家族というものは雨の日に傘を差し出すものだと、松崎秀夫はずっと信じてきた。自分が汗を流して手に入れたものを、惜しみなく子や妻に注いできた。傘の骨が折れても布が薄くなっても、それでも頭の上に掲げ続けてきた。ところが嵐が本当にやってきた時、その傘を奪い去ったのは赤の他人ではなかった。自分の血を繋いだあの子だった。

追いの孤独というのは、一人で生きることから来るのではない。自分が育てた人間に裏切られることから来るのだ。

2026年5月、埼玉県の外れにある住宅地はその日もひどく蒸し暑かった。松崎秀夫は66歳になる年の春に、物流会社の管理職としての仕事を完全に終えた。退職の辞令が出たのは前の年の秋だったが、引き継ぎなどで半年近く嘱託扱いで会社に顔を出し続け、ようやく本当の意味での定年を実感したのは、5月の連休が明けた週のことだった。

会社の最寄り駅まで行って改札の前で足を止めた。切符を買わなくていい。電車に乗らなくていい。そのことに気づいた時、秀夫の胸に広がったのは解放感ではなく、ぽっかりと穴の開いたような虚しさだった。

秀夫は背が高く姿勢が良かった。66歳になっても背中が丸まらず、白髪混じりの短髪はきちんと整えられていた。自宅にいる時でもYシャツに必ずアイロンをかける。妻の千世子に何度そんなことしなくていいと言われても、彼にとってそれは習慣というより矜持だった。だらしない格好で一日を過ごすのは、自分への侮辱のような気がした。言葉数は少なく、感情は顔に出さない。それが秀夫という人間の輪郭だった。

妻の千世子は64歳で、秀夫より二つ年下だった。小柄で、どこか鋭いものを目に持っていた。税務署のパート事務として長年働き、一年ほど前に自分から辞めていた。緊張するとボールペンの尻で机をコツコツと叩く癖があり、何かあるとすぐに小さな手帳を取り出して数字を書き込んだ。家計の管理は完全に千世子がやってきた。一円単位で把握していた。

二人はその年の初めから、年金と貯蓄でこれからの生活をやりくりしていくつもりだった。ところが現実は甘くなかった。26年に入ってから日本の物価は急速に上がっていた。電気代、食料品、交通費。秀夫が現役の頃にはあまり意識しなかった数字が、退職した途端に生々しく迫ってきた。二人合わせた年金の受け取り額は、数年前の制度改正で思ったより低くなっており、月の生活費を賄うには貯蓄を取り崩すしかない状況だった。計算は破綻しないが、余裕もない。本当にギリギリの綱渡りだった。

そこに息子の良平が絡んでくるようになったのは、秀夫が完全に退職した直後のことだった。松崎良平は38歳で、営業の取締役として東京で働いていた。妻の由美子と小学生の子供が一人いた。実家から来て一時間ほどの距離に住んでいたが、普段はほとんど連絡をしてこなかった。年に三度、正月や盆に顔を見せる程度で、秀夫はそれで十分だと思っていた。

良平からの電話が増えたのは4月に入ってからだった。最初は短い電話だった。それが次第に長くなり、話の内容が変わっていった。子供の習い事が増えて出費がかさむ。マンションのローンが思ったより重い。会社の経営が心許ない。妻も最近体調が悪くて働けていない。そういう話が、まるで水が低いところに流れるように、電話の度に秀夫の耳に流れ込んできた。秀夫は電話を切るたびに台所に向かい、茶を一杯飲んだ。何も言わなかった。千世子には電話の内容をそのまま伝えなかった。

6月の初めのある朝、秀夫が台所でインスタントコーヒーを入れていると、千世子がリビングの引き戸を開けた。顔が少し赤くなっていた。

「良平に30万円送った」

秀夫はマグカップの中を見つめた。千世子は続けた。

「電話があって、今月どうしても厳しいって」

秀夫はカップを置いた。音が少し大きかった。

「俺に言わずにやったのか」

「言ったら止めると思ったから」

千世子の声は普段より低かった。弁解しているのではなく、事実だけを告げているような声だった。秀夫はその声に、怒りとも悲しみとも違う何かが喉の奥に詰まるのを感じた。

「俺たちの貯蓄はどれだけ残ってる」

「あと180万ちょっと」

秀夫は答えなかった。180万円。二人の老後の命綱だった。それが今、見えない穴から少しずつ漏れ始めていた。

その日、秀夫は昼前に家を出た。どこへ行くとも言わずにバスに乗って、三つ先の停留所で降りた。向かった先は、古い住宅街の奥にある個人経営の介護施設だった。小笠原は86歳で、秀夫がかつて務めていた物流会社で長く部長を務めた人物だった。秀夫が入社した頃にはすでに管理職の上の方にいて、荒削りだった秀夫を何かと引き立ててくれた。定年後しばらくは自宅で暮らしていたが、四年前に妻をなくしてから娘に進められてこの施設に入った。

小笠原は窓際の椅子に座っていた。背中は曲がっていたが、目だけははっきりしていた。

「来たか、松崎」

秀夫は頭を下げた。それ以上の言葉が出なかった。小笠原はしばらく秀夫の顔を見ていた。

「何があった」

問いかけではなく、確認するような口調だった。秀夫は話した。良平のこと、千世子が黙って送金したこと、それを知った時の胸の中の重さのこと。話しながら、自分がこれほどのことを誰かに言葉にしたことが最近なかったと気づいた。小笠原はじっと聞いていた。相槌も少なく、表情もほとんど変えなかった。秀夫が話し終えると、少し間を置いてから言った。

「家の中にいるから息が詰まる。外に出ろ。金のかからないことをすればいい。図書館に行け。近所の低い山を歩け。朝は安いコーヒーを飲みに行け。時間は自分のためにある。それが年金生活者の特権だ」

「特権」という言葉が秀夫の頭に残った。自分には何の特権もないと思っていた。むしろ何もかもを失っていく途中にある人間だと。

「プライドのために金を使うな。時間を自分に使え」

小笠原はそれだけ言って、また窓の外を見た。会話はそれで終わりだった。

翌朝から秀夫は変わった。いつもより30分早く起き、スーパーの隣にある小さな喫茶店に向かった。老人向けの割引サービスが使えて、コーヒー一杯が180円だった。店内は他の老人客が数人いるだけで静かだった。秀夫は窓際の席に座り、コーヒーを少しずつ飲みながら、特に何もしなかった。何もしないことが、久しぶりに罰ではなく休息に感じられた。次の日は図書館に行った。冷房が効いていて、新聞と雑誌が読み放題だった。秀夫は経済誌を一冊取り、三時間ほど読んだ。数日後、秀夫は靴屋に入った。歩き用の靴を探した。ブランドではなく実用的で安い靴。2900円のものを買った。

その週の土曜日、秀夫は千世子を誘った。

「山を歩きに行く。来るか」

千世子は少し意外そうな顔をした。それから小さく笑って「行く」と言った。二人は電車で30分ほどの低山に向かった。登山道というほどのものではない、整備された遊歩道が続いていた。千世子は機敏な足取りで秀夫より少し先を歩いた。会話は少なかったが、その少なさが以前の緊張した沈黙とは違っていた。ただ一緒にいるというだけの時間だった。頂上近くの開けた場所で、二人は持ってきたペットボトルの麦茶を飲んだ。千世子が言った。

「こういうの悪くないね」

秀夫は頷いた。悪くなかった。むしろこれが続けばいいと思った。大げさな幸福ではなく、こういう小さな時間の積み重ねで残りの年月を埋めていければ、それで十分だとようやく思えた。

その感覚がまだ秀夫の体に残っていた夜のことだった。夜の9時を少し過ぎた頃、外から車の音がした。エンジンの音が玄関前で止まり、チャイムが鳴った。千世子が立ち上がって玄関に向かった。外は雨が降り始めていた。玄関が開く音、それから千世子の声が上擦った。秀夫が廊下に出ると、玄関に良平が立っていた。濡れたジャケット、乱れた髪、そして秀夫が一度も見たことのない表情。良平の目が赤かった。

良平はリビングに移ると、椅子に座らずに畳の上に座った。いや、座敷でもなかった。両膝をついた姿勢で深く頭を下げた。

「会社が危ない。今月来月中に金が動かないと、取引先への支払いが止まる。もしそうなったら会社は終わる」

秀夫は黙っていた。

「もし会社が終わったら、俺は由美子たちを養えなくなる。離婚になるかもしれない。そうなったら息子にも会えなくなる」

良平が顔を上げた。目が濡れていた。本当に泣いていた。

「頼む。勇気の保証人になってほしい。署名だけでいい。実際に金を出すわけじゃない。俺が必ず返す。でも今は親父たちの名前が必要なんだ」

秀夫は息子の顔を見た。38歳。自分が育てた子供がこれほど追い詰められた顔をするとは思わなかった。雨が窓を打つ音だけがしていた。良平がコートのポケットから折りたたまれた書類を取り出した。保証人に二つの署名欄があった。

千世子が涙をこらえながら先に署名した。秀夫もその後でペンを取った。手が震えていた。震えを止めようとした。止まらなかった。それでも書いた。

翌朝、良平は書類を持って早々に帰っていった。雨は止んでいた。空は白く濁っていた。秀夫は何も言えなかった。「必ず返せ」と「頼むぞ」という言葉は喉の奥で消えていった。千世子はその日の朝、いつもより早く起きて台所に立っていた。二人の間に重たい空気があった。しかしそれは喧嘩の空気ではなく、同じ一つの不安を二人で分け合っているような、奇妙な連帯感を含んでいた。

「良平は必ず返す。返せる子だ」

千世子が言った。秀夫は答えなかった。否定もしなかった。

その日から秀夫は意識して外に出るようにした。小笠原の言葉を思い出した。家の中にいるから息が詰まる。外に出ろ。梅雨の晴れ間を狙って近所の低山を歩いた。喫茶店でコーヒーを飲んだ。図書館で新聞を読んだ。千世子は秀夫以上に体を動かすことで何かをやり過ごそうとしていた。家の中の掃除を今まで以上に念入りにやった。押し入れを整理し、台所の引き出しを全部出して拭いた。その動き回り方が秀夫には少し痛々しかった。

スーパーで夕方の割引品を選ぶようになったのは千世子の提案だった。夜の8時を過ぎると総菜や弁当に黄色いシールが貼られる。半額か三割引きか。秀夫は最初抵抗を感じた。現役時代、割引シールの貼られた弁当を手に取ることなど考えたこともなかった。しかし千世子はためらわずに手を伸ばした。同じものが安く買えるならそれでいい。秀夫は黙って隣に立っていた。二、三度繰り返すうちに、秀夫も割引品を手に取れるようになった。食べてみれば味は変わらなかった。

良平からは、書類を持って帰った翌日に一度だけメッセージが届いた。「ありがとう。必ず返す」。それだけだった。秀夫はそのメッセージを何度か読み返したが、返信はしなかった。

8月に入り、お盆が近づいた。例年なら良平一家が寄越してくる時期だった。今年はどうするのかと千世子が先に連絡を入れた。良平からの返事は短かった。「今年は忙しくていけない。ごめん」。秀夫はこの時期から、ある一つのことを意識的に考えないようにしていた。あの保証契約の実態だ。どの銀行で、いくらの融資で、返済期間はどれくらいか。良平は説明したのかもしれないが、秀夫の頭にはほとんど入っていなかった。意図的に入れなかったのかもしれない。詳細を知れば不安が具体的な形を持ってしまう。ぼんやりとした不安のまま置いておく方がまだ耐えられた。

それが間違いだったと気づいたのは、翌年の1月だった。年明けから数日経った平日の昼前、秀夫が図書館から帰ると郵便受けに白い封筒が入っていた。銀行が差出人に記されていたが、秀夫が聞いたことのない名前だった。地方の信用金庫でもネット銀行でもない、どこかの金融機関だった。封筒を手に取ったまま、秀夫はしばらく玄関先に立っていた。中身を見たくなかった。しかし見ないわけにもいかなかった。

書類は数枚あった。最初の一枚を読んだだけで秀夫の視野が少し狭くなった。債権譲渡通知。元の金融機関から別の会社に債権が移ったという内容だった。宛名は秀夫と千世子の連名だった。保証人として返済義務を引き継ぐ旨が書かれていた。次のページに金額があった。秀夫は数字を見た。三回読んだ。変わらなかった。

「千世子」

声が出た。自分でも驚くくらい平坦な声だった。千世子が台所に来た。秀夫は無言で書類を渡した。千世子は受け取り、読み始めた。ボールペンの尻を指の腹で弾き始めた。叩くものがなかったから、自分の太ももを叩いていた。

「これは良平が借りたお金の保証人になったということを」

「そうだ」

「この金額は」

「そうだ」

千世子は書類を膝の上に置いた。ゆっくりと息を吸い、吐いた。

「良平に連絡する」

良平に電話をした。呼び出し音が続いた。出なかった。メッセージを送った。既読がついたが、返信がなかった。翌日も、三日後も連絡はなかった。それからようやく届いたメッセージは短かった。「今調整中。少し待ってくれ」。それだけだった。

「少し待ってくれ」が続いたまま、何も変わらないまま二ヶ月が経った。3月に入ると、封筒が別の形で届くようになった。今度は内容証明だった。保証人として期限までに返済を履行することという趣旨の文書だった。秀夫には法律の専門知識はなかったが、それが深刻な意味を持つことは分かった。千世子が手帳を取り出して、届いた文書の日付と金額を書き込んだ。ページをめくると、これまでの全てが書き込まれていた。千世子は最初から記録していたのだった。

良平への連絡は相変わらず通じなかった。一度だけ由美子に電話したが、「良平には伝えます」とだけ言ってそれきりだった。秀夫は地域の法律相談の窓口がどこにあるかを調べた。月に一度、無料で相談を受け付けていた。次回の日程は三週間後だった。

しかし相談前に、緊急の事態が起きた。4月のある午後、玄関のチャイムが鳴った。外には二人の男がいた。スーツを着ていたが、その着方が妙にだらしなかった。一人は40代くらいで、もう一人は若かった。名刺を差し出しながら、穏やかだが鋭い何かを含んだ声で言った。

「松崎秀夫様ですか。債権管理の件でご連絡に参りました」

「保証人として返済をどのようにご検討されているかを確認したいのです。文書でご連絡差し上げておりますが」

「分かっている」

「では、いつ頃ご対応をいただけますか」

秀夫は答えを持っていなかった。持てなかった。

「来月中に」

根拠はなかった。ただ何かを言わなければその場が終わらないと思った。男は手帳に何かを書いた。

「わかりました。ではまたご連絡させていただきます」

そう言って二人は去った。千世子は玄関のドアを閉めた後、振り返って秀夫を見た。何も言わなかった。しかし目に、今まで見たことのない光が宿っていた。怒りとも不安とも違う。何かが限界を超えた人間の目だと秀夫は感じた。

その夜、秀夫は貯蓄の通帳を出した。現在残っている金額を確認した。数字を見て、静かに通帳を閉じた。「来月中に」という言葉が自分の耳に残っていた。嘘だった。来月中にはどうにもならない。良平が戻ってこない限り。秀夫はもう、良平がいつ戻ってくるのかを信じていなかった。

秀夫はハローワークに行った。66歳での就職は、想像以上に選択肢が狭かった。経験のある物流管理の仕事は体力的な制約や年齢制限で、多くの求人から外れた。残るのは単純作業か夜間の仕事だった。秀夫は工事現場の交通誘導員の仕事に応募した。夜間の現場が中心だった。採用された。日当は8000円程度だった。

一方で、その数日後、思いもよらないことが起きた。秀夫が夕方に帰ってきた時、玄関に見慣れない紙袋があった。千世子のものだった。中を見ると、畳まれた作業着のような上下が入っていた。秀夫は千世子に聞かなかった。千世子も説明しなかった。それが三日続いた。千世子は朝早くに出て、夕方に帰ってくるようになった。帰ってくると少し疲れた顔をしていたが、普段通りに夕食を作った。

ある朝、秀夫が千世子より早く起きた。台所に千世子の黒いトートバッグがあった。ファスナーが少し開いていた。秀夫は見るつもりはなかった。しかし目に入った袋の中に、折りたたまれた作業用エプロンがあった。エプロンには施設名が入っていた。近くの商業施設の名前だった。清掃員のユニフォームだった。

その日の昼前、秀夫はその商業施設に行った。展示を見るふりをして中に入り、清掃員が作業をしているエリアを探した。トイレの前の廊下で千世子を見つけた。小柄な体でモップを押しながら、廊下の端を丁寧に拭いていた。周囲の人間は誰も千世子を見ていなかった。存在していないかのように、人々はその横を通り過ぎていった。秀夫は柱の影に立ったまま動けなかった。

そこへ若い男が早足でやってきた。施設のスタッフらしかったが、その物言いから現場の管理をする立場の人間だと分かった。20代後半か30前後。背が低く、声だけが大きかった。

「松崎さん、ここさっき行ったじゃないですか。端まで拭いてって言ったのに、角のところ全然なってないですよ」

千世子が振り返り、頭を下げた。

「すみません。もう一度やります」

「やり直しじゃ困るんですよ。次の担当エリアに行けないから、もう少ししっかりやってください」

男は言いながらスマートフォンを見ていた。千世子の方を見ながら、しっかり見ていなかった。千世子は「はい」と言い、もう一度モップを動かし始めた。頭を上げなかった。

秀夫はそれを見ていた。足が動きそうになった。あの男のところに行って何かを言おうとした。しかし体が動く前に、千世子がこちらを見た。一瞬だった。視線があった。千世子の目が秀夫を見た瞬間に変わった。顔するような光になった。声を出す前からその目が言っていた。来ないで、と。

秀夫は足を止めた。壁に背中をつけた。拳を握った。指の関節が白くなるくらい握った。千世子はモップを動かし続けていた。秀夫はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。怒りなのか情けなさなのか、自分でも判別できない感情が喉の奥に詰まっていた。

施設を出ると外は曇っていた。秀夫は停留所でバスを待ちながらベンチに座った。座ってから、自分の手のひらが震えていることに気づいた。あの光景を頭の中で繰り返した。千世子のモップの動き、若い男の声、千世子の下げた頭、そして秀夫の方を見た瞬間のあの目。来ないで、という目。それは秀夫を拒絶していたのではなかった。今日稼いだ5000円を失わないで欲しい、という目だった。5000円。一日の千世子の体の値段が5000円だった。

4月の終わり、松崎の家は少しずつ空になっていった。最初に消えたのは、秀夫が現役時代に買った背広だった。千世子はフリマアプリをスマートフォンにダウンロードし、押し入れの奥にしまい込んでいた秀夫の背広を出した。紺のもの、グレーのもの、チェック柄のもの。一着ずつ広げて写真を撮り、似たような商品を検索して相場を調べ、出品した。秀夫がそれを見たのは昼過ぎに台所に入った時だった。テーブルの上に自分の背広が並んでいた。千世子がスマートフォンで写真を撮っていた。

「売るのか」

千世子は振り返った。少し驚いた顔をしたが、すぐに答えた。

「置いておいても着ないから」

秀夫は答えなかった。テーブルに近づいて、紺の背広を手に取った。この背広を初めて着たのは、長男が生まれた翌年の春だったと思う。取引先の会議に来て行った。その後も何度か着た。痩せてきたので数年前に奥にしまったままにしていた。秀夫はしばらくその背広を持ったままでいた。それから静かにテーブルに戻した。

「いくらになるのか」

「同じようなものが3000円くらいで売れてる。状態が良ければもう少し」

秀夫は何も言わずに台所を出た。その後、千世子は秀夫に一度ずつ確認を取りながら、クローゼットや押し入れの中にあるものを少しずつ出品した。秀夫の背広が売れた。次に礼服のセットが売れた。千世子が長年使っていたバッグが売れた。出品するたびに千世子は手帳に売れた金額を書き込んだ。合計で数万円になった。大きな数字ではなかった。しかし確かな現金だった。

千世子は結婚指輪を外した日のことを、秀夫に何も言わなかった。秀夫が気づいたのは、千世子が食器を洗っている時だった。左手の薬指に指輪がなかった。秀夫は聞かなかった。千世子も何も言わなかった。

部屋が少しずつ空になっていくのと並行して、秀夫の中に別の考えが固まっていった。もうこの状態を受け身で待ち続けることはできない、という考えだった。良平は連絡を絶った。しかし良平がどこにいるかを知ることは、おそらく不可能ではなかった。秀夫にはまだ使える手があった。物流会社で働いていた長い年月の中で、様々な取引先や配送業者との繋がりがあった。良平が取締役を務めている会社は都内で営業をしている。物を動かす会社である以上、どこかの物流業者と取引しているはずだった。

秀夫はかつての知人に連絡を取り始めた。遠回しに都内でその社名を知っている人間がいないかを探った。三人目に連絡した相手が、その会社の名前を聞いたことがあると言った。小さな会社だが、特定の商品の輸送を専門的に請け負っているとのことだった。住所までは分からないが、最近聞いた話では東京の東側の区にあると言っていた。

秀夫はそこから自分で調べた。法務局の窓口で法人登記の情報を確認した。会社の所在地は都内の東側だった。翌週の土曜日、秀夫は電車に乗った。千世子には少し用があるとだけ言った。千世子は何も聞かなかった。

目的の地域に着いた。住宅が多く、少し高めの賃貸マンションが並んでいるエリアだった。由美子が写真を投稿した飲食店はすぐに見つかった。その周辺を歩いた。もちろん良平がこの周辺にいるとは限らない。しかし行ける場所に行くしかなかった。路地を折れ、また折れた。30分ほど歩いた時、秀夫は足を止めた。前方に見覚えのある車があった。良平が乗っていた車と同じ色、同じ車種だった。ナンバーを確認した。間違いなかった。マンションの駐車場の前に止まっていた。

秀夫は建物の入口から少し離れた場所で、ガードレールの影に立った。15分ほど待った。エントランスのドアが開いた。良平が出てきた。その後ろに由美子がいた。二人の間に子供がいた。三人で笑いながら話していた。良平はスーツではなく綺麗な私服を着ていた。どこかへ出かけるようだった。

秀夫はガードレールの影から出た。良平が視線に気づいて振り向いた。その表情が一瞬固まった。

「親父」

秀夫は黙って良平の前に立った。由美子が秀夫を見た。驚きと、それをすぐに覆い隠すような硬い表情になった。子供は秀夫の顔を見て「おじいちゃん」と言った。秀夫は良平の顔を見た。

「話がある」

良平は少し間を置いてから言った。

「今日は家族で出かけるところで」

「長くはかからない」

由美子が良平の腕に触れた。何かを目で伝えていた。良平は一度由美子を見てから秀夫に向き直った。

「今日は無理だ。後で連絡する」

「その後で、がもう何ヶ月も来ていない。銀行から書類が来た。お前が借りた金の保証人として、俺たちが返す義務があると書いてあった。お前の会社の金はどこへ行った」

沈黙があった。由美子が口を開いた。声は穏やかだったが、その穏やかさに何かが混じっていた。

「お父さん、私たちも今色々と大変で。良平もできる限りのことをしようとしているんです」

「できる限りとは何ですか。連絡が取れないことが、できる限りですか」

由美子は視線をそらした。良平が一歩前に出た。声が少し低くなった。

「親父、ここじゃ話せない」

「ならどこで話す。お前が決めればいい。俺はどこへでも行く」

良平はまた黙った。その沈黙が長かった。秀夫は動かなかった。それから由美子が言った。声に感情はなかった。

「お父さん、正直に言います。あのお金はもう戻ってきません。良平が投資で失いました。会社は今のところ動いています。でもあのお金を返せる状況にはありません。お父さんたちに迷惑をかけていることは分かっています。でもどうにもならないんです」

「どうにもならない」

秀夫は言葉を繰り返した。

「お父さんたちにはまだ年金があるじゃないですか。二人なら暮らしていけます。私たちには子供もいるし、これからのこともある。年を取れば若い人たちに迷惑をかけてしまうこともあると思いますけど、それも仕方のないことで」

秀夫は由美子の顔を見た。由美子は目をそらさなかった。

「お前は今、何を言った」

秀夫の声は低かった。怒鳴ってはいなかった。しかし由美子が少しだけ後退した。良平が割って入った。

「親父、もう言ってくれ」

「逃げるのか」

「頼む。ここじゃ話せない。今日は家族がいるから」

秀夫は良平の目を見た。良平は視線をそらした。それが答えだった。秀夫はそれ以上何も言わなかった。踵を返した。歩き始めた。後ろで子供の声がした。「おじいちゃん、またね」という声だった。秀夫は振り返らなかった。

駅まで歩いた。足が動いていた。体が動いていた。しかし頭の中は止まっていた。由美子の言葉が何度も耳の中で繰り返された。年を取れば若い人たちに迷惑をかけてしまうこともある。それも仕方のないことで。

そういうことだったのかと秀夫は思った。あの保証契約は最初から計画されていたわけではないかもしれない。しかし良平と由美子の中には、どこかにそういう認識があったのかもしれない。親は最終的にはこのためにあるものだという。使えるうちは使う。終わったら、後は仕方ないと。

家に着いたのは夕方だった。玄関を開けると、台所から鍋の音がした。千世子が夕食を作っていた。秀夫が帰ってきたことは分かっているはずだったが、何も言わなかった。秀夫は靴を脱いで、廊下に立ったままでいた。千世子の声が台所から聞こえた。

「どうだった」

秀夫は答えなかった。千世子も以上聞かなかった。鍋の音だけが続いた。

夕食の間も二人はあまり話さなかった。食べながら、秀夫は由美子の言葉を考えた。千世子は今もあの商業施設で清掃の仕事をしていた。秀夫がその光景を見たことを、千世子はまだ知らない。秀夫は今日まで黙っていた。何かを言うことで千世子が傷つくような気がした。千世子は5000円を稼ぐために若い管理者に頭を下げていた。由美子は言った。年を取れば若い人たちに迷惑をかける。それも仕方のないことだと。しかし今、若い人間に頭を下げているのは、秀夫たちの方だった。

食事が終わり、千世子が食器を片付け始めた。秀夫は座ったままでいた。

「良平に会ってきた」

千世子の手が止まった。

「会えたの」

「ああ」

「何か言ってたか」

秀夫は少し間を置いた。

「もう戻ってこない金だと言っていた」

千世子は食器を持ったまま動かなかった。しばらくしてから、静かに食器をシンクに置いた。振り返った。

「そう」

それだけだった。秀夫は千世子の顔を見た。怒りではなかった。泣いてもいなかった。ただ何かが確定した時の、乾いた表情だった。千世子は椅子を引いて座った。手帳を出した。ページを開いた。数字の並びを指でなぞった。

「今の残高と毎月の返済額と、私の稼ぎとあなたの夜の仕事を合わせると、どれくらい持つか」

秀夫は頭の中で計算した。

「長くない」

千世子は頷いた。手帳に何かを書いた。

「法律相談、まだ行ってないよね」

「来週の予定だった」

「行って」

秀夫は答えた。

「行く」

5日後の夜、秀夫が交通誘導の仕事から帰ってきた時、玄関の鍵は開いていた。電気が一部だけついていた。台所の電気がついていた。台所に向かった。千世子が床に倒れていた。体を丸めていた。腕で腹を抱えていた。周囲に吐いたものが広がっていた。

秀夫はすぐに千世子の横にしゃがんだ。

「千世子」

千世子が目を開けた。顔が白かった。

「痛い」

「どこが」

「お腹が。さっきから」

秀夫は千世子の額に触れた。汗が出ていた。秀夫は立ち上がり、電話を取った。救急車を呼んだ。千世子は何度か深く息を吸った。喋れる時に行った。

「病院。お金が」

秀夫は答えた。

「大丈夫だ」

大丈夫かどうかは分からなかった。

病院の入口で千世子が処置室に運ばれた後、秀夫は一人になった。待合いの椅子に座った。しばらくして医師が出てきた。胃に潰瘍があること。腹膜炎の兆候があること。緊急の手術が必要なこと。秀夫は聞きながら、医師の口の動きを見ていた。

手術前の対応として費用の概算を確認したいと、病院の職員が言った。秀夫は財布を出した。入っている現金を確認した。夜間の仕事から帰ってきたばかりだったから、今日の日当の封筒が胸ポケットにあった。財布の中の現金と合わせた。数字が出た。職員が言った金額には届かなかった。秀夫は職員に事情を話そうとした。しかし言葉が出てこなかった。何から言えばいいのかが分からなかった。職員は困った顔をしていた。責めているのではなかった。ただ困っていた。

秀夫は窓口の前の床に膝をついた。頭を下げた。床に額をつけた。

「妻を助けてください。金は必ず用意します。今夜だけ手術をさせてください。頼みます」

声がかれた。廊下の向こうで夜勤の看護師が足を止めて振り返るのが分かった。秀夫は頭を上げなかった。

四人の深夜、病院の廊下に額をつけた秀夫を、一人の職員が立ち上がらせた。夜勤の事務職員だった。40代くらいの女性で、眼鏡をかけていた。廊下の向こうから早足で来て、秀夫の腕を軽く持ち、低い声で言った。

「松崎さん、立ってください」

攻めるのでも哀れむのでもない、落ち着いた声だった。秀夫は立ち上がった。職員は秀夫を窓口の椅子に座らせ、「少し待って」と言った。それから別の部屋に消えた。数分後、戻ってきていくつかの書類を持っていた。

「松崎さん、生活保護の申請をされていますか」

秀夫は首を振った。

「低所得者向けの医療費の減免制度があります。今夜は先に手術を進めます。費用については明日の朝、担当の窓口で一緒に相談しましょう」

秀夫は職員の顔を見た。

「助かりますか」

職員は少し間を置いた。

「手術は今始まっています。先生たちが対応しています」

それだけだった。しかしそれで十分だった。

千世子の手術は明け方に終わった。手術室から出てきた医師が秀夫に説明した。胃の潰瘍部を縫い合わせ、腹腔内を洗浄した。腹膜炎の進行はあったが、処置が間に合った範囲だった。今後は入院して経過を見る必要があること。食事は当分の間制限があること。

「命に別状はありませんか」

「今のところは大丈夫です。ただ無理は禁物です。体にかなりの負担がかかっています」

秀夫は頷いた。朝になり、千世子が一般病棟の個室に移された。秀夫は病室に入ることを許された。千世子は点滴の管をつけたままベッドに横になっていた。顔は白かった。目が少し開いていた。秀夫が入ってくると、視線がゆっくりと動いた。

「終わったか」

秀夫はベッドの横の椅子に座った。

「終わった」

千世子は少し息を吸った。

「迷惑かけた」

秀夫は答えなかった。千世子の手を見た。点滴の針が刺さっていた。手の甲に透明のテープが張ってあった。秀夫はその手に自分の手を重ねた。何も言わなかった。千世子も何も言わなかった。しばらくして千世子が言った。

「お金、どうなった」

「なんとかなった。明日窓口で相談する」

「そう」

千世子は目を閉じた。そのまましばらくすると、浅い呼吸になった。眠ったようだった。

秀夫は昼過ぎまで病院にいて、一度家に帰った。着替えて通帳を持って、また病院に戻った。窓口で制度について話を聞いた。低所得向けの医療費減免が適用できる可能性があること。書類が必要なことを教えてもらった。

その夜、秀夫は一人で家に帰った。電気をつけた。台所がそのままだった。千世子が倒れた時の状態に近かった。秀夫は雑巾を濡らして拭いた。鍋が火にかけたままになっていたものを片付けた。全部を終えると、台所は静かになった。秀夫は椅子に座り、台所の天井を見た。何も考えなかった。考えようとしても、考えが続かなかった。頭が空になっていた。空になった頭の中に、静かに一つの考えが入り込んできた。良平のことだった。千世子が倒れた原因の根本は良平にある。精神的負担、働きすぎ。全ては良平が残した借金から来ている。医師は無理は禁物と言った。しかし千世子が無理をしなければならない状況を作ったのは誰か。

翌日から秀夫は病院と家を行き来しながら、医療費の書類を準備した。市役所の窓口にも行った。それと並行して、夜の仕事には引き続き出た。千世子の入院は長くなる見込みだった。医師が言った「一ヶ月」という言葉が頭に残った。

入院から一週間が経った頃、病院に行くと、千世子の病室の前に人影があった。廊下の椅子に二人の男が座っていた。見覚えがあった。以前家に来た債権管理の男たちだった。秀夫が近づくと、年上の方が立ち上がった。

「松崎さん。こちらにいらっしゃると伺いまして」

「何の用ですか」

「先日の件のご返答を」

秀夫は二人の男と千世子の病室の扉を交互に見た。病室の中では千世子が寝ている。その扉の前にこの二人がいる。

「ここは病院です」

「存じております。ただご自宅に伺っても不在が続いておりましたので」

「妻が入院中です。面会時間に来ているんです」

「それはお気の毒にですが、我々も仕事ですので、少しだけお時間をいただけますか」

秀夫は男たちを廊下の奥に連れて行った。病室から離れた場所に移動した。

「返済の件、先月の約束から進展がありませんが」

「状況が変わった。妻が入院した。医療費が発生している。今月の返済は難しい」

「それは承知しますが、最低限の分割払いでも」

「払えない月がある。それだけです」

年上の男は手帳に何かを書いた。

「文書でご確認いただけますか」

秀夫は男の顔を見た。

「これ以上の話は今日はできません。妻の面会時間が限られています」

男は少し間を置いた。

「では改めて」

そう言い、もう一人の男に目で合図した。二人は歩き始めた。しかしエレベーターに向かう前に、年上の男が振り返った。

「松崎さん、他の患者さんへの影響が出ないよう、ご対応をお願いします」

その言葉が何を意味するか、秀夫には分かった。男たちが消えた後、秀夫はしばらく廊下に立っていた。病室に入ると、千世子は起きていた。秀夫の顔を見て言った。

「誰かいた」

廊下の気配を感じていたようだった。

「知らない人が道を聞いてきた」

千世子はそれ以上聞かなかった。

翌日の朝、秀夫は病院に向かう前に市役所により、法律相談の窓口を尋ねた。担当の弁護士は若い女性だった。秀夫は事情を説明した。保証契約のこと、良平が連絡を絶ったこと、債権が別の会社に移ったこと、返済が追いつかないこと。弁護士は静かに聞いた。それから言った。

「自己破産の申し立てを検討されたことはありますか」

秀夫は首を振った。

「家がある。財産があれば、それが対象になると聞いたことがある」

「はい。ただ、最終的には裁判所が判断しますので、必ずしも全てを失うわけではありません。今の状況では、破産手続きを進めることで保証債務の整理ができます」

秀夫は少し黙った。

「家は残りますか」

弁護士は書類を確認した。

「ご自宅が担保になっているかどうかによります。担保になっていなければ、手続き次第では。ただ、保証債務の規模と現在の資産状況を精査しないとわかりません」

「考えます」

「あまり時間を置かない方がいいです。事態が進行すると選択肢が狭まります」

帰り際に、秀夫は弁護士から資料をもらった。手続きの概要が書いてあった。その日の夕方、病院に寄った。千世子は少し顔色が戻っていた。秀夫が来ると、千世子は目を開けた。

「今日はどこへ行ってた」

「市役所に相談しに行った」

「何の相談」

秀夫は少し間を置いた。

「借金の整理について」

千世子は秀夫の顔を見た。

「どういうこと」

「自己破産という方法がある。借金を法的に整理できる。家は状況次第だが、負債は消える」

千世子はしばらく天井を見た。それからゆっくりと聞いた。

「家がなくなるかもしれないの」

「そうなるかもしれない」

「あの家で40年近く生きてきた」

「分かっている」

千世子は何も言わなかった。秀夫も何も言わなかった。窓の外が暗くなり始めていた。千世子が言った。

「良平に一度だけ連絡してみる。直接話して、それでもダメなら」

秀夫は千世子の顔を見た。止めなかった。止める言葉も持っていなかった。

翌日、千世子は病院の電話を借りて良平に電話した。出なかった。メッセージを送った。「お父さんとお母さんが本当に困っている。一度だけ話して欲しい」。それだけ送った。返信は来なかった。三日後も、一週間後も来なかった。

秀夫はその間の仕事を続けた。工事現場の交通誘導。暗い道路の脇に立って発光棒を持って車を誘導する。体を動かしていると、余計なことを考える時間が減った。それだけが救いだった。仕事仲間に50代の男がいた。吉田という名前だった。口数が少なかったが、休憩の時に缶コーヒーを一本差し出してくれることがあった。ある夜の休憩中、吉田が聞いた。

「松崎さん、この仕事長いんですか」

「いや、最近始めた」

「前は何を」

「物流の管理をやってた」

吉田は少し驚いたような顔をした。

「それで、ここに」

秀夫は頷いた。それ以上は言わなかった。吉田も聞かなかった。

千世子が入院して三週間が経った頃、秀夫は自己破産の申し立てに向けて書類を整え始めていた。弁護士に再度連絡を取り、次のステップを聞いた。申立書、財産目録、家計の状況を示す書類。秀夫は一つずつ目を通した。しかしその作業を進める中で、秀夫の中に別の感情が育っていた。法的な手続きで借金を整理することはできる。しかし良平は何も失わない。自分たちが全てを失う一方で、良平はあのマンションで暮らし続ける。それがどうしても秀夫には収まらなかった。

ある夜の帰り道、秀夫はスーパーに寄った。調理器具のコーナーの前を通った。包丁やナイフが並んでいた。秀夫は足を止めた。果物ナイフが一本あった。ケースに入ったものだった。値段は500円台だった。秀夫は手を伸ばした。手に取った。ケースの上から刃の形を確認した。それを買い物かごに入れた。理由を自分に言い聞かせた。台所に果物を切るものがなかった。それだけだ。家に帰り、ナイフをケースから出した。台所の引き出しに入れた。それから取り出した。また入れた。眠れなかった。

翌日の朝、秀夫は早く起きた。台所に行った。引き出しを開けた。ナイフを手に取った。光が刃に当たった。秀夫はナイフをジャンパーの内ポケットに入れた。外に出た。電車に乗った。千世子のいる病院とは逆の方向だった。良平のマンションの方へ向かった。

良平のマンションの近くの駅で降りた。あの道を歩いた。マンションの駐車場が見えた。良平の車があった。秀夫はマンションの駐車場の横の細い通路に入った。植え込みがあった。人通りがほとんどなかった。秀夫は植え込みの影に立った。どれくらい待ったかは分からなかった。一時間以上だったと思う。

駐車場のシャッターが開いた。良平が車の前に来た。スーツを着ていた。出勤するところのようだった。秀夫は通路から出た。良平が振り返った。一瞬体が硬直した。それからすぐに、顔が変わった。驚きが消えて、何か冷たいものになった。

「また来たのか。もう終わった話だ」

「終わっていない。千世子が入院した。手術をした。医療費が出ている。お前のせいだ」

良平は少し顎を引いた。

「俺のせいって、何の根拠がある」

「根拠? お前が保証契約を持ってきた。お前が逃げた。お前が連絡を絶った。その結果、千世子が倒れた。それが根拠だ」

良平は黙った。秀夫はジャンパーのポケットに手を入れた。ナイフが指に触れた。取り出さなかった。

「金を返せ。全部はいらない。千世子の医療費だけでいい」

「ないと言っただろう」

「嘘だ」

良平の目が細くなった。

「嘘じゃない。投資で全部飛んだ。会社の金も、俺個人の金も」

「それを信じろというのか。あのマンションに住みながら」

「マンションは由美子の親が」

「言い訳はいい」

秀夫の声が低くなった。

「俺は今、千世子の医療費を捻出するために夜中に道路に立っている。千世子は病院のベッドで管をつけたまま寝ている。その間も債権の業者が病院に来た。病院にだ」

良平は少し動いた。視線が秀夫のポケットに向いた。秀夫はポケットから手を出した。空だった。

「金を返せ。それだけだ」

良平は秀夫を見た。それから少し間を置いてから言った。

「返せない。本当に返せない。言いたいことは分かる。だが、どうにもならない」

「どうにも」

「ああ」

秀夫はその言葉を聞いた。「どうにもならない」という言葉を。由美子が言った言葉と重なった。秀夫のポケットの中の手がナイフに触れた。握った。それからゆっくりと力を抜いた。手をポケットから出した。

「分かった」

良平が少し眉を動かした。

「俺にはもう、お前に言える言葉がない」

秀夫は踵を返した。歩き始めた。背中に良平の声がした。

「親父」

秀夫は振り返らなかった。

「俺だって、好きでこうなったわけじゃない」

秀夫の足が止まった。一瞬止まった。それからまた歩き始めた。好きでこうなったわけじゃない。38歳の男が親に言う言葉だと思った。38歳で、自分が引き起こしたことに対して、それが言えるということが秀夫には理解できなかった。

病院に着き、千世子の病室に入った。千世子は目を開けていた。

「どこ行ってたの」

「少し出かけた」

千世子は秀夫の顔を見た。何かを感じ取ったようだった。しかし何も言わなかった。秀夫は椅子に座った。ジャンパーを脱いだ。内ポケットの重さを感じながら、ジャンパーを椅子の背にかけた。

「退院したら、どうするか少し考えた」

千世子が秀夫の方を向いた。

「弁護士に相談している。借金を法的に整理する方法がある。家は失うかもしれない。しかし借金は消える」

千世子はしばらく黙っていた。

「家がなくなる」

「そうなる可能性が高い」

「40年」

「ああ」

窓の外に鳥が飛んでいった。雲が動いていた。千世子が言った。

「それしかないなら、それでいい」

声は静かだった。諦めではなかった。何かを整理した人間の声だった。秀夫は頷いた。

「良平にはもう連絡しない」

千世子は少し目を細めた。

「そう」

「縁を切る。正式に切る」

千世子は答えなかった。秀夫の顔をしばらく見ていた。それから静かに目を閉じた。

秀夫は椅子に座ったまま、千世子の寝顔を見た。ジャンパーの内ポケットの重みが、背もたれ越しに感じられた。明日、あのナイフは捨てようと秀夫は思った。川でもゴミ箱でも、どこかに自分の手の届かない場所に。そうしなければ、またポケットに入れてしまう気がした。

ナイフを捨てたのは翌朝のことだった。秀夫は早く起きた。まだ空が白んでいる時間だった。近所に小さな公園があった。朝はまだ誰もいなかった。ゴミ箱が一つ置いてあった。秀夫はナイフのケースをそのままゴミ箱の中に落とした。音がした。秀夫は少しの間、そこに立っていた。それから家に帰った。台所に入り、湯を沸かした。インスタントコーヒーを入れた。椅子に座って飲んだ。何かが変わったわけではなかった。しかし何かが少し軽くなった気がした。気がしたという程度だったが、それで十分だった。

その日の昼前、秀夫は病院に向かった。千世子の病室に入ると、千世子は起きていた。食事制限が少し緩和されたとのことで、昨日からお粥ではなく柔らかいご飯が出ているようだった。顔色が入院当初よりはっきり良くなっていた。

「少し食べられるようになったか」

「うん。まだ量は食べられないけど」

秀夫は椅子に座った。千世子の顔を見た。この数ヶ月で千世子の顔が変わっていた。痩せた。目の周りに影ができた。しかし目の光は変わっていなかった。あの鋭い光がまだそこにあった。

「秀夫さん」

千世子が名前を呼んだ。名前で呼ばれることは珍しかった。

「なんだ」

「昨日から考えてた。退院したら、私も働けなくなる。しばらくは体が戻るまで」

「分かってる」

「でも秀夫さん一人では限界がある。夜の仕事と昼間の家事と病院の通院と。弁護士との手続きも進めなきゃいけない。一人でそれを全部はできない」

「できる」

千世子は少し目を細めた。

「できるって言うけど、顔を見れば無理してるのは分かる」

秀夫は黙った。

「地域の支援窓口みたいなところあるんじゃないかな。生活保護とか介護保険じゃなくても、何か使える制度が。病院のソーシャルワーカーさんが教えてくれると言っていたから、一度話を聞いてみて欲しい」

秀夫は頷いた。

「聞いてみる」

秀夫が帰り際に廊下を歩いていると、ナースステーションの前で中年の女性に声をかけられた。病院のソーシャルワーカーだった。「千世子さんから聞いています」と言った。少し話しましょうと、小さな相談室に案内された。ソーシャルワーカーは岸本という名前だった。穏やかな話し方をする人だった。秀夫は状況を話した。保証債務のこと、自己破産の相談を始めていること、今の収入と支出のバランスのこと。岸本は話を聞きながらメモを取った。

「松崎さん、今の状況では生活福祉資金の貸付制度や、市の緊急小口資金なども選択肢に入ってきます。また退院後の千世子さんの療養中に、ヘルパーさんの利用も検討できます。要介護の認定が出ていなくても、申請できる場合があります」

秀夫は聞きながら、以前の自分だったらこういう話を最初から拒絶していただろうと思った。公的な支援を受けることへの抵抗感。それが今の自分にはほとんどなかった。いつの間にかなくなっていた。いつから無くなったのかは正確には分からなかった。良平に扉を閉められた日かもしれない。千世子が病院で倒れた夜かもしれない。あるいは深夜の廊下で額を床につけた瞬間かもしれない。

「ありがとうございます。一つずつ確認します」

帰り道の電車の中で、秀夫は小笠原のことを思い出した。あの日施設を尋ねたのが、遠い昔のように思えた。「プライドのために金を使うな。時間を自分に使え」といった、あの老人の声が耳の奥で聞こえた気がした。家に帰り、秀夫は電話をかけた。介護施設の番号に電話をして、小笠原に取り次いでもらった。しばらく待ってから、電話の向こうに声がした。以前より細くなっていた。しかし確かに小笠原の声だった。

「松崎か」

「ご無沙汰しています」

「どうした」

秀夫は少し間を置いた。どこから話せばいいか分からなかった。しかし教えは以前のように言葉を選びすぎる気力がなかった。

「色々とうまくいかないことがありまして。妻が入院しました。借金の問題も続いていて、自分でもどうすればいいのか」

電話の向こうで、小さな息の音がした。

「まだ生きているか」

秀夫は一瞬、その言葉の意味を考えた。

「生きています」

「それだけでいい」

小笠原の声は相変わらず短かった。しかしその短さの中に何かがあった。

「今日が、お前の一番若い日だ」

秀夫はその言葉を聞いた。

「金を失っても、死んだわけじゃない。誰かに裏切られても、お前が消えたわけじゃない。恥でもない。プライドを捨てることは、自分を捨てることじゃない。それを覚えておけ」

小笠原の声が少し咳で途切れた。

「お前のような真面目な人間は、プライドに縛られて動けなくなる。プライドより大事なものがある。それが何かは、自分で見つけろ。私にはもうわからん」

秀夫は「はい」と言った。

「千世子さんが生きているなら、そっちを向いておれ。それだけだ」

電話が切れた。秀夫はしばらく受話器を持ったままでいた。「今日が一番若い日だ」という言葉が頭に残った。昨日より若い日は二度と来ない。だから今日が、残りの人生で最も若い日だということだ。そう考えると、何かが少し変わった気がした。変わったというより、動けるような気がした。

翌日から、秀夫は弁護士との手続きを本格的に進め始めた。再度法律相談の窓口を尋ねた。前回と同じ弁護士だった。秀夫は改めて自己破産の申し立てを進めたいと伝えた。弁護士は具体的な手順を説明した。申立書の作成、財産目録の準備、裁判所への提出。手続きには数ヶ月かかること。その間も返済義務は一時的に停止できる場合があること。秀夫は一つずつ確認しながらメモを取った。

「ご自宅は抵当に入っていますか」

「住宅ローンは完済している。担保にはなっていないはずだが、確認が必要だと思う」

「では財産評価をした上で、裁判所が判断することになります。財産が一定額を超えていれば、管財人が置かれます。自宅が対象になる可能性はありますが、今の段階では断言できません」

「最悪の場合、家を失う可能性があると理解している。それは受け入れている」

弁護士は秀夫の顔を見た。何かを言いかけてから、頷いた。

「では、書類の準備から始めましょう」

自己破産の申し立てには様々な書類が必要だった。過去数年分の源泉徴収、年金の受け取り証明、預貯金の残高証明、不動産の評価額を示す資料。秀夫は一つずつ集めた。市役所に行き、法務局に行き、銀行に行った。それぞれの窓口で書類を請求し、受け取り、整理した。膨大な作業だったが、秀夫は手を止めなかった。仕事と同じだった。一つずつ片付けていく。それだけだった。

千世子の入院が続く中で、秀夫は朝に病院へ行き、昼に書類の準備をし、夜は仕事に出た。睡眠は短かった。食事も簡素だった。それでも体は動いていた。

千世子が退院したのは、入院から40日後だった。夏の終わりに近い日だった。秀夫が車椅子を押して玄関を出ると、外の空気が病院の中より柔らかかった。千世子はしばらく空を見上げていた。何も言わなかった。秀夫も何も言わなかった。タクシーで家に帰った。家の中はすっきりとしていた。秀夫が一人で過ごす間に、余分なものがさらに減っていた。千世子はリビングを見回した。

「随分片付いたね」

「邪魔なものを処分した」

千世子は頷いた。それ以上何も言わなかった。

退院後の千世子は、しばらく動ける範囲が狭かった。医師から安静にするよう言われていた。秀夫が家事をやった。掃除、洗濯、食事の準備。千世子のペースに合わせた食事だった。柔らかく、量を少なめに、野菜を多めに、油っぽいものは避けた。千世子は秀夫が台所に立っていることに落ち着かない様子だった。しかし一週間ほどで慣れた。

秋が深まる頃、自己破産の申立書類が整った。弁護士の事務所に全てを持参した。弁護士が一通り確認して、問題がないことを確認した。裁判所への提出は弁護士が代理でやってくれることになった。

「手続きが進むと、債権者への通知が行きます。その後、裁判所が審査します。管財人が選任されるかどうかは財産の状況次第です。いずれにしても、しばらくは動きを見守ることになります」

秀夫は頷いた。帰り際に弁護士が言った。

「松崎さん、こういう状況で最後まで手続きを進められる方は少ないんです。途中で諦めたり逃げてしまったりする方が多い。きちんと向き合われていると思います」

秀夫は「そうですか」とだけ言った。褒められているとは思わなかった。ただやるべきことをやっているだけだった。

申し立てが受理されてから二週間後、裁判所から通知が届いた。管財人が選任されたという内容だった。自宅の不動産評価も行われることになった。秀夫はその通知を千世子に見せた。千世子はゆっくりと読んだ。それから手帳を出した。日付を書き込んだ。

「家が本当になくなるかもしれないね」

「なるかもしれない」

千世子は手帳を閉じた。

「どこに行くの」

「家賃を探す。安いところを」

「二人で住めれば」

「それだけあれば十分だ」

千世子はしばらく何も言わなかった。それからゆっくりと言った。

「この家で良平が生まれた。ここで育てた」

秀夫は聞いていた。

「でも、もう関係ないか」

秀夫は答えなかった。千世子は少し息を吸い、吐いた。

「そうだね。関係ないね」

それは傷ついている声ではなかった。何かを切り離した後の、静かな声だった。

裁判所での手続きが進む中で、秀夫はある日弁護士から連絡を受けた。良平が手続きに関して問い合わせをしてきたという内容だった。秀夫は少し驚いた。何ヶ月も連絡を絶っていた良平が、なぜ今になって。弁護士が言った。

「どうやら松崎さんの破産申し立てが、会社の信用調査に引っかかる可能性があることを、良平さんが気にされているようです。手続きを止めて欲しいという趣旨のようです」

秀夫はしばらく何も言わなかった。

「止める必要はありません。私から弁護士としてお伝えしましたが、一応ご本人にも確認を」

「止めません。このまま進めてください」

「わかりました」

電話を切った後、秀夫はしばらく台所に立っていた。良平が動いた理由が分かった。自分たちの生活が心配なのではない。自分の会社の信用調査に影響が出ることを恐れたのだった。秀夫はその事実を、怒りではなく冷たい確認として受け取った。驚かなかった。それがあの子の本質だと、どこかでは知っていた。

数日後、良平から直接電話がかかってきた。秀夫は出た。

「親父、聞いたか」

「聞いた」

「少し待ってくれ。こっちでも何か手を打てないか考える。だから手続きを一度止めて欲しい」

「止めない」

「親父」

「お前が何を考えているかは分かっている。お前の会社の信用に影響するから困るんだろう。それはお前の問題だ。俺たちの問題は別にある」

「そういうことじゃない。俺だって」

「良平」

秀夫は静かに言った。

「俺はお前に伝えることがある。電話で言うことではないが、今後、直接会う機会もない。だから今言う」

良平が黙った。

「俺はお前の父親だった。それは事実だ。しかし今後は違う。法的に縁を切る手続きを進めている。面会の機会があれば、そこでお前に対してその意思を表明する。それだけだ」

「親父、待ってくれ。俺も反省して」

「反省はお前が自分でするものだ。俺に言う必要はない」

電話を切った。千世子が台所から出てきた。聞こえていたようだった。秀夫の顔を見た。

「良平から」

「ああ」

「何て」

「手続きを止めて欲しいと。会社の信用に影響するらしい」

千世子は少し目を細めた。それから短く言った。

「そう」

「止めないと言った」

「うん」

千世子は台所に戻った。

その翌月、裁判所での尋問があった。秀夫と千世子が弁護士と共に出席した。裁判官が手続きの内容を確認し、秀夫と千世子に状況を聞いた。秀夫は順を追って答えた。千世子は秀夫が話すのを聞いていた。尋問が終わり、廊下に出ると、良平がいた。秀夫は足を止めた。良平はスーツを着ていた。顔が少し痩せていた。秀夫の目を見ようとして、視線を外した。

「話をさせてほしい」

弁護士が秀夫の横に立っていた。千世子は秀夫の少し後ろにいた。秀夫は良平の顔を見た。38歳。秀夫が最初に抱いた時、こんなに小さなものかと思った。千世子と二人で名前を決めた。良平という名前を。明るく平らかに育って欲しいと思った。それが今、廊下に立って視線をそらしている。

「言いたいことがあるなら、聞く」

良平は少し前に出た。

「俺が間違っていた。保証人の話を持ち込んだのも、逃げたのも。今更何を言っても遅いのは分かってる。でも」

良平は口を閉じた。秀夫は待った。良平がようやく続けた。

「謝りたい。ただ、謝りたかった」

秀夫は良平の顔を見た。謝りたい。その言葉が本当かどうか、秀夫には判断できなかった。手続きを止めるための方便である可能性もまだあった。しかしその顔には、少なくとも以前の冷たさはなかった。ただ困り果てた38歳の男の顔があった。

「お前の謝罪を受け入れるかどうかを、今決めるつもりはない。俺にはまだその余裕がない」

良平が黙った。

「一つだけ言う。千世子は今も体の回復中だ。食事の量も、動ける範囲も、まだ制限がある。それを知っておけ。言った上で、それがどういう意味を持つかは、お前自身が考えろ」

秀夫は良平の顔から目を離し、弁護士に向いた。

「行きましょう」

三人は廊下を歩いた。後ろで良平の立っている気配がしばらく続いた。それから足音が遠ざかった。千世子が小声で言った。

「良かったの」

秀夫は歩きながら答えた。

「良いも悪いも、まだ分からない」

千世子は何も言わなかった。

自己破産の手続きが最終的に完了したのは、翌年の春のことだった。裁判所から免責許可の決定が届いた。保証債務は法的に整理された。同時に、自宅の不動産は管財人によって処分されることが決まっていた。引っ越しの日が決まった。

二ヶ月前から、秀夫は新しい住まいを探していた。賃貸で二人が暮らせる最低限の広さ。家賃が年金の範囲内に収まること。それだけが条件だった。見つかったのは隣の市の外れにある古いアパートだった。二階建ての木造で、一階の角部屋だった。六畳と台所四畳半。小さな台所と風呂。家賃は月に4万2000円だった。内見の時、千世子は部屋を一周してから言った。

「日当たりがいい」

秀夫は窓の外を見た。向かいに駐車場があって、遮るものが少なかった。

「そうだな。これで十分だ」

千世子の声は以前と変わらなかった。変わっていないことが、秀夫には重要だった。

引っ越しの日は快晴だった。荷物は少なかった。長い年の間に、たくさんのものが消えていた。売ったもの、処分したもの、そして置いていかざるを得なかったもの。軽トラック一台に収まった。作業を手伝ってくれる人間はいなかった。二人でやった。秀夫が重いものを運び、千世子が細かいものを整理した。千世子はまだ体に制限があったから、重いものには触れさせなかった。

新しい部屋に最後の荷物を入れ終わった時、外はもう夕方になっていた。二人はアパートの前に立った。古い建物だった。壁が少し黄ばんでいた。外廊下の手すりに錆が出ていた。隣の部屋からテレビの音が漏れていた。千世子が空を見上げた。梅雨前の澄んだ空だった。

秀夫は千世子の横顔を見た。64歳の顔だった。手術の跡が体の中にある。退院してから以前より動きがゆっくりになった。しかし目の光は変わっていなかった。

「腹が減ったな」

千世子が少し笑った。

「何もない部屋で、何を食べるの」

「スーパーに行けばいい」

「近くにあるかな」

「調べてある。歩いて7分だ」

千世子はまた笑った。今度は少し長く笑った。二人は並んでスーパーに向かった。見慣れない道だった。アパートの周りには住宅と小さな店が混在していた。秀夫は歩きながら道を覚えていた。どこに何があるか。郵便局はどこか。バス停はどこか。

スーパーに入ると、夕方だったから割引品が並び始めていた。千世子は迷わずその棚に向かった。秀夫も並んで立った。いなり寿司の半額品があった。総菜がいくつか。千世子がそれを二つ取った。秀夫が麦茶のペットボトルを取った。レジで千世子が財布を出した。秀夫は隣に立っていた。合計が出た。千世子が1000円札を出した。お釣りを受け取った。財布にしまった。二人はスーパーの袋を持って外に出た。夕暮れだった。空が橙色になっていた。

アパートに戻り、ダンボールをまだ積んだままの部屋に入った。座る場所を作り、床に直接座った。いなり寿司を開いた。千世子が「いただきます」と言った。秀夫も言った。食べながら、二人は特に何も言わなかった。隣の部屋のテレビの音が聞こえた。外から車の音がした。夕方の鳥の声がした。いなり寿司を食べ終わり、総菜も半分ほど食べた。千世子が残した分を秀夫が食べた。麦茶を飲んだ。

「明日から、また手帳つけないと」

千世子が言った。秀夫は頷いた。

「新しい生活費を計算し直して。家賃が変わったから、年金でどこまで賄えるか」

「ああ」

「秀夫さんはまだ夜の仕事続けるの」

秀夫は少し考えた。

「当分は続ける。体が動く間は」

千世子は頷いた。

「無理しないで」

「するつもりはない」

窓の外が暗くなり始めていた。電球一つの明かりの下で、二人は床に座っていた。まだダンボールが壁際に積まれていた。カーテンはまだ取り付けていなかった。窓から外の空が見えた。秀夫は千世子の手を見た。手帳を持っていない。その手。以前指輪があった薬指を見た。今は何もない。秀夫は自分の手を見た。66年の手だった。

「千世子」

千世子が秀夫を見た。

「これから先どれだけあるかは分からないが、俺の責任でこういうことになった」

千世子は首を振った。

「そうじゃない」

「俺が判断したことだ。署名したのは俺だ」

「私も署名した」

「しかし俺が止めなかった」

千世子はしばらく黙った。それから言った。

「どちらかが悪かったと決めても、何も変わらない。今更だ」

秀夫は頷いた。

「ただ、ここからはできることをする。金がないなら金のかからないことをする。体が動く間は動く。それだけだ」

千世子は秀夫の顔を見た。

「それだけで十分だ」

外が完全に暗くなった。電球の明かりが狭い部屋を照らしていた。秀夫は立ち上がり、窓のそばに行った。カーテンが取り付けられていないから、外から中が見えた。しかし向かいに人の目があるほどの場所ではなかった。空に星がいくつか出ていた。雲が少なかった。秀夫はその星を少し見た。特別なことは何も感じなかった。ただ見た。それだけだった。千世子が立ち上がり、秀夫の隣に来た。同じように空を見た。二人で少しの間、外を見ていた。

「明日、近所少し歩いてみる。どういう場所か分かるから」

千世子が言った。

「一緒に行く」

「体は大丈夫か」

「少しずつならいい」

秀夫は頷いた。ダンボールを一つ開けて、布団を出した。床に敷いた。二つ並べると、部屋のほとんどが埋まった。電球を消した。暗くなった部屋の中で、外からの光がわずかに窓から入っていた。秀夫は仰向けになった。天井を見た。見慣れない天井だった。シミの模様が以前の家とは違っていた。隣の部屋のテレビがまだ聞こえていた。千世子の呼吸が静かになっていった。秀夫は目を閉じた。眠れるかどうかは分からなかった。しかし横になっていることが、今は十分だった。

ここから先、良いことがどれだけあるかは分からない。悪いことがまた来るかもしれない。体が弱っていくかもしれない。金が足りなくなる月も来るかもしれない。しかし今夜は、千世子の呼吸が聞こえる。それだけは確かだった。秀夫はそのまま目を閉じていた。

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