「荷物をまとめろ。学歴のない女に経営は無理だ」——社長室で黒木社長は私をゴミを見るような目でそう言い放った。私はさりん、二十八歳。高卒で入った食品卸の会社で五年間、営業も経理も物流も一人でこなし、赤字部署を黒字に変えた。それでも評価されたのは大卒の男たちだった。廊下で社長に「高卒でもできる仕事だ。それがお前の限界だ」と言われ、周りにいた三人は誰も助けてくれなかった。その夜、恋人に電話で聞いた…

「荷物をまとめろ。学歴のない女に経営は無理だ」——社長室で黒木社長は私をゴミを見るような目でそう言い放った。私はさりん、二十八歳。高卒で入った食品卸の会社で五年間、営業も経理も物流も一人でこなし、赤字部署を黒字に変えた。それでも評価されたのは大卒の男たちだった。廊下で社長に「高卒でもできる仕事だ。それがお前の限界だ」と言われ、周りにいた三人は誰も助けてくれなかった。その夜、恋人に電話で聞いた...

学歴のない女に経営は無理だ。荷物をまとめろ。社長室で黒木社長は私をゴミでも見るような目で見た。お前みたいな高卒が五年もいたこと自体、こっちの温情だったんだ。感謝して出ていけ。

私はさりん、二十八歳。高卒で入社した食品卸の会社で五年間、営業も経理も物流管理も、すべて一人でこなしてきた。残業代は出ない。昇給もない。それでも私はこの仕事が好きだった。取引先の笑顔、数字が積み上がる瞬間がたまらなく好きだった。だから耐えてきた。社長の嫌味も部長の無視も、全部。

でも、その日が来た。社長室で解雇を言い渡された。まるでゴミを捨てるみたいに、さらっと。その瞬間、私の中で何かがはっきりと決まった。後悔させる。必ず後悔させてみせる。

あの日から三ヶ月前の話をさせてほしい。黒木社長が「学歴改革」と称して社内の人事制度を刷新すると宣言したのは、ある月曜日の朝礼だった。これからは大卒以上を幹部候補とする。それ以外は現場補助に留めおく。全員の前でそう言い切った。視線がちらりと私に向いた。霧島部長が口元を歪めて笑っていた。私は何も言わなかった。ただ手帳に「六月二日」と書いた。その日が、私の中でのカウントダウン開始日になった。

それまでの五年間、私は数字を作り続けてきた。新規取引先の開拓件数は社内トップ。物流コストの削減提案が通って年間八百万円の経費を圧縮した。経理の帳簿を整理し直して、二期連続赤字だった第三営業部を黒字に転換させた。でも評価されたのは、大卒の男性社員だった。私がどれだけ結果を出しても、名前すら呼ばれないことがあった。会議で私の提案をそのまま横取りして発表した社員が、翌月昇進した。私はその場で何も言えなかった。ただ手を膝の上で握りしめて、笑っていた。

「りんさんがいなければ、回らないんですけどね」

森下先輩が小声でそう言ってくれた時、泣きそうになったのを覚えている。私は「ありがとうございます」と笑って答えた。その感謝を胸にしまって、また翌日も仕事をした。でも黒木社長は、私の実績など最初から見ていなかった。

「さっきのお前の仕事は誰でもできる。高卒でもできる仕事だ。だから高卒に任せておけばいい。つまり、それがお前の限界だ」

会議の後、廊下で私に向かってそう言い放った。周りに三人の社員がいた。誰も助けてくれなかった。私はただ「承知しました」と頭を下げた。その夜、恋人の田中誠に電話した。

「ねえ、本気で会社を作ったら、出資してくれる?」

電話の向こうで少しの沈黙があった。それから、低く落ち着いた声が帰ってきた。

「ずっと待ってたよ、その言葉」

その一言で、私の覚悟が固まった。

翌朝、私は普通に出社した。何も変わらない顔で、いつも通りパソコンを開き、いつも通り取引先にメールを送った。でも頭の中では、すでに動き始めていた。まず市場調査。黒木社長の会社、株式会社黒木フーズは中小食品卸業者として関東圏に約四十社の取引先を持つ。売上は年間約十二億円。しかし私が経理を見てきた限り、実態は綱渡りだった。主力取引先の二社が来期の契約見直しを示唆していること。物流コストが業界平均の一・三倍に膨らんでいること。そして社長が誰にも話していない裏帳簿の存在。それは私だけが知っていた。五年間、誰にも言わなかった。でも今は使える切り札だった。

「りんさん、今日も早いですね」

森下先輩が声をかけてきた。先輩は入社が年のベテランで、私がこの会社で唯一心を開ける人だった。

「先輩、少し相談があります。昼休み、時間をもらえますか?」

私は静かに言った。先輩は何かを察したように目を細めた。

「分かった。屋上で待ってる」

昼休み、私は先輩に全部話した。会社を作ること、田中が出資してくれること。黒木フーズの取引先のうち主力二社に、私が個人的なパイプがあること。先輩は黙って聞いていた。途中で一度だけ、小さく息をついた。でも最後まで何も遮らなかった。全部聞いて、一言言った。

「私も連れて行ってくれる?」

その言葉に、私はこの三ヶ月で初めて涙が出そうになった。こらえて笑って頷いた。

「もちろんです。先輩がいてくれたら、百人力です」

先輩は少し照れたように視線をそらして、それから真剣な顔に戻った。

「いつ動く?」

「首になった翌日から」

先輩は小さく笑った。

「やっぱりりんさんだ」

その日の夜、私は会社設立の書類を作り始めた。株式会社桜フード。資本金三千万円。代表取締役、さりん。画面に映る文字を見て、手が震えた。でも、その震えは怖さじゃなかった。高揚だった。

それから二週間後、私は首になった。きっかけは些細なことだった。取引先との交渉で、私が独断で値引き提案をしたことを黒木社長が問題にした。誰が許可した。お前は現場の兵隊だろ。頭を使う仕事は大卒の社員に任せておけ。会議室に呼ばれた。黒木社長、霧島部長、そして経営企画の大卒社員が三人。まるで裁判みたいだった。

「さりん、君を今月末をもって解雇する。学歴のない女に経営判断はできない。これ以上、うちに置いておくのは会社のためにならない」

黒木社長は鼻で笑いながらそう言った。霧島部長がくっくと笑った。五年間積み上げてきたものを、この二人はたった数秒で踏みにじった。それでも私は息を整えた。感情を顔に出すつもりはなかった。ゆっくりと社長の顔を見た。三秒、黙った。

「分かりました。お世話になりました」

それだけ言って立ち上がった。

「荷物はすぐまとめろ。強制退去だ」

背中に社長の声が刺さった。

「お前みたいな高卒に払ってきた給料、無駄だったなあ」

霧島部長がそれに続けて笑った。私は振り返らなかった。振り返ったら、泣いてしまいそうだったから。廊下に出た瞬間、森下先輩が待っていた。先輩は何も言わず、私の手を握ってくれた。その手の温かさで、張り詰めていたものが少しだけ溶けた。

「行こう」

私は頷いた。デスクに戻って、五年分の荷物をダンボール一箱にまとめた。思ったより少なかった。でもここに置いてきたものは、もっと多かった。時間も努力も感情も。全部、持っていく必要はなかった。これからは、自分のために使う。エレベーターを降りてビルの外に出た。春の風が肌に当たった。ここからが、本当の始まりだった。

翌日から、私は動き続けた。まず法人登記を完了させた。田中が出資した三千万円に加え、祖父から相続した不動産を担保に追加融資二千万円を引き出した。合計五千万円の運転資金。中小食品卸としては、十分すぎる初期資本だった。次に人材。黒木フーズで実力を発揮できずにいた若手社員に、一人一人連絡を入れた。

「うちに来ませんか?」

断られた人もいた。それでも最終的に、五人が「行きます」と言ってくれた。物流担当の松田、経理の吉田、営業の中村。全員、黒木社長に正当に評価されてこなかった人たちだった。みんな、くすぶっていた。私はその火を、一緒に燃やしたかった。

そして最大の勝負は、取引先だった。黒木フーズの主力取引先、大手スーパーの丸越フレッシュのバイヤー、藤原さんに連絡した。藤原さんとは三年間、毎月欠かさず顔を合わせてきた。数字の話だけじゃなく、現場の悩みも業界の変化も一緒に考えてきた相手だった。

「ささん、やめたんですか? それは困ったなあ」

「いえ、むしろ」

藤原さんは少し間を置いて続けた。

「正直に言うと、うちも黒木フーズとの契約を見直そうとしていたんですよ。対応が雑になってきて」

「桜フードで必ず期待に応えます。一度だけ、話を聞いてもらえますか」

「来週、時間を取りましょう」

電話を切って、私は深く息を吐いた。手が少し震えていた。でも、これは怖さじゃない。確かな手応えだった。翌朝、田中にその話をすると、静かに頷いた。

「りんが五年間積み上げてきたものが、ちゃんと残ってたってことだよ」

その言葉が、じわりと胸に染みた。会社は私を首にした。でも、私が作ってきた信頼は、誰にも奪えなかった。

設立から三週間で、最初の取引が動いた。丸越フレッシュとの契約が正式に決まった。月間取引額は約八百万円。スタートとしては申し分なかった。藤原さんとの契約締結の帰り道、私は一人でコーヒーを飲んだ。チェーンのカフェの窓際の席。黒木フーズに入社した日のことを思い出した。あの頃の私はただがむしゃらだった。認めてもらいたくて、結果を出し続けた。でも今は違う。自分のために、自分が信じる仕事をしている。その違いが、こんなにも大きいとは思わなかった。

さらに一週間後、もう一社。食品チェーンの地域子会社からも引き合いが来た。黒木フーズの元取引先だった会社だ。

「前からささんと直接やりたかったんですよ。黒木社長じゃなくて、担当者と」

そう言われた時、胸の奥でじんと来た。私はずっと会社の顔として動いていた。でも評価されていたのは、黒木フーズじゃなくて、私だったのだと、その時気づいた。五年間、無駄じゃなかった。一日も、無駄じゃなかった。

同じ頃、黒木社長は何も知らなかった。森下先輩から情報が入っていた。

「社長、最近機嫌が悪いです。取引先が急に音信不通になったとかで」

そうでしょうね。黒木フーズの屋台骨を支えていた取引先二社が、私のところに来たのだから。黒木社長は原因に気づいていない。競合他社に取られたと思っているはずだった。まだ私の名前は出ていない。でも、それももうすぐ変わる。田中が私の耳元で言った。

「りん、次のフェーズに行く準備はできてる?」

「ずっと準備してた」

設立から二ヶ月が過ぎた。桜フードの月商は、気がつけば三千五百万円を超えていた。スタッフも最初の五人から十二人に増えた。取引先は十四社。利益率は黒木フーズの一・八倍。田中のVCネットワークを通じて食品業界専門のコンサルタントとも繋がり、物流の効率化と仕入れレートの最適化を一気に進めた。私が黒木フーズ時代に提案して却下され続けてきたアイデアを、片っ端から実行した。全部、うまくいった。

「りんさん、この数字、本当ですか?」

経理の吉田が目を丸くした。

「本当です。でも、まだ通過点ですよ」

私は笑って答えた。吉田は入社初日、「黒木フーズでは数字を出しても褒められたことがなかった」と話していた。今は毎朝誰よりも早く出社して、誰よりも丁寧に経理処理をしている。環境が一つ違うだけで、こんなに変わる。それを見るたびに、黒木社長のやり方がいかに多くのものを潰してきたかを思った。

一方、黒木フーズは急速に傾いていた。主力取引先を次々と失い、売上が三ヶ月で約四十パーセントダウン。銀行からの融資も渋られ始めたと、森下先輩から連絡が来た。

「社長、毎日怒鳴り続けてます。誰が情報を流したって社員を問い詰めて。霧島部長が真っ先に責任転嫁して、若手が二人やめました」

自業自得だと思った。でも私に感情的な怒りはなかった。怒りはとっくにエネルギーに変えて、使い切っていた。ただ淡々と、次の一手を考えていた。その夜、田中が言った。

「黒木フーズの株、今なら安く買える。M&Aの準備を始めようか」

私は少しだけ目を閉じた。あの社長室で「荷物をまとめろ」と言われた日を思い出した。あの瞬間から、全てはここに向かっていた気がした。

「始めましょう」

M&Aの準備は、田中のチームが水面下で進めた。私は表に出なかった。黒木フーズ側は買収の打診があったことは知っていた。でも相手が誰かは、まだ知らない。

「桜フードという会社から、事業の提案が来ています」

顧問弁護士からそう聞かされた黒木社長は、鼻で笑ったらしい。

「桜フード? 聞いたことないな。どこの馬の骨だ?」

森下先輩が後から教えてくれた。「社長、すごく馬鹿にした口調でした。『中将のくせに生意気だ』って」。私はそれを聞いて、静かに微笑んだ。その余裕があと少しで消えることを、社長はまだ知らない。交渉の席に私が姿を現す瞬間を、最大限に効果的にするために、タイミングを測っていた。

交渉の日は三週間後に設定した。場所は都内の高級ホテルの会議室。桜フード側は私と田中、顧問弁護士の三人。黒木フーズ側は黒木社長、霧島部長、顧問弁護士の三人。対等な布陣だった。でも中身は、対等じゃなかった。準備の三週間、私は一日も気を抜かなかった。黒木フーズの財務状況を細部まで洗い直した。交渉で想定されるあらゆる反論を書き出して、田中と二人で潰していった。深夜まで続くこともあった。それでも疲れを感じなかった。むしろ集中するほどに頭が冴えた。これが、自分のための仕事をするということかと思った。

当日の朝、森下先輩からメッセージが来た。

「社長、今日は張り切って高級スーツを着てるらしいですよ。相手をやり込めるつもりで、鼻息が荒いって」

私は着替えながらそのメッセージを読んだ。鏡の中の自分を見た。二十八歳、高卒。学歴のない女。上等だ。

午後二時、ホテルの会議室。私たちが先に席についていた。テーブルの上には桜フードの資料が整然と並んでいた。田中は静かに水を飲んでいた。顧問弁護士は手帳を開いて待っていた。私は背筋を伸ばして、ドアを見ていた。

時間通り、ドアが開いた。黒木社長が入ってきた。上等なスーツ。自惚れ満々の顔。そして私を見た瞬間、その顔がゆっくりと歪んだ。

「お前、何で」

声が裏返った。

「お久しぶりです、黒木社長。桜フード代表取締役のさりんです。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」

私は立ち上がって、丁寧に会釈した。社長の顔から血の気が引いていくのが分かった。霧島部長が目を見開いた。

「お、お前、なんでここに?」

「本日の交渉窓口は、代表のさです。よろしくお願いします」

田中が静かに言った。黒木社長はしばらく口が動かなかった。それからようやく声を絞り出した。

「こ、これはどういうことだ? お前が、お前がうちを買収しようとしているのか?」

「はい」

私は静かに頷いた。

「黒木フーズの全株式を取得し、事業を継続させていただきたいと思っています。従業員の雇用は守ります。ただし、役員の刷新は条件です」

「ふざけるな。お前は高卒だろ。学歴もないくせに」

田中が一枚の書類をテーブルに置いた。桜フードの直近三ヶ月の決算報告書。黒木社長はそれを見て、言葉を失った。霧島部長が手を伸ばしかけて、止まった。会議室に静寂が落ちた。私はその沈黙を急いで埋めようとは思わなかった。数字が、私の代わりに全てを語っていた。

沈黙が続いた。黒木社長の手が、書類の上で止まっていた。月商三千五百万円。純利益率二十二パーセント。取引先十四社。全部、わずか三ヶ月で作り上げた数字だった。

「これは本物の数字です。銀行の残高証明も、取引先との契約書も、全部揃っています。ご確認いただけますか?」

私は淡々と言った。黒木社長は震える手で書類をめくった。霧島部長は何も言えずに、下を向いていた。二人とも、私が黒木フーズにいた頃とは別人のようだった。あの頃は私を見下して笑っていた。今は、顔を上げることもできない。

田中が続けた。

「黒木フーズの現在の財務状況では、このまま半年以内に資金ショートの可能性があります。弊社の試算では、メインバンクの次回審査の通過は難しい。従業員四十名の雇用を守る意味でも、今回の提案は最善かと思いますが」

黒木社長の顔に、初めて恐怖の色が浮かんだ。自信満々で入ってきた男が、今は椅子の上で縮んでいた。私はその様子を、感情を込めずに見ていた。哀れみも怒りも湧かなかった。ただ事実を積み上げていくだけだった。

「なんで、なんで、お前が社長に」

私は静かに言った。

「私を雇い続けていたら、この数字は全て黒木フーズのものになっていました。でも社長は私を首にした」

声に怒りはなかった。ただ事実だけを述べた。それが社長には、どんな言葉よりも重く響いたはずだった。黒木社長の手がかつかと震えていた。長い沈黙があった。窓の外で車の音がかすかに聞こえた。それ以外は、静かだった。

「分かった。条件を聞く」

その言葉を聞いた瞬間、私は胸の中で静かに息を吐いた。交渉は二時間かけて進んだ。私は感情を一切見せなかった。数字と条件だけを淡々と話した。株式の買い取り価格、従業員の待遇、役員の処遇。黒木社長は時折弁護士と小声で言葉を交わした。霧島部長は、ほとんど何も言わなかった。最初に入ってきた時の威勢は、どこにもなかった。

そして最後の条件を出した時、黒木社長の顔が真っ青になった。

「社長及び霧島部長は、買収後三ヶ月以内に役員を退任すること。退職金は規定通り。ただし、在籍中の不正会計に関しては、別途法的対応を検討します」

「ふ、不正会計だって?」

霧島部長が立ち上がりかけた。

「ご着席ください」

田中が静かに、しかし有無を言わせない声で言った。霧島部長はゆっくりと座った。その顔は青を通り越して、白くなっていた。私は続けた。

「五年間、私は経理を担当していました。帳簿の異常には気づいていました。ただ、今回の交渉が円滑に進めば、その件は不問とする準備があります」

黒木社長の目が揺れた。

「お前、ずっと知っていたのか?」

「はい」

私は短く答えた。それ以上は言わなかった。言葉を重ねる必要はなかった。長い沈黙があった。黒木社長は弁護士と目を合わせた。弁護士が、小さく頷いた。黒木社長はゆっくりと書類の前に座り直した。ペンを手に取った。手がかすかに震えていた。

「分かった。サインする」

その瞬間、私の胸の中で何かが静かに溶けた。怒りでも喜びでもない。ただ、終わったという感覚だった。五年分の重さが、ストンと消えた気がした。サインが終わった後、黒木社長はしばらく動けなかった。椅子に座ったまま、ぼんやりとテーブルを見ていた。霧島部長は、すでに俯いて顔を上げられなかった。二人とも、何も言わなかった。言える言葉が、もう残っていないようだった。私は書類を受け取り、丁寧に礼を言った。

「ありがとうございます。従業員の方々の雇用は、必ず守ります」

社長は何も言わなかった。田中と顧問弁護士が荷物をまとめ始めた。私たちが立ち上がって会議室を出ようとした時、黒木社長が小さな声で呟いた。

「お前は、最初からこうするつもりだったのか?」

私は足を止めた。振り返った。

「いいえ。正直に言うと、最初はただ仕事がしたかっただけです。認めてほしかっただけです」

社長は黙っていた。その顔に怒りはなかった。あったのは、後悔に似た何かだった。

「でも、社長はそれを許してくれなかった」

それだけ言って、私は部屋を出た。廊下に出た途端、田中が私の手をそっと握った。

「よくやった」

たった二文字だった。でも、私の目から涙がこぼれた。五年分の悔しさが、一気に出てきた気がした。こらえようとしたけれど、無理だった。田中は何も言わずに、ただそこにいてくれた。その温かさが、また涙を呼んだ。

「ありがとう」

私は小さく呟いた。声にならなかったけれど、きっと伝わっていた。ホテルのロビーを抜けて外に出た。夕暮れの空が、橙色に染まっていた。こんなに空が綺麗だと思ったのは、いつぶりだろう。

買収の報道は、翌日には業界内に広まった。二十八歳高卒女性がわずか三ヶ月で起業し、元勤務先を買収。業界誌がその見出しで記事にした。田中のSNSにも拡散された。コメント欄には「すごい」「感動した」「元社長、ざまあみろ」という声が溢れた。私はそのコメントを少し照れながら読んだ。でも一番嬉しかったのは、知らない誰かの言葉じゃなかった。森下先輩から連絡が来た。

「りんさん、社内かなりざわついてます。黒木社長、昨日から出社してないらしくて。霧島部長が社員に謝って回ってるって」

私は少し笑った。遅すぎるけれど、まあいいか。そして先輩に言った。

「先輩、うちの副社長をやってもらえますか?」

電話の向こうで、先輩が黙った。数秒の沈黙があった。それから、泣きそうな声がした。

「もちろんです」

私も泣いていた。二人で泣きながら笑った。おかしくて、嬉しくて、それ以外に言葉が見つからなかった。

桜フードの社員たちに正式に報告した日、みんなが拍手してくれた。松田が「社長、かっこよすぎです」と言って照れた。吉田が「数字、全部一緒に作りましたよね」と言って泣いた。中村が「俺、ついていきます。一生」と言って笑った。私はその顔を、一人一人見渡した。この人たちがいなければ、三ヶ月は乗り越えられなかった。数字を作ったのは私じゃない。みんなだった。私はこの人たちのために、ちゃんと会社を続けなければと強く思った。自分のためじゃない。この人たちのために。

それから一ヶ月後、私は黒木フーズ改め桜フード第二事業部の全社員を前に立った。四十人の目が私に向いていた。元黒木フーズの社員たち。かつての私の同僚たち。私を無視し続けた人もいた。廊下で黒木社長の暴言を聞いていて、何も言わなかった人もいた。それでも、私は責めるつもりはなかった。あの環境では、誰もが黙るしかなかった。それを、私は誰よりもよく知っていた。

「皆さんの雇用は守ります。評価はスキルと実績だけで判断します。学歴も年齢も性別も関係ない」

会議室が静まり返った。誰かが小さく息を飲む音が聞こえた。私は続けた。

「ここはもう、怒鳴られる場所じゃありません。黙って耐える場所でもありません。言いたいことを言って、やりたい仕事をしてください」

その言葉を口にした瞬間、自分でも胸が熱くなった。五年前の私に聞かせてあげたかった言葉だった。

一人の若手社員が手を挙げた。

「さ、いや、社長。俺、以前何度か無視してしまいました。すみませんでした」

私は首を振った。

「過去はいいです。これからどうするかだけ、考えましょう」

その言葉に、何人かが目を赤くした。私も泣きそうだった。でもこらえた。社長が泣いたら、みんなが困るから。

黒木社長はその日、もういなかった。退任の手続きを終えて、静かに去っていた。霧島部長も同様だった。二人がいなくなった会社は、驚くほど空気が変わった。みんなが顔を上げて、仕事をしていた。笑顔があった。私が五年間見たかった光景だった。それが、ここにあった。

三ヶ月後、黒木龍一の名前が業界に一度だけ出た。今度は「元社長、就職先も見つからず」という見出しで。学歴のない女性に買収されたという話が業界内で広がり、大手企業からは声がかからなかった。中小企業に面接に行っても、「桜フードのことを知っていますか」と聞かれた。その度に黒木社長がどんな顔をしたか、私には想像できなかった。したくもなかった。妻には離婚を突きつけられたと聞いた。「あなたの自慢は学歴だけだった。その学歴より高卒の女の子の方が優秀だったなら、私はずっと何と結婚してたの?」そう言われたらしい。霧島部長は別の会社で経理補助として再就職したが、元黒木フーズという経歴がマイナスに働き、出世の見込みはないという話だった。私はその話を聞いて、特に何も感じなかった。ただ、正しいことをすれば正しい結果になると思っただけだ。人を踏みにじって積み上げたものは、いつか必ず崩れる。それだけのことだった。

桜フードの年間売上は、三億円を突破した。田中が次のラウンドで評価はもっと上がると言った。私は笑って答えた。

「数字より、中身を作りたい」

田中はしばらく私を見て、それからゆっくりと微笑んだ。

「それが、りんの強さだよ」

その言葉を、私は素直に受け取った。昔の私なら、照れて流していたと思う。でも今は、ちゃんと自分の強さを信じられる。高卒だから無理だなんてことは、この世界に存在しない。それを証明した三ヶ月間だった。あの社長室で「荷物をまとめろ」と言われたあの日が、私の本当のスタートだった。そして、これからも私の戦いは続く。桜フードと一緒に、まだ見たことのない景色を見に行く。それだけを、今は思っている。

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