼は、義母の嫁いびりに気づいていないと思っていた。

「あの時、すっごく嫌だった。おばあちゃん、ママに意地悪してるの。」

しかし、義母の悪意をレオは敏感に察知していたのだ。レオの目には義母への不信感が滲んでいる。私は少しの間、言葉を失ってしまった。

「そ、そんなことないわよ。おばあちゃん、きっと借金のことを忘れてたんでしょうね。」

はっと我に帰り、慌てて否定するが、レオは納得していない様子だ。私はレオと義母の中が悪くなるのは望んでいない。できれば仲のいい家族でいて欲しいと思っていた。

「しっかりしないとね。」

レオが寝た後、1人きりになったリビングで小さくつぶやく。義母にも、レオの前では今日のような発言はやめて欲しいとそれとなく伝えておこうと考えながら、リビングの電気を消し寝室へ向かった。この頃から眠れない夜が増えていく。横になっても頭が冴えていて、義母の言葉が繰り返し浮かんでくるのだ。同時に、秋彦の無関心な横顔も脳裏によぎる。秋彦と一緒に寝るのが嫌だったので、寝室には1人きりだ。ため息が部屋の中に落ちて消える。布団の中で、一体いつになれば楽になれるのだろうと考えた。眠れない夜はやたらと長く感じる。暗い天井を眺めながら、色々なことを考えた。

私に何か問題があるのか。努力が足りないのかもしれない。料理の腕を磨いたり、掃除をもっと丁寧にすれば、義母は認めてくれるだろうか。義母と仲良くなれたら、秋彦との夫婦仲もきっと改善できる。そんなわけないのにね。無意識のうちに自嘲の笑みが浮かんだ。無駄なことを考えているうちに朝がやってくる。

私は疲れているのに眠れないという日が続くにつれ、日中もぼんやりすることが増えていった。ある日、レオの授業参観で学校に行った際、顔見知りのママ友と会った。

「あら、まみさん、久しぶりね。」

「本当ね。元気にしてた?」

「ええ。まみさん、あなた大丈夫なの? 目の下すごいよ。」

彼女とはレオが幼稚園の頃からの付き合いだ。最近は忙しくて会えなかったが、昔はよく一緒にお茶をしていた。

「実は、最近あまり眠れなくて。」

「そうなの? 実は私も少し前まで不眠気味だったのよね。でも、病院に行ったらすぐ治ったわよ。」

不眠に悩んでいたママ友は、近所の小さな診療所へ行ったらしい。すぐ薬を処方してもらい、以来ぐっすり眠れているとのことだ。

「診療所かって言うと変な目で見てくる人もいるけどさ、眠れなくて今にも倒れそうって時に、周りなんて気にしてる余裕はないわよ。まみさんも行ってみたら。とてもいい先生よ。」

「なるほど。その手があったわね。早速行ってみるわ。」

信頼しているママ友のアドバイスということもあり、思い切って受診してみる。彼女の言う通り、感じのいい男性が対応してくれた。

「家庭のストレスによる軽い不眠症ですね。深刻な状態ではないですよ。軽い睡眠導入剤で大丈夫でしょう。もしこれで眠れなかったら、もう少し強いお薬を出しますね。」

処方された薬が合っていたのか、もしくは誰かに悩みを打ち明けられてすっきりしたのだろう。この日、私は久々にぐっすり眠ることができた。睡眠が改善するまで、診療所には月に1度だけ通院することに。秋彦や義母には黙っていた。彼らはママ友が言っていた「変な目で見てくるタイプ」だからだ。それに、正直に話せる場所ができたことは、私にとって救いだった。医者は私の話を否定せず、ただ静かに聞いてくれる。「それは辛かったですね」という何気ない慰めがどれほどありがたかったか。この場所を守るために、私はこっそり病院に通い続ける。

「まみさんはまだ若いですから、体力も気力も十分あります。もし余裕があるなら、何か新しいことにチャレンジしてみるのもいいですよ。」

「うーん。そう言われても、ぱっと思いつきませんね。趣味もないですし。」

「まみさんの場合、多くの人と関わりを持つことがプラスに働くと思います。」

医者のアドバイスもあり、悩んだ結果、料理教室に通い始めることにした。義母には未だに料理についてあれこれ文句を言われるけれど、料理教室に通ってもっとうまくなれば、義母も何も言えなくなるだろう。さらに、地域のボランティア活動にも参加した。その昔、レオがまだ赤ん坊の頃、義母が私にこんなことを言ったのを思い出したからだ。

「まみさんって、勉強はできないけど外面はいいのね。」

実家の隣に住んでいる家族と仲良くなったことを揶揄した発言だった。義母に呼び出され、義実家へ行った帰り道。私が隣の奥さんと立ち話をしていたのを目撃したらしい。私は勉強ができない分、愛想よくしようと昔から心がけていた。おかげで新しい場所にも割とすぐ馴染めるのだ。地域のボランティアには、性別も年齢も様々な人が集まる。こういう場で外面の良さを最大限に発揮すれば、地域の役に立ちつつ、人付き合いの輪を広げられるかもしれない。そんな私の選択は正解だったようだ。料理教室では気の合う仲間が見つかり、楽しく学びながら料理の腕を上達させていった。秋彦は褒めるようなことはしないけれど、外食の機会が徐々に減っている。ボランティアでも顔見知りが増えていき、みんなと力を合わせて地域貢献ができた。

「ママ、最近楽しそうだね。」

「そうかしら。」

小学4年生になったレオは、私の変化を敏感に察知しているようだ。一方、義母や秋彦は気づいていない。私への対応も以前と変わらない。口を開けば文句ばかりで、決して認めようとしない。義母とは分かり合えないままだが、周りの人が私のことを見てくれている。それで十分だと考えていた。

しばらくの間、大きな事件も起こらず平和な日々が続く。転機が訪れたのは、レオが中学に入った直後だ。

「お帰り。今日は遅かったわね。」

「ああ、新人の子が入って、教育係になったんだ。これからも遅くなる日が続くと思う。」

秋彦の職場に中途採用で新しい人が入社したらしい。

「え、どんな人?」

「だいぶ若い女の人だよ。俺よりも15歳も年下だ。」

彼女の名前は川口秋。普通ならそこまで気になることではないだろう。しかし、義実家に秋彦とレオと一緒に顔を出した際、義母がある事実を明らかにした。

「あの子、無事に就職できたのね。秋彦のおかげよ。」

「パパの職場の新人の人と知り合いなの?」

レオの問いかけに、義母は笑顔で返す。

「そうなの。秋ちゃんのお父さんと私は古い知り合いでね。就職先に困ってたみたいだから、パパの職場はどうかしらって提案したの。ちょうど事務社員を募集してたからね。母さんの紹介なら間違いないし。」

そういう事情があったのかと、心の中で納得した。私は3人の会話に口を挟まない。秋彦と義母が嫌そうな顔をするからだ。最近、2人はレオの前でも私に対して雑な扱いをしてくる。そんなことをしたらレオに嫌われるだけだが、2人は気づいていない。自分たちがレオから反感を買うとは想像すらしていないのだ。レオは家族内に流れる敏感な空気や、波風を立てたくないという私の考えを察知しているらしい。彼は表向き普通の中学生として過ごしている。しかし、裏では完全に私の味方だ。

「母さん、ちょっといい? 気になることがあるんだけど。」

何かあると、こうして私にだけ相談してくる。夕飯作りの手を止め、レオに向き合った。

「どうしたの?」

「父さんのスマホに、秋って人からメッセージが届いてたんだ。机の上に置いてたのをたまたま見ちゃって。秋さんって、父さんの職場の部下だよね。なんていうか、あの文面、同僚に対するものじゃなかったように思う。」

その言葉の意味を理解した瞬間、体から血の気が引くのを感じる。

「き、気のせいじゃない?」

「そうかな。」

「ええ、きっとそうよ。もう、レオったらドラマの見すぎね。ほら、もうすぐ夕飯ができるわ。お箸を持っていってね。」

レオは小さく頷き、私の手伝いを始めた。鍋をかき混ぜながら、私は自分に言い聞かせる。ただの思い過ごしだ。レオくらいの年齢の子供は想像力が豊かで、ドラマなどの影響を受けやすい。レオの妙な発言もそのせいだ。

けれど、私の中で疑惑は日々大きくなっていく。正直、秋彦の口から秋の話題が増えていったのだ。最初はごく自然な同僚としての話だった。

「母さんの紹介で入った秋って子がいるだろう。部署のみんなでその子の歓迎会をしたんだけど、お酒に強い子でさ、一緒に飲んでてすごく楽しかったよ。」

秋のことを語る際、彼は常に笑顔を浮かべている。その表情を見ていると、胸の奥が妙にざわついた。やがて、少しずつ秋が話題に出てくる頻度が増え、声のトーンや表情もわずかに変化しているのに気づく。具体的に何が変わったのか説明するのは難しい。ただ、職場の同僚に向けるものとは違うと感じた。

あきらかな秋彦の態度に、レオも違和感を抱いているらしい。どちらかと言うと鈍感な私ですら妙だと感じるほどなので、鋭いレオが気づくのは当然だ。しかし、口にすることはない。言った瞬間、何かが終わってしまうという予感があるのだろうか。

レオが中学2年生になる頃には、秋彦の行動にも変化が出始める。最初は帰宅時間が遅くなった。次はスマホを肌見離さず持ち歩くようになり、私が近くを通りかかるとさっと画面を隠す。何か隠しているのは明らかだ。ある夜、秋彦がリビングのソファーで居眠りをしていた。テーブルの上にはスマホが無造作に置かれている。何気なく視線を向けると、着信通知が映った。差出人は秋。メッセージの冒頭の文字が画面に映し出されていた。

「今日も会えなくて寂しかったです」って。

心臓が一度大きく跳ねる。脈打つ胸を抑えつつ、瞬時に脳裏に焼きついた文字を思い返した。その夜は睡眠導入剤を飲んでも眠れず、疲れ果てた状態で翌日を迎える。

あの人が帰ってきたら聞いてみよう。秋彦が帰宅後、感情的にならないようにと心した。彼を刺激しないよう言葉を選び、ただ事実を確認したいだけだということを丁寧に伝える。しかし、私が秋のことを尋ねた瞬間、秋彦は顔色を変え、次の瞬間にはこちらを攻める側に回っていた。

「もしかして、浮気してるとか疑ってるのか? そんなわけないだろ。俺や秋に失礼だぞ。」

「いや、私は別にあなたを疑っているわけじゃ…」

これは嘘だ。私は明らかに秋彦を怪しいと思っているが、態度や言葉には一切出ないよう気をつけていた。秋彦は何かを隠すように大きな声でまくし立てる。

「俺が職場の同僚と連絡を取り合って何が悪い? お前は俺の仕事に口出しするつもりか?」

彼は瞬時に自分を加害者から被害者へとすり替えた。

「そういうの迷惑なんだよ。ていうか、俺のスマホを勝手に見たのか? プライバシーの侵害だぞ。」

「盗み見たわけじゃないわ。あなたがテーブルの上に置きっぱなしにしてたから、たまたま目に入っただけ。」

「言い訳は聞きたくないな。」

この直後、異変を察知したレオが自室から出てこなかったら、私は秋彦に怒鳴られ続けていたと思う。

「何があったの?」

私たちの会話は聞こえていなかったらしい。わざわざレオに伝えることではないだろう。彼は今、中学3年生で受験を控えた大事な時期を迎えている。親のいざこざに巻き込むわけにはいかなかった。

「大丈夫。なんでもないわ。」

笑顔をレオに向ける。私の下手な嘘など、彼はすぐ見抜く。納得できないという表情をしていたが、問い詰めても私を困らせるだけだと判断したようだ。

「母さん、何かあったらすぐ俺に言って。1人で抱え込まないでよ。」

「ええ、分かったわ。」

レオの気遣いがとてもありがたいけれど、私は結局何もレオに打ち明けられなかった。秋彦のことだけでも頭が痛いのに、当時、義母が別の問題を起こす。どうやら普通に嫁いびりするだけでは物足りなくなったらしい。ある日、いつも通り地域のボランティアに参加していたところ、義母と同年代の女性に声をかけられた。

「まみさん、あなた、心の病いなんですって。」

次の瞬間、周りが一気に静まり、彼女の声はかなり大きくみんなに聞こえてしまったのだ。

「え、な、なんでですか?」

「あなたのお母さんに聞いたのよ。昔からの知り合いで、前にたまたま会ってね。で、あなたの心療内科通いを相談されたわ。精神的に不安定な人が嫁で悩んでるってね。」

義母には通院の件を伝えていない。一体どこで情報を得たのだろう。病院に義母の知り合いが通っていて私を見かけたのか、もしくは私が病院に入るところを目撃したのかもしれない。

「あまり義理のお母さんに心配かけさせちゃだめよ。」

この女性はあくまで心配しているという風に言ってきた。しかし、目の奥には隠しきれない好奇心が滲んでいる。彼女は他人の家庭のいざこざを話のネタにして、周りの人と楽しくおしゃべりする人だ。おそらく私のこともネタにするつもりだろう。通院は軽い不眠症のためで、医者もストレスが解消されれば改善すると言っている。けれど、見方によっては私は精神的に不安定な人間なのだ。

ボランティアが終わった後、私は義母に電話をかける。

「眠れなくて、睡眠導入剤を処方してもらっているだけです。日常生活に支障は出ていません。」

ところが、義母は私の話を一切聞こうとしなかった。

「やっぱり心療内科かなんかに通ってたのね。なんで言わなかったのよ。」

「お母さんに心配かけさせたくなかったからです。」

「精神的に不安定な人が近くにいるってことを隠される方が嫌よ。このことは秋彦にも伝えておくからね。」

一方的に電話を切られ、事情を説明する機会を奪われる。この日、秋彦は帰宅して早々、私の心療内科通いを責めた。

「いいか、このことは誰にも言うなよ。お前だけならともかく、レオや俺まで変な目で見られるからな。」

不眠になったのはあなたが原因でもある。秋彦が矢継ぎ早に私を攻め立てたせいで、喉まで上がってきたその言葉はうまく出せなかった。私の通院の件で、状況は一気に悪化する。

レオが高校受験に合格し、入学式の後、16歳の誕生日を迎えた直後。

「もう限界だ。離婚してくれ。」

土曜日、レオが部活で学校に行っている間、義母が我が家を訪れた。秋彦が呼び出したらしい。嫌な予感がしつつリビングに通すと、義母の隣に座った秋彦が突然離婚を切り出したのだ。彼がこの時期まで待ったのは、レオを気遣ってのことだろう。その程度の優しさは彼にもあるらしい。私は「とうとう来た」と思いつつ、抵抗しようとは思わなかった。たとえ秋彦と別れることになっても、私にはレオがいる。そんなに辛い目にあっても、レオが隣にいれば大丈夫だと思っていたのだ。

ところが、秋彦と義母はすでに手を打っていた。

「これを見てちょうだい。」

「何ですか?」

「私の知り合いや親族に頼んで書いてもらった陳述書よ。あなたは精神に問題を抱えていて、レオちゃんの母親にふさわしくないと書かれているわ。これを私が依頼した弁護士に提出して、親権を秋彦のものにするから。」

私は完全に言葉を失ってしまう。

「なんですって?」

「あなたは1人でこの家を出ていきなさい。レオちゃんのことは私が面倒を見てあげる。」

「そ、そんなの受け入れられるわけないじゃないですか。」

叫びながら、座っていた椅子から立ち上がる。取り乱す私を、秋彦と義母は冷めた目で見ていた。

「私は軽い不眠症なだけで、精神的に問題はありません。」

「あなたの言うことを信じられると思ってるの? 無駄な抵抗はやめなさい。」

「文句があるなら、お前も弁護士を雇ったらどうだ。」

秋彦が勝ち誇ったような顔で言い放つ。私は長年専業主婦で、自分の資産を持っていなかった。弁護士を雇うことはできない。秋彦はそれを知った上で、意地の悪いことを口にしたのだ。親権争いは最初から不利な展開で、私の言葉はかき消された。

事情を知ったレオは、私と暮らしたいと主張してくれた。この言葉がどれほど私の支えになったか。ところが、裁判所の判断はレオと私の意見を無視したものとなる。父方の生活環境の安定性を重視し、親権は秋彦側に渡ってしまったのだ。辛い現実を飲み込めないまま離婚届に判を押し、私は実家へ戻ることとなる。実は、親権を奪われそうになる前に一度実家へ行き、初めて両親に今までのことを打ち明けていた。

「とにかく、一旦うちに戻ってきなさい。レオ君の心配は要らないわ。もう16歳だし、あの人たちも悪いようにはしないはずよ。」

2人の言葉に力なく頷く。そして、何もできないまま家を出ていく日を迎えた。

「母さん、これ持っていって。」

玄関を出た直後、レオが私を追いかけてきて、素早く何かを握らせる。小さく折りたたまれた紙だった。実家へ戻る電車に乗りながら、紙を開く。レオの字で「何があっても私の味方」と書かれていた。「いつか一緒に暮らす日が来るまで待ってて」という文字を見て、涙が浮かぶ。

「待ってるわ、レオ。」

小さくつぶやき、財布の奥にしまい込んだ。これならいつでも持ち歩ける。レオの短い手紙は、私に残された最後の希望だった。

離婚後、面会交流は月1回と取り決められたが、秋彦は次々と面会を拒否。「勉強で忙しい」「レオが会いたくないと言っている」など。嘘だと言いたいけれど、彼と直接連絡ができない以上、反論も難しい。高校に入学したらレオにスマホを買うと約束していた。その前に家を出ていくはめになったため、秋彦や義母を通さずレオに連絡する手段がないのだ。

ようやくレオと面会できた際、連絡先をもらった。

「これからはここに連絡して。」

「ありがとう。助かるわ。」

レオとやり取りを交わしながら、秋彦の近況を知る。彼は秋と再婚したらしい。やはり浮気していたのだろうが、確かめる術はない。

「おばあちゃん、意図的に父さんと秋さんを近づけてたんだ。たまたまリビングで父さんに話しているのを聞いちゃって。あれ? おばあちゃんもお父さんも、絶対許せない。」

電話越しにレオの怒りが伝わってくる。私はレオを落ち着かせることで精一杯だった。

「レオ、私はあなたを守ることができない。その家でうまくやっていくために、大人しく従うふりをするのよ。」

自分の子供に何て残酷なことを言うのだろうと思うけれど、今はこれしか方法がないのだ。

秋彦と再婚した秋が自宅に住み始め、義母も義実家を売却して彼らと同居を始めたところまでは知っている。しかし、レオは何も情報を得ることができなかった。レオからの連絡が途絶えたのだ。電話をかけても繋がらず、メッセージを送っても既読がつかない。もしかして、私の連絡が届かないように義母たちが何かしているのか? そう考えても、確かめる術がなかった。

離婚後、私は実家に戻り、パートをしながら細々と生活を立て直す。レオへの思いを胸に抱えながら、前を向くことだけを考えて過ごした。連絡はできないけれど、あのメモがある限り、レオは私を待っていてくれると信じられる。それだけが私の拠り所だった。

そして、9年という月日が経過。ある日、実家の母から電話がかかってきた。

「秋彦さんから手紙が届いてるわよ。捨てる?」

「うん。大切な用かもしれないし、一応確認するわ。明日にでも取りに行くから。」

私はすでに実家を出ていて、新しい生活を始めている。秋彦に住所は教えていないため、実家に手紙が届いたのだろう。翌日、実家へ行き手紙を受け取ると、早速中身を確認する。中には数通の便箋が入っていた。

「は…」

思わず気抜けした声が出てしまったのは仕方ない。あまりにも衝撃的な内容が書かれていたからだ。

「レオが交通事故にあって亡くなったですって。」

2枚目の便箋には、葬儀会場と時間の案内が書かれていた。日時は明日。葬儀会場は秋彦たちが住んでいる地域だ。便箋を持ったまま、しばらく呆然とする。そばにいた両親も衝撃を受けて言葉を失っていた。最初に我に返ったのは父だ。

「そ、それは本当なのか?」

「分からない。でも、もし本当だったら…」

そんな。9年間、レオとは連絡すら取れなかった。衝撃に思考が停止していたのは数分程度で、手紙をテーブルに置くと、だんだん頭が動き出した。何かがおかしい。悲しみの中に、無視できない違和感がある。封筒には葬儀の日と場所が記されていたけれど、一般的な葬儀に添えられる喪中はがきや葬儀社からの案内が同封されていないのだ。さらに、レオが亡くなった原因は交通事故とだけ書かれている。どのような状況だったか、説明が一切なかった。

「とりあえず、書かれている場所に行ってみるわ。」

明らかにおかしいと感じているが、もしかしたら現実を直視したくないだけかもしれない。覚悟を決めて、翌日葬儀会場へ向かう。大手の葬儀会社ではなく、個人で経営しているところのようだ。小さな会場に入ると、受付の前に秋彦と義母が立っていた。横には見慣れない女性がいる。おそらく彼女が秋だろう。

「初めまして。私、彼の再婚相手の秋って言います。」

掠れた声で自己紹介をする秋に、軽く会釈をする。今は彼女に構っている暇はなかった。

「秋彦君、一体何があったの? 説明して。」

「その前に、レオに挨拶したらどうだ?」

息子が亡くなったというのに、秋彦の表情に悲しみの感情は一切なかった。義母も無表情で私を見ている。

「大手の葬儀会社に頼まなかったのね。」

「私の知り合いの葬儀会社よ。大手より手厚い対応をしてくれるわ。レオちゃんも、大手よりこういうところの方が嬉しいでしょ。」

視線を合わせずに言われ、「そうですか」とだけ返した。会場に足を踏み入れる。次の瞬間、また違和感が湧き上がってきた。通常、葬儀には弔問客が訪れるものだ。ところが、この葬儀には他の参列者が1人もいない。会場も本格的な式場ではなく、葬儀社が提供する小さな個別室を借りただけのような簡素な空間だった。家族葬なのだろうと考えようとしたが、違和感が拭えない。祭壇の前に、遺影と思われる写真が飾られていた。レオの写真だ。記憶の中の彼よりだいぶ成長している。しかし、その場にあるのは写真だけだ。遺体を安置している棺は、蓋が閉じられている。

「ねえ、これを開けてちょうだい。レオの顔が見たいの。」

「それは…ああ、飾りの蓋で開かないんだよ。」

平然とおかしいけれど、3人の刺すような視線にさらされ、うまく口が動かなかった。不自然な静寂が場を支配する。どう言い返そうかと悩んでいると、秋彦たちが葬儀場のスタッフに呼ばれた。

「支払いの件で話が…」

義母と同じくらいの年齢の男性だ。おそらく彼が先ほど言っていた義母の知人だろう。3人が出ていき、私だけが部屋に残される形になった。1人になった私は、ため息をつきながら祭壇の方へ視線を移す。すると、部屋の隅の物影から突然人影が現れた。背の高い男性が祭壇の前に立つ。

「そんな…嘘でしょ。」

声を抑えて、そこに立っていたのは25歳になったレオだった。最初から怪しいとは思っていたけれど、やはり生きていたのだ。安堵に胸を撫で下ろすと、レオは足音を立てず、素早く私へ近づいてくる。まるで誰かに気づかれたくないような慎重な動きだ。

「お母さん、こっちに来て。何があったか説明するから。」

小声で言いながら、隣の部屋へと促した。おそらくレオはここに潜んでいたのだろう。隣室に入った瞬間、体から力が抜ける。膝が笑っているのを感じた。最悪の事態は常に頭の中にあった。もしレオが本当に亡くなっていたらどうしよう。不安に襲われながら、ここに足を運んだのだ。でも、レオは生きていた。心臓がドクドクと脈打っている。心の底からほっとした直後、湧いてきたのはある疑問だ。

「なんで秋彦は、あなたが亡くなったなんて嘘をついたの?」

「母さんを呼び出すためだよ。」

「え、どうして? あの人と離婚してもう9年も経ってるわ。今更、私と会ってどうするの?」

私の疑問に、レオは時系列順に分かりやすく事情を教えてくれた。私が出ていった直後、秋彦と秋は再婚。秋がレオの住んでいる家に引っ越してきた直後、義母も義実家を売却し移り住んできた。ここまでは私も知っている情報だ。表向きは平穏な日々を送っていたらしい。秋と義母は気が合うらしく、2人でよく出かけていた。秋彦も新しい生活に満足していたという。しかし、レオだけは違った。

秋は私の息子であるレオと、最初から距離感を持って接していた。まだ小さな子供ならともかく、相手は高校生だ。浮気した末の再婚だという事情を知っているため、受け入れられないだろう。秋はそんな考えを持っていたのではないかと、レオは語った。

「まあ、その通りなんだけどね。俺は、父さんと浮気した秋さんが嫌いだし、認めていない。いつの間にか、俺は家族の中で孤立していったよ。」

レオは高校卒業後、成績優秀者だけが取得できる奨学金を使い、都心にある偏差値の高い大学に進学。幸いなことに、私の勉強嫌いの遺伝子は受け継がれなかったのだ。なるべく秋彦には頼りたくない。レオはその一心で、大学のない日はバイトをして生活費を稼いでいた。おかげで実家に帰る暇もなく、平和な日々が過ぎていく。

レオが不穏な話を耳にしたのは、大学2年生になったばかりの春。秋彦が会社を辞めて独立を考えていると連絡が来たのだ。

「長年不動産の営業をしていたから、その経験を生かして会社を立ち上げれば稼げると思ってたみたい。でも、世の中ってそう甘くないでしょ。」

秋彦は同じ年の夏に会社をやめ、すぐ会社を立ち上げた。起業だけなら誰でも簡単にできる。しかし、儲けられるかどうかはその人の腕と運次第だ。だが、秋彦は腕も運もなく、事業はほどなくして行き詰まる。そして、レオが大学4年生の秋、秋彦の会社は多額の借金を抱えて倒産した。

「父さんの会社が潰れてから、あの家の雰囲気はがらりと変わったよ。毎日、お金のことで誰かが揉めてた。うまくいってたのは、あの2人が再婚してから6年程度だけ。母さんが家にいた時より最悪の雰囲気だったよ。」

当時のことを思い出しているのか、レオが疲れきった表情を見せる。幸いなことに、彼はすでに1人暮らしをしていたので、就職後も実家に帰らなかった。それでも、たまに顔を出しに戻ると、薄暗く冷たい空気が家の中に流れていたという。秋彦はそれまでの貯金を会社の起業や経営に当てていたため、倒産時に残高はほぼゼロ。秋は引き続き秋彦のいた会社で働いていたが、事務職の平社員は給料があまり多くない。ブランドも大好きで浪費癖があったため、貯金は元々なかったらしい。専業主婦だった義母は、義父から受け取った遺産がある。しかし、多額の借金を背負い、蓄えを切り崩す日々となった。こうして3人の生活は限界に達する。

ふと、私はあることを思い出していた。義母がかつて自慢に語っていた実家のことだ。彼女は地方名門の家の出身らしい。お金に困っているなら、実家に頼ることはできなかったのだろうか。頭の片隅に湧いた疑問は、胸の奥にしまっておくことにした。今はレオから事情を全て聞き出すのが先だ。

秋彦と義母はバイトを掛け持ちして生活費を稼ぎながら、借金返済に追われる。秋も本業とは別に副業をしていたが、家計にはほど遠い。むしろ、時間が経てば経つほど3人の生活は追い詰められていった。

「3人で働いていれば、余裕はなくても生活できるくらいには稼げると思うんだけどね。あの人たち、金銭管理が全然できないんだよ。あればあるだけ使っちゃうんだ。」

レオにも援助して欲しいと何度も連絡が来たけれど、「社会人になったばかりで余裕がない」と言い、なんとか断わった。一度お金を出したら、何かと理由をつけて吸い尽くされるだろう。レオはそう考え、援助を拒否したのだ。3人はゆっくりと確実に追い詰められていく。そんな中、義母がある計画を思いついた。

「母さんを呼び出して、お金を要求しようっていう考えだよ。たまたま実家に帰った時に、3人が話しているのをこっそり聞いたんだ。」

離婚して捨てた相手に頼らなければならないほどに困っていたのね。

「そうだね。でも、おばあちゃんの計画は母さんを呼び出すだけじゃなかったんだよ。」

レオの表情がわずかに暗くなる。そこに宿っているのは怒りだけではなかった。長い時間をかけて積み上げてきた失望のような色が混じっている。

「秋さんがこう言ったんだ。『ただお金をせびっても断られるかもしれない。だから、俺が亡くなったことにして、母さんをパニックにさせよう。動揺している隙に、ありったけ奪うんだ』って。」

私は言葉を失った。息子の死を偽装して私を動揺させる。秋彦たちはあまりにも卑劣で最低な手を使い、金を巻き上げようとしたのだ。実家に届いた手紙を開いた瞬間の、凍りつくような感覚が蘇ってくる。何度も読み直しながら、どうか夢で会ってくれと必死に祈っていた。あの時の感覚を、私はきっと一生忘れないだろう。

「穴だらけの幼稚な計画だ。でも、あの人たちはそんな方法を使わなければならないほど、生活に困ってたんだよ。」

「じゃあ、お母さんの知り合いの葬儀会社を使ったのも…」

「そうだよ。さすが母さん。鋭いね。葬儀会社の知り合いに金を握らせて、俺の死を偽装する協力をさせたんだよ。実際に棺に俺が入っているよう見せかけてね。」

棺の窓が飾りで開かないと、秋彦が口ごもりながら言い訳をしていた。中は最初から空だったのだ。私がレオの顔を見たいと頼んだ瞬間、秋彦の目が一瞬泳いだのを思い出す。あの時感じた違和感は正しかったのだ。

「謎が全て溶けた気分だわ。それにしても、こんなずさんなやり方で本当に私を騙せると思ってたのかしら。」

私は勉強が苦手だ。しかし、頭が悪いわけではない。もし秋彦たちが本気で私を罠にはめられると思っているなら、あまりにも見くびりすぎだ。

「そこまで考える余裕がなかったのか、父さんたちの頭が悪いのか、どっちもかもね。」

レオが心底呆れたようにつぶやく。そんな場合ではないが、思わず苦笑いが漏れた。

「それで、これからどうする? あの人たちの前にあなたを連れて行って、計画はバレバレだと言ってやろうかしら?」

「いや、それだけじゃ足りない。父さんたちは、母さんを傷つけてお金をせびるために、俺を使おうとしたんだよ。そんなの、絶対に許せない。」

レオの目に怒りの炎が燃える。9年間ずっと離れ離れで過ごしていたけれど、私は彼のことを忘れたことは一度もない。レオも私をずっと忘れずに思ってくれていたのだろう。

「俺、父さんたちとは別である計画を考えていたんだ。準備もしてある。母さんに協力して欲しいんだけど、頼めるかな。」

すっかり成長したと思っていたレオの表情が、一瞬だけ子供時代に戻ったように感じた。どれだけ時間が経っても、彼は私の可愛い息子だ。そんな相手の頼みを断るという選択肢は、最初から存在しない。

「ええ、もちろん。何でも言ってちょうだい。喜んで協力するわ。」

迷わず返すと、レオは嬉しそうな笑顔を浮かべた。

「じゃあ、説明するね。」

レオは小声で手早く計画を説明する。私は頷きながら、全てを頭に叩き込んだ。話を聞き、レオがどれほど長い時間をかけてこの日のために準備してきたかを、少しずつ理解していく。レオの計画は、秋彦たちと違い短絡的ではない。9年分の固い意志と決意を感じた。

「じゃあ、俺はもう一度隠れるね。適切なタイミングで出ていくから、それまで待ってて。」

「分かったわ。」

レオは隣の部屋の物影へと身を潜める。私の役割は重要だ。レオがこの場に隠れていること、計画を知っている素振りを、秋彦たちに悟られないように接する。そして、彼らに不利な証言を引き出すのだ。

私は1人で隣の部屋から出て、棺の前で悲しそうな表情を作る。演技は得意ではないが、今この時だけは自分を大女優だと言い聞かせ、最大限の嘘を演じた。しばらくして、3人が戻ってくる。

「待たせたな。」

「いえ、別に。レオと最後のお別れをしてたから、そんなに待ってないわ。」

秋彦の目が怪しく光った。私が完全に騙されたと確信した表情だ。これなら自分たちの計画がうまく進む。目の奥に、彼のそんな浅ましい考えが浮かんで見えた。

「まみ、今日お前を呼んだのは他でもない。レオの葬儀の費用のことで相談があるんだ。」

「ああ、お前もレオの親なんだから、半分は費用を払ってもらわないと。親として当然の義務だろ。」

息子の死を悼む言葉は一切ない。いきなり費用の話をするとは、よほど焦っているのだろう。それとも、そこまで頭が回らないのか。私は内心で呆れつつ、表情を崩さないようにした。

「大体、お前は9年間一度もレオに会いに来なかったじゃないか。そのせいでレオがどれだけ悲しい思いをしてたか分かるか?」

会いに来なかったのではない。合わせてもらえなかったのだ。面会を求めるたびに、あれこれ理由をつけて拒否され、連絡すら遮断された。今すぐ怒りと共に罵倒の言葉をぶつけたかったけれど、必死に耐えて口を閉ざす。悔しそうに唇を噛む姿は、自分の行いを後悔しているように見えるだろう。秋彦たちは満足な表情で私を見ている。私が演技していることに全く気づいていないようだ。

「息子が寂しがってたのに、母親として何もしてやらなかった。罪悪感はあるだろう。今更後悔しても遅いが、金という形で反省の気持ちを表すことができる。天国にいるレオも許してくれるだろう。」

得意顔で語る秋彦に、今すぐ怒鳴ってやりたい。レオに寂しい思いをさせていたのは、秋彦たちのせいだ。9年分の恨みが腹の奥から湧いてくる。必死になって怒りを抑えていると、義母が畳みかけてきた。

「本当よ。母親失格ね。9年間一度も顔を見せないなんて。今更来るとか、何のつもりよ。」

秋も口を開く。

「レオ君は私に懐いてましたよ。毎日一緒にご飯を食べて、進路の相談にも乗ってあげてた。まみさんより、私の方がずっと近くにいてあげたんです。私のおかげで、レオ君は今まで生きてこられたんですよ。」

無責任な3人の言葉が矢のように飛んでくる。以前の私なら、彼らの言葉に胸をえぐられただろう。しかし、今は違った。私はレオが生きていることを知っている。そして、レオは私の味方だ。その事実は私を支えてくれた。どんな言葉を浴びせられても、今の私には揺るぎない軸がある。

秋彦はさらに罵倒を続けた。

「それとも、レオに構っている余裕もなかったのか? どうせ離婚してから惨めに暮らしてたんだろう。」

声のトーンが変わる。私を騙そうという打算はなく、純粋な悪意が滲んでいた。呼び出したついでに、私に八つ当たりして気分を晴らそうとしているのだろう。これは秋彦の悪癖だ。昔、仕事でうまくいかない時、彼は私を罵倒して憂さを晴らしていたのを思い出す。

「再婚もできずに、1人ぼっちで寂しく暮らしてるんだろう。お前みたいな女、もらう男なんていいないよな。」

口の端が上がっている。9年前に私を家から追い出した日も、こんな顔をしていた。義母と秋も、似たような表情を浮かべている。

「大卒でなくて、特技もなくて、専業主婦で後ろ盾もない女が、離婚した後にまともな生活なんかできるわけないか。親に寄生して生きてきたのか。」

義母も秋彦に続いて口を開いた。

「あなたみたいな器量の女、誰も引き取り手なんていないでしょうにね。」

秋がくすくすと笑っている。

「ちょっと、2人とも、あまり言いすぎちゃだめよ。まみさんがかわいそうじゃない。」

かつての私なら、3人の言葉が心に刺さっただろう。傷つけられても、レオや自分の生活を守るために口を閉ざしていたに違いない。しかし、今は不思議なほど心が静かだ。嵐の中心だけが穏やかであるように、私の内側には凪いだ場所がある。そして、今の私に黙るという選択肢はない。

「あこ、あなた、お似合いの人と再婚したのね。」

「は? おい、それどういう意味だよ。」

秋彦が嫌な表情になる。自分に向けられたマイナスの感情には敏感だ。こういうところも9年前と変わっていない。他人を見下すのはいいが、自分が馬鹿にされるのは我慢ならない性格なのだ。続けて反論の言葉を口にしようとした瞬間、私のスマホが鳴った。画面を確認し、3人に視線を移した。

「ごめんなさい。大切な電話だから、出るわね。」

秋彦に何か言われる前に、電話に出る。

「もしもし。ええ、今日は少し遅くなりそうなの。心配しないで。大丈夫だから。」

穏やかに話して、通話終了ボタンを押した。3人の視線が私に集まっているのを感じながら、私はゆっくりと携帯をバッグにしまう。電話している最中、私はわずかに笑顔を浮かべていた。それは心を許した相手にだけ見せる表情だ。秋彦たちも気づいているだろう。

「誰だ、それ?」

困惑した様子で問いかけてくる秋彦。私はあっさりと返した。

「誰って? 今の主人だけど。」

「は? ちょ、ちょっと待て。お前、再婚したのか?」

「ええ、それがどうしたの?」

3人の表情が一瞬で変わる。義母の口が半開きになり、秋の笑みが凍りつく。秋彦の目は驚きで見開かれていた。彼らの頭の中には、私が惨めに生きている姿しか描かれていなかったのだ。離婚した後、誰にも相手にされず細々と生きているか、そういう私。そんな相手を呼び出し、追い詰めて金を脅し取る。彼らの算段は、たった一言で底から揺らぎ始めた。

秋彦は動揺を隠せず、食い下がってくる。

「ど、どんな男だ?」

「介護施設と不動産を経営している人よ。」

それだけ答えて、私は口を閉じた。多くを語らないことが、今この場では私に有利に働くだろう。秋彦は一瞬言葉を失った。しかし、次の瞬間、目がきらりと光る。どんな状況でも金勘定だけは止まらないらしい。

「どうせ小さい施設だろ。でも、経営者なら金持ってるよな。」

義母が深快そうに鼻を鳴らした。

「再婚したからって偉そうに。」

「まあまあ、お母さん。こうなったら、私たちの役に立ってもらいましょう。再婚相手にもしっかり出してもらえばいいじゃない。」

秋が義母に小声で語りかけていたが、地獄耳の私にはばっちり聞こえていた。どこまでも身勝手な人たちだ。同時に、なぜこうも自分に都合のいいように考えられるのだろうと不思議に思う。世の中、そううまくはいかない。彼らは今回の出来事を通じて、そのことを身に染みて学ぶだろう。

「父さん、あきさん、おばあちゃん、もうこんなことはやめにしよう。」

レオの登場で、反撃の火が切って落とされた。3人が一斉に声のした方に顔を動かす。秋彦の顔から血の気が引き、義母は目を丸くして固まった。秋が小さく悲鳴をあげる。

「俺が交通事故で亡くなったことにして、母さんを動揺させて金を奪う。そういう計画だったよな。全部聞いてたよ。」

「お、お前、なんで今日は仕事に行ってるはずだろう?」

「ああ、それ嘘だから。父さんたちの計画を知って、わざわざ有休を取ったんだ。」

秋彦が声を震わせながら口を開いた。

「よくも俺を騙したな。」

「いや、それについては後でいい。俺は何も悪くない。無実だ。今回の計画を考えたのは母さんと秋だよ。俺は反対だったのに、無理やり巻き込まれて。」

「はあ? あんたも共犯でしょ。」

義母が秋彦の発言を遮り、媚びたような笑みをレオに向ける。

「レオちゃん、誤解よ。これはね、あなたのお母さんに久しぶりに合わせてあげようと思って、いわゆるサプライズってやつね。普通に合わせてもつまらないでしょ。だから、ちょっと趣向を凝らした演出を…」

「お母さん、さっきレオから全部教えてもらったから、あなたたちが何を企んでたか知ってます。今更、下手な言い訳をしなくてもいいですよ。」

義母の言葉を、私は静かに止めた。3人の顔色がみるみる青くなっていく。

「ど、どうすんのよ。計画が台無しじゃない?」

「ちょっと、秋さん、声が大きいわよ。」

「だから、隠す必要はもうないんだって。」

レオの冷静なツッコミも、混乱している3人には届いていないようだ。義母と秋は絵に書いたように慌て、秋彦は徐々に落ち着いていった。自分より慌てている2人を見て、冷静さを取り戻したのか。とはいえ、彼の発言はあまり賢いものではなかった。

「分かってるなら話が早い。金を出せ。お前に頼みたいことはそれだけだ。」

高圧的な声で、従うのが当然という口調で言い放つ。

「お前が大人しく金を出してくれれば、それで済む話だろ。」

かつて私が何も言えずに黙り込んでいた頃によく見た顔だ。今までと同じく強気に出れば、自分の思い通りになると思っているのだろう。しかし、もう昔の私とは違う。そのことを示すために口を開いた瞬間、レオが先に鋭い言葉を秋彦に向けた。

「もうやめにしようって言っただろ。聞こえなかったのか。」

低く冷たい声だ。私は思わず息を飲む。記憶に残っているレオは、まだ16歳の少年だった。大人の顔色を読みながら、自分の感情を押し殺して生きていた子供だ。しかし、今目の前にいるのは、はっきり言って別人のように見えた。背が伸び、肩幅が広くなり、声も低い。子供の頃は細かった体はがっしりとしていて、怒りを滲ませている姿は威圧感があった。一方で、まっすぐに相手を見据える目だけは、昔と少しも変わっていない。

秋彦たちはレオの怒りと威圧感に押されているようだ。一瞬、怯んだような表情を見せる。しかし、すぐに秋彦がかつての習慣を取り戻すように声を荒げた。

「お前は黙ってろ。というか、親に向かってなんだ、その口の聞き方は。」

相手を屈服させようとする荒々しい口調だ。対するレオは、微動だにしない。

「じゃあ、仕方ないな。徹底的にやらせてもらうよ。」

怒り返さず、淡々と告げる。その落ち着きが、秋彦の威圧よりもずっと重く部屋の中に沈んでいった。レオは鞄に手を伸ばし、中から1冊のノートを取り出す。年季の入った、くたびれたノートだ。表紙には子供の字で日付が書かれている。長い時間を経て、表紙の端が少しそり返っていた。ずっと大切に持ち続けていたのだと、その痛み方から伝わってくる。

「中学生の頃、父さんのスマホのロックを解除したことがあるんだ。俺の前でパスコードを入力してただろう。あの指の動き、俺はしっかり覚えてたよ。」

秋彦の顔色が一気に変わった。スマホを盗み見されるのは、彼にとって都合の悪いことらしい。

「秋さんとのメッセージのやり取り、こっそり読んだよ。内容は全部このノートに書き留めてある。日付と内容、全部ね。」

義母が口を開きかけたが、レオは構わず続けた。

「自分のメモだけじゃ証拠として弱いと思ったから、使い捨てのカメラで撮影もしたよ。あの当時はスマホを持ってなかったから、アナログな方法しかなかったんだ。でも、浮気の証拠として使うには十分じゃないかな。」

「使うって、何に?」

秋が戸惑いながら尋ねる。レオは彼女にも理解できるように、ゆっくりと分かりやすい言い方で説明した。

「慰謝料請求だよ。浮気の慰謝料請求の時効は、事実を知った日から3年以内か、不法行為が行われた日から20年以内だ。母さんは疑っていたけど、疑っているだけでは時効は進まない。慰謝料請求は可能だ。」

レオの発言に、秋の顔が青ざめていく。まさか今更、浮気について追求されるとは思っていなかったのだろう。

「俺はまだ中学生だったから、集めた証拠をどう使えばいいのか分からなかった。だから、ずっと待っていたんだ。」

レオの声がわずかに揺れた。すぐに元の落ち着いた声に戻ったけれど、9年分の重さが凝縮されているように感じた。浮気の証拠が手元にありながら、何もできないまま時間だけが過ぎていく日々。それがどれほど苦しかったか、私には想像することしかできない。

「母さんが家を出る日、せめてこれだけはと思って渡したものがある。」

私は反射的にバッグに手を伸ばした。財布を取り出し、大切に保管していた紙を思い出す。9年間、肌見離さず持ち歩いてきたレオからのメッセージだ。端が少しすり切れて、折り目は何度も開いたせいで薄くなっている。気持ちが折れそうになるたびに、この紙を開いた。レオの字を指でなぞりながら、最愛の息子と再会できる日を信じて、自分を奮い立たせてきたのだ。

「それがあったから、私は今まで頑張ることができたのよ。レオと連絡がつかなくて、どうすればいいかずっと悩んでた。探偵や調査会社を雇い、レオの居場所を突き止める方法もあった。しかし、私はできなかったのだ。連絡が途絶えたのはレオの意思によるものだったとしたら、無力な母親に愛想を尽かし、私と会いたくないと思っているのではという考えがあった。情けなくて情けない母親だと思うけれど、レオに嫌われたのではと考えるだけで怖くて動けなくなった。だから、9年間も会えずにいたのだ。」

今回、秋彦たちに呼び出されたのは、私にとって幸運なことだったと思う。臆病な私から脱却する、最初で最後のチャンスなのだ。

レオが小さく目を細めた。

「『俺が必ず母さんを迎えに行くから、それまで待ってて欲しい』って意味だったんだ。ずっと待っててくれたんだね。ありがとう、母さん。」

視界が涙で揺れる。慌てて唇を噛んでこらえた。今は泣く場面ではない。レオが9年かけて準備してきたものを、最後まで見届ける必要がある。

秋彦と義母はノートをまじまじと見ながら、言葉を失っていた。秋は不安そうに視線を泳がせている。この場の空気が変わったことを、3人もさすがに感じ取っているようだ。続けて、レオは鞄からタブレットを取り出す。

「おばあちゃん、母さんと父さんを別れさせる時に作った陳述書。あの内容は真っ赤な嘘だよね。みんなを騙して署名させたんだ。」

義母がまるで石になったように固まった。

「親族の中には、俺と母さんの中の良さを知ってる人がいた。その人に頼み込んで、陳述書に何が書かれていたか教えてもらったんだよ。」

レオがタブレットを操作する。スピーカーから男性の声が流れ出した。

「まみさんが長い間心療内科に通っていて、精神的にひどい状態だから親権を剥奪するという内容だったな。署名を求められて戸惑ったんだが、レオ君のためだと思って書いたんだ。あれは嘘だったのか?」

「母は軽い不眠症で、睡眠導入剤をもらっていただけですよ。」

「そうだったのか。まみさんには悪いことをしてしまった。」

男性の口調には、戸惑いとは別の感情が含まれている。義母に対する怒りだ。何度か話したことがあるが、彼は義母と違い、常識を持ち合わせた人だ。とんでもない嘘で自分を騙したことが許せないという口ぶりだった。

「いえ、悪いのは祖母です。あの人は事実をきちんと確認せず、自分に都合のいいように事実を曲げました。そもそも、母が不眠になったのは、祖母や父さんの態度が原因ですよ。」

「そうか。このことは親族たちに言っておくよ。」

義母の顔色が、青を通り越して白になっていく。震える両手をぎゅっと握りしめていた。

「おばあちゃんは、みんなに嘘をついて親権を奪った。そして、俺と母さんを離れ離れにしたんだ。」

当時の私は、精神的に不安定な人間だというレッテルを貼られ、レオを奪われた。弁護士を雇うお金もなく、言葉を尽くしても義母たちに消されてしまったのだ。陳述書の内容を今更知ったところで、失った時間は戻ってこない。けれど、義母の嘘が暴かれ、胸の奥に刺さっていた棘が溶けていった。

「この録音は、親戚の人が紹介してくれた弁護士に聞かせてある。虚偽の陳述書を提出した場合、10万円以下の罰金が科される可能性があるんだって。今回のケースは、名誉を毀損して刑事責任を問うこともできるらしいよ。」

義母の目が大きく見開かれる。私をはめるためにした行為が、そこまで大事になるとは思っていなかったらしい。

「ちょっと待って。私は嘘をついたつもりはない。まみさんの状態が深刻だと思い込んでて…」

「母さん、おばあちゃんにどういう状態なのか説明したんだよね。」

レオの問いかけに、頷いて返す。

「なら、知らなかったとは言えない。おばあちゃんは、自分に都合のいい思い込みで嘘の陳述書を作った。そんなつもりじゃなかったなんて言い訳は通用しないよ。」

静かな声で遮られ、義母の目から光が失われていく。レオの落ち着きは、義母の動揺を際立たせていた。レオは続けて、秋の方へと視線を向ける。

「秋さん、あなたが父さんの勤め先に就職できた理由を知ってますか?」

秋が眉を寄せながら答えた。

「それは、求人に応募して採用試験を受けたからでしょ。」

レオは答えず、タブレットを再び操作する。流れてきたのは、義母と秋彦の声だ。

「それにしても、ここまでうまくいくとは思わなかったわ。秋さんを意図的に秋彦に近づけさせて、まみさんと離婚させるっていう私の計画がね。」

「まあ、俺もまみには愛想が尽きてたし、秋は再婚相手にちょうど良かった。母さんの計画を知ったのは後になってからだけど、いい案だったと思うよ。」

秋の顔がろうのように白くなる。一方の私は、あまり動揺していなかった。ずっと、そんな気はしていたのだ。突然秋彦の近くに現れた、義母と関係がある女性。彼女に秋彦を奪われ、私は家を追い出された。一連の出来事の中、私はずっと義母の悪意を感じていたのだ。証拠はなかったけれど、レオが見つけてくれた。

「どうして、そこまでしたんですか? 回りくどい手を使って離婚させるほど、私が嫌いだったんでしょうか?」

義母は長い沈黙の後、ぽつりと口を開いた。

「あなたが悪いのよ。」

彼女の声は震えていた。先ほどまで絶望に染まっていた目に、別の感情が宿っている。私に対する憎しみだ。長年抱えてきた何かが、私の問いかけがきっかけとなり、剥き出しになっていく。

「私は飯塚の家にとついだ女よ。地方名門の家からとついできた。それが私の誇りだった。なのに…」

義母の声が一瞬だけ途切れる。

「あなたみたいな家柄も学歴もない女が来て、近所や地域の人たちから慕われて、親戚にも褒められてたわ。『いい嫁をもらったな』って。名門の私より、平凡な嫁の方がそんな扱いを受けるなんて、許せるわけないでしょう。」

言葉が出てこなかった。義母の嫁いびりには、そんな感情があったのか。義母への怒りより先に、虚しさが込み上げてきた。彼女は、実に身勝手な理由だけで私を苦しめてきたのだ。義母の誇りは、名門の家の嫁という肩書きだけ。しかし、実際はほとんど虚構に近いものだった。

「親戚の人たちに聞いたんだけど、おばあちゃんの実家って、今は普通の家だよね。お金持ちだったのは、だいぶ昔の話だ。それしか自慢できるものがなかったんだね。」

義母は何も持っていない。だからこそ、周りから評価される私の存在が妬ましかったのだろう。私は義母に勝とうとしたことなど一度もない。ただ普通に生きていただけだ。レオの言葉に、義母は何も言い返せない。先ほどまでは手だけだった震えは、いつの間にか全身に広がっていた。

義母から視線を外し、隣にいる秋を見る。彼女は録音が流れてからずっと黙っていた。よく見ると、固く結ばれた口元がかすかに震えている。

「私…利用されてたってこと?」

小さなつぶやきだったが、この場にいる全員の耳にはっきり届いた。

「私は、気に食わないまみさんを追い出すための道具だったの。」

「そ、そんな言い方しなくても…」

「そんな言い方って何よ? なんで否定しないの?」

秋の声が裏返る。信頼していた義母から道具扱いされていたことへの衝撃が滲み出ていた。秋も義母という人間に利用された1人ではあるけれど、同情はしない。秋は以前勤めていた会社で、既婚者だと公表していた。同じ職場だった彼女が、その事実を知らないはずがない。要するに、既婚者だと知って浮気関係になったのだ。私から見れば、秋もまた加害者だった。

秋彦も当然よ。

「よくも私を利用したわね。」

「今更、そんなことどうでもいいじゃないか。というか、俺が誘ったら、お前も乗り気だっただろう。浮気だと知ってたのに、俺とそういう関係になった。お前に俺や母さんを責める権利はない。」

「なんですって。」

レオは見苦しく言い争っている3人を静かに見回す。そして、私の方へ向き直った。

「実は、母さんに内緒にしてたことがあるんだ。」

「そうなの?」

「うん。怒らないで聞いて欲しいんだけど、母さんの再婚相手の龍一さんには、1年前にすでに連絡を取っていたんだ。」

私は目をしばたかせる。龍一と再婚したのは5年前だ。知り合いの紹介で再婚した相手だった。龍一と会っていたなら、なぜ彼はそのことを私に黙っていたのだろう。その疑問はすぐ解消される。

「社会人になってから、探偵に頼んで母さんの居場所を突き止めた。でも、今まで何も連絡がなかったし、コンタクトを取るのが怖かったんだ。俺のことなんか忘れて、新しい生活を送っているんじゃないかって思ってさ。」

「それ、私も同じことを思ってたわ。」

「俺たち、一時期直接連絡を取り合ってたよね。それを知ったおばあちゃんたちから、連絡を禁止されたんだ。」

義母たちはレオのスマホから私の連絡先を削除。同時に、私の電話番号やメールアドレス等を拒否設定にしたのだろう。

「母さんから連絡があったら、父さんやおばあちゃんから伝えるって言われたんだけど、もしかしたらおばあちゃんたちにブロックされてたのかもね。」

レオが小さくため息をつく。表情には怒りの感情が滲んでいるが、義母たちにぶつけるのは後回しにしたらしい。冷静さを保ったまま、話を続けた。

「調査報告で、母さんが幸せそうに暮らしているのを知って、会いに行くのをやめた。俺がいなくても大丈夫だと分かったから。」

「レオ…」

嬉しい気持ちと、レオも苦しんでいたという事実に対する悲しみがごちゃまぜになる。レオは苦笑いを浮かべ、こんなことを口にした。

「その代わり、龍一さんにコンタクトを取って頼んだんだ。『母さんを幸せにしてあげてください』って。俺が会いに来たことも、内緒にして欲しいって伝えておいた。」

「だから、あの人は私に何も言わなかったのね。約束は守る人だから。」

彼は自分の母親と再会することよりも、私の幸せを優先したのだ。その判断の裏には、どれほどの我慢と覚悟があったのだろう。

「まあ、俺から頼まなくても、龍一さんとなら幸せになれるけどね。だって、あの人、木村グループのトップだし。」

「あ、今なんて言った?」

秋彦の問いかけに、レオが答える前に扉が開いた。

「誰だ、お前? 勝手に入ってくるな。」

「龍一。」

「え? こいつがお前の再婚相手か。」

扉の前に立っているのは、穏やかな表情を浮かべている龍一だ。5年前に再婚した、私の今の夫である。

「どうしてここに?」

「先ほどレオ君から連絡をもらったんだ。まみには内緒にしてたけど、俺たち、メル友なんだよね。」

冗談混じりの言葉と共に、笑みを浮かべる。私を安心させようとしているのだと、その表情から伝わってきた。今朝、私が出かける前、龍一は心配そうな顔をしていた。前の夫の子供の葬儀だから1人で行くと告げて、家を出たのだ。龍一とレオに面識があるとは知らなかったから、2人を引き合わせることも考えていなかった。

龍一は部屋の中を静かに見渡す。レオと視線が合うと、小さく頷いた。1年前に知り合って以降、私の知らないところで信頼を深めていたのだと、一瞬のやり取りから伝わってきた。

呆然としていた秋彦が、はっと我に返る。

「さっき、木村って言ったよな。それって、あの大手の木村グループの社長と同じ名前だぞ。」

声には動揺の色が滲んでいた。先ほどまで私を罵倒し、金を要求し、高圧的な態度で押し通そうとしていた彼の姿が、急に小さくなったように見える。

「そ、そんなわけないでしょ。何言ってるの? 落ち着きなさいよ。」

秋は口ではそう言いながら、目は龍一から離れない。動揺を悟られたくないのか、強がるような口調だ。

「大体、まみさんみたいな人が、大手グループの社長と結婚できるわけないわ。何かの間違いでしょ。まみさんは学歴もないし、家柄も普通だわ。見た目だって芋っぽいし…」

秋の罵倒が途中で止まった。龍一が名刺を取り出したからだ。

「初めまして。木村竜一です。妻がお世話になりました。これでも私、木村グループの社長を務めています。」

名刺を秋彦に差し出す所作には、上品さが感じられる。特別なことは何もしていない。龍一は慌てず急がず、冷静にこの場の空気に対応していた。秋彦は震える手で名刺を受け取り、書かれている内容を見て愕然とする。名刺に記されているのは、木村グループ代表取締役という肩書き。必死になって否定した現実を、龍一は突きつけたのだ。

龍一が経営する木村グループは、県内を中心に介護施設を12拠点。不動産管理会社2社を要する地元密着型の企業で、地元経済界では名の知れた存在だ。地域の有力者たちとの繋がりも深い。

「うちの取引先じゃない…」

先ほどまで見下していた相手は、とんでもない人と再婚していた。その事実がじわじわと、秋の表情を崩していく。秋彦も衝撃を隠せないようだ。私を惨めな女だと嘲笑っていた口は、今は一言も動かない。義母は顔面蒼白だった。過去名門だったという実家の家柄も、龍一の前では何の意味も持たない。

しばらくの沈黙の後、秋彦がようやく口を開いた。

「お前が、なんでそんな男と再婚なんかできたんだ。」

目の前の現実を認められず、困惑している様子だ。龍一が静かに口を開いた。

「逆に聞きますけど、なぜまみさんのような素晴らしい女性と離婚したのでしょうか?」

穏やかな口調だ。しかし、その言葉の奥には揺るぎないものがある。

「彼女は聡明で謙虚な女性だ。働き者で思いやりがあり、非の打ち所がない。そんな女性を捨てて選んだのが、こちらの方ですか?」

龍一の視線が秋へと移った。責め立てるというより、ただ静かに事実を確認するような目だ。それだけに、言葉の重さが際立つ。先ほどまで取り乱し、口汚く私を罵っていた秋は、羞恥で顔を真っ赤にした。

「な、何よ、私だって好きでこうなったわけじゃ…」

秋の言葉は次第に小さくなり、やがて消えていく。言い返したところで、彼女の立場が悪くなるだけだ。秋彦が咳払いをして、再び口を開く。

「龍一さんだったか。あんたも難儀だな。こんな女と再婚して。見かけは大人しいが、実際は扱いにくい女だぞ。まみみたいなタイプは、そうだと決まってるんだ。」

断定するような言い方に、私は眉を寄せる。龍一も同じような疑問を持ったらしい。

「まみのようなタイプとは、まるで彼女と似た人を知っているような言い方ですね。」

「あ、思い出した。あなた、大学時代に私と似た人を好きになったって言ってたわよね。もしかして、彼女のことを言ってるの?」

秋彦の体が跳ねる。どうやら当たっていたようだ。わずかに額に汗を滲ませる彼を見ながら、嫌な考えが脳裏をよぎった。

「その人と付き合ったという話は聞かなかったわ。もしかして、振られたの? あなた、プライド高いから、似ている私を通して彼女に復讐した気持ちになってたのかしら。」

「母さんにひどいこと言ってたのって、それが理由だとしたら最悪だけど。」

レオが秋彦の顔を注意深く観察する。そして、大きなため息をついた。

「マジかよ。歪んでるな。」

秋彦の顔に「図星」と書いてある。ずっと私は疑問に思っていた。彼は私に熱烈な好意を寄せ、猛アタックの末に結婚した。けれど、義母のいびりから私を助けようとせず、挙句の果てに浮気して捨てた。どうして惚れた相手に、そんなひどいことができるのだろうと不思議に感じていたのだ。

秋彦は、自分のプライドを傷つけた私に似た女性に恨みを抱いていた。私を身代わりにすることで、自分の自尊心を満たしていたのだ。義母も歪んだ考えを持っていたけれど、秋彦も同じだった。思考回路も遺伝するのかと、頭の片隅で考える。今まで冷静な表情を保っていた龍一が、初めて眉を寄せた。

「私がまみさんと結婚したのは、彼女を幸せにしたかったからです。だが、あなたは最初から歪んだ考えで彼女に近づいた。そういう人間は、誰かと結婚するべきではない。」

部屋の中がしんと静まり返る。私は龍一の横顔を見ていた。長年、私は自分の価値を信じられなかった。義母や秋彦に見下され、挙句の果てに親権を奪われ、捨てられたのだ。自分がどれほど惨めな存在か、思い知らされた気分だった。どん底に落ちていた私を救ってくれたのは、龍一だ。彼に告白され、最初は信じられない気持ちだったけれど、彼は誠実に私に向き合い続けてくれた。私にはお金や家柄、誇れる学歴や仕事など何もない。ただ、龍一はそんな私がいいと言ってくれたのだ。おかげで自信のない過去の自分と決別でき、今ここに立っている。秋彦たちがどんな手段に出ても、いくら罵倒しようとも、私には一切響かないのだ。

しかし、秋彦は諦めない。

「龍一さん、あんた経営者なんだろ? 俺もさ、昔は会社を持ってたんだよ。経営者同士、助け合っていこうじゃないか。」

どうやら龍一に取り入ろうとしているようだ。恥もなくすり寄る厚かましさには、呆れのあまり失笑してしまう。

「経営者同士の助け合いは、信頼関係があってこそ成り立つものです。」

けれど、龍一は秋彦の言葉に惑わされる人ではない。彼の声は穏やかだが、明確な拒絶が込められている。

「今日ここで起きたことを見ていれば、あなたは信用できない相手だということは明らかです。私が援助することは一切ない。」

「あ、俺はまみの元夫だぞ。そんな相手が困ってるのに、なんで助けてくれないんだ?」

「逆に、なんで助けてもらえると思ってるんですか? まみに散々ひどいことをしてきたのに。私にとって、あなたは憎むべき相手だ。援助は諦めてください。」

秋彦の顔が歪んだ。どうにかして目の前の相手からお金を引き出したい。必死な思いが、彼の表情から伝わってきた。黙り込んだ秋彦に代わり、義母がレオに対して訴えかける。

「レオちゃん、あなたは私の孫でしょ? おばあちゃん、お金がなくて本当に困ってるの。血の繋がった家族でしょ。少しくらい助けようって気はないの?」

今にも泣いてしまうのではと思うほど震えた声だった。しかし、目は潤んでいない。彼女は私よりよほど役者だ。単純な人間なら騙されてしまうだろう。

「おばあちゃんが困ってるのは、自分がやってきたことの結果だろう。」

レオの声は変わらなかった。冷たいわけではない。ただ、私の味方という立場は、何があっても揺らがないのだ。

「俺は9年間ずっと見てきたよ。母さんがいなくなった後、おばあちゃんたちがどんな生活をしてたか。父さんの会社が失敗したのも、借金を抱えたのも、誰のせいでもない。自分たちで選んだ道の結果だ。」

義母が唇を震わせる。レオは容赦なく続けた。

「俺に助けを求める前に、母さんに何をしてきたか思い出してよ。俺と母さんを引き離した挙句、騙して金を奪おうとしたでしょ。それだけのことをしておいて、『家族だから助けてくれ』は通らないよ。」

義母が視線をそらす。反論の言葉を探しているようだが、震える彼女の唇からは何も出てこない。しばらくの沈黙の後、義母は私に向き直った。彼女の目には、今までと違う光が宿っている。私に対する謝罪の感情ではない。

「まみさん、あなたは優しい人だから、分かってくれると思うのよ。私だって、秋彦のことを思って必死だったの。母親って、そういうものでしょ。私はただ、息子に幸せになってもらいたかっただけなの。」

「私を傷つけたかったわけじゃないということですか?」

「そうよ。さすがまみさん。全部言わなくても、理解してくれるわね。」

長年私をいびり続けた義母が、手のひらを返して媚びを売っている。しかし、今の私は冷静に義母の真意を見抜いていた。

「お母さん、私は優しくなんかないです。ただ、我慢していただけですよ。」

はっきりと言い切り、さらに続ける。

「それと、母親だから何をしてもいいわけじゃない。私だって、レオの母親です。嘘をついて私からレオを奪って、9年間引き離した。その行為は、母親の愛情とは呼びません。」

「そうだね。おばあちゃんは、ただ母さんが気に入らないから貶めただけだ。母親という立場を利用するなよ。卑怯だぞ。」

「お母さん、あなたは身勝手な理由で私やレオを傷つけた。いくら言葉を尽くしたところで、その事実は変わりません。」

義母の顔がみるみる歪んでいく。続けて、秋彦が慌てた様子で口を開いた。

「まみ、俺たちも反省してるよ。やりすぎたって思ってる。昔は仲良くやってたじゃないか。元夫婦のよしみで、俺を助けてくれよ。」

「あのね、秋彦、私は…」

「これはレオのためでもあるんだ。父親が借金を抱えてるなんて、レオの将来に良くないだろう。もし結婚することになっても、俺の借金が理由で断られるかもしれない。だから…」

唾を飛ばす勢いで、必死になって言葉を重ねる。このチャンスは絶対に逃せないと思っているのだろうか。しかし、冷めた声が秋彦の口を止めた。

「俺のためを思うなら、最初からこんなことをするな。迷惑としか思えないね。」

レオに哀願は通じないと分かり、秋彦が次に選んだのは最悪の手段。私に対する逆切れだ。

「お前が専業主婦で暮らせたのは、俺が養ってやったからだろ。この恩を忘れて、訴えるだの慰謝料だのと、恩知らずにもほどがあるぞ。」

「養ってもらっていた分は、家事と育児で返していたわ。」

私は迷わず言い返す。

「私が家を守っていたから、あなたは仕事に集中できたんでしょ。恩を語るなら、お互い様じゃないの。」

予想外の返事だったのだろう。秋彦が一瞬言葉に詰まった。

「そ、それとこれとは話が別だろう。慰謝料って言うなら、俺にだって請求する権利がある。お前は俺の母親に散々迷惑をかけて…」

「毎週家に押しかけて、家事に難癖をつけて、親族に実家の借金について嘘を言いふらして、嘘をついて親権を奪った。それが、迷惑をかけられた側のすることなの?」

義母がここで最後の手段に出る。

「訴えたところで、あなたは何も得られないわよ。私たちにはもうお金がないの。取れるものなんて何もない。それでもやるの?」

お金がないのだから、訴えても無駄だと言いたいのだろう。しかし、義母は1つ大事なことを見落としている。

「お金の問題だけじゃないよ。自分たちが何をしたのかを理解させる。そのために訴えるという方法もあるんだ。」

レオが静かに言った。

「虚偽陳述書の件は、弁護士によれば刑事事件に成りうるって言われてる。民事の損害賠償だけじゃなくて、刑事告訴もできるんだ。要するに、前科がつくってことだよ。」

「なんですって。」

義母の顔に絶望の感情が滲む。秋彦と秋も、その言葉を聞いて固まってしまった。前科がつけば、まともな人生は送れないだろう。義母の足ががくがくと震え、やがてその場に膝をついた。秋が大量の冷や汗をかきながら、恐る恐る口を開く。

「ねえ、私は関係ないわよね。私だって、お母さんに騙された被害者よ。」

「だとしても、秋彦と浮気したのは事実よ。それについては、きちんと責任を取ってもらわないといけないわ。」

短い呼吸を繰り返す秋。口紅を塗っているはずなのに、血の気が完全に引き、不健康な色になっていた。

「そちらの件については、俺が弁護士を紹介しよう。慰謝料請求に強い弁護士を知っているからね。」

この瞬間、部屋の空気が一変する。どんな言い訳をしても、私たちには通じないと、ようやく骨の髄まで理解したのだろう。

「ど、どうしてこんなことに…」

秋彦が義母と同じように床に膝をつく。義母は彼の隣で、視線を床に落としたまま顔を上げられないでいた。秋は両手で顔を覆っている。くぐもった嗚咽が聞こえてきた。

「弁護士からの書類は、近日中に届くよ。それぞれについて、民事での損害賠償請求を進めるつもりだ。覚悟しておいて。」

その言葉を最後に、レオは口を閉じる。

「言っておくけど、今更謝ったところで、訴えるのをやめないわよ。自分たちが何をしたのか理解してもらう。そのために、あえて厳しい罰を与えるつもりよ。罰を受けて、心の底から反省してちょうだい。」

長い沈黙が部屋の中に満ちた。窓の外から、車の走る音が聞こえる。聞き慣れた日常の音だ。この部屋の中だけ、時間が止まったように静まり返っていた。3人がまとう空気は、暗く沈んでいる。今までずっと私を苦しめてきた人たちの、完全敗北が決まった瞬間だった。

私は龍一とレオの顔を交互に見る。2人とも穏やかな顔をしていた。嵐が過ぎ去った後の空のような、静かで清々しい表情だ。私はゆっくりと息を吸い込み、そして長い時間をかけて吐く。体の中に溜まっていたマイナスの感情が、吐き出した息と一緒に外へ出ていくような気がした。

「話は済んだ。帰ろうか、まみ。」

「そうね。レオも一緒に帰りましょう。」

「うん。」

レオと龍一に挟まれ、葬儀会場を後にする。私たちを止める人は、誰もいなかった。

3人のその後は、レオから詳細を聞く。葬儀会場からの帰り道、私とレオは連絡先を改めて交換した。レオの会社が休日で休みの際、彼のお気に入りの喫茶店に行こうと連絡をもらい、色々と話をしたのだ。民事訴訟により、秋彦と義母には損害賠償が請求された。虚偽陳述書の作成指示や面会妨害、今回の偽装呼び出し。それぞれの件について、レオが依頼した弁護士が丁寧に積み上げた証拠は、裁判所で十分効果的だった。

秋彦の末路は、惨めの一言につきる。事業失敗による借金と今回の損害賠償が重なり、秋彦の財政状況は一気に追い詰められる。住んでいた家と車を売却し、借金返済と損害賠償の支払いに当てるが、まだ足りない。お金を稼ぐために再就職活動を始めたものの、年齢と経歴の問題から正社員の仕事は見つからなかった。現在はアルバイトを掛け持ちし、朝も夜もなく働いている。少し前、レオは少し疲れた顔で街を歩く秋彦の姿を、遠くから見かけたらしい。

義母も、損害賠償の支払いと借金返済のため、家具や家電、長年集めてきた趣味の骨董品の類いまで売り払った。今は老体に鞭打ち、パートを掛け持ちして働く日々を送っている。その話を聞いた時、かわいそうとは思わなかった。彼女の末路は、自業自得の結果だ。

秋は私から慰謝料を請求され、実家の両親に頭を下げて肩代わりを頼んだらしい。しかし、両親は面倒ごとに巻き込まれたくないと、秋と絶縁を宣言。道具として使われた挙句、実家にも帰れなくなった彼女は、現在秋彦と共にボロアパートで暮らしているとのこと。秋は秋彦と離婚すると思ったが、家族に見捨てられた今、彼しか頼る人がいないのだろう。婚姻関係は継続しているが、3人は喧嘩ばかりの毎日らしい。

「父さんが亡くなった後も借金が残ってたら、相続放棄するつもりだよ。それと、2度と父さんたちとは会わない。」

コーヒーを飲みながら、レオが決意を滲ませた声でつぶやく。

「それがいいわ。今後、何か困ったことがあったら、母さんを頼ってね。」

「うん。お願いするよ。」

顔を見合わせ、笑顔を浮かべる。まさかレオとこんな時間を過ごせるなんて、少し前の私には想像すらしていなかった。秋彦たちのしたことは許せないが、レオと会うきっかけをくれたことには感謝している。

3人に罰が下った後、レオは龍一と私の自宅に顔を出すようになった。最初は月に1度だったけれど、徐々に回数が増えていく。龍一とはかなり気が合うらしい。最近は1日中我が家に入り浸り、泊まることも多かった。3人で食卓を囲む時間が、少しずつ当たり前になっていく。

ある日の夕飯の後、龍一がぽつりと口を開いた。

「レオ君、俺たちの家に入らないか?」

「え、いいんですか?」

「ああ。ただし、これからは俺を父さんと呼ぶように。それが条件だ。」

レオがちらりと私を見る。私は何も言わずに、ただ微笑みで返した。

「ご希望なら、パパって呼んでもいいけど。」

次の瞬間、食卓に笑い声が響き渡る。温かい空気に包まれながら、これが自分の求めていた本当の幸せだと思った。いつか両親のような穏やかな家庭を築きたいと思っていた子供の頃の自分。私の夢は、遠回りをして、たくさんのものを失いつつも、やっと叶えられたのだ。

「ありがとう、レオ。何がこれまでのこと、全部によ。」

レオは少し照れたように頭を掻いてから、真っすぐな目で私を見た。

「俺の方こそ、待っててくれてありがとう。」

これからの私の人生は、大切な息子と最愛の夫が常に隣にいる。きっと、幸せな日々になるだろう。

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