義妹が台所で、おせちの盛り付けを手伝っていた私にこう言ったんです。「お姉さん、もしかして料理下手?おせちはもっと綺麗に盛り付けてよ。食欲湧かなくなっちゃうじゃない」。義母も加わって、「そんなだから前の旦那さんからも愛想尽かされたんじゃない?」と。再婚して初めての正月、半年前に温かく迎えてくれた人たちが、まるで別人でした。その日から私への意地悪が始まり、お盆に義実家を訪れた夜、義母は私に庭のハ…

義妹が台所で、おせちの盛り付けを手伝っていた私にこう言ったんです。「お姉さん、もしかして料理下手?おせちはもっと綺麗に盛り付けてよ。食欲湧かなくなっちゃうじゃない」。義母も加わって、「そんなだから前の旦那さんからも愛想尽かされたんじゃない?」と。再婚して初めての正月、半年前に温かく迎えてくれた人たちが、まるで別人でした。その日から私への意地悪が始まり、お盆に義実家を訪れた夜、義母は私に庭のハ...

夫に騙されていたと気づいたのは、結婚して最初の年の正月だった。台所でおせち料理の盛り付けを手伝っていた時、義妹が小ばかにしたように言った。

「お姉さん、もしかして料理下手?おせちはもっと綺麗に盛り付けてよ。食欲湧かなくなっちゃうじゃない」

私もおせち料理が得意なわけではない。盛り付けは正直苦手だけど、それなりに頑張っていたのに。それに、ほかの親戚の女性もたくさん出入りする台所で、そんなに大きな声で指摘することもないだろう。

「ああ、ごめんなさい。普段あまり気にしてなくて。お手本とかあると嬉しいんだけど」

素直にそうお願いしてみたら、今度は義母が割って入ってきた。

「お煮しめなんておせちの定番でしょ。それも薪夫の好物よ。家で作ったことがないから、盛り付けのセンスもないってことなんじゃないの?」

「ああ、そういうことね。お兄さんてばかわいそう。煮物一つ作れないお嫁さんと結婚しちゃったんだ」

「そんなだから前の旦那さんからも愛想尽かされたんじゃない?バツイチになるにはそれなりの理由があるってことよね」

「離婚した元旦那さんも、あなたの料理とか雑な性格にうんざりして浮気したんじゃない?」

義母と義妹は二人で代わる代わるそう言って、最後は面倒くさそうに私のそばを離れていった。文句を言うだけ言って、結局盛り付けを教えてはくれない。代わりに別の親戚の女性が手伝ってくれた。

料理下手だと指摘されたこと以上に驚いたのは、彼女たちのこれまでの私への接し方とのあまりにも大きなギャップだった。

半年前、私は再婚した。前の夫の浮気が原因で離婚して二年。そろそろ新しい恋愛をしようと思っていた時に、年下の薪夫と出会って意気投合し、すぐに結婚の話に進んでいった。きっかけは、私もアウトドアが趣味で、釣りやキャンプを一緒にするうちに、というところだ。とにかく活発だけど優しい薪夫は、一緒にいて居心地が良かった。

正直、バツイチの私を薪夫はともかく、彼の身内は受け入れてくれるだろうかと不安だった。けれど彼の実家を訪ねたら、とても温かく迎えてくれたから、そんな心配も吹き飛んでいった。

「まあ、お姉さんね。会えて嬉しいわ。うちの薪夫でよければ、是非もらってやってくださいな」

「お兄さん、良かったね。優しいお嫁さんができて」

前の夫の家族とも付き合いはあったが、あまり親しくはなれなかった。いい家の品のいい家族だったことも理由だろうし、私のような庶民には彼らの価値観を理解しきれなかったのも原因だろう。だから今回の家族ともうまく付き合っていけるか正直不安だったけれど、こんな風に温かく迎えてもらえて、家族として認めてもらえるならきっと大丈夫だと、そう思ったものだ。

あの時感じた安心感は、きっと偽物だったのだろう。

おせちのことをきっかけに、正月三が日中ずっと義母と義妹は、私が何かするたびに悪口を言ってきた。まるで別人のようで、私はショックを受けた。一月三日の夜、やっと自宅に帰ることができて、私は涙が出そうなほど安心した。

それから八月、お盆ということで夫が実家に帰ろうと言ってきた。さすがに半年以上経つと、怒りや悲しみもかなり薄れていて、あの時は忙しくて気が立っていただけだと思うようになっていた。そんな数日のことをとやかく言うのは大人げない。まだ義母と義妹に対して少し怖かったけど、数日間だけだし、なんとかやり過ごせるだろう。そう思って、夫の里帰りに同行することにした。

「お土産いっぱい買って、喜んでもらおうね」

贈り物を用意して機嫌を取れば、きっと楽しく過ごせるだろう。正月のあれは悪い夢のようなものだ。義実家に着くまでは、そう思っていた。

義実家は隣の県の海沿いの町に住んでいる。車を半日走らせたが、お盆の渋滞もあって到着したのは夕方だった。

「お帰りなさい。薪夫さん」

義母は久しぶりに息子に会えて嬉しそうにニコニコ笑っている。私にもにっこり微笑みかけてくれた。義妹も義母の横でお土産を受け取って、「ありがとう」と笑顔で言ってくれる。私はほっと胸を撫で下ろした。よかった。やっぱりあの日は気が立っていただけなんだと確信した。

「あ、薪夫。お父さんがおじさんたちに呼ばれて、いつもの居酒屋に行ってるの。たまにはあなたも混ざって飲んできたら?みんなもあなたに会いたがってるみたいだし」

「そっか。ねえ、ジュンも一緒に行かない?」

薪夫がのほほんと尋ねてきた。私はもちろん同行するつもりでいたけど、義母がそれを引き止めた。

「あら、私たちは女性だけで楽しむつもりだったのよ。お姉さんもその方が楽しいかなって思ったんだけど」

「あ、そういうことでしたら、是非薪夫だけで行ってきていいよ」

薪夫は少し言いたげな顔をしたものの、「ジュンがそれでいいなら」と一人で歩いて出かけていった。

薪夫を見送って荷物を軽く片付け、私も義母の言う「女性だけで楽しむ食事」のためリビングに降りる。

「お母さん、女性だけでって、私も何かした方がいいでしょうか?」

義母にそう尋ねると、義母は嬉しそうに答えてくれた。

「お茶を入れようと思うの。庭の花壇のハーブを摘んできてくれない?白いお花のやつよ」

「あ、お姉さん、ついでに犬に餌も開けてきてくれると嬉しいな」

義実家は大型犬を飼っている。利口な犬で私にも懐いてくれて、とても可愛い。犬を飼いたいと思ったことは何度もあったけれど、子供の頃は金銭的に難しかった。憧れだった犬の世話をさせてもらえるのは、純粋に嬉しい。

「ええ、じゃあちょっとお庭に出ますね」

ハーブを入れるボールと餌が入った皿を受け取って、リビングの掃き出し窓からサンダルを履いて庭に出た。すぐに後ろで「かちゃん」と鍵が閉まる音がして、私は慌てて後ろを振り向く。義母と義妹はニヤニヤ笑って窓越しに私を見ていた。

その時、私はようやく気がついた。義母と義妹にまた騙されていたのだなと。

だから二人はわざと私に外に出る用事を任せた。なんなら薪夫を家から追い出したのも、「女性だけで」と言って私を引き止めたのだって、私を締め出す計画のためだ。

やっぱり義母と義妹は、些細な意地悪をして喜ぶ最低な人間だ。正月もバツイチで再婚で料理が下手な私を散々こき下ろしたけど、あの時は口だけだった。今度は外に出すという実力行使をしてきたわけだ。

「あの、冗談ですよね。開けてください。中に入れて」

窓を叩いて訴えても、義母と義妹は耳を貸すことさえしない。

「あんたみたいな片親しかいなくて育ちが悪い。その上家事もろくにできない役立たずの女は、うちにふさわしくないのよ。食事も寝床も、あんたの分なんて必要ない」

「それでもうちにいたいって言うなら、今晩は庭で寝れば?そこの犬小屋を借りてもいいわよ」

大型犬の小屋だ。私みたいな小柄な女が収まろうと思えばできるだろう、と言いたいのか。

「やば、ウケる。お姉さん、ワンちゃんになっちゃったんだね」

義妹は手を叩いて愉快そうに笑っている。

「ひどいです。やめてください。お願い」

そう言っても、二人は面白そうに笑っているだけ。鍵は開けてはくれなかった。

私はどうしたら中に入れてもらえるか悩んだが、ここで入れてもらったところで、家の中でさらにひどい意地悪をされるだけだろう。だが、ポケットの中に車のキーが入ったままなことにふと気がつく。家に入れない。夫の元にも行けないなら、外で時間を潰せばいいのだと私は考えた。

車の中からあるものを取り出して、手際よく組み立てていく。義母と義妹が騒がしくなったことに驚いてカーテンを開け、窓の向こう側を見た。

「え、ちょっと何やってんのよ」

義母が口元を覆って驚く。それもそのはず。私が車の中から取り出して組み立てたのは、先週のキャンプで使用したテントである。まさかそんなものを持ち出して外で快適に過ごすことを選ぶとは思わなかったのだろう。

「やめなさいよ。お庭の芝生が傷つくじゃない。本当に失礼な女ね。あなたを絶対に一歩たりとも家の中には入れさせてやらないわ」

義母と義妹を無視して、私は車の中に残っていたキャンプ用の小さなガスコンロでホットコーヒーを作って飲むことにした。夏だけど海沿いなせいか、日中からずっと曇りがちだったせいか、夜になったら結構冷え込んできた。アイスコーヒーの季節だが、ホットコーヒーの方が美味しく感じる。

するといつの間にか小屋を出てきていたペットの犬が、火で温まっている私のそばに寄ってきた。

「ごめんね。うるさくしちゃって。そうだ。あなたの餌をあげるってことで庭に出てきたんだっけ?さあ、どうぞ」

地面に置きっぱなしにしていた餌の皿を犬の目の前に出してやると、きっとお腹が空いていたのだろう。むしゃむしゃと勢いよく食べ始めた。頭を撫でてやると、嬉しそうに小さく吠える。

この家に味方なんていないと思っていたけれど、この大きくて優しい犬がいるから、夫が帰ってくるまできっと大丈夫だと私は思った。

しかし、夕方に出ていった夫だ。飲み会をしているなら、これからが本番という時間で、当分帰ってこないことは間違いなかった。

「テントに入ろうか。君もおいで」

犬と一緒にテントの中で横になる。私のすぐそばに座った犬をなんとなく撫でてやったが、ふわふわな毛の割に体は結構痩せている。撫でられるのは久しぶりなのだろうか。すごく嬉しそうに鼻を鳴らす。

この犬は、もしかしたら義父や夫が可愛がってはいても、そうでない人との交流は久しぶりなのかもしれない。そう思うと、私は自分のこと以上にこの犬のことが心配になってきた。

「探しに行っちゃおうかな、もう」

ここにいても仕方がないし、犬に言葉なんてものは分からないだろう。それでも私が話しかけると、犬は「ワン」と吠えて背中を押してくれる。私はテントを畳んで、犬と共に車に乗った。

ハンドルを握って町の方に出て、適当な駐車場に車を止めて犬と共に商店街を歩く。

「飲み屋さんたくさんあるから、わかんないよね」

犬に話しかけながら歩いていたのだが、犬は私の前を歩いてずんずん進んでいく。でも犬が向かっていく方向にある一軒の居酒屋から、なんだか聞き覚えのある声が聞こえている。義父と薪夫の声だった。

この犬はきっと、飼い主である義父と夫の匂いや音で居所を私に教えてくれたのだなと気づいたのだ。事実、店の中に入ると夫が驚いた顔でこちらを見ていた。

「あれ、ジュン、どうしたの?犬も連れてきちゃって」

私はやっと人に会えた安心感で目頭が熱くなったものの、今最も気にしなければいけないことは他にある。

「あの、このお店ってペットは同伴可能ですか?私とこのワンちゃんもお店に入ってもいいでしょうか?」

店の決まりではダメだったが、そこは義父と親戚の行きつけなので特別に許してくれた。

「薪夫の嫁さん、外は寒かったでしょう。まずは一杯どうぞ」

私はそう言って突き出されたお猪口の中身をすすって飲む。温かくて美味しい。酒だけでなく、初対面の私に親切にしてくれる夫の親戚の人たちの優しさも胸に染みて温かく感じた。

美味しくて、もう一杯、もう一杯と進められるままに飲んでいき、どんどん酔いが回っていく。酔いが回ると、こらえていたことも口にしたくなってくる。

「私とこの子はね、お母さんと妹さんに締め出されて、仕方なくここに来たのよ」

私は今日のこと、正月のことをペラペラと喋り出してしまう。軽蔑されるかもしれない。シラフの時だったらそういう心配もしただろうか。でも酔っ払っているから全く気にならなかったし、親戚も義父も夫も真面目に話を聞いてくれる。そして私が話を終えた後、親戚の一人が呆れ返ったようにこう言った。

「またか。あの人たちは」

その言葉をきっかけにして、親戚は義母と義妹の話を口ぐちにし始める。

「あの人たちはね、薪夫のおばあちゃんの介護の時も、君にしたみたいに世話をしているふりをして意地悪をしてね。結局おばあちゃんは耐えられなくなって、自分から施設に入ると言って、その後は施設で余生を過ごしたんだよ」

「それだけじゃない。そこの犬だって、自分が世話をすると言って友達の家から引き取ってきたくせに、自分じゃろくに世話をしないんだ。全部旦那任せさ」

親戚がそう言うと、義父も重い口を開いて語る。

「母親の時は、もう離婚した方がいいんじゃないかと思ったくらいだ。でも今は、あの時よりも許せない気持ちでいっぱいだよ。自分の息子の嫁さんを締め出すなんて、もう我慢ならない」

義父がそう言って立ち上がった。

その後、義実家に帰った私たちだが、義父がとうとう長年の恨みを義母と義妹にぶつけた。

「もう離婚しよう。すぐに出ていきなさい」

しかし義母たちだって食い下がる。

「お姉さんが悪いのよ。ちょっといたずらしただけなのに、勝手にテントを張って、その上犬を連れて町に出かけるなんて、非常識にも程があるわ」

「私には、とてもそうは思えませんでした。そもそもあんなに寒くなると分かっていて人を外に追い出すなんて、それこそ非常識です。家族を何だと思っているんですか?私は本当はあなたたちともっと家族として仲良くなりたかったけれど、犬小屋で寝ろなんて言われてもう我慢の限界です」

「こっちこそ、あなたたちみたいな人を家族だなんて思いたくないわ」

そう言った私を睨みつけてくる義母と義妹だが、直後、大声で悲鳴をあげた。犬が義母と義妹を威嚇したのだ。

それを見て義父は、情けないものを見るみたいに話す。

「その犬のことだって、お前たちは邪険に扱うだけで、ろくに世話をしなかっただろう。俺が気づかないと餌もあげない、散歩も行かないじゃないか。お前たちなんて飼い主でも何でもない。吠えられて当然だ」

「従順な犬にまで嫌われるなんて。お前たちは我が家の家族じゃない。さあ、今すぐ出ていけ」

そう言って義父は、うむを言わさず荷物をまとめさせ、夜中だろうがお構いなしに義母と義妹を追い出したのである。あまりにも早い展開に驚くものの、義母と義妹は義父の形相が相当恐ろしかったようで、素直に従って家を出ていった。

それから義母と義妹は、蓄えもあまり持っていなかったため、節約のために二人で狭いアパートに暮らしたそうだが、元々浪費家な二人だったことから生活はすぐに困窮したようだ。生活のことだけでなく、義母は離婚の慰謝料だって支払わなければいけない。のんびり暮らすことなんて当分できないだろう。義母は今頃、義妹と二人、慣れない仕事を必死になって頑張っているに違いない。

さて、私はと言うと、義母と義妹がいなくなり義父一人では寂しいだろうと夫と話し合って、二人で義実家に暮らすことを決意した。仕事を変えることは不安だったが、思っていたよりも早く新しい仕事が見つかって一安心だ。引っ越してからは、穏やかで親切な義父、大好きな夫、それから私の友達みたいに懐いてくれるペットの犬と、毎日楽しく暮らしている。たまに親戚の人たちも遊びにやってくるようになった。お酒好きな賑やかな人たちに囲まれて、色々な美味しいお酒を教えてもらいながら飲み会をして過ごすのが、今の私の趣味の一つである。

「お帰りなさい。お風呂湧いてるわよ」

「腹が減るから風呂は後だ。飯にしてくれ」

「はいはい」

これが何十年も続く、いつもの私と夫の会話。

私の名前はよし子。五十九歳の専業主婦だ。夫が仕事から帰る時間に合わせてお風呂を沸かし、ご飯を用意しておく。日によってどちらが先かも分からないから、どちらも用意しておかないといけない。

「おい、お茶」

そう言われれば、「はいはい」と言ってお茶を用意する。結婚して四十年近くになるから、私にはこれが当たり前だった。

私は高校を卒業して就職し、そこで上司だった夫と出会い、結婚した。私は兄が三人いる四人兄弟の末っ子で、両親が高齢だったから早く結婚して両親を安心させてあげたかった。それに、事務の仕事をしていたけど正直合わなくて、学歴もない私に転職できるのかと悩んでいた頃だったから、結婚して専業主婦になるという道は私にとって最適だった。

私の結婚が決まると、泣いて喜んでくれた両親。そんな両親は、私に娘が生まれてしばらくすると、「自分たちは介護施設に入るから」と実家を私に譲ってくれたのだ。私の実家へ引っ越すことにプライドの高い夫は反対するかと思ったけど、「賃貸に住んでいるよりマシだから」とリフォームをして、私の実家に移り住んだ。

夫は家事や育児をほとんどしなかったけど、娘を成人まで不自由なく育てられたのは夫のおかげだ。だから私が夫に尽くすのは当然だと思っていた。

あんなものを見てしまうまでは。

娘は結婚して家を出たので、この家には私と夫だけになった。私たちのことを気にかけてか、近所に住む娘はよく顔を出してくれる。子供ができるまでは共働きをすると言って、娘は今も働いている。私たちの時代では専業主婦が当たり前だったけど、今は違うようだ。

「夫の分の家事もして、さらに今まで通り働いているなんてすごい」

と言うと、娘はけげんそうな顔をした。

「何言ってるの?家事は分担してるよ」

娘の旦那さんは、一人暮らしをしていたこともあって、掃除も洗濯も料理もできるそうだ。

「仕事ができそうな人だと思ってたけど、まさか家事のスキルまで。お父さんとは大違いだよ」

娘は笑いながらそう言った。娘の旦那さんも、そのお父さんも、家事をよくする人らしい。確かにうちとは大違い。夫は家事をしないのが当たり前だと思っていた私には、衝撃だった。

「あ、そういえばお母さんにお願いがあるんだけど」

何かと思うと、知り合いに家事代行サービスを運営している人がいて、事業拡大のために働き手を探しているという。

「お母さん、やってみない?」

そう言われて私は驚いた。私には職歴なんてほとんどない。結婚してから働いたことなんて一度もないのだ。

「年も年だし、今から働くなんて」

と思ったけど、私と同じような人がたくさん働いていると聞いて、少し興味が出てきた。

「じゃあ、今度詳しい話聞いてくるね」

娘はそう言って帰っていく。その夜、夫が帰ってきて、娘が来たことと家事代行の話をすると、夫は嫌な顔で言った。

「お前が働きになんて出られるわけないだろう」

その後、思い出したかのように言う。

「ああ、よし子。明後日から出張だから、支度しておいてくれよ」

「また出張。最近多いわね」

「しょうがないだろう。これも仕事なんだから」

ここ数年で夫の出張の頻度が高くなった。昔は出張なんて全くなかったのに、今では月に一回は出張だという。出張の準備をするのはもちろん私。今回も出張の準備をしたけど、ここのところ天気が悪くて洗濯物が乾いていなかったから、買ったワイシャツを一枚後で入れようと思って忘れてしまった。こんなことは今までにない。私も年かもしれないと思うと同時に、夫に恥を欠かせるわけにはいかない。

「今ならまだ間に合うかも」

と思って、家を出た夫に電話をする。夫の携帯に何度か電話をしたしメールもしたけど、音沙汰がない。

すると、夫が携帯電話を寝室に置いて行ってしまっていることに気づいた。あまり携帯電話に関心がない夫は、仕事に行く時もたまに忘れていく。仕事先では外出もあまりないようだから困ることはほとんどないようだけど、出張となると話は別だろう。私は慌てて夫の会社に電話をかけた。

電話に出たのは夫の部下だ。出張に忘れ物をしていってしまったので連絡を取りたいと伝えたところ。

「え、出張ですか。少々お待ちください」

と言われ、私は不思議に思った。直属の部下なのに、上司の出張も把握していないのかなと思っていると。

「あ、すみません。会社には寄らずに出張先にそのまま向かったそうです」

と言われた。夫の出張先や同行者を聞いてみたけど、それは教えられないという。会社の機密事項だと言われて、代わりに忘れ物を伝えてもらうことにした。

しばらくすると、家の外に車が止まる音がしてインターホンが鳴る。会社から連絡をもらったからと、夫が一度帰ってきたようだ。私は夫に謝って、ワイシャツと携帯電話を渡した。外まで夫を送ると、運転席に乗っている女性と目があったので軽く会釈をするが、向こうには無視をされてしまった。

なんだか感じが悪いなと思いながら、車に乗り込む夫を見送る。

夫が帰ってきたのは二日後の夕方。帰ってくるなり「風呂」というが、まだ沸かしていない。帰るという連絡もなかったから、いつ帰ってくるかも分からない。しかも、いつもの帰宅時間より早い時間だ。すると夫は不機嫌になり、「じゃあ飯が先だ」というので、急いで夕飯を作って出す。夫の前に食事を並べながら聞いた。

「出張、どうだったの?」

しかし夫はほとんど答えてくれない。

「働いていないお前に話したところで、何もわからんだろ」

私を見下しているのか。夫の口からは、そんな言葉が自然と出てくる。私はため息をついた。夫は疲れていると言って、食事を終えてお風呂に入ると、すぐに寝室に行ってしまう。

私は娘の話を思い出し、「家事代行の話、ちゃんと聞いてみたいんだけど」と娘に電話をした。結婚してからの四十年、私は家事と育児しかしてこなかったから、働いてみようと思っても何もできないと思っていた。でも家事代行の仕事なら、無駄だと思っていた四十年が生かせるかもしれない。娘も家を出て、家に一人でいる時間が増え、もう少し人と接してみたいと思っていたこともあり、私は家事代行の仕事をやってみることにした。

夫は反対していたけど、夫が家にいる時間は家を開けないことや、家事を今まで通りきちんとするという条件で許可をもらう。

仕事を始めてみると、家事をしてお金をもらえたり感謝されたりすることが新鮮だった。娘には感謝されることもあったけど、夫と二人の生活になってからは「ありがとう」なんていう言葉を聞いたことがない。帰ってくれば風呂や飯、くつろいでいればお茶とだけ言ってくる夫に、初めて不満を持つようになる。昔はもっと会話もあったのに、いつの頃か私は奴隷扱いされていると、心のどこかで気づき始めていた。

仕事にも慣れた頃、新規のお客様を任されることになった。一人暮らしの女性で、私より少し年下のようだ。女性のマンションを訪れると、どこかで見た顔だと気になったけど、思い出せない。女性は仕事があるからと私に指示を出して家を出た。

仕事が忙しいという彼女の部屋は物が散乱していて、片付けから始める。しばらく片付けをしていると、何やら写真が出てきて、私は目を疑った。依頼主の女性の隣に写っているのが、夫の姿だったからだ。そこで私は、この女性は夫が出張で忘れ物をして家に立ち寄った時、車を運転していた人物だと気づく。

「この写真を持って帰ることはできないから、今は私の胸にしまっておこう」

私はそう思って、複雑な思いのまま仕事を終えた。

その日の夜、夫が帰ってくるなり「明日出張になったから、急いで用意してくれ」という。

「また出張」

私が言うと、夫は機嫌が悪そうに言った。

「仕方ないだろう。仕事なんだから。ただ家事をして金をもらっているようなお前と違って、こっちは大変なんだよ」

この人は私を見下していないと生きていけないのか。私は夫に対してだんだん腹が立ってきた。

夫が出張に出た日、私は足音を消して夫の部屋に入る。夫の浮気を疑う日が来るなんて、思っても見なかった。それは夫も同じだったのか。

浮気の証拠はあっさりと見つかる。この間、あの女性の家で見た写真と同じものを、夫が持っていたのだ。引き出しの中には何枚もの写真が入っている。それに浮気相手からの手紙も発見した。

「うちの嫁はただの家政婦。お前を愛してると言ってくれたことがとても嬉しかった」

などと書かれた手紙だ。あの女性の名前が書いてあるし、浮気で間違いないだろう。

私はとっさに娘に相談した。たまたま休日だった娘は、すぐに来てくれるという。全てを娘に話すと、娘は私以上に怒ってくれた。

「お母さんはどうしたいの?」

と娘に聞かれて、私は初めて私にも選択権があると気づいた。そして私は離婚をしたいと娘に言う。私には家事しかできないけど、まさか夫に家政婦だと言われているとは。悲しみよりも、怒りの方が勝っていた。尽くしてきた夫に裏切られたんだ。そう思うと、一刻も早く夫から離れたくなる。

娘には「そう思うなら家を出て、自分のところに来てもいい」と言われたけど、娘の旦那さんを巻き込むのも申し訳ないし、何よりこの家は私の家だ。この家に夫を残していくのが嫌だった。でも、出ていく方が早く離婚の決着がつくかと思い、引っ越しやマンションを借りる準備を始めた。娘が弁護士を探してくれて、私は本格的に離婚に向けて動き出す。

一週間後、弁護士にも相談し、証拠も集まったので、私は離婚届を書いた。帰ってきた夫に切り出す。

「離婚して欲しいんだけど」

すると夫は鼻で笑った。

「は?なんだ、いきなり。離婚してどうするんだよ。ろくに働いたこともないお前が、一人で生きていけるなんて思ってるのか」

その言い方が悔しくて、私は泣きそうになりながら口を開く。

「それでも、浮気している人と暮らすよりマシだから」

夫は笑った。

「浮気?何言ってるんだよ。俺のは浮気なんかじゃない。あれは恋人だからな。つまり本命はあいつで、お前はただの家政婦だ。十年以上も気づかなかったお前が、今更何言ってるんだよ。気づかなければお前はこの家の家政婦として、何の苦労もせず生きてたのに。残念だな」

浮気を否定すらしない。こんな最低な人だったのか。私が離婚届を差し出すと、夫はそれをひったくり、何のためらいもせず記入して私に突き返した。

「俺はいつ離婚してもいいんだ。明日まで待ってやる。離婚するなら、この家を出ていけ」

そう言って、お風呂に向かった。

翌日、私は何十年も続けてきたことを初めて破った。夫の朝食とお弁当の準備も、夫を起こすこともせず、朝早くに家を出る。夫がいつも起きるのは七時。私はその前に家を出て、近所のファミレスに入った。

なんて新鮮なんだろう。人もまばらなファミレスで朝食を取る。私にはその光景が非日常で、なんだか素敵に見えた。

しばらくすると、携帯に何件も着信がある。夫からだ。メールの苦手な夫は大抵電話をかけてくる。どうせ出たところで罵倒されるのがオチだ。私は無視して電源を切った。

ファミレスでゆっくりとしてから、私は役所に向かい、役所が開くと同時に離婚届を提出した。夫が仕事に行っている間に荷造りをしようと一度家に帰る。すると、まだ夫が家にいた。

「どこに行っていたんだ?お前のおかげで遅刻だ。こんなんじゃもう会社に行けないから、病院に行くことにして休みを取った」

そりゃ、自力で起きたことのない人が起きられるわけがない。でも、だからって仕事を休むなんて、すごい発想だ。私は言い返す気にもなれず、夫を無視して荷造りを始める。

「そうか。出ていく気になったのか。じゃあ、これからはあいつを家に呼ぼう」

あいつとは、浮気相手のことだろう。私を追い出して、浮気相手とここで暮らすつもりなのか。それを聞いた瞬間、私は堪忍袋の緒が切れた。

「そうやってずっと私を馬鹿にしてたのね。弁護士にももう相談してあるの。浮気の慰謝料もきっちり請求するから、覚悟しておきなさいよ」

そう言うと、夫はまた笑う。

「弁護士?そんなのこっちはすぐに有能なのを雇える。お前に勝ち目なんてないからな」

私はここまで馬鹿にされているのが悔しくて言い返そうとした。その時、いきなり夫がお腹を抑えてしゃがみ込んだのだ。何事かと思ったけど、本当に痛いらしい。一瞬、このまま置き去りにしようかと思ったけど、このまま立ち去ったら私に何か不利なことがあるかもしれない。あまりにひどく痛がっているので、私は救急車を呼んだ。

救急車はすぐに駆けつけてくれた。聞かれたことに答え、夫を見守る。夫は救急搬送されることになった。救急隊員は私を見て「奥様もご準備を」と言ったが、私はきっぱり言った。

「もう赤の他人なので、無理です」

救急隊員は不思議そうな顔をしていたが、何かを察したのか、付き添いはなく搬送されていった。その時の夫の顔は妙に情けなくて、笑ってしまう。

娘に連絡をすると、娘が病院に行ってくれることになった。どうやら夫はしばらく入院するようだ。とりあえず命に別状はないとだけ聞いて、詳しいことは聞かなかった。聞いたところで、もう赤の他人だ。変に恨みが残っても困る。娘にそう言うと、分かってくれた。

荷造りの続きをしていると、また夫と浮気相手との写真を見つけてしまった。なんとリビングの引き出しの中にも置いてあったのだ。そこには私と夫の結婚指輪もしまってあって、夫がいつそこに置いたのかは分からないけど、今まで気づかなかった私はどうかしている。そう思うと同時に、再び怒りが湧いた。

仕方なくこの家を出て行こうと思ったけど、私がこの家を出て行って終わりになんてさせない。夫がいない今がチャンスと思い、行動に移す。夫の荷物は、レンタル倉庫にまとめて預けた。

半月後、私が新しいマンションで生活を始め、仕事を終えて携帯を見ると、着信履歴に夫の名前がずらりと並んでいる。思わず携帯を落としそうになっていると、また着信があった。仕方なく通話ボタンを押す。

「おい、今どこにいる?なんで家に入れないんだ?」

夫の声が響いた。どうやら退院して家に帰ったらしい。私は笑った。

「退院おめでとう。そこはもうあなたの家じゃないから、浮気相手のところにでも行ったらどう?」

「どういうことだ?」

夫は怒鳴るが、私はひるまない。

「その家は売りました。あなたは何か勘違いしているようだけど、その家の名義は私。自分の持ち物をどうしようと、あなたにとやかく言われる筋合いはないわ。それに、私はもうあなたの家政婦を卒業したの。すでに離婚も成立しているしね。あとはご勝手にどうぞ」

「離婚?」

半月ほど前に離婚届を記入したことを忘れてしまったのか、それとも私が本当に離婚なんてしないと思っていたのか。夫は戸惑っているようだったけど、私はそのまま電話を切った。

その後、弁護士を通して元夫と浮気相手に慰謝料を請求。元夫は「有能な弁護士なんてすぐに雇える」と言っていたけど、浮気の証拠や期間が長いことなど、どう考えても負ける案件に手を貸してくれる弁護士はいなかったそうで、私はまとまったお金を手にすることができた。

娘が元夫から聞き出した話から推測すると、元夫の浮気は会社でも有名だったそうで、会社に電話をした時の、電話口の反応にも納得だ。実際には出張ではなく、浮気相手との旅行だったのだろう。でも離婚をした途端に、元夫は「妻に逃げられて家も売られた」と会社で笑われるようになり、肩身が狭いらしい。同僚や部下なんて、白々しいものだ。

さらに元夫は浮気相手のところに行ったが、浮気相手にも慰謝料の請求が行くと、「こんなはずじゃなかった」と言って捨てられたという。人の夫に手を出しておいて、「こんなはずじゃなかった」なんて、よく言えたものである。

娘も浮気をしていた父親を許すことができず、その後は連絡を取ってはいないというので、どうなったかは知らない。プライドの高い人だから、会社で笑われているなら、もうあの会社にはいられないかもしれない。同じ生活圏内に住んでいても出会わないので、田舎にでも帰ったのかもしれない。

私には何もできないと思っていたけど、こうして家事が仕事になると、今までの時間が無駄じゃなかったと思えて、今は充実した生活を送っている。

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