乾いた音が部屋に響いた。綾瀬さの頬が横に弾かれ、白い肌に赤い跡が浮かんだ。婚約者である正斗の母、黒木さ子が、ためらいもなく手を振り抜いたのだ。

「あなたが勝手に思いを寄せただけでしょう。家が違いすぎるのよ。我が家に、我が子に、あんたたち家族は一切不要なの。もう二度と顔を見せないでちょうだい」

さは手を頬に当てたまま、うつむいた。涙が一筋、頬を伝った。しかしそれは悲しみの涙ではなかった。決意だった。

令和六年四月の土曜日、午後二時。関東郊外の高級住宅街に立つ黒木家の応接間。淡いクリーム色の壁紙と、生前とした調度品が並ぶ部屋。さは精一杯の白いブラウスと紺のワンピースを身につけ、緊張で震える足を必死に抑えて立っていた。

「す、すみません。でも私は正斗さんのことを本当に……」

言葉が終わらないうちに、さ子の手が再び振り上げられた。しかし、その手がさに届くことはなかった。

「手を出すとは」

低く静かな声が部屋に響いた。さの祖父、綾瀬吉典がゆっくりと立ち上がった。白髪の老人は、さの隣に座ったまま、ずっと静かにこの場を見守っていた。その目に怒りはなかった。ただ、深く静かな炎があった。

「何よ、だってこの子が……」

「黙れ」

たった三文字だった。しかし、その三文字がさ子の口を完全に閉じさせた。さの父である正斗は顔を青ざめ、何も言えずに立ち尽くしていた。た志は視線を窓の外に向けたまま、一言も発しなかった。その沈黙が、さには一番辛かった。

「さ、立ちなさい。何も言わなくていい。今日は帰ろう」

吉典は静かにそう言うと、さを連れて立ち上がった。正斗が慌てて立ち上がった。

「さ、ごめん。俺が……」

「今日ではない」

吉典はそれだけ言うと、静かに頭を下げ、さとともに玄関へ向かった。さは一度も振り返らなかった。

二十一歳だった。さは片親の家庭で育った。母のなおが過労で倒れ、高校進学を諦めた。経歴書に書ける学歴は「中学校卒業」の二文字だけだった。父の顔は知らない。さが生まれた直後に家を出た男だった。母は工場の夜勤パートで娘を育ててくれた。狭いアパートの一室だったが、さには不思議と寂しくなかった。

「お母さん、寂しくないよ。お母さんがいるから」

なおはそれだけで泣き崩れ、さを強く抱きしめた。母のぬくもりが、さの世界の全てだった。

さが中学二年の冬、なおが倒れた。過労による心疾患だった。入院は長期になった。なおは病床でさの手を握った。

「さ、学校だけは行きなさい。お願いよ」

しかし、さの意思は揺るがなかった。中学三年の春から、入院費のためにアルバイトを始めた。夜間のコンビニ、早朝の清掃、週末の工場作業。できる仕事は全部引き受けた。同級生たちが制服を着て登校する朝も、さは作業服で自転車を漕いだ。一度も後悔したことはなかった。

なおが退院したのは、さが十八歳になった夏だった。その夜、電話が鳴った。画面には「おじいちゃん」と表示されていた。

「さ、元気か? お母さんも退院したそうだな」

「うん。お母さんも退院したよ」

「そうか。よく頑張ったな」

綾瀬吉典は七十七歳だった。日に焼けた皺だらけの顔に、白い作業着。どんなに会社が大きくなっても、吉典はいつもそうだった。社長室より現場の方が落ち着くと言って、部下を驚かせた人だった。

綾瀬吉典は中学を出てすぐに建設資材の商いを一人で始めた。五十年かけて、綾瀬グループを年間三千五百億円の総合企業に育て上げた。綾瀬ホールディングス株式会社の創業者会長。北斗信用銀行との取引は三十年続き、グループ全体の預金残高は一兆二千億円を超えていた。しかし、吉典はビジネスの話を孫娘に一度もしたことがなかった。さが綾瀬グループの後継者候補だと知る者は、ほとんどいなかった。

吉典が初めてさのアパートを訪ねたのは、なおの退院から一ヶ月後だった。古いアパートの部屋の中を、吉典はゆっくりと見回した。何も言わなかった。しかし、その目が全てを語っていた。

「さ、一緒に来い。お前を必要としている」

さは少し考えてから首を横に振った。

「おじいちゃん、まだ早いよ。もう少しお母さんのそばにいたい」

吉典はしばらく黙ってから、静かに頷いた。

「分かった。でも忘れるな。お前は綾瀬の後継者だ」

その日から、週に一度の電話が二人の約束になった。吉典は最初にいつも言った。「さ、元気か? 今日は何を食べた?」他愛のない会話だった。しかし、その電話がさの支えになっていた。

正斗と出会ったのは、さが十九歳の時だった。近所のコンビニでアルバイト中のさに、正斗が話しかけてきた。

「あの、落としましたよ」

差し出されたのは、さの財布だった。

「あ、ありがとうございます」

正斗は少し笑って、そのまま帰っていった。翌日も、その次の日も、正斗はコンビニに来た。一週間後、彼は勇気を出して言った。

「よかったら、今度お茶でも」

さはしばらく考えてから頷いた。正斗は二十五歳。北斗信用銀行の一般行員だった。真面目で穏やかで、少し不器用な男性だった。さの過去を聞いても、正斗は顔色一つ変えなかった。

「大変だったんだね。でも、ささんはすごいと思う」

その言葉が、さの胸に深く刺さった。ずっと誰かに言ってほしかった言葉だった。二人は付き合い始め、季節が二度巡った。正斗との時間は穏やかで、さにとって初めての安心感だった。

ある夜、正斗がさの手を握って言った。

「さ、一緒にいてくれないか。一生」

さはしばらく黙っていた。それから静かに頷いた。

「うん。私もずっと正斗さんと一緒にいたい」

婚約を決めた夜、さは吉典に電話をした。

「おじいちゃん、彼が結婚してほしいって言ってくれた」

「そうか。よかったな」

吉典は少し間を置いてから続けた。

「で、あちらのご両親にはもう挨拶したのか?」

「これからなんだけど、一緒に行ってくれる?」

「もちろんだ。お前の大事な日に、行かないわけがない」

さは受話器を握りながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。しかし、その温かさの中に、小さな不安もあった。正斗の母が、少し厳しい人だと聞いていたからだ。

「母はちょっとこだわりが強い人なんだ。でも大丈夫だよ」

その言葉の意味を、さはまだ完全には理解していなかった。

結婚挨拶の日は、四月の第二土曜日になった。さはその日のために給料を貯めて、新しい服を買った。白いブラウスに紺のワンピース。ヒールの低い革靴。前夜、さは一人でお辞儀の練習をした。何度も何度も、鏡の前で頭を下げた。緊張していた。しかし、それ以上に決意があった。

当日の朝、迎えに来た吉典がさを静かに見ていた。

「おじいちゃん、変じゃない?」

「よく似合ってる。お前は何を着ても品がある」

さはわずかに頬を赤らめた。二人は黒木家へ向かった。電車の中でさは窓の外を見ていた。春の光が車窓を流れていった。隣で吉典が静かに目を閉じていた。いつもと変わらない穏やかな横顔だった。

黒木家は、関東郊外の落ち着いた住宅街にあった。白い外壁に手入れの行き届いた植木。正斗の実家は、さが育ったアパートの十倍ほどの広さだった。

「ついたよ。ちゃんと挨拶すれば大丈夫だよ」

さは静かに頷いた。吉典は何も言わず、歩みを進めた。玄関を開けると、さ子がすでに廊下に立っていた。濃いブルーのワンピースに真珠のネックレス。体全体で家柄を主張するような立ち姿だった。

「いらっしゃい。あら、どんな方かと思ったら」

最初の視線が、さを上から下まで舐めるように動いた。さは静かに頭を下げた。

「初めまして。綾瀬さと申します。今日はお時間を……」

さ子はすでに返事を終え、廊下の奥へ進んでいた。四人は応接間に通された。応接間も生前としていた。高級そうな家具が並んでいた。テーブルを挟んで対面に座る形になった。

「遠いところをどうも。まあ、座って」

正斗は緊張した様子でさの隣に座った。吉典だけが静かな目で部屋の中をゆっくりと見回した。さ子は緑茶を一人分だけ出した。吉典とさの分は、テーブルの端に乱雑に置かれた。

「ありがとうございます」

さは何事もないように受け取った。吉典は茶碗に手をつけず、静かに座っていた。さ子が腕を組んだまま口を開いた。

「ささんというの? おいくつ?」

「二十一歳です」

「二十一歳。若いのね。今は何をされているの?」

「現在はフリーターとして……」

「フリーター。で、学歴は?」

テーブルの空気が変わった。た志がちらりとさを見た。正斗が小さく息を呑んだ。

「中学校卒業です。母の療養のため、高校には……」

さ子の声が一段高くなった。た志が新聞を畳んだ。

「まさか、聞いてるの? 中卒よ。ちゃんと把握してたの?」

「お母さん、落ち着いて」

「お母さんは何のお仕事をされてるの?」

「母は療養中で、現在は……」

「療養中。じゃあ、お父さんは?」

「父は幼い頃に……」

「中卒で片親」

さ子がソファーからわずかに身を乗り出した。さは静かに正面を見据えていた。吉典の目がわずかに細くなった。

「そんな底辺の育ちの子を、嫁に迎えるなんてありえないわよ」

正斗はうつむいて、視線をテーブルの木目に落としていた。た志は視線を窓の外に向けたまま何も言わなかった。止めることも、賛成することも、どちらもしなかった。その無言が、さには一番辛かった。

さはゆっくりと息を吸った。攻撃は予想していた。しかし、ここまで直接的だとは思っていなかった。

「お気持ちは分かります。ただ正斗さんのことが……」

「分かってないわよ。うちは銀行員の家よ。正斗の嫁には、それ相応の学歴と家柄が必要なの」

さ子の言葉は止まらなかった。片親であること、中卒であること、フリーターであること。そんな底辺の家族を迎えるなんてありえない、と。

「正直に言うけど、うちの息子と釣り合う相手じゃないと思ってるの」

「それは、正斗さんも同じお気持ちですか?」

さが正斗を見た。正斗はしばらく黙っていた。

「母さんには……逆らえない」

その一言が、さの胸を砕いた。しかし、さはまだ諦めていなかった。

「正斗さん、あなた自身の言葉を聞かせてください」

正斗は視線を上げることができなかった。その沈黙が、全てを物語っていた。さは静かに唇を結んだ。吉典がわずかに体を動かした。

「さっきから、ずっと黙ってないで」

さ子が立ち上がった。指の先が白くなるほど、テーブルを握りしめていた。

「底辺で片親の中卒育ちの貧乏人が、うちに来るなんてお断りよ。身のほどを知りなさい。うちの正斗には絶対に釣り合わない。中卒底辺が堂々と挨拶に来るなんて、笑えるわよ。今すぐ帰りなさい。銀行員の家に、中卒底辺が上がり込む場所なんてないのよ」

さは静かに頭を下げた。

「正斗さんを愛しています。その気持ちに嘘はありません」

「聞こえないの? 帰れと言ってるのよ」

「すみません。でも、私は正斗さんのことを本当に……」

言葉が終わらないうちに、乾いた音が部屋に響いた。さ子の手が、さの頬を強く打っていた。

「お母さん、何してんだ!」

正斗は顔を青くして固まった。た志の体が石のように固まった。さは打たれたまま顔を上げなかった。一筋の涙が頬を伝った。しかし、それは悲しみではなかった。決意だった。

さはゆっくりと息を吸った。もう泣かない。さは静かにそう決めた。

吉典がゆっくりと立ち上がった。まるで時間が引き延ばされるように、皆の目が祖父に集まった。

「手を出すとは」

その声は低く静かだった。しかし、その重みが部屋全体を支配した。

「何よ、だってこの子が……」

「黙れ」

たった三文字だった。しかし、その三文字がさ子の口を完全に閉じさせた。た志が初めて表情を変えた。額に汗が浮いていた。

「さ、立ちなさい」

さはゆっくりと立ち上がった。頬はまだ赤かった。しかし、涙は乾き終えていた。

「おじいちゃん……」

「何も言わなくていい。今日は帰ろう」

正斗が立ち上がった。

「さ、ごめん。俺が……」

「あなたとはまた話します。今日ではない」

吉典はそれだけ言うと、静かに頭を下げた。

「ちょっと、何なのよ。何を偉そうに……」

吉典は振り返らなかった。さの肩に静かに手を置いた。

「行こう」

二人は黒木家を後にした。玄関を出ると、春の夕暮れの空が広がっていた。街路樹の葉が風に揺れていた。さはしばらく無言で歩いた。黒木家の明かりが、背後に遠ざかっていった。振り返らなかった。もう振り返る必要は、何もなかった。

「おじいちゃん、ごめんなさい」

「何を謝る?」

「恥をかかせてしまった」

「恥をかいたのは、あちらだ」

吉典は前を向いたまま静かに言った。

「さ、お前は何も悪くない」

さはそれ以上何も言えなかった。胸の奥で、何かが静かに壊れ、静かに決まっていた。

二人は駅まで黙って歩いた。帰りの電車に乗ってからも、しばらく沈黙が続いた。夕暮れの車窓を、さはじっと見つめていた。打たれた頬がまだかすかに痛んだ。しかし、それよりも正斗の沈黙の方が、ずっと重かった。あの沈黙が、二年間の記憶を静かに塗り替えていった。さは目を閉じた。

「さ、どうしたい?」

「婚約は破棄します」

「謝るな。一晩考えてからでもいい」

「もう決めました。あの人が母親を止めなかった。それが全てです」

吉典は小さく頷いた。しばらく沈黙が続いた。

「分かった。縁を切るのは一瞬だ。それだけ確かだ」

「確かです」

「よし。じゃあ、お前が決めたことだ。おじいちゃんも動く」

さは窓の外に目を向けたまま、静かに言った。

「おじいちゃん、ありがとう」

吉典は何も言わなかった。ただ、さの隣で静かに座っていた。

その夜十時、さの携帯に正斗からメッセージが届いた。「ごめん。本当にごめん。俺が母さんを止めるべきだった。でも、母さんを見捨てることもできないんだ。やり直したい」

さはしばらくメッセージを眺めていた。それから返信を打った。

「婚約はなかったことにします。正斗さんが悪いとは思いません。でも、もう終わりにします」

正斗から「そんな、頼む」という返信が来た。さは返信しなかった。

朝、吉典から電話があった。

「さ、気持ちは変わらないか?」

「変わりません」

「分かった。では田辺に連絡する」

田辺は綾瀬ホールディングスのCFOだった。吉典の右腕として、二十年以上グループの財務を担ってきた人物だ。さは吉典に一度だけ聞いた。

「おじいちゃん、本当にいいの? 大事なお金だよ」

「金で縁を買ったことはない。縁が消えたら、金も行き先を変えるだけだ」

さはその言葉をしっかりと胸に刻んだ。

吉典は静かに電話に向かった。

「田辺か。北斗信用銀行のグループ全口座から、全預金を引き出してくれ」

田辺の声が一瞬止まった。

「全額でございますか?」

「全額だ。振り込み先は関東中央銀行でいい」

「総額が一兆二千億円ほどになりますが……」

「一日で動かせるか?」

「やります」

「頼む」

電話を切った吉典の顔に、怒りも興奮もなかった。ただ静かだった。嵐の前の静けさだった。

翌朝、さは綾瀬ホールディングス本社にいた。午前九時、本社会議室に田辺CFOと主要幹部が集まっていた。机の上には、北斗信用銀行との全預金取引に関する書類が並んでいた。

「グループ全口座の現預金残高は一兆二千百三十億円です」

吉典は静かに頷いた。

「受入先の確認は取れていますか?」

「関東中央銀行の支店長から直接、受け入れの確認をいただいております」

「では、進めてください」

「本当によろしいのですか? 北斗信用銀行は相当な打撃を……」

「進めてください」

田辺は深く頷き、電話を手に取った。さは会議室の窓の外を見た。春の光が降り注いでいた。昨日の応接間の冷たさとは、別の世界だった。三十年間守り続けてきた縁だった。しかし、その大切な縁は、昨日の応接間で切れた。

「おじいちゃん、本当にごめんなさい」

「何を謝る。お前は何もしていない」

吉典は静かに立ち上がり、さの隣に並んだ。二人は窓の外を、しばらく一緒に眺めた。

午前十時半、北斗信用銀行の資金管理システムにアラートが届いた。綾瀬グループ各社の口座から、同時に大規模な出金依頼が入っていた。画面に表示される数字が、管理部の担当者の顔色を変えた。

「綾瀬グループ全口座から出金依頼です。総額一兆二千百三十億円です」

電話を受けたた志は、その場で立ち上がった。

「一兆二千百三十億円? グループ全社一括の出金依頼です」

た志の顔から血の気が引いた。頭の中で、昨日の応接間の光景が蘇った。さ子の手が振り上げられた瞬間、白髪の老人の目が細くなった瞬間。まさか、あの老人が。

た志は立ち上がり、廊下を走った。支店長室のドアを叩いた。

「支店長、大変なことが……」

支店長の山崎は会議中だった。しかし、た志の顔を見てすぐに会議を中断した。

「何だ、た志。そんな顔をして」

「綾瀬グループが全預金を引き出します。一兆二千億円、全額です」

山崎の顔色が変わった。

「何があった?」

た志はうつむいた。

「昨日、息子の結婚挨拶がありました。相手が綾瀬グループの……」

山崎はた志の言葉を最後まで聞かず、立ち上がった。

「綾瀬グループ全口座の出金を止める手段はあるか?」

「法的な根拠がなければ、止める権限はありません」

「止められないのか?」

「申し訳ありません」

静寂が会議室を満たした。山崎は窓の外を見た。北斗信用銀行の看板が、午前の光の中で静かに輝いていた。取引先全体の預金残高の約四十三パーセントが、今日一日で消えようとしていた。

山崎はた志をゆっくりと見た。

「た志、今日の業務を停止しろ。後で詳しく話す。とにかく、今すぐ」

た志は震える足で廊下に出た。廊下ですれ違った若手行員たちが、異様な空気を感じ取っていた。誰もが視線を床に落としていた。

同日午後二時、全ての手続きが完了した。綾瀬グループの全預金、一兆二千百三十億円が関東中央銀行に移動した。北斗信用銀行は、一日で自己資本比率が基準すれすれまで低下した。金融庁への緊急報告が入り、行内は騒然とした。窓口担当の若い行員が上司に小声で聞いた。

「なぜ、綾瀬グループは全額を引き出したんですか?」

上司は首を横に振るだけだった。誰もが答えを持っていなかった。いや、一人だけ知っていた。廊下の隅で顔を青くして立っている、た志だけが。

その日の夕方、山崎支店長は緊急の役員会を招集した。会議室に重苦しい空気が漂っていた。

「黒木優子部長の家族が、綾瀬ホールディングス会長の孫娘に暴行を加えた。その結果、三十年來の最大取引先が全口座を解約した。以上が事実だ」

会議室が静まり返った。誰も何も言えなかった。

翌朝、山崎支店長は綾瀬邸を訪問した。スーツ姿で深々と頭を下げる山崎が、玄関先に立っていた。

「このたびは、誠に申し訳ございませんでした」

吉典はソファーに座ったまま、静かに言った。

「支店長、あなたが謝ることではない。しかし、あなたの部下の妻が私の孫娘に暴行を加えた。それだけのことです」

暴行という言葉の重さに、山崎の体が固まった。

「な、なんとかお取引を続けていただけないでしょうか」

「縁を切ったら、戻すことはない。それが私の一生のルールです」

山崎は言葉を失った。

「三十年間、誠実にお付き合いいただいたことには感謝しています」

吉典は静かに頭を下げた。その頭が上がった時、山崎は吉典の目に揺れが一切ないことを見た。

「承知しました」

山崎は深く頭を下げて、綾瀬邸を後にした。帰りのタクシーの中で、山崎はしばらく目を閉じていた。「三十年間の感謝をしています」という言葉の重さが、全てだった。怒号もなく、静かな言葉で幕を引いた吉典の品格が、胸に残った。孫娘に暴行を加えた。その事実は変えることができなかった。山崎は深くため息をついた。

その翌日、正斗がさのアパートを訪ねてきた。目が赤く晴れていた。顔には疲労が刻まれていた。

「さ、頼む。話を聞いてくれ」

「正斗さん」

「俺が悪かった。あの時、絶対に止めるべきだった。もう一度チャンスをくれ。今度こそ、お前を守ってみせる」

さは静かに聞いていた。それから、穏やかな声で言った。

「正斗さん、今さら守らなくていいです。あの時一番傷ついたのは、ビンタじゃなかった。正斗さんが黙っていたこと。それだけです」

正斗は頭を垂れた。何も言えなかった。さはドアを静かに閉めた。

その夜、さ子が吉典の元を訪ねてきた。来た時とは別人のような顔だった。化粧が崩れ、目は赤く晴れ、髪が乱れていた。

「先日は大変失礼なことをしてしまいました。本当に申し訳ありません」

吉典は何も言わなかった。ただ、さ子を静かに見ていた。

「夫も仕事で大変なことになってしまって、どうかご縁だけでも……」

「縁は戻りません。あなたが孫娘に手を上げた瞬間に、縁は終わりました」

さ子は唇を噛んだ。何かを言おうとして、言葉が出なかった。あの応接間まで振り上げた手の意味が、今ようやく分かった。しかし、それは取り返しのつかない時に分かった。しばらく黙ってから、さ子は頭を下げて帰っていった。

数日後、た志は優子部長の職を解かれた。「取引先への不適切な対応につながる家族問題」という名目の処分だった。役職のない一般行員に降格され、地方の小さな支店への移動が命じられた。辞令を受け取ったた志は、夕方まで自分の机の前に座っていた。三十年間積み上げてきたものが、一日で崩れた。原因は分かっていた。しかし、どうしようもなかった。

た志の降格を知ったさ子は、激しく責めた。

「あなたがしっかりしてないから、こうなったのよ」

「お前が暴力を振ったんだろう。なんで俺のせいになるんだ」

「あなたが正斗の相手をちゃんと調べてなかったからでしょ」

「お前がビンタしなければ、何も起きなかったんだ」

二人の言い争いは続いた。

正斗は北斗信用銀行での居場所をなくしつつあった。父の降格とさのことが、行内にじわじわと広まっていた。正斗の机に向けられる視線は、日に日に冷たくなっていった。もういられない。正斗は一ヶ月後、北斗信用銀行に辞表を提出した。「一身上の都合」の文字だけが書かれた辞表だった。誰も引き止めなかった。荷物をまとめて会社を出た。エレベーターが閉まる前に、正斗は一度だけ振り返った。五年間働いたフロアが、静かに遠ざかっていった。

「さ、ごめんな」

誰もいないエレベーターの中で、正斗は小さく呟いた。その言葉は、もうさには届かなかった。

さ子とた志の夫婦関係は修復しないまま、離婚協議の申し立てへと進んだ。暴行問題と銀行の混乱の原因を作ったのはどちらかという、泥沼の議論が続いた。以前は生前としていた黒木家のリビングが、荒れていった。正斗は一人暮らしを続けながら、就職活動に苦戦していた。履歴書の退職理由の欄に、何を書けばいいのか分からなかった。黒木家は内側から静かに崩れていった。

それから六ヶ月が過ぎた。黒木家では離婚調停が続いていた。た志は地方の小さな支店で窓口業務をしていた。正斗は職を失ったまま、一人で暮らしていた。さ子は毎日のように夫を攻め、正斗には電話をかけ続けた。あの応接間は、今では誰も座らない場所になっていた。あの日、生前と並んでいた調度品はそのままだった。ただ、誰かの声だけが響いていた。あの日のこだわりが、全てを奪った。

一方、綾瀬さは秋の朝、吉典のオフィスに並んで座っていた。窓の外には、黄金色に染まった並木道が広がっていた。

「おじいちゃん、私、取締役会に出席していい?」

「お前が出たいと思うなら、出ればいい。もう準備はできている」

さは頷いた。母のなおも、この春から綾瀬グループの施設でゆっくりと療養していた。さは毎週末、母の元を訪ねた。二人で庭を散歩し、他愛のない話をした。なおはさの手を握って、静かに言った。

「さ、あなたが強くて、お母さんは幸せよ」

さはその言葉に、胸が熱くなるのを感じた。経済的な心配は、もう何もなかった。

さはこの秋、初めて取締役会に出席した。会議室に三十人以上の幹部が並んでいた。吉典がさを紹介した。

「こちらが私の孫娘のさだ。皆さん、よろしく頼む」

幹部たちがさに頭を下げた。

「よろしくお願いします」

さは静かに深く頭を下げた。頬が赤かった。緊張していた。それでも声は揺れなかった。会議の中で、さは一言一言を大切に言葉を選んだ。吉典がそれを、テーブルの端から静かに見ていた。会議が終わった後、幹部の一人が吉典に言った。

「会長、お孫さんはしっかりされていますね」

「私に似てるんでしょうな」

吉典は珍しく照れ臭そうに言った。精一杯の清掃をしたあの四月の日と、姿は変わらなかった。しかし、目の光が変わっていた。

夕暮れ時、吉典とさは会社の屋上に並んで立った。秋の風が穏やかに吹いていた。

「さ、後悔はないか?」

「ないよ。全然」

「そうか。いい目をしてる。おじいちゃんの孫だな」

さはわずかに笑った。それから吉典と並んで、夕日を眺めた。空が橙に染まり、遠くに街の明かりが灯り始めていた。吉典がゆっくりと言った。

「片親で中卒の貧乏人が、何が悪い? 一生懸命生きれば十分だ」

「おじいちゃんも中卒だったのに、すごいよね」

「そうだ。中卒が何が悪い? 誠実さに学歴は関係ない」

さはその言葉に、深く頷いた。あの日、冷たい応接間で打たれた頬は、もう痛んでいなかった。傷んだのは縁だった。しかし、縁は正しい場所へ静かに流れ直した。誰かの理不尽に打たれても、誠実に生き続けた者に必ず光は差すことを、綾瀬さは証明した。

Thumbnail