「君みたいな童顔にまともな企画なんて無理だろ。」
急遽室でマ部さんは笑いながらそう言った。私のマグカップを横にどけて、自分のコーヒーを先に入れながら、「現場は背伸びした子供が口を出す場所じゃないんだよ」と付け加えた。周りの先輩たちも釣られて小さく笑った。私は俯いて、「すみません」とだけ答えた。反論しても無駄だと、もう知っていたから。
私の名前は藤宮しお。二十六歳。企画開発部に務めて四年になる。小柄で童顔なせいで、取引先には今でもバイトの子と間違えられる。名刺を出すたびに、相手が一瞬戸惑う。あの顔を私はもう何百回も見てきた。それでもいいと思っていた。私の出した企画が誰かの役に立っているなら、たとえ私の名前がどこにも残らなくても。そう自分に言い聞かせて四年が過ぎた。でも、この日から少しずつ何かが動き始める。私はまだ知らなかった。机の上に置いた一冊の企画書が、ある人の人生を丸ごとひっくり返すことになるなんて。
朝の企画開発部はいつも同じ匂いがする。誰かが入れたコーヒーと、新しいコピー用紙の匂い。私は一番に出社して窓を開けるのが日課だった。「おはようございます」と声をかけても、返してくれる人は少ない。みんな私を空気みたいに扱う。それでも私は毎朝きちんと挨拶を続けていた。祖父がよく言っていたから。「挨拶は自分のためにするもんだ」と。祖父は小さな町工場をやっていて、私はそこで育ったようなものだった。油の匂いと機械の音と、現場の人たちの笑い声。職人さんたちは無口だったけれど、誰かが困っていると黙って手を貸してくれる人たちだった。私の企画の根っこは、多分全部あの工場にある。誰のために何を作るのか。それを考えるのが、私は昔から好きだった。祖父の工場で育ったから、現場で本当に必要なものが分かる。それだけが私の強みだと思っていた。
「藤宮、今日の資料まとめといて」
マ部さんが私の机に書類の束を放った。本来は彼の仕事のはずだった。でも私は黙って受け取った。断れば、また「使えない」と言われるだけだから。マ部さんは三十歳。私の四つ上の先輩で、上司受けのいい人だ。弁が立って、会議ではいつも堂々と話す。だから周りは彼を「できる男」だと思っている。資料のまとめ方もプレゼンの構成も、確かにうまい。でも、私は最近気づき始めていた。彼の企画には、現場の匂いがしないと。言葉は滑らかだけれど、どこかで聞いたような話ばかりだと。
その週の金曜、私は徹夜で企画書を仕上げた。地域の小さな店と組んで、廃材を使った日用品を売り出す案。祖父の工場で見てきた「もったいない」を形にしたものだった。工場で出る廃材が、職人の手を借りればどれだけ美しくなるか。私はそれを子供の頃から知っていた。誰も見向きもしないものを、誰かの宝物に変える。そういう企画が私は好きだった。机の上に置いて、月曜の会議で出すつもりだった。誰よりも自信のある企画だった。提案書の最後のページまで、自分の言葉で埋めた。読んだ人が思わず身を乗り出すような企画書にしたかった。金曜の夜が更けていく中で、私はそう思いながら表紙に名前を書いた。
でも、月曜の会議で私はその企画を出せなかった。マ部さんが、ほとんど同じ内容を先に発表したからだ。
「廃材を活用した、地域連携型の商品ラインです」
スクリーンに映ったその資料を見て、私は息が止まった。言葉も構成も、私が書いたものとそっくりだった。
「ほう。これは面白い」
部長が身を乗り出した。
「マ部、よく考えたな」
「いえ、寝る間も惜しんで練りました」
マ部さんはさらりとそう答えた。私は手を上げようとしてやめた。証拠が何もなかったから。私の企画書は、いつの間にか机から消えていた。
「あれ? 藤宮さん、今日は企画なし?」
誰かが軽い調子で聞いてきた。
「はい。間に合わなくて」
私はそう答えるしかなかった。喉の奥が熱くて苦しかった。おかしいと思った。これで何度目だろう、と。
家に帰って、私は古いノートを開いた。この半年で出そうとした企画を全部書き留めてあるノートだ。廃材の商品、高齢者向けの宅配サービス、子供と一緒に作る防災グッズ。どれも机に置いた数日後に消えていた。そして、そのどれもがマ部さんの企画として会議を通っていた。偶然なんかじゃない。頭では分かっていた。でも、認めるのが怖かった。信じたくなかった、と言った方が近い。もしかしたら、似たようなことを考える人がいるだけかもしれない。そう思うことで、私はずっと自分をごまかしてきた。私はノートの日付を一つずつ指でなぞった。消えた日と、彼が発表した日。その間はいつも二日か三日。まるで誰かが私の机を見張っているみたいに。偶然にしては、あまりにも揃いすぎていた。
翌朝、私はいつもより早く出社した。そして、自分の引き出しに小さな印をつけた。髪の角をほんの少しだけ折っておく。祖父が工場で部品の向きを確かめるのに使っていた癖だった。誰かが触れば、必ず分かる。小さくて地味で、でも確実な方法だった。祖父はよく言っていた。「大事なことは、派手にやるより静かに確かめろ」と。
私は何も言わず、いつも通りに挨拶をした。マ部さんはこちらを見もしなかった。私はただ静かに、彼の手元を見ていた。何も気づいていないふりをして、これ以上私の企画が消えないために。
次の企画書を机に置いて三日目の朝。引き出しの紙の角は、綺麗に伸びていた。誰かが確かに触れた証拠だった。手がじんわりと冷えた。分かってはいた。でも、こうして目の前に証拠が現れると、やっぱり胸の中に重たいものが落ちてくる感じがした。そして同じ日の午後、マ部さんが部長に呼ばれた。
「マ部、次の新商品会議。お前がメインで頼む」
「ありがとうございます。期待に応えます」
彼の声はいつもより一段高かった。私は急遽室でその会話を聞いていた。手の中のマグカップが、少しだけ震えた。
夕方、部長が部署のみんなを集めていった。
「来期の課長候補だが、マ部を押すつもりだ。ここ数ヶ月の企画の実績は、文句なしだからな」
拍手が起きた。マ部さんは胸を張って軽く頭を下げた。
「期待を裏切らないように頑張りますよ」
冗談めかして彼はそう言った。周りが笑う中で、私だけが笑えなかった。その実績の中身が、全部私の企画だと知っていたから。
「藤宮も、少しはマ部を見習え」
部長が軽い調子で私に言った。悪気はないのは分かっていた。部長は何も知らないのだから。だからこそ、その一言は深く刺さった。「見習え」と言われた相手が、私の企画を盗んでいる人だ。もし部長がそのことを知ったら、どんな顔をするだろう。私は「はい」と小さく答えた。机に戻って、折れた髪の角をもう一度そっと折り直した。これで何かが終わるわけじゃない。何かが始まるだけだ。
「おい、藤宮、ちょっと来い」
声をかけてきたのは、ゴ田課長だった。四十八歳。口は悪いが、部署では一番現場を見ている人だ。非常階段の踊り場に私を連れ出した。周りに誰もいないことを、課長は先に確かめていた。
「お前、自分の企画が盗まれてること、気づいてるな」
私は答えられなかった。それが答えになっていた。
「やっぱりか」
課長はタバコを取り出して、火はつけずに口に加えた。こういう時、課長はいつもそうする。考える時の癖らしかった。
「俺はなあ。お前の廃材の企画、最初に見た時に鳥肌が立った。あれは現場を知ってる人間にしか書けない企画だ。だが、会議で出てきたのはマ部の口からだった」
私はぎゅっと拳を握った。
「課長、証拠がないんです。私の思い過ごしかもしれないし、会社のためになるなら、誰の手柄でもいいって。そう思おうとして」
「アホか」
課長はピシャリと言った。
「それはな、お前のためにもマ部のためにもならねえ。人の成果を盗んで出世した奴が上司になるんだぞ。そんな会社、長い目で見たら腐っていくだけだ」
課長の言葉は短くて鋭くて、まっすぐだった。私が四年間ずっと目をそらしてきたことを、課長は静かに正面から言い切った。踊り場の窓から夕日が差し込んでいた。
「お前の才能が正当に評価されないのは、会社の損失だ」
課長の声は低くてまっすぐだった。怒っているわけじゃない。ただ本当のことを言っている、という声だった。私の中で、何かがゆっくりと熱を持ち始めた。四年間、冷えたままだった何かが。
その夜、私はなかなか眠れなかった。天井を見つめながら、祖父のことを思い出していた。工場が傾いた時、祖父は最後まで職人を守った。取引先との交渉も、銀行への頭下げも、全部一人でやった。それでも職人たちへの給料だけは、一度も遅らせなかった。「人のものを横取りして得た金は、必ず身を滅ぼす」と言って、祖父は自分の蓄えを切り崩した。あの時の祖父の背中を、私は今でも覚えている。小さくて、でもどこまでもまっすぐな背中だった。
私が黙っていることは、優しさじゃない。ただの逃げだ。そのことに、私はずっと気づいていた。気づいていて、目をそらし続けていた。マ部さんを本当の意味で止められるのは、多分私だけだ。そう思ったら、不思議と怖さが少し薄れた。
翌朝、私はゴ田課長の席へ行った。
「課長、私、ちゃんとしたいです。マ部さんのことも、自分のことも」
課長はニヤリと笑った。
「言うと思ってたよ。ただし、感情で動くな。あいつが自分から白状するように仕向けるんだ。証拠は作る」
私はこくりと頷いた。この時、私の頭にはすでに一つの案が浮かんでいた。祖父の工場で、部品の取り違いを防ぐために使っていたある工夫。同じ形の二つを、わざと入れ替えて確かめる。どちらが本物か、触った人間には分からない。でも、結果を見れば一目瞭然だ。祖父は笑いながら言っていた。「騙そうとする人間は、自分が騙されていることに、最後まで気づかないもんだ」と。
「課長、一つお願いがあります」
私は声を落として言った。
「協力してくれる人を、もう一人増やしたいんです」
課長はタバコを口に加えたまま、じっと私を見た。それから、ゆっくりと頷いた。
そのもう一人は、意外なところにいた。高野咲さん、二十四歳。三ヶ月前に現場研修で来た新人の女性だ。明るくて屈託がなくて、私の企画をいつも「すごいです」と褒めてくれる。最初はただ愛想のいい子だと思っていた。でも、話してみると現場への観察眼が鋭くて、私は「この子は本物だな」と密かに思っていた。
ある日のお昼、咲さんがこっそり私に言った。
「藤宮さん、この前の廃材の企画書、見せてもらいましたよね。あれ、私すごく感動して、実は父にも見せちゃったんです。ごめんなさい」
私は戸惑った。
「お父さん?」
咲さんは少し言いにくそうに声を潜めた。
「うちの父、この会社の社長なんです」
私は思わずコーヒーをこぼしそうになった。咲さんは身分を隠して現場で働いていた。誰にも、本当の名前すら明かさずに。
「私、藤宮さんみたいに、現場で本当に必要なものを作りたくて。だから、肩書き抜きで学びたかったんです」
その言葉に嘘はなかった。目が真っすぐだった。肩書きのある場所に座っていれば、もっと楽に学べたはずなのに。この子はわざわざ現場の底から始めることを選んだのだ。私は、ある考えがまとまっていくのを感じた。咲さんが社長に見せたという私の企画。それを使えるかもしれない。
「咲さん、一つだけ力を貸してほしいことがあるの」
私はそう切り出した。事情を話すと、咲さんの表情がすっと変わった。柔らかかった目が、静かにでも強く引き締まった。
「許せないですね、それ。藤宮さん、私、全力で協力します」
課長と咲さんと私。三人の作戦が、静かに動き出した。
ゴ田課長が調べてくれたことで、問題は私が思っていた以上に根深いことが分かった。マ部さんが盗んでいたのは、私の企画だけじゃなかった。他の若手の案も、少しずつ自分の手柄に混ぜていた。入社二年目の男性の案。昨年度に移動した女性の案。私が知らなかっただけで、被害者は何人もいた。
「あいつ、自分じゃ一つも企画を出せねえんだ」
課長は資料を机に叩きつけた。過去三年、マ部名義で通った企画。そのほとんどが、誰かの机から消えた直後のものだった。私はその一覧を見て、背筋が寒くなった。これはもう一人の問題じゃない。部署全体が静かに病んでいたのだ。そして、その病の上にマ部さんの出世が築かれていた。三年間、誰も気づかなかった。気づこうとしなかった、と言った方が正確かもしれない。
「次の新商品会議で、課長への昇進が正式に決まる。しかも、今回は社長が同席する」
課長は低い声で続けた。私の心臓が、とくんと跳ねた。社長。咲さんのお父さん。バラバラだった点が、一本の線に繋がっていく感覚がした。
「課長、その会議で勝負をかけます。マ部さんが、自分の口で全部認めるように」
課長はじっと私を見た。しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと口を開いた。
「お前、変わったな。最初に会った時は、すぐ謝るだけの子だったのに」
私は少しだけ笑った。
「謝るのは、もうやめようと思って」
窓の外で雨が降り始めていた。細くて静かな雨だった。作戦の最後の準備が始まる。会議まであと三日。
私は二冊の企画書を用意した。一冊は、私が新しく書いた本物の企画書。もう一冊は、咲さんが書いた同じテーマの企画書だった。咲さんは、社長に見せたあの企画を、自分の言葉で書き直してくれていた。構成も結論も私の案とほとんど同じでも、一箇所だけ違う。咲さんの企画書には、彼女にしか書けない一文が紛れていた。それは、社長が娘から直接聞いていた、家族の思い出のエピソードだった。咲さんが小学生の時、祖父の古い家具を解体して、家族みんなで小さな棚を作った話。その棚が今も実家の玄関に置いてある、という話。誰も知らない、親子だけの記憶だった。マ部さんがそれを「自分が考えた」と言った瞬間、社長は必ず気づく。これが、入れ替えの仕掛けだった。
「藤宮さん、これ、本当にすごい作戦ですね」
咲さんが目を輝かせた。
「祖父の知恵です」
私はそう答えた。同じ形の二つを、わざと取り違えて確かめる。工場の古い工夫。
そして会議の前日、私は机の上に一冊を置いた。表紙には、わざと太字でこう書いた。「最重要社外秘企画」と。中身は、咲さんが書いたもう一冊の方だ。本物の私の企画書は、鞄の奥に隠してある。あとは、マ部さんがいつも通りに動くのを待つだけ。引き出しの髪の角を、私はもう折らなかった。今回は、触ってもらわないと困るから。仕掛けは整った。おじいちゃん、見ててね。私は心の中でそっと呟いた。
その日の夕方、私はわざと遅くまで残った。他の社員が一人、また一人と帰っていく。部屋の明かりが、少しずつ減っていく。私は画面を見つめるふりをしながら、マ部さんの動きを視界の端で追っていた。マ部さんが帰り支度をしながら、私の机をちらりと見るのが分かった。「最重要社外秘」の文字に、彼の視線が止まる。一瞬だけでも、確かに止まった。
「藤宮、まだ帰らないのか?」
「あ、はい。もう少しだけ」
私はぎこちなく答えた。わざと何かを隠すように、企画書を引き出しに半分しまった。焦っているように見せるのが、一番難しかった。本当は心臓がうるさいくらいになっていたけれど。マ部さんの目が、すっと細くなった。
「ふうん」
彼はそれ以上は何も言わずに帰っていった。私はその背中を見送って、課長に短くメールを送った。「餌は食いました」と。
そして翌朝、引き出しを開けて、私は息を飲んだ。中の企画書が、向きが変わっていた。角の折り目が伸びていた。触られたというより、丸ごとコピーされた後だった。ページの順番が微妙にずれていた。急いでいたのだろう。マ部さんはいつも通り盗んでいった。それが私の企画書だと信じきって。本当は社長令嬢が書いたものだとも知らずに。私は静かに引き出しを閉めた。不思議と手は震えていなかった。むしろ、心がすっと冷えていた。
午後、廊下でマ部さんとすれ違った。
「明日の会議、楽しみにしてます」
私は彼の目を見て、そう言った。マ部さんは勝ち誇ったように笑った。
「ああ。せいぜい勉強させてもらえよ、童顔ちゃん」
明日、その笑顔がどんな顔に変わるのだろう。
会議当日。役員室には、いつもより重い空気が流れていた。革張りの椅子と、磨かれた長テーブル。普段の会議室とは明らかに違う場所だった。上座には、社長の高野誠一郎が座っていた。咲さんのお父さんだ。白髪混じりの、穏やかな顔をした人だった。でも、その目の奥には鋭いものが光っていた。咲さんは新人として、私の隣に静かに座っている。目が合うと、小さく頷いてくれた。
「では、新商品、マ部から発表してくれ」
部長が促した。
「はい。今回の企画は、寝る間も惜しんで練り上げました」
マ部さんは堂々とスクリーンの前に立った。いつも通りの、自信に満ちた立ち姿だった。盗んだ企画書を、自分の言葉で読み上げていく。廃材を地域の家族の思い出と繋ぐ商品ラインです。声も間の取り方も完璧だった。本当に、プレゼンだけはうまい人だと思った。
そして、彼はあの一文を口にした。咲さんと社長しか知らない、家族の思い出のエピソードを。小学生の咲さんが、祖父の家具を解体して、家族みんなで棚を作った話を。その瞬間、社長の表情が、すっと凍り付いた。
「待ちなさい」
低い声が部屋に響いた。
「今のエピソードは、どこで知った?」
マ部さんは一瞬戸惑った。
「え、私が自分で考えたものですが」
「それはおかしい」
社長はゆっくりと立ち上がった。
「それは、私が娘から家で聞いた話だ。この会社の誰も知らないはずの話だ」
会議室の空気が、ピンと張り詰めた。マ部さんの顔から、血の気が引いていく。
「いや、それは偶然似ただけで」
「偶然で、家族の食卓の話まで一致するのか」
社長の目は、もう笑っていなかった。
「おかしい」
マ部さんが小さく呟いた。
「俺が盗んだのは、藤宮の企画書のはずなのに」
言ってしまってから、彼は自分の口を抑えた。でも、もう遅かった。会議室にいた全員が、その一言を聞いていた。しんと静まり返った部屋の中で、マ部さんだけが立ち尽くしていた。
「今、何て言った?」
部長が立ち上がった。顔がみるみる赤くなっていく。
「藤宮の企画書を盗んだ、と」
マ部さんは真っ青になって首を振った。
「ち、違う。言い間違いです」
「言い間違いで、『盗んだ』なんて言葉が出るか」
ゴ田課長が静かに口を開いた。怒鳴らなかった。ただ、低くて重い声だった。その静けさが、怒鳴り声よりずっと怖かった。
「マ部。お前が三年間、何をしてきたか、全部調べはついてる」
課長が分厚い資料を机に置いた。若手たちから消えた企画と、マ部名義で通った案の一覧。日付が全て一致していた。消えた日の二日後か三日後に、必ずマ部さんの企画として出てきていた。三年分の記録が、静かにそこに並んでいた。
「これでも、偶然だと言いはるのか」
マ部さんは、もう何も言えなかった。唇がかすかに震えていた。その時、私はゆっくりと立ち上がった。
「マ部さん」
私はまっすぐに彼を見た。逃げなかった。目をそらさなかった。
「私、ずっと悔しかったんです。徹夜で考えた企画が、いつもあなたの口から出てきて。私は企画を出せない人だって、そう思われ続けて。どれだけ悔しかったか、あなたには分からないですよね」
マ部さんは視線を落とした。
「最低ですね。人の努力を、自分の手柄にするなんて」
私の声は震えていなかった。
「うるさい」
マ部さんが突然声を荒げた。椅子が後ろに大きく引かれる音がした。
「お前らに何が分かる? 俺だって必死だったんだ。企画なんて、考えても考えても浮かばなくて。でも出世したくて、認められたくて。だから……」
声が、途中で詰まった。言い訳の続きは、出てこなかった。でも、そこには本物の苦しさがあった。私はそれを見て、少しだけ胸が痛んだ。認められたいという気持ちは、私だって同じだから。ただ、彼はその気持ちを、間違った方向に使いすぎた。
「だからって」
ゴ田課長がピシャリと再切った。
「人のものを盗んでいい理由にはならねえだろう。苦しかったなら、助けを求めればよかった。企画が出ないなら、正直にそう言えばよかった。お前には、そういう選択肢が何度もあったはずだ」
課長の言葉は短くて重かった。マ部さんは、何も言い返せなかった。
社長が、静かにしかし重く言った。
「マ部君。君は首だ。人の成果を盗んで出世しようとした人間を、うちには置けない。チャンスは何度もあったはずだ。その度に、君は藤宮君の企画を盗むことを選んだ。これは、自業自得だ」
マ部さんはその場に崩れ落ちた。
「お、お願いします。もう一度だけ」
「君に期待していた分、残念だよ」
社長はそれ以上、何も言わなかった。マ部さんは荷物をまとめて、会議室を出ていった。その背中は、いつもの堂々とした姿とは、まるで別人のようだった。後で聞いた話では、業界内に噂が回ったらしい。理由付き解雇という話は、思ったより早く広がった。彼の再就職は絶望的になった、と聞く。でも、それを哀れに思う気持ちは、もう分かなかった。全部、彼が自分で選んだことだから。
会議室には、長い沈黙が残った。そして、社長が私の方を向いた。
「藤宮君、と言ったね」
社長が穏やかに私を見た。さっきまでの鋭さが、すっと和らいでいた。
「君の企画は、娘がずっと褒めていた。現場を知る人間にしか書けない企画だと」
隣で、咲さんが少し照れたように笑った。私は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
喉の奥がじんわりと熱くなった。泣かないようにしようと思ったのに、目の奥がじわりと滲んだ。
「これからは、君の名前で堂々と出しなさい。次期課長は、君だと思っている」
さっき、マ部さんに向けられていた言葉が、今度は私に向けられた。盗まれた一言が、本物になって帰ってきた瞬間だった。四年間、誰かの口から出てきた私の企画が、初めて私の名前と一緒に認められた。隣で咲さんが、そっと手を握ってくれた。
「藤宮さん、やりましたね」
「咲さんのおかげです」
「本当に私は何もしてないですよ。一番大事なところを、藤宮さんが全部やったんです」
咲さんの目が赤くなっていた。私より先に、泣きそうになっていた。部長も私の前に来て、深く頭を下げた。
「藤宮、すまなかった。気づいてやれなくて」
「いえ。声を上げなかった、私も悪いんです」
本当にそう思っていた。もっと早く動けばよかった。でも、早く動けなかった私がいたから、今日ここに立てた気もしていた。ゴ田課長が後ろで腕を組んで笑っていた。
「たまにはやるじゃねえか」
「『たまには』って」
私は思わず笑ってしまった。
「課長がいなかったら、私、ずっと黙ってました」
「よし。今日は奢ってやる」
「やった」
あ。また子供料金で入れられませんように。
「童顔は、もういいと思っとけ」
窓の外には、よく晴れた空が広がっていた。祖父の工場で見た、あの空に少しだけ似ていた。評価されなくてもいいなんて、もう言わない。ちゃんと認められると、こんなにも前を向ける。明日からも、もっといい企画を作ろう。今度は、私の名前で。



