兄が会社を譲ってくれ。俺なら兄さんのような生ぬるい経営はしない。父から譲り受けた会社で、弟から突然の宣告を受けた。弟は昔から俺より優秀だった。しかし俺も俺なりに信念を持って働いてきた。現場との対話を大切にし、人との繋がりを重視して会社に尽くしてきた。それを生ぬるいなんて。
「僕の計算によると、兄さんの経営だと3年以内に確実に赤字に転落する。これは机上の空論ではなく、緻密な分析に基づく予測だ。それに現実を直視してよ。今までだって僕に勝てたことなんて1度もないじゃないか。成績もスポーツも仕事も」
「なんだと?」
その瞬間、俺は弟の襟を掴んでいた。会議室の空気が一気に凍りついた。すると弟はうっすらと笑みを浮かべて、取締役の面々に向かって言い放った。
「皆さん、見てください。感情的になって暴力に訴える。これが現経営者の姿です」
俺はゆっくりと手を離す。取締役たちの失望の視線が背中に突き刺さる。
「分かったよ。会社はお前に譲る。父さん、すまない。社長として、兄として、俺は完全に負けてしまった」
しかし、これは終わりじゃない。むしろ新しい物語の始まりだった。
「うちで働かない?給料はなんと今の3倍払うわよ」
その一言が、これから始まる運命の歯車を大きく動かすことになる。俺たち兄弟と会社を巻き込んだ、驚くべき物語の幕が今開かれようとしていた。
俺の名前は山口啓之助。父が社長を務める増山貿易株式会社の営業部で部長として働いている。増山貿易は日本の優れた電気製品を世界各国に輸出する商社だ。特にアジア圏での実績は随一で、父が若い頃に築き上げた信頼関係は今でも揺るぎない財産となっている。取引先は大手から中小企業まで幅広く、製品の品質管理から現地での販売戦略まで、きめ細やかなサポートを提供してきた。社員数は50名ほど。決して大きな会社ではないが、専門性の高さと面倒見の良さには定評があった。
そんな増山貿易の中で、最も頭を悩ませているのは弟の初のことだった。初も俺と同じく増山貿易で専務として働いているのだが、
「月次報告書の件なんですが」
務手の部下がおずおずと初の席に近づいていた。その瞬間、初の冷たい視線が部下を射抜く。
「締め切りは昨日だったはずだが」
「はい。申し訳ありません。データの確認に時間がかかってしまって」
「他の社員は全員提出している。君だけだ」
初の口元に嘲笑が混じる。
「これは会社の重要な数字だぞ。遅らせれば経営判断にも影響が出る。分かっているのか?」
「申し訳ございません。ただ新しいフォーマットの使い方が」
「言い訳はいいらない」
初は冷ややかな目で部下を見下ろした。
「できないなら他の会社に行けばいい。ここは甘えを許す場所じゃない」
部下の顔が青ざめる。周囲の空気が一気に凍りついた。
「初」
俺は立ち上がり、声をかけた。
「そこまで言う必要はないだろう」
「必要がある。兄さんみたいにぬるま湯で社員を甘やかしていては、会社は前に進まない」
初の言葉には刃物のような鋭さがあった。まるで俺の経営そのものを否定するかのように。
「新しいシステムに慣れる時間が必要なんだ。丁寧に指導して」
「そんな悠長なことを言っている場合か。アジアの市場は日々変化している。適応できないものは去るしかない」
その時、部下が小さく震えているのに気がついた。俺は部下に近づき、そっと肩に手を置く。
「大丈夫。一緒に確認していこう。新システムは確かに難しいけど、君なら必ずできる」
部下の目に、かすかな希望の光が戻る。しかし初は冷笑を浮かべた。
「また兄さんらしい対応だ。優しさという名の無能さを助長する」
初は立ち上がり、氷のような視線を残して会議室へと消えていった。その背中には、人を寄せつけない冷たさが宿っていた。
「すみません。先ほどは」
部下が去った後、俺は初の机に近づいた。初は黙々とパソコンに向かい、複雑な財務分析を行っていた。画面には、普通の社員なら数日かかるような作業をたった数時間で仕上げた跡が残っている。
「見事な分析だな」
俺が声をかけると、初は無言で画面を俺に向けた。そこにはアジア各国の経済指標と増山貿易の業績を組み合わせた精緻な予測モデルが展開されていた。普通なら専門のコンサルタントに依頼するレベルの内容を、初は1人で作り上げていたのだ。その能力を買われ、初は専務に大抜擢されたのだ。
「俺なら来期の戦略が立てやすくなる。さすがだな」
「お前には関係ない」
初の声は相変わらず冷たかった。だが、その瞳の奥には何か切ないものが滲んでいるように見えた。
実は、初は学生時代から群を抜く成績を納めてきた秀才だった。主席で卒業し、在学中から複数の論文を経済誌に掲載。企業からの引き抜きの話も後を絶たなかった。だが皮肉なことに、その優秀さが初を孤立させていた。
「専務さん、仕事はすごいできるんだけど、近寄りがたいっていうか」
社内で時々耳にする声。みんな初の能力は認めているのに、どこか距離を置いている。完璧すぎる初に共感を持てないのだ。
昔から初はそうだった。中学の時、数学の教師に「こんな難しい解き方を示されても、他の生徒が困惑するだけだ」と叱られたこともある。高校ではグループ学習で「山口君が全部やってしまうから、私たちの出番がない」と言われ、孤立した経験もあった。
「初」
俺は再び声をかけた。初は画面から目を離さない。
「お前の考えは間違ってない。でも、もう少し周りのペースに合わせてみたら」
「兄さんには分からないよ」
初の声がかすかに震えた。
「僕にはこれが普通なんだ。もう少し周りに合わせろって、誰もがそう言う。でもどうすればいいのか、誰も教えてくれない。結局、自分の能力を隠せってことでしょ。それって本当に正しいの?」
その言葉には、長年の孤独と苦悩が滲んでいた。確かに初の言う通りかもしれない。卓越した能力を持つが故の苦しみを、周りは理解できていないのかもしれない。
「みんな口ではすごいねって言うけど、本当は俺のことを疎ましく思ってる。生意気だ。調子に乗るなって。だから僕は」
初は言葉を切った。その指先がキーボードの上で小刻みに震えていた。きっと俺には分からない悩みを、初は抱えているんだろう。
そして今も、初のデスクの上には小さなオレンジ色のロボットがあった。それをぼんやりと見つめる。小学生の頃、俺が初にプレゼントしたものだ。それは小学生の頃、初が初めて欲しいと言ったものだった。俺がクリスマスプレゼントでもらった、当時大人気のアニメのロボットだ。無口な初が自分の気持ちを言葉にするのは、よほどのことだと俺は知っていた。だから俺は「いいよ」と即答した。そのおもちゃを大切に扱う初の姿を見て、譲って良かったと心から思ったのを覚えている。だから俺は、初が欲しがるものは全て譲ってあげた。高校生になってからは俺の古い万年筆、大学では俺の机。
その時、俺のデスクの電話が鳴った。物思いに耽るのをやめて電話に出る。
「啓之助さん、NR電気の秋山小夜子様がお見えになっています」
受付からの内線に、俺は会議室に通してと返した。NR電気は家電から産業機器まで製造する、世界でも指折りの電気メーカーだ。増山貿易の最大の取引先で、高品質な日本製品をアジアを中心とした新興国に展開する重要なパートナーである。
「忙しいところごめんなさい」
会議室のドアを開けると、そこには幼馴染みの秋山小夜子が立っていた。紺のスーツに身を包んだ姿は凛としていて美しい。
「順調そうね、増山貿易」
小夜子はいつものように少し意地の悪い笑みを浮かべる。
「まあね、優秀な弟がいるからさ」
「へえ。相変わらず仲がいいのね」
「兄弟でからかわないでくれよ」
「だって面白いんだもの」
小夜子の冗談めいた言葉に、俺は苦笑いを浮かべた。昔からこいつにだけは、何でも見抜かれている気がする。
「さて、じゃあお仕事に入ろっか。これが今期の新製品のラインナップよ」
小夜子が差し出した資料に目を通す。家電の輸出、特に東南アジア向けの戦略について2人で検討を始めた。数字の確認、市場分析、価格交渉。いつものように真摯な相談を重ねていく。商談はスムーズに進み、30分で終わった。
小夜子は帰る素振りを見せず、椅子に深く腰を掛け直した。
「ねえ、覚えてる?あなたが増山貿易に入った時のこと。あなた、最初の1年間はみっちり現場を学ぼうとしていたわよね」
「あの時はまさか梱包作業から始めることになるとは思ってなかったよ」
「でもそれが良かったんじゃない?今でも現場の人たち、啓之助君のことを信頼してるもの」
小夜子の言葉に、ふと先週の出来事を思い出した。それを小夜子に話す。
「ああ、確かに。この前もさ、倉庫を担当している主任に言われたんだよ。ダンボールの量が多いって。で、梱包の仕方を少し変えたらコストが2割削減できたんだ」
「へえ。主任ってあの無口な人?」
「そう。昔は『社長の息子には俺たちが何かを言っても無駄だ』って感じだったけど、今じゃすっかり信頼されてる」
「それは啓之助君が、言われたことを全部現場で実践して、自分の手を動かして確かめてから導入するからでしょう」
小夜子はコーヒーカップを手に取りながら、真剣な表情になった。
「私ね、啓之助君の会社に来るたび、社員の人たちの表情を見てるの。みんな生き生きとしてる。これってすごく大切なことなの。あなたは社長の息子だからって威張ったりしない。現場の声を聞いて、できることは必ず形にする。だからみんなが自分の意見を言える。これって簡単なようで、すごく難しいことよ」
「そうかな」
「そうよ。だからこそ、私たちNR電気も増山貿易を最も信頼できるパートナーとして」
その時、小夜子の携帯が鳴った。小夜子は画面を確認すると、申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「ごめんなさい。緊急の会議が入ってしまって、戻らないと」
「構わないよ。また今度」
「ええ、その時はもっとゆっくりお話ししましょう」
俺は小夜子をエントランスまで見送った。名残惜しそうに帰っていく小夜子に、俺はついつい笑みを浮かべてしまった。
そんな風に日常が続いていた、ある日のことだった。仕事から帰った俺と初は、父に呼ばれてリビングに向かう。
「啓之助、初。俺は社長を辞任し、海外に移住することにした」
「海外移住?」
父の突然の宣言に、リビングは静まり返った。父は満面の笑みを浮かべる。
「ああ、実は母さんと2人で以前から計画していてね。南フランスでワイン農園を始めようと思うんだ」
「はあ」
思わず素頓狂な声をあげてしまう。父は相変わらずマイペースだ。
「啓之助、お前に社長を任せる。若い感性でどんどん会社を変えていってくれ」
「え、待ってくれ。そこは専務の初じゃないのか?」
「初は優秀だ。完璧すぎるくらいにな。でも会社は人の心で動くんだ。お前には人の気持ちが分かる。心を動かせる。そういう人に社長になって欲しいんだよ」
父は穏やかに笑うと立ち上がり、「じゃあ荷物整理してくる」と軽やかに母とリビングを後にした。まるで明日の天気予報でも話すような調子で。
残されたリビングには、重たい空気が流れていた。初に声をかけようとした時、初はすでに立ち上がっていた。その背中には何か言いたげな思いが滲んでいる。でも初は振り向かずにリビングを出ていった。階段を登る足音が、夜闇に大きく響く。
俺は深いため息をついた。コーヒーカップにはまだ温かい液体が残っていた。父からの突然の引退宣言。あまりにも唐突な展開に、頭の中が整理できない。
「社長か」
ゆっくりと息を吐き出す。父はきっと考えて決めたんだ。俺は現場を知り、社員の顔を知り、取引先との信頼関係も築いてきた。父がバトンを渡そうと決めたのは、その成長を見届けたからなのかもしれない。
「やるしかないな」
気づけば自然と背筋が伸びていた。社長という重責は確かに重い。でも1人で背負う必要はない。社員たちや、みんなの力を借りて新しい増山貿易を作っていこう。
「父さんの会社を必ず守って見せるよ」
夕暮れのリビングで、俺は静かに誓いを立てていた。
社長就任から1ヶ月が経った。社長として覚えなければならないことはたくさんあったけど、社長秘書として父の傍らで働いていた新井時子さんがテキパキと業務をサポートしてくれていた。黒髪のストレート、凛とした立ち居振る舞い。知的な雰囲気と柔らかな物腰は、見る人の心を自然と和ませる。しかしその美しい外見とは裏腹に、彼女の仕事ぶりは実に的確だ。複雑な案件も瞬時に整理し、適切な判断を下す。そんな彼女の存在は、新任社長の俺にとって本当に心強い限りだった。
「山口社長、これが本日のスケジュールです」
「ありがとう。ああ、それと時子さん、この前の提案、採用することにしたよ。社員食堂でみんなが気軽に話せる場を作るっていう」
時子さんの目が少し輝いた。
「現場の声を直接聞けるいい機会になりますね」
「そうなんだ。父の時代はどうしても社長っていう壁があった気がして」
廊下を歩きながら時子さんと話をしていると、前からやってきた新入社員2人が会釈をしてきた。俺は笑顔で声をかける。
「おはよう。今日のプレゼン楽しみにしてるよ」
「え、社長が来てくださるんですか?」
「もちろん。君たちの提案、面白そうだったからね」
2人は嬉しそうに顔を見合わせた。それから浮き足だった様子で去っていく。俺は時子さんに向き直った。
「時子さん、プレゼンに参加することをスケジュールに組んでくれてありがとう」
「いいえ。社長の『全社員の顔と名前を覚える』という目標、着実に進んでいますね」
時子さんは静かに微笑んだ。
「時子さん、今日も1日よろしく」
「はい、社長」
時子の凛とした返事に背筋を伸ばし、俺は新しい1日を歩み始めた。
しかし、社長になっても俺は初のことに頭を悩ませるようになった。コミュニケーションが取れないのはいつものことだからいい。俺が困っているのは、初と意見が食い違うようになったことだ。
「兄さん」
仕事を終えようとしていた時、初が社長室に入ってきた。その口調に鋭さを感じる。初は分厚いファイルを机の上に置いた。
「決算資料、見た?」
「ああ、前年比まずまずだと思うが」
「まずい?この業界でわずか5%の成長なんて、停滞と同じだよ。ITの波に乗り遅れ、人件費は膨らむ一方。このままじゃ父さんが築いた会社が」
「急激な変化は避けたいんだ。社員のことを考えると、そうした方がいいだろう」
俺は穏やかに言った。しかし、初は冷たい視線を俺に向ける。そこにはこれまでに見たことのない強い敵意が浮かんでいた。
「それだよ。兄さんは『社員のため』って言うけど、それは単なる言い訳じゃないのか。経営者として覚悟が足りない。誰からも嫌われたくない。その場しのぎの優しさで会社をダメにする」
「そんなことは」
「正直に言う。兄さんの経営方針、僕には理解できない。兄さんは経営者として中途半端だ。父さんの意思を継ぐなら、もっと違うやり方があったはず。社員の気持ちを大切にするのは簡単だ。でもその優しさで会社が潰れたら、誰が責任を取るんだ?」
言葉の1つ1つが、まるで刃のように胸を刺す。何も言えず、俺は口を閉じた。しばらくの沈黙の後、初は小さく息を吸い、まっすぐに俺を見つめて言った。
「兄さん。会社を僕に譲ってくれよ」
「は?何言ってんだよ、初」
その時、会議室のドアが開き、取締役たちが次々と入ってきた。
「何のつもりだ、初」
「取締役会の緊急招集です」
初の口元に薄い笑み。
「実は、経営戦略の根本的な見直しについて、すでに取締役の皆様とは個別に協議を重ねてきました」
胸の奥が凍る。初は、いつの間にか根回しを済ませていたのか。
「何言ってんだ。会社はお前のものじゃないんだぞ。父さんから託された責任であり、社員たちとの約束なんだ。おもちゃや本みたいに簡単に譲れるものじゃない」
「約束、責任」
初が冷笑を浮かべた。
「綺麗事を言っている場合じゃない。このままでは会社が傾く。IT化の遅れ、膨らむ人件費、従来の営業手法への過度な依存。私が作成した中期経営計画をご覧ください」
次々と数字とグラフが並ぶ資料が配られる。取締役たちが深刻な表情でそれを見つめていた。
「兄さんの経営では、3年以内に確実に赤字に転落します。これは机上の空論ではなく、緻密な分析に基づく予測です。初、現実を直視してください。兄さん。今までだって僕に勝てたことなんて1度もないじゃないか。成績もスポーツも仕事も。数字が示す事実は明白です」
その言葉に、かっ、と頭に血が登った。
「なんだと?」
「取締役の皆様にお聞きしたい。このまま感情論で会社を潰すか、それとも改革を断行するか。どちらが株主の利益に叶うのでしょうか?」
取締役たちの視線が俺に突き刺さる。彼らの表情からは、すでに結論が出ていることが見て取れた。
「いつも僕の方が優秀なのに、周りは兄さんばかり持ち上げる。『啓之助君は思いやりがある』って。でもそんなの見せかけの優しさでしょ。本当は無能さを隠すための方便なんじゃないですか」
その瞬間、俺は初の襟を掴んでいた。会議室の空気が一気に凍りついた。
「啓之助君!」
取締役たちが慌てて立ち上がる。
「見てください、皆さん。感情的になって暴力に訴える。これが現経営者の姿です」
ゆっくりと手を離す。取締役たちの失望の視線が背中に突き刺さる。
「分かったよ。会社はお前に譲る」
声が震えていた。悔しさと怒りで拳が小刻みに震える。
「しかし忘れるな。この会社は父さんが社員たちと一緒に築き上げたものだ。お前のおもちゃじゃない。いつか必ず、その選択の代償を払うことになる」
初は黙って俺を見つめていた。その目には、完璧な勝利を納めた満足感と、何か言いようのない感情が混ざっていた。最後に取締役たちに一礼し、俺は会議室を後にした。廊下に出て壁に寄りかかった時、頬を伝う熱いものに気がついた。
「父さん、すまない。社長として、兄として、俺は完全に負けてしまった」
退任の挨拶を終えた翌日、家にいた俺の元に小夜子が訪ねてきた。普段の茶目っ気のある表情ではなく、妙に真剣な面持ちだった。リビングのソファーに座った小夜子は、一通の封筒を差し出した。
「啓之助君、うちの会社に来て。給料は今の3倍を用意するわ」
「え、なんだよ、小夜子。からかうにしては大げさすぎるよ」
「本気よ」
小夜子は封筒を俺に押し付ける。それを恐る恐る開くと、そこには破格の条件が記された雇用契約書が入っていた。小夜子は両手をつき、俺の目をまっすぐ見つめた。
「私はずっとあなたの仕事ぶりを見てきた。社員との接し方、現場の声に真摯に耳を傾ける姿勢。そして何より、どんな相手とも信頼関係を築ける力。あなたがいなくなるなんて、増山貿易にとって大きな損失だと思う。でもそれは、私たちにとっての大きなチャンスでもあるの。啓之助君、あなたの居場所はまだあるの?あなたの能力を正当に評価できる場所が」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
「小夜子がそんなに俺のことを買ってくれてるとは知らなかったよ」
「はあ。私を誰だと思ってるの?幼馴染みの啓之助君のこと、誰よりも分かってるんだからね」
小夜子は得意げに顎をあげて、意地悪な笑みを浮かべた。
「分かったよ。NR電気で俺を雇ってほしい」
俺が手を差し出すと、小夜子は頬を上気させた満面の笑みで俺の手を握った。
NR電気に入社して3ヶ月。俺は早速、東南アジア向けの新しいプロジェクトに携わることになった。
「山口君、どうにもうまくいかなくて。何かいい案はないかな?」
ベテラン社員が困り果てた表情で相談に来た。マレーシアの大手家電量販店との商談が、どうしても前に進まないという。
「具体的にどんな状況なんですか?」
「先方が当社製品の価格が高すぎると。でもこれ以上値下げすると採算が」
資料に目を通しながら、俺は現地スタッフとのやり取りも確認した。すると、ある違和感に気づいた。メールのやり取りに、妙な緊張感が漂っている。先方からの返信はどこか歯切れが悪く、言葉を選びすぎているような印象だ。
「この商談、いつから始まったんですか?」
「えっと、3ヶ月ほど前からだな」
「最初の頃と最近とで、先方の文面って変わってきてますよね」
資料を広げ、時系列で並べてみる。
「ほら、見てください。最初の頃は『御社の製品に大変興味があります』って前向きな内容だったのに、途中から『社内で検討させていただき、上層部と相談の上』という言葉が増えていて」
「そうなんだ。だから価格の問題かと」
「違う気がします」
俺は1番最近のメールを指差した。
「この『申し訳ございません』という言葉の使い方。日本人なら謝罪の意味ですが、アジアの英語圏では単なる前置きとして使うこともあるんです。この担当者、プレッシャーを感じているんじゃないでしょうか」
ベテラン社員の目が見開かれた。
「つまり、価格以外の何かが」
「若手だからこそのプレッシャーがあるはずです。一度、直接話を聞いてみませんか?」
俺とベテラン社員は、現地とオンライン会議を設定した。画面越しに映し出された先方の担当者は、確かに若かった。エネルギッシュな印象の自信に満ちた表情だが、その目には少しの不安も垣間えた。
「御社の製品の品質は、私どもも高く評価しております。ただ」
担当者の言葉を、俺は静かに遮った。
「すみません。その前に1つ。あなたは御社に入社されて何年目ですか?」
「え?ああ、はい。2年目です」
「大きな商談、プレッシャーですよね」
その一言で、画面越しの表情が変わった。
「実は、上司から何としても値下げを勝ち取れと」
「でも品質の良さは分かっているので、板挟みで」
「それなら、価格は下げられませんが、その分の価値を付加価値として還元させてください。具体的には3つの提案があります。まず、現地スタッフへの技術研修プログラム。製品知識だけでなく、日本式の品質管理まで徹底的にレクチャーさせていただきます。次に、24時間体制のアフターサポート。故障時の即時対応はもちろん、予防保全まで含めた万全のケアを」
俺は相手の反応を確かめながら、ゆっくりと続けた。
「そして最後に、御社の販売員への教育支援です。これらを基盤に、3年計画で取引規模を段階的に拡大していく。お互いが成長できるパートナーとして、長期的な関係を築いていきたいんです。これなら御社の若手販売員の方々のスキルアップにもつながりますし、弊社としても商品の価値を正しく伝える機会になります」
担当者の目が輝いた。
「是非、その方向で」
こうして、難航していた商談は無事成立した。ベテラン社員からは「ありがとう、山口君」と心から感謝された。それを機に、俺の評判は社内で少しずつ広がっていった。気がつけば「山口さん、ちょっといいですか?」「あの、相談があるんですが」と、日に何度も声をかけられるようになっていた。
「ここは、こんな風に考えてみたら」
「まずは相手の立場になって、何を求めているのか一緒に整理してみましょう」
海外バイヤーとの商談で行き詰まった営業部員、新製品の説明資料がうまく作れない企画チーム、取引先とのやり取りに悩む若手社員。彼らに、俺なりの経験と現場で培ったノウハウを少しずつ伝えていく。休憩室でも自然と俺を中心とした輪ができるようになった。時には仕事の相談、時には他愛もない雑談。笑い声の絶えない空間で、社員たちの表情が日に日に明るくなっていくのを感じていた。
NR電気で働くことにもすっかり慣れた頃。俺が1人で休憩室にいると、小夜子が入ってきてコーヒーを差し出してきた。
「さすがね、啓之助君。もうみんなの心を掴んじゃったのね」
「いや、みんなが協力してくれるから」
「それだけじゃないわよ」
小夜子は窓際の席に腰かけ、遠い目をした。
「覚えてる?小学校の時の私。実は人と話すのが怖くて仕方なかったの。言いたいことがうまく言えなくて、いつも逆のことを言っちゃって」
ふと、小夜子が切なそうに微笑んだ。
「隣の席の女の子に『可愛い筆箱だね』って言われてた時、本当は『ありがとう。私も君の筆箱、素敵だね』って言いたかったの。なのに『別にそんなの当たり前でしょ』ってツンツンした言い方になっちゃって」
「ああ」
「でも、啓之助君だけは分かってくれた。『小夜子って、嬉しい時ほど素直になれないタイプなんだよね』って、私の気持ちをみんなに翻訳してくれた。啓之助君がいれば大丈夫だって、私は甘えていたの」
小夜子はコーヒーカップを両手で包み込むように持った。
「でもね、それじゃダメだって思ったのが6年生の時。私の誕生日にパーティーを開いて、クラスメートを家に招待したことがあったでしょ。お開きの空気になって、みんなが帰っちゃうのが嫌になった。私はもっとみんなにいて欲しいって言いたかったのに、『さっさと帰ってよ』なんて言っちゃって」
小夜子の話を聞きながら、俺もその時のことを思い出していた。
「そしたらクラスの子が『じゃあどうして誘ったの?お金持ちだってこと、私たちに見せつけたかっただけなんでしょ』って言い出して。そしたら他の子も『小夜子ちゃんっていつもお高く止まってるよね』とか『来なければよかった』とか。私はそれに何も返せなかった。だけど、その時も啓之助君が『小夜子が言いたいのは、もっといて欲しいってことだよね』って、さりげなくフォローしてくれた。それで事態は収まったけど、その時私は『このままじゃずっと啓之助君に頼ってばかりになっちゃう』って思った」
小夜子はまっすぐに俺を見つめた。
「だから決意したの。気持ちと言葉が反対にならないように練習しようって。1つずつ小さな一歩から。最初は『おはよう』って言えるように、次は『ありがとう』を素直に言えるように」
その瞳に、昔のような臆病な色は微塵も感じられなかった。
「私の人生を変えてくれたのは、啓之助君よ。だから今度は私があなたの力になりたい。素直な気持ちのまま、こんな風に言えるようになったのも、啓之助君のおかげだから」
その言葉にどう返していいかわからず、俺は黙ってコーヒーを飲んだ。
「実はね、ずっと前から啓之助君をうちの会社に入社させたいとは考えていたの。でも、声をかけなかった」
「え?」
急に声のトーンを落とした小夜子に、俺は顔をあげる。小夜子の顔は真剣な面持ちに変わっていた。
「だって、啓之助君は増山貿易を継ぐって思ってたから。もちろん専務は初君だったけど、あなたの方が社長に向いてるってはっきりしていたもの。あなたが実家の会社で社員みんなと笑顔で仕事している姿を見るたびに、それが1番自然なことだって」
小夜子は窓の外を見つめ、静かに続けた。
「あなたの能力は私が1番よく知ってるって自負してる。人を理解する力、相手の気持ちに寄り添える優しさ。私は啓之助君のそういうところ、ずっとかっこいいって思ってた。そんなあなたのこと、ずっと大切に思ってた」
小夜子の頬がわずかに赤く染まった。俺の心臓が高鳴る。その時、休憩室に部長が入ってきた。
「山口君、優秀商事の新井社長が来ているよ」
「ああ、はい。すぐに」
俺は小夜子から視線を外し、少しそわそわした様子で休憩室を後にした。
会議室に入ると、待っていた新井社長がにこやかに立ち上がった。
「啓之助君、久しぶりだね」
新井社長は派手な金の腕時計を光らせながら、ニヤニヤと笑った。
「いや、君が社長を辞めて転職したって聞いた時は驚いたよ。どうなることかと思ったけど、こうしてNR電気で順調にやってるじゃないか。さすがだね」
その声には、どこか上から目線の響きがあった。新井社長は高級そうなブランドスーツの襟を直しながら、意味ありげな表情を浮かべる。
「給料もいいんだろう。ま、君なら心配することはないと思ってたけどね」
軽薄な笑い声が会議室に響く。成り上がり者特有の見せびらかすような態度に、俺は穏やかに応じるしかなかった。
「はい、本日はよろしくお願いいたします」
握手を交わした後、俺たちは商談に入った。優秀商事はNR電気の取引先の1つだ。増山貿易とも取引があった会社で、アジアの新興国に特化した貿易商社として知られている。最近は増山貿易やNR電気のような大手との取引を足がかりに、驚異的な成長を遂げていた。
商談は滞りなく進み、最後の署名を済ませた時だった。新井社長は周りを見渡し、声を潜めた。
「増山貿易の調子が、あまり良くないという噂がある。初君が社長になってから」
新井社長はコーヒーを一口飲み、意味深な表情を浮かべた。
「現場を無視した強引なIT化、経費削減という名目での福利厚生カット。それに強気な値上げで、取引先との関係も悪化している。優秀な社員が次々と退職しているという話も聞こえてくる。このままでは」
新井社長はそこで言葉を切ったが、破綻も近いという意味が込められているのは分かった。
新井社長は大きく息を吐いた。
「君にわざわざこんな話を持ちかけたのは、娘の時のことが心配だからでね。あの子、増山貿易の社長秘書として一生懸命やってるけど、このままじゃ将来が不安だ」
新井社長は声をより低くして、俺を伺うように見た。
「そう。新井社長の娘さんは、増山貿易の社長秘書の時子さん。今は初の秘書として献身的に働いているはずだ。もし会社が傾けば、彼女の立場も危うくなる。父親である新井社長が気にかけるのも無理はない。そこで、君に時子を引き取ってもらいたいんだ」
「引き取る?」
「ああ、NR電気に入社ということですか?」
「いや、違う。結婚相手にどうかと思っている」
「え?」
思わず俺は新井社長を凝視してしまった。
「君なら時子の良さが分かるはずだ。一時期、秘書としてそばに置いていただろう。几帳面で仕事もできる。それに時子も君と結婚することに、まんざらでもないようだ」
俺は戸惑った。確かに時子さんの優秀さは身を持って知っている。だけど、迷っていることを見抜いたのか、新井社長は机の上に手を置いて身を乗り出してきた。
「お見合いだけでもどうだろう。仕事のことだけじゃなく、色々話せば、きっと時子が君にふさわしい妻になれることが分かると思うんだ。言っちゃなんだが、時子は美人で気立てもいい、自慢の娘だ」
確かに時子さんは美人で、社内でも評判だった。彼女をそんな目で見たことは1度もなかったが、俺は深く息を吐いた。この話を受ければ、優秀商事との関係も深まる。
「顔合わせだけでもいいか。分かりました。お見合いさせていただきます」
俺は静かに頷いた。
「おお、さすが啓之助君。話が早い」
新井社長は満面の笑みを浮かべた。
新井社長が帰った後、俺は心ここにあらずな様子で午後の仕事に取り組んでいた。そんな俺に気づいていたのか、退社後、小夜子が俺のデスクにやってきた。
「啓之助君、どうしたの?優秀商事との商談の後から、何か変よ」
俺は小夜子に話をするかどうか一瞬迷った。だけど、しない理由はないと思って口を開く。
「実は、優秀商事の社長の娘、時子さんとお見合いすることになったんだ」
「え?」
小夜子の表情が一瞬固まった。
「もちろん形式上だよ。会社のためには、優秀商事とはいい関係を結んでおかないと。顔合わせだけで」
自分に言い聞かせるように、俺はそう言った。小夜子は俺の目をまっすぐ見つめたまま、わずかに唇を震わせていた。
「そう」
その一言は、いつもの明るい声とは違って、どこか虚ろに響いた。小夜子は急に立ち上がった。夕日に照らされた横顔が、寂しげに揺れていた。
お見合いは、港町を一望できる高級ホテルのラウンジで行われた。大きな窓からは、光る海面と白い船が見える。
「啓之助君、待たせたね」
新井夫妻が満面の笑みを浮かべて現れた。その後ろに、時子さんがいた。時子さんは淡いピンクのワンピース姿だった。普段の凛とした秘書の姿とは違い、どこか憂いを残す表情を見せている。
俺は彼らに向かって丁寧に会釈をした。
「いえ、こちらこそ。両親が海外から戻れなくて、申し訳ありません」
「構わないよ。南フランスでワイン作りに夢中なんだろう。私たちがしっかり親代わりを務めさせてもらうから。向こうにいるから、2人で仲良くやってくれ」
そう言うと、新井夫妻は席を外した。席に着くと、緊張した空気が流れた。
「あ、あの、よろしくお願いします」
時子さんは丁寧にお辞儀をした。
「いえ、こちらこそ」
その後、形式的な会話が続いた。学生時代の話、趣味の話。時子さんの受け答えは礼儀正しく、親たちの期待に答えようとしているのが分かった。
「そうだ。増山商事はいかがですか?初とはうまくやれていますか?」
何気なく投げかけた質問に、時子さんの表情が一瞬曇った。と思いきや、突然時子さんが身を乗り出してきた。テーブルの上に置かれた彼女の手が、俺の手を掴む。
「啓之助さん、お願いがあります」
かすれるような声。時子さんの吐息が俺の頬をかすめた。慌てて体を引こうとしたが、時子さんは握る手を強くした。
「お願いです。助けてください。私には、啓之助さんしか」
声が震えていた。真珠のような涙が、彼女の頬を伝う。俺は息を飲んだ。目の前で見せる時子さんの表情に、秘書としての凛とした姿からは想像もつかない切実な思いが込められていた。
「ゆっくりで構いません。話を聞かせてください」
俺は静かに言った。大きな窓の外では、白い帆を膨らませたヨットが静かに港を出ていくところだった。
数日後、俺は再び新井社長と商談するため、会議室に来ていた。その日は優秀商事との大口の契約を締結する予定だった。NR電気の新製品をアジア圏で共同販売するというものだ。大手商社の営業力と、優秀商事のネットワークを組み合わせれば、大きな利益が見込める案件だ。契約書はすでに用意されていた。
「やあ、啓之助君」
新井社長は満面の笑みで会議室に入ってきた。上機嫌な様子で、ゆったりと椅子に腰をかける。
「それで、娘はどうだったかな?」
コーヒーを一口飲みながら、新井社長は意味ありげな表情を浮かべた。
「話も弾みましたし、いい関係を築けると思いました」
「おお、そうか、そうか」
新井社長は高価な革張りの椅子に深く腰かけ、満面の笑みを浮かべた。
「やはり啓之助君は違うね。最初から目をつけていたんだよ。増山貿易の社長こそ、君にふさわしい器だと思っていたのに。まあ、今はNR電気で順調なようで何よりだ。ここはこれからもっと伸びる会社だ。あんなちっぽけな会社の社長なんて、君はやめて正解だよ」
新井社長は高級な腕時計をちらつかせながら、媚びるような声で続けた。
「時子を妻にもらってくれれば、うちも安泰だ。これからは啓之助君の時代だ。がっぽり稼いでいきましょうか」
新井社長はブランド物のボールペンを取り出しながら、ニヤニヤと笑った。
「さあ、契約書にサインを。これはおまけってことで、私からの特別な条件だ。時子の件と一緒に、このビジネスも進めようじゃないか」
「それはお断りします」
「え?」
新井社長のこびた笑顔が一瞬で凍りついた。
「申し訳ありませんが、今回の契約は白紙に戻させていただきます」
「ちょ、ちょっと待ちなさい。どういうことだ?お見合いもうまくいって、これから両者の関係も」
「お見合いと商談は別の話です」
慌てて身を乗り出してきた新井社長に、俺は静かに、しかし毅然とした態度で告げた。会議室に重い空気が流れる。新井社長の表情が、怒りと困惑で歪んでいった。
「なぜだ。これだけの商談を一方的に。しかも娘とのお見合いまで済ませておいて。こんな、こんな無礼な真似を」
新井社長は歯を食い縛るように言った。その声には怒りと焦りが混ざっていた。
「御社について、調べさせていただきました」
「何?」
「まず、ベトナムでの取引です。現地の販売店に対する不当な価格操作。大手には法外な価格を吹っかけ、中小には買い叩き、それによって市場を混乱させている。さらに、インドネシアでの偽装請求。表向きは正規品として高額で販売しながら、実際には模造品を混ぜて出荷している。品質管理の責任者を買収し、検品記録まで改ざんしていた」
俺は一呼吸を置いて続けた。
「そして、フィリピンでは現地企業への債務逃れ。取引先を次々と変えながら、支払いを踏み倒している。このような取引方法では、私どもNR電気の信用にも関わります」
新井社長の顔が、みるみる血の気を失っていく。
「そ、そんなバカな」
新井社長の顔が真っ青になり、高級スーツの襟元を必死で掻き合わせる。
「こ、これは全て根もない噂だ。証拠なんて何もない」
震える手で水を飲もうとしたが、グラスを取り落としそうになる。新井社長は立ち上がり、今度は怒りに任せて机を叩いた。
「何の証拠もない噂を、よくもぬけぬけと。お前なんて、親の会社を見捨てて他人の会社に転がり込んだ卑怯者じゃないか。そんな奴が、この私に向かって何を言うと言うんだ」
高級なメガネが歪むほど顔を歪ませ、新井社長は声を荒げた。
「こんな、こんな無礼な真似を許さんぞ。名を汚して訴えてやる。そうだ、訴えるぞ。今すぐにでも弁護士を呼んで」
新井社長は机を叩いた。その時、会議室のドアが勢いよく開き、時子さんが飛び込んできた。
「もうやめて。お父さん、お願い。もうこれ以上、罪を重ねないで」
新井社長の目が見開かれ、急に血の気が引いた顔で立ち上がる。
「お前、こんなところで何をしている?早く帰れ」
新井社長は娘の腕を掴もうと手を伸ばしたが、時子さんは一歩後ずさり、首を強く横に振った。
「いえ、私、全て証言します」
時子さんはスーツのポケットに手を入れた。震える指先でUSBメモリを取り出す。その小さな青い記憶媒体を掲げる彼女の手は小刻みに震えていたが、瞳には強い意志の光が宿っていた。
「ベトナムでの価格操作の資料も、インドネシアでの偽装請求の証拠も、全部ここに入っています。フィリピンでの水増し請求のデータ、中小への買い叩きの記録、模造品の購入を示す在庫管理表、品質責任者への裏金支払いの証拠。全て私が集めました」
時子さんは震える手でUSBを掲げた。
「と、お前、親の顔に泥を塗る気か。これまでお前を大切に育ててきたのを忘れたのか。この後に及んで、裏切る気か」
新井社長が立ち上がった。
「裏切り?」
時子さんの声が静かに、しかし強く響いた。
「私をタイの財閥の御曹司と結婚させようとしていたこと。フィリピンの実業家の息子とお見合いをセッティングしていたこと。それらが失敗に終わったら、次は啓之助さん。全て会社の利益のため。私のことなど、どうでも良かったんでしょう」
新井社長の表情が凍る。時子さんは1度深く息を吸い、続けた。
「確かに私はあなたの言うことを聞く良い娘でした。道具として使われることも、仕方ないと思ってました。でも、もう限界です。私だけなら我慢できました。だけど、他の人の人生をあなたたちの商売の駒にすることだけは、絶対に許せない。大切な人をそんな計画のために無駄にされるくらいなら、私は全てを告白します」
涙をこらえながら、時子さんはまっすぐに新井社長を見つめた。新井社長が歯を噛みしめる。
「俺がどうなってもいいというのか。お前を育てた親の身にもなれ」
新井社長の叫び声に、時子さんはゆっくりと顔をあげた。その瞳には涙が浮かんでいたが、強い意思の光も宿っていた。
「そうよ。お父さんとお母さんの言いなりに、私はずっと生きてきたわ。だって、大好きだったから」
時子さんの静かな声に、新井社長の表情が揺らぐ。
「覚えてる?私が高校に入学する時のこと。まだお父さんの会社は軌道に乗ってなかった。お父さんは夜遅くまで働いて、お母さんはパートを掛け持ちして、私の制服代を工面するために」
時子さんの声が少し震えた。
「私、知ってたのよ。お父さんが自分の食事を減らしてでも、私の学費を捻出してくれてたこと。お母さんが自分の服を我慢して、私の参考書を買ってくれたこと。だから、私は親したかった。お父さんとお母さんの期待に答えたかった。秘書になってたくさんお給料をもらえるようになって、親を楽にさせたかった。お父さんたちの言うことなら何でも聞こうって、そう決めていたの」
時子さんは深く息を吐いて続けた。
「でも、今のお父さんたちは違う。他人を騙して、傷つけて。そんなの、私の知ってるお父さんじゃない。苦しい時でも誠実に生きて、私のことを1番に考えてくれた、あの頃のお父さんじゃない」
新井社長の顔から血の気が引いていく。
「私ね、お父さんたちのこと、本当に尊敬してた。だからこそ、今の姿を見てられないの。お金のために人を騙したり利用したり。そんなお父さんたちじゃなくて、私が大好きだったあの頃のお父さんとお母さんに、もう一度戻ってほしい」
時子さんの言葉には、深い愛情と悲しみが込められていた。俺にはその思いの強さが痛いほど伝わってきた。会議室には柔らかな午後の日差しが差し込んでいた。その光の中で、時子さんの涙が静かに輝いていた。新井社長の目も、かすかに潤んでいる。
「時」
新井社長は椅子に崩れ落ちるように座り込んだ。その目は、遠い過去を見つめているようだった。
「私はな、子供の頃をずっと貧乏で過ごしてきたんだ。靴は穴が開いていて、給食費も払えなくて。友達の家に遊びに行けば『あの貧乏な家の子が来た』って。母ちゃんは夜遅くまで働いて、それでもみんなが持ってるものは何ひとつ買ってもらえなかった」
新井社長の声が震えた。
「だから、お前が生まれた時、誓ったんだ。絶対にお前にはそんな思いはさせない。お前には世間に胸を張って生きていける人生を与えたい。それだけを考えて、がむしゃらに走ってきた。でも、いつからだろう。そのはずだった思いが、どんどん違う方向に歪んでいって。お金を手に入れるたびに、もっと欲しくなって。取引先を騙して、従業員を踏みつけて。気づけば、私はお前の幸せのためじゃなく、自分の傷を癒すために走り続けていた」
新井社長は震える手で顔を覆った。
「なんてことをしてしまったんだ。私は大切なものをこの手で壊してしまった。お前の優しさも、家族の絆も、誠実に生きてきた誇りも、全部投げ捨ててしまった」
新井社長が深々と頭を下げた。
「やり直させてほしい。会社も家族も、全てを最初から正直に生きていく」
「お父さん」
時子さんは新井社長を優しく抱きしめた。
時子さんたちと一緒に会議室を出ると、小夜子が廊下に立っていた。
「さすがね、啓之助君。新井社長を改心させるなんて」
「聞いていたのか?」
俺の問いに、小夜子は答えなかった。口を結んで、じっと俺を見ている。
「新井社長が改心したのは、時子さんが全て教えてくれたからだ。お見合いの時に、2人が不正していることを打ち明けてくれてね。俺に相談するなんて、すごく勇気が必要だったと思う。だから、全部時子さんのおかげなんだ。ありがとう、時子さん」
時子さんに向かって、俺は微笑みかけた。時子さんは「そんな」と言って、少し頬を赤くした。小夜子の表情が一瞬曇った。
「今度は時子さんを助ける番だね」
「はい」
「え?」
俺の言葉に小さく頷く時子さんに、小夜子が首をかしげた。
俺と小夜子、それから時子さんは、新井社長との話を終えたその足で、増山商事に向かった。
午後2時過ぎ、会議室の扉が開き、初が入ってきた。随分痩せた気がする。スーツもどこかくたびれているように見えた。
「兄さん」
初の声に、これまでにない翳りがある。時子さん。そして小夜子も、静かに初を見守る。何とも言えない空気が会議室を満たす。
「久しぶりだな。会社の調子はどう?」
俺はできるだけ自然に話しかけた。初は視線を逸らし、作り笑いを浮かべる。
「当たり前だけど、順調だよ。兄さんの時代みたいなのんびりした経営じゃないからね」
その声には、わずかな震えが混じっていた。時子さんが身を乗り出した。
「社長、強がるのはよしましょう。このまま突き進めば、会社は倒産します。社員の皆さんが路頭に迷うことになるんですよ」
「うるさい」
初の叫び声が、突如として空間を引き裂いた。両手を、爪が白くなるほど力を込めて握りしめている。
「何のつもりだ?俺を笑いに来たのか?兄さんと時子さん、そして小夜子さんまで。みんなして、俺の失態を見に来たのか」
初の目に涙が浮かんでいるのが見えた。強がっていた表情が崩れ、幼い頃のような助けを求める目をしていた。
「そんなつもりはない。俺たちが今日ここに来たのは、M&Aの提案をさせて欲しいからなんだ」
「え?」
初の目が大きく見開かれる。小夜子がスマートフォンを取り出した。
「この半年の増山商事の業績を分析させてもらったわ。確かにIT化は進んだ。でも、それによって失われた取引先との信頼関係と、社員の離職率の上昇。このままでは、時子さんが言った通り、会社を存続させることは難しいわよ」
小夜子の声は、いつもの茶目っ気を消し、凛としている。初は俯いたまま、拳を握りしめている。
「でも、だからこそチャンスでもあるのよ。増山商事には、長年培った商社としてのノウハウがある。アジアでの確かな実績もある。それに、優秀な社長もいる」
小夜子は初を見つめた。
「NR電気のブランド力と資金力、増山商事の経験と実績。お互いの強みを生かせば、必ずシナジーは生まれるわ。社員の雇用も守れる。取引先との関係も、徐々に修復していける。これは決して吸収じゃない。対等な立場での経営統合よ。増山商事の伝統は、必ず守るわ」
会議室に一瞬の静寂が流れた。初はゆっくりと顔をあげた。その目にはまだ迷いの色が残っている。でも、確かな希望の光も、少しずつ灯り始めていた。
「なんでだ?」
初の声がかすれた。
「なんで、なんで俺は兄さんに勝てないんだ。俺の方が兄さんより頭も良くて、仕事も人一倍できて、どんな難しい案件だって1人でこなせるのに。なのに」
震える拳を握りしめる初に、俺は静かに向き合った。
「初。お前はできすぎるんだ。完璧にできすぎるから、周りが見えていないものがある」
「え?」
「人にはそれぞれの限界があって、得意不得意がある。でも、お前にはそれが分からない。だって、お前はなんだってできちゃうから。営業だって、経理だって、企画だって。だから、ついみんなも『ここまでできて当たり前』って思ってしまう。部下に仕事を任せても、結局自分でやった方が早いって、全部背負い込んで」
俺は初の目をまっすぐ見つめた。初の表情が、少しずつ変わっていく。
「完璧な資料を作っても、誰も理解できなければ意味がない。効率的な新システムでも、現場が使いこなせなければ無駄になる。経営っていうのは、そういう人の部分を理解することなんだ。みんながみんな、お前みたいにできるわけじゃない。でも、それは決して悪いことじゃない。人の限界を理解して、それでも信じて任せる時には、遠回りでもみんなで同じ方向を向いて歩いていく。それが組織を動かすということなんだ」
会議室に午後の日が差し込んでいた。初の目から、涙がこぼれ落ちた。
「俺、ずっと兄さんよりも自分の方が優れているって思ってた。兄さんより頭も良くて、仕事も1人でできるから。でも、そんなことないって、心の片隅では思っていたんだ」
初は深いため息をついた。
「俺は、兄さんが羨ましかった。知り合う人はみんな、兄さんのことを好きになる。クラスメートだって、社員だって、取引先だって。誰でも。兄さんの周りにはいつも人がいて、笑顔があって」
その声が少し詰まる。
「覚えてる?俺が高校生の時、彼女を家に連れて行った時のこと。あの時だって、最初は僕のことを好きだって言ってくれてた彼女が、兄さんと話すうちに『初君のお兄さん、素敵な人だね』って言い出して。あんな自然な笑顔、僕には見せてくれなかった。しまいには『兄さんのことが好きになったから』って、別れを切り出された」
初は両手で顔を覆った。日の光が初の肩を照らし、その影が床に長く伸びていた。そっと手を下ろした初は、ゆっくりと時子さんの方を見た。疲れきった瞳に、深い諦めと寂しさが滲んでいる。
「時子さんも、兄さんのことを好きになったんだろう。お見合いまでして、当然か。兄さんは僕なんかよりずっといい人だもんな。明るくて、優しくて、誰からも信頼されて。時子さんだって、兄さんの方が」
初の声は枯れていた。その自嘲気味な言葉に、時子さんが息を飲む。
「違う」
俺の声が静かに、しかし確かに響いた。初が目を丸くして俺を見た。
「彼女がなぜ俺とのお見合いを受けたと思う?」
「それは、兄さんが好きだから」
「だから、違うって。全部、お前のためだったんだよ」
初は困惑した表情を浮かべた。
「時子さんは必死だった。『増山商事を、初さんをどうか助けてください。私は初さんの苦しむ姿をもう見てはいられないんです』って。あのお見合いの場で、俺に頭を下げたんだ」
「え?」
「俺は前から知ってたよ。お前と時子さんが付き合ってること。会社であの2人が目を合わせる時の表情を見れば、誰だって気づく」
少し気まずそうに、初が目をそらす。
「だからこそ、俺はあのお見合いを受けたんだ。時子さんが俺と見合いだなんて、何かあるはずだって。あの真面目な時子さんがこんな行動を取るなんて、それだけ追い詰められていたってことなんだと」
俺はゆっくりと続けた。
「それに、弟の大切な人が俺に助けを求めてきたんだ。黙って見過ごすわけにはいかなかった」
初の目に、かすかな涙が浮かんだ。
「俺が兄さんから強引に社長の座を奪ったのは、時子さんのためだったんだ。あの時、実は俺と時子さんは付き合っていた。結婚も考えていた。でも、新井社長夫妻は猛反対で。『うちの娘が次男坊と結婚?冗談じゃない』って」
初は俯いたまま続けた。
「『君は2番手じゃないか。娘は一流企業の社長と結婚させる』そう言って、時子さんを次々と見合いに連れ出すようになった。だから、必死だった。社長になれば、時子さんとのことを認めてもらえる。そう思って、兄さんを追い出してまで、この座についた」
初の声が詰まる。
「でも、経営はうまくいかなかった。数字は落ち込み、社員は辞めていく。そうなると、今度は『こんな会社じゃ娘の将来が心配』って新井社長に言われて。結局、新井社長夫妻からは完全に見限られた。時子さんのためにって思ったのに、帰って時子さんを苦しめることになって」
初はゆっくりと顔をあげて、時子さんを見た。
「時子さんは、俺にとって光だった。入社した時から、いつも俺に明るい笑顔と言葉を向けてくれた。どんな時も一生懸命で、優しくて、周りの空気まで明るくしてくれる。俺が強引な態度を取っても、誰かを傷つけそうになっても、そっと諭してくれた。完璧を求めすぎる俺に、人の温もりを教えてくれた。だから、だから、失いたくなかった」
初の声が枯れる。その時、時子さんが初の手をそっと握った。
「私はね、初さんの隣で仕事をするのが、本当に誇らしかったの。社長だからじゃなくて、初さんの孤独と戦う姿に、私は心を打たれていたの」
時子さんは初を見つめながら、静かに続けた。
「誰にも理解されなくても、自分の正しいと思う道をまっすぐに進もうとする。完璧すぎて周りから距離を置かれても、決して妥協しない。でも、私には分かってた。初さんが本当は誰よりも繊細で、周りの気持ちを考えているって。会議の資料を何度も書き直すのも、より分かりやすくしようって。厳しい言葉を投げかけるのも、相手に成長して欲しいって願いがあって。そんな不器用なまでに誠実な初さんの思いを、私は誰よりも近くで見てきた」
時子さんの声が優しく響く。初は時子さんの両手をそっと包み込むように握り返した。
「ごめん。本当にごめん。僕は、俺は自分を見失ってた。兄さんがいなくてもやっていける。兄さんよりも会社を大きくしてやるって、必死になって。君の気持ちも、みんなの思いも、何もかも見えなくなってた。これからは違う。君と一緒に、みんなと一緒に、新しい増山商事を作っていきたい。NR電気との統合も、みんなで考えて、1歩ずつ前に」
「それが、私の大好きな初さんよ」
2人の間に、優しい空気が流れる。やがて初はゆっくりと俺の方に向き直った。
「兄さん、あの時、会社を奪うような真似をして、本当に申し訳ありませんでした」
初の声が、申し訳なさと後悔に震えている。深々と頭を下げる初に、俺は静かに近づいた。
「もういいんだ。でも、大切なものに気づけたんだろう。なら、それでいい」
俺は初の肩に手を置いた。初は顔をあげ、潤んだ目で頷いた。時子さんがそっと初の傍に寄り添う。日の光が、俺たちを優しく包み込んでいた。
増山商事を後にした俺と小夜子は、近くにある港へと向かっていた。海からの風が、小夜子の髪を優しく揺らしている。
「啓之助君、時子さんのこと、本当は好きだったんでしょう」
小夜子は意地悪そうな笑みを浮かべながら、唐突に言い放った。
「え、ま、ずばしでしょ。あんなに慌てちゃって」
「それはだって、お見合いまで受けて。啓之助君がそんな適当な気持ちで向かうはずないじゃない」
小夜子は俺の前でくるりと回って、人差し指を立てて揺らした。
「それに、あんなに優秀で美人な秘書さんだもの。誰だって惚れちゃうわよね。私だって、惚れそうになっちゃった」
小夜子は芝居がかった仕草で胸に手を当て、わざとらしくため息をつく。
「違うよ」
「嘘。分かるわ。啓之助君の優しさも思いやりも、私が1番よく知ってるもの。小学生の時からずっと見てきたから」
突然、小夜子の声から茶目っ気が消えた。手すりに寄りかかった小夜子の横顔が、夕日に切なく浮かび上がる。
「私ね、啓之助君のそういうところ、大好きだったの。誰に対しても優しくて。でも、決してそれは軽い気持ちなんかじゃない。だから、時子さんのことも真剣に」
その声が、少し震えていた。俺は小夜子に一歩近づいた。
「違うって言ってるだろう。お見合いを受けたのは、初と時子さんのため。それだけだよ。というか、2人が付き合ってるの知ってたしね。それに、俺にはずっと好きな人がいるから」
小夜子の瞳が、大きく見開かれる。
「え?」
「俺がその人と出会ったのは、小学生の時。教室の隅で1人で本を読んでた女の子がいたんだ。話しかけても素直に笑顔を見せてくれなくて。でも、その目は本当は寂しそうだった」
小夜子の頬が、かすかに赤く染まった。
「その子は、意地悪な言葉の裏に優しさを隠して、照れ屋な性格を強がりで包んでいた。でも、本当は誰よりも人を思いやれる子だって、俺は知ってた。彼女は自分の欠点を克服しようと努力していた。そんな彼女がそばにずっといてくれたから、俺は強くなれた。頑張っている彼女に負けないよう、人の気持ちを理解することを、ずっと続けてこられたんだ」
その時、小夜子が俺の袖を掴んだ。
「もう、意地悪なこと言わないで。はぐらかさないで、はっきり言って。その子って、誰よ?」
小夜子の声は、期待で震えているようだった。俺はそっと小夜子を抱き寄せた。
「小夜子のことだ。好きだよ。子供の頃から、ずっと」
「うん。私も、ずっと好きだった。ずっと」
小夜子の声が小さく響いた。俺たちの影が、夕日に長く伸びていく。港には、穏やかな波の音だけが響いていた。
翌月、優秀商事は自己破産を申請した。不正取引の発覚により、多くの取引先が契約を解消したからだ。負債総額は10億円を超えていた。
「啓之助君、申し訳なかった。あの時は、欲に目がくらんで」
新井社長が小さなカフェで、俺に頭を下げた。妻の貞子さんも、隣で深々と頭を垂れている。新井社長の声には、もう以前のような傲岸さはない。
「でも、時子の言う通りだった。お金や権力よりも、大切なものがある。会社を手放した今、それが身にしみて感じられるようになったよ」
新井社長は1杯のコーヒーを静かに見つめた。
「妻とよく話し合ったんだ。もう一度、新しい会社を作り直そうって」
「作り直す?」
「ええ」
貞子さんが小さく微笑んだ。
「私、実は骨董品の目利きが得意なんです。その知識を生かして、小さな貿易商をしようかと」
「規模は小さくなるが、今度は誠実に。昔みたいに、家族で力を合わせて。時にも恥ずかしくない親になりたいと思っているよ」
新井社長の声に、確かな決意が混じっていた。俺は静かに頷いた。コーヒーカップから立ち上る湯気が、穏やかに揺れていた。
増山商事は、NR電気とのM&Aで業績を回復させていた。初と小夜子と一緒に増山商事に行くと、活気が戻っているのが分かった。若手社員たちが笑顔で挨拶を交わし、ロビーでは取引先との打ち合わせが和やかに行われている。
「初社長、おはようございます」
廊下ですれ違った営業部の主任が、初に明るく声をかけた。
「先日の商談、お客様から『初社長の誠実な対応に感銘を受けた』とお褒めの言葉をいただきました」
「みんなのサポートがあってこそだよ」
謙虚に頭を下げる初の姿に、社員たちが温かな眼差しを向けている。そんな初の左手の薬指には、さりげなく光るプラチナの指輪があった。会議室に入ると、時子さんが資料を配布していた。背筋を伸ばす姿は変わらないが、表情は柔らかい。彼女の薬指にも、初と同じデザインの指輪が光っている。
全員が揃い、資料も配布されると、初が前に立って穏やかな声で説明を始めた。
「この四半期の業績報告です。NR電気との統合後、アジア市場でのシェアが15%増加しました。特に、現場の意見を生かした新システムの導入が、これを後押ししています」
俺は資料に目を通しながら、密かに微笑んだ。数字の向こうに、確かな変化が見える。社員の離職率は大幅に改善。取引先からの信頼も、徐々に回復。何より、1人で背負い込んでいた初の肩の力が、明らかに抜けていた。
「この成功は、皆さんのおかげです。私についてきてくださって、ありがとうございます。これからも、皆さんの力を借りていきたいです。よろしくお願いします」
初の言葉に、会議室は温かな拍手に包まれた。初と時子さんが、嬉しそうに視線を交わす。2人の指輪が、朝日に輝いていた。
その日の夕方、港町のレストランで、俺と小夜子は2人きりで食事をしていた。ガラス張りの窓からは、夕暮れに染まる港が見える。テーブルの上のキャンドルが、小夜子の優しい表情を柔らかく照らしていた。
「初君も、時子さんも、幸せそうだったね」
小夜子がワイングラスを見つめながら言った。
「そうだね。今日の会議でも、お揃いの指輪が光って。なんだか羨ましいな」
「え?だって、私たち付き合ってるのに。啓之助君って、あんまりロマンチックじゃないじゃない。幼馴染みから抜け出せてないっていうか」
小夜子は目を伏せた。俺はそっと立ち上がり、小夜子の横に膝をついた。
「ちょ、ちょっと、何するの?」
小夜子の声が上ずる。レストランの他のお客さんたちの視線がこちらに集まり始めたが、構わず俺はポケットから小さな青いケースを取り出す。
「実は、ずっと持ち歩いてたんだ。いつ言おうか、タイミングを測りかねてて」
「え?」
小夜子がゆっくりとケースを開けると、プラチナの指輪が優しく光を放った。
「子供の頃から、小夜子の本当の優しさを、誰よりも近くで見てきた。意地悪な言葉の後ろに隠れる繊細な気持ちも、強がりの中にある温かさも。そんな自分の欠点を克服しようと努力する姿も。全部、大切だった。小夜子と一緒なら、どんな時も幸せになれる。そう信じてる。だから、俺と結婚してください」
「啓之助君」
小夜子は両手で顔を覆い、小さく震えていた。やがてゆっくりと手を下ろすと、その頬には涙が伝っていた。
「もう、私の気持ちを見透かすみたいなタイミングでプロポーズなんて、ずるいよ。でも、そんなところが大好き。私も、啓之助君と結婚したい」
小夜子は満面の笑みを浮かべた。指輪が、小夜子の細い指にすっと収まった。レストラン中から、温かな拍手が起こる。窓の外では、港の灯りが祝福するように、1つずつ灯り始めていた。
人は1人では生きていけない。優れた能力も、完璧な仕事も、人との繋がりがなければ何の意味もない。初は孤独に苦しみ、俺は弟の心の叫びに気づけなかった。時子さんの思い、小夜子の優しさ、そして社員たちの信頼。それらに支えられて、俺たちは本当の強さを知った。頭の良さや能力じゃない。誰かのために一歩踏み出す勇気、誰かの気持ちに寄り添える優しさ、そして何より、人と人との絆を大切にする心。本当の強さとは、人と繋がる力にある。そのことを、俺は誇りを持って伝えていきたい。



