母が危篤だと病院から連絡が来た日、兄に電話した。なのに返ってきたのは「来週から沖縄旅行なんだ」という一言だった。頭が真っ白になった。母は女手一つで俺たちを育ててくれた。兄が入院した時は、ボロボロの服を着て親戚中に頭を下げ、体を壊す寸前まで働いていた。そのことを兄は忘れていた。義姉は「母子家庭のくせに」と母を嘲笑い、兄は黙って庇わなかった。あの日、俺は兄を見限った。それなのに今、兄は病室の冷た…

母が危篤だと病院から連絡が来た日、兄に電話した。なのに返ってきたのは「来週から沖縄旅行なんだ」という一言だった。頭が真っ白になった。母は女手一つで俺たちを育ててくれた。兄が入院した時は、ボロボロの服を着て親戚中に頭を下げ、体を壊す寸前まで働いていた。そのことを兄は忘れていた。義姉は「母子家庭のくせに」と母を嘲笑い、兄は黙って庇わなかった。あの日、俺は兄を見限った。それなのに今、兄は病室の冷た...

昨年、勤務先で母が倒れた。容態は持ち直したが、そのまま入院生活が続いている。なのに兄貴の見舞いは数えるほどしかない。しかも滞在時間は数分で、逃げるように病室を後にする。母は笑って「顔が怖いんでしょ」と言ったが、睨んで当然だろうと心の中で思っていた。

ガキ大将ですり傷だらけの俺と、頭が良くて成績優秀な兄貴。三歳の年の差がそうさせたのか、正反対の二人だが昔は仲が良かった。親父が女を作って家を出てから、母は女手一つで俺たちを育てるため朝から晩まで働いていた。兄貴は「母さん今日も遅いからな」と言っていつもご飯を作ってくれたものだ。

関係が変わったのは今から十年ほど前。兄貴が結婚してからだった。子供ができたんだと紹介された美人な義姉。中身は超金持ちだった。「母子家庭のお母さんって本当働き者みたいですよね。働いていないと死んじゃうみたいな」

「なんだと? 母さんをバカにするな」

「うわあ、これが俗に言うマザコンってやつ? 母子家庭の息子ってマジでこうなんだ」

初対面からこれだ。兄貴の見る目がなさすぎる。子供ができたから仕方なく結婚したのか。兄夫婦を見送った後、義姉について尋ねたが「子供にとって親は必要よ」と母はそれだけ言った。子供がいる以上離婚はできない。母の結論はきっとそこに落ち着いたのだろう。だけどさ、どう考えてもあの嫁はダメだろ。そう思った俺の直感は正しかった。

義姉は会うたびに母子家庭を馬鹿にし、両親が揃っている自分の子は幸せだと強調した。「たけるはまともに育ったけど、弟君は完全に片親の影響ですよね。短気で口が悪いマザコンになってしまうなんて残念」と俺の短気を母のせいにもした。

「ねえ、たける。あなただって母子家庭が嫌だったんでしょ。前にそう話してたじゃない」

「ああ、そうだな」

その会話に血の気が引いた。思い返せば、義姉が母に嫌味を言っても兄貴はずっと黙ったままだった。嘘だろ兄貴。そいつを庇うのか?

「庇っているわけじゃない。事実そう思っていた」

片親であることが嫌だった。母さんのことは恥ずかしいと思ってたし。思わず兄貴の胸ぐらを掴んだ俺に、黙っていた母が「けん、もうやめて」と掠れた声をかけたが無視した。

「恥ずかしい。なんだそれ? 本気で言ってるのか?」

「だってそうだろ。いつもボロボロのシャツを着てさ、母さんが隣を歩くのだって嫌だった」

「お前、それはもうやめなさい」

母に静止され、俺は振り上げた拳を下ろした。義姉の笑い声が虚しく響く。「はあ、面白い。弟君、熱血なところ悪いけどさ、たけるをマザコン仲間に誘わないでよね。片親だってこと本当迷惑してるんだから」

この日、俺は兄貴を見限ったのだ。

「二人きりの兄弟だから仲良くしなさい」母は俺の顔を見るたびに口にする。あんなにバカにされてもなお兄貴を気にする母を、苦しく思う日々。

母が危篤だと病院から連絡があったのは、そんなある日のことだった。俺は有休を取り、兄貴に連絡した。

「困ったな。来週から沖縄旅行なんだ」

スマホから聞こえてきた返事に、俺は思わず耳を疑った。「は? 旅行?」

「いや、入院とか葬式の準備あるだろう」

「ちょうど旅行の日程とか被るんだ」

「マジで言ってんのか?」

詰め寄るような俺の声に、兄貴はしばらく沈黙する。「やっぱり旅行はやめられそうにない」

母が死ぬかもしれない。それなのに旅行を取るのか。ぶちりと何かが切れた。「ああ、そうかよ。じゃあ楽しんでこいよ。万が一があっても葬式には呼ばねえからさ」言い捨てて通話を切った。

むしゃくしゃする気持ちのまま、俺は親戚にも連絡を入れる。「ついでとばかり旅行らしいから、兄貴のことは無視してくれ」と嫌味たっぷりに説明しておいた。

連絡を終え母の見舞いから帰宅した時、兄貴からの着信がスマホに表示された。たぶん、親戚の誰かから嫌味を言われて、告げ口されたと文句でも言うつもりなんだろう。まともに話を聞くつもりがなかった。俺は言いたいことをぶちまけることにした。

「なあ、兄貴。母さんがボロ着てたって話、前に恥ずかしいってバカにしてたけどさ。兄貴の入院治療費がなかったら、もっといい暮らしができてたんだぜ」

「入院? 僕が?」

「アルバムに写真があったんだ。見たことないベッドで寝ているお前の写真。不思議に思って母さんに聞いたら、お前が六歳くらいに突然倒れて病院に運ばれたんだって。症状から病名も分からない病気ってやつ」

「嘘だろ」兄貴は記憶を辿っているようだ。

「お前が難病になって大学病院に入院する必要があった。親戚中に頭を下げて、それでも足りないお金はどうにかしなきゃってさ。母さん、体を壊す一歩前まで働いたらしい。幼い俺は親戚に預けられて、当時の様子は彼らから聞いていた。少しはまともな格好をしろって注意されたらしいけど『服を買う余裕があるなら子供のために使いたい』って母さんらしいよな」

入院はもちろん、病気のことも兄貴は忘れているようだった。辛い記憶はない方がいいと母に口止めされていたが、今更兄貴を気遣う気もない。

「……その写真は今もあるのか?」押し殺すような声でそう聞かれたのは意外だった。写真は母の部屋にあったから、せっかくなので写メを送ってやる。この時はまさか翌日あんなことになるとは思いもしなかった。

翌日の午前、病院に向かう道。スマホが震え、相手も見ずに応答すると「ちょっと、あんたたけるに何言ったの?」まさかの義姉だった。いつも余裕たっぷりの嫌味な物言いはどこへ消えたのか、イライラと焦っている様子だ。「旅行を急にやめるとか、本当ありえないわよ」

「俺だってびっくりだよ」義姉のマシンガントークをまとめると、兄貴が今朝「旅行には行かない」と言い出したらしい。「誰がレンタカー運転するのよ」と怒鳴り返すと「じゃあキャンセルだな」義姉が一方的にわめき立てる事態に発展したが、兄貴はさっさとどこかへ出かけたらしい。「あんたが何か言ったんでしょう。このマザコン男」

「ああ、はい。マザコン男はこれからママの病室に行く大事な用事があるので、くだらない電話はもう切りますね」丁寧に言い返し、通話を電源ごと切ってやった。

病室に着いた俺を待ち受けていたのは、義姉からの電話よりも衝撃的な光景だった。

「兄貴、何してるんだ?」

ぐすぐすとしゃくり上げる兄貴は、病室の冷たい床に土下座していた。個室だから良かったものの。しばらく泣いて落ち着いたのか、兄貴は事情を話し始めた。どうやら俺が送った写真で、うっすらとだが記憶が戻ったらしい。俺の話が嘘ではないと確信し、母へのひどい仕打ちを思い出し、まずは謝罪だと病室に来たようだ。

「今更許しを得ようとでもしたら、おめでたい頭だ」

「だが償うのは僕の勝手だろ」

こんな話をしていたら、病室の扉が乱暴に開かれ、怒りに顔を歪めた義姉が登場した。

「ちょっと、なんでたけるが床に座ってるの?」

「母さんに土下座中だからだろ」

「はあ。いくらマザコンだからって、そんな恥ずかしいことさせて許さないわ」俺に掴みかかろうとする義姉を、兄が静止した。

「恥ずかしいだって。土下座は僕の意思でやっているんだ。母さんがしてくれたことを忘れたばかりか、たくさん傷つけてきたんだから、これは当たり前だ」

「はあ。だからって死にかけで意識もない人に土下座してるなんてキモいんだけど。この前まで母子家庭なんて言ってたくせに、頭おかしいんじゃない?」

俺は怒鳴り返そうとしたが、立ち上がった兄貴に気を取られた。

「話したいこともあるし、帰ろうか」兄貴は義姉にそう言い、二人は病室を後にした。

離婚が決まったよと兄貴から連絡があったのは、その日の昼過ぎだった。展開が早すぎてついていけない。

「色々あったけど片付いた」投げやりに言う兄貴に、昔から頭は良かったよなと思い返す。詳細はあって話すと言われ、昼飯時もまだだったから近くの喫茶店を指定した。

注文した料理を食べ進めながら、兄貴は詳しい話を語った。離婚の決め手は、病室での義姉の態度だったようだ。そりゃそうか。誠心誠意の謝罪をキモいだなんて許せる奴は頭がおかしい。

「ほうほう」と調子よく頷いていたが、「それと、息子へのネグレクトだな」その言葉に吹き出した。兄貴には十歳になる息子がいる。頭が良くて大人しい、兄貴の子供バージョンだ。離婚後、両親のどちらについていくか尋ねたらすぐに兄貴を選んだらしく、理由を聞いたら「お母さんに僕を育てる気はないから」と返ってきたという。

義姉は息子に最低限の金だけ渡し、自分で食事を用意するよう命じていた。兄貴は大手メーカーの課長だ。仕事は忙しく出張もあって、家を不在にすることが多い。だからと言って親として気づけなかったのは自分の怠慢だと兄貴は後悔していたが、それだけでは済まなかった。

「賢い子だから小学生のうちから塾に入れたい。そう頼まれていた。塾代も生活費も、僕に隠れてブランド品に消えていたんだ。告げ口したら許さないと、義姉が息子に手をあげることもあったらしい。少し調べたら消費者金融で借金も作っていた。僕が渡した生活費と塾代では足りなかったようだ」

その事実を義姉に突きつけたが「息子への周知は、あなたみたいに片親なんて呼ばれないで済んだんだから、むしろ母親でいてあげるだけ感謝して欲しいわ」と言ってのけた。

「なんつうか、やばいな」ふと漏らした俺の言葉に、兄貴が小さく笑う。ポケットから振動するスマホを取り出し、噂をすればそのやばい奴から電話だ。スピーカーにして通話ボタンを押した。

「ちょっとたける。引っ越し業者が急に来て荷物を運び出していくわよ。なおも尚弥もいないし。どういうこと?」

ギャーギャーわめく義姉に、兄貴は落ち着いた声で答えた。「その家は友人に頼んで売ることにした。僕の名義で結婚前に買ったマンションだから、僕の自由にできる。尚弥は今君の実家にいるよ」

「はあ?」

「早く自分の荷物を確保しないと困ることになる。業者には、僕が指定した荷物以外は捨てていいと言ってあるんだ」

「なんでよ。実家に送ってくれれば」

「ご両親は君と絶縁するそうだ。尚弥との面会の話をしたら、今後尚弥と会う代わりに君とはもう関わらないと約束してくれた」

「なんですって」

「言っておくけど、記入済みの離婚届と誓約書は弁護士に預けてある。養育費、使い込んだ金の返済。踏み倒せば後が怖いよ」

「ま、待って待って。はあとやり直してちょうだい。なおにも謝るから」

「かな? なおは『片親なんてかわいそうでしょ』『なおは片親など気にしないよ。君が母親である方がよほど恥ずかしい』と言われたよ。僕も償っていく。君も君なりに償えばいい」

電話を切った兄貴はため息をつき「事情は大体こんなところだ」そう言って薄く笑った。

「いや、用意周到すぎて怖いから」

その後、兄夫婦の離婚は成立した。義姉がどうなったか詳しいことは聞いていない。生活費と教育費を使い込んだ専業主婦が、突然住むところも金の供給も失えばどうなるか、およそ想像はつく。兄貴への返済と消費者金融の借金もあるから、毎日遊び放題だったあの女には朝から晩まで働くしか生きる道はない。

そして奇跡的に、母は持ち直した。母の退院の話をして聞かせた俺に、母は学生の頃、片親を理由に兄貴が同級生からいじめを受けていたことを教えてくれた。ボロボロの服を着た母親を同級生に見られ、馬鹿にされて傷ついた兄貴の心情を思うと「恥ずかしい」と言わせてしまった自分も、もう少し身なりに気を使えばよかったと、母は後悔していたのだ。

それでもマザコンの俺には、兄貴を簡単に許せそうにはない。だけど兄貴は償うと言い、泣きながらまた母の前で土下座した。親戚にも母への仕打ちは知られているし、今後は厳しい姿勢にさらされるだろう。放置していた息子との関係も、父親としてうまくやっていかなくてはいけない。失った信頼を取り戻すのは、並外れた努力が必要だ。

「私はあんたたち二人が仲良くしてくれたら、それで十分幸せだわ」そう母が笑うから、たまには兄貴を助けてやろうかなと思う。

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