妹の結婚式で、私たちの席だけ料理が出なかった。八十席のうち七十八人分しか運ばれず、私と夫の前だけ白いクロスが空いていた。手違いだと思った。違った。ホテルの担当者は謝らなかった。「お料理は七十八名様で承っております」とだけ言った。義妹のリカは笑っていた。近くの卓からも笑い声が上がった。「欲しいなら、追加で払って。」義母は私の肩に手を置いた。「晴れの舞台なんだから、細かいことで揉めないの。」隣で…

妹の結婚式で、私たちの席だけ料理が出なかった。八十席のうち七十八人分しか運ばれず、私と夫の前だけ白いクロスが空いていた。手違いだと思った。違った。ホテルの担当者は謝らなかった。「お料理は七十八名様で承っております」とだけ言った。義妹のリカは笑っていた。近くの卓からも笑い声が上がった。「欲しいなら、追加で払って。」義母は私の肩に手を置いた。「晴れの舞台なんだから、細かいことで揉めないの。」隣で...

花嫁は会場で笑った。八十ある席のうち、七十八人分の料理が運ばれた。私と夫の前だけ、白いクロスが空いたままだった。ナイフとフォークと、名前の入った石札だけが並んでいる。最初は手違いだと思った。違った。だって、二人分、頼んでいないもの。リカが顔を覗き込んで笑った。近くの卓からも笑い声が上がった。

スタッフに尋ねると、予約は私たち二人だけ料理なしになっていると言われた。家族なんだから、食事が目的じゃないでしょ。義母が娘の横に立った。晴れの舞台なんだから、細かいことで揉めないの。隣で夫の幸介が白いクロスを見下ろしていた。十七年間、父親をしてきた人だ。

帰ろうか。うん。私たちは立ち上がった。リカはまだ笑っている。本当に帰るの? 子供じゃあるまいし。夫はそれだけ言って、振り返らなかった。一皿も食べずに、私たちは会場を出た。いまに渡す約束の五百万円は、口座でまだ一円も動いていない。リカはまだ知らない。あの笑い声が、同じ日のうちに自分へ帰ることを。

私は奥村さおり、三十八歳。事務用品メーカーの営業事務をしている。仕事は伝票と納品書の山を相手にすることだ。数字が一つ合わないだけで、その日は終わらない。だから、髪を捨てられない症候群になった。財布のレシートも通販の明細も、一旦は食器棚の下の箱に入れる。ノートも一冊つけている。何にいくら使ったかを、月末にまとめて書き移すだけの単純なものだ。夫にはよく笑われた。そんなもん、誰も見ないだろう。見ないから、取っておくの。会社で私がやっているのも、結局は同じことだ。営業の担当者が値引きの話を持ってくる。私はまず前の伝票を出す。前回いくらで出したのか、その時何を条件にしたのか。髪を並べれば、話は三分で終わる。並べられなければ、一時間かけても終わらない。

夫の名前は奥村幸介。四十一歳。建築資材のメーカーで資材課にいる。結婚して十年になる。子供はいない。共働きで、給料も生活費も貯金も一つの口座にまとめている。誰の分という区切りは作らなかった。二人の金だと思っていたからだ。

駅の裏に、古い洋食店がある。カウンターが六席とテーブルが三つだけの店だ。結婚記念日にも行くし、なんでもない水曜の夜にも行く。ハンバーグとポタージュが看板で、私はいつも同じものを頼む。コースはその日の気分で決める。運ばれてきた皿が二つ並ぶと、それだけで一週間の疲れが半分になった。穏やかな十年だった。ただ一つ、どうしても慣れないものがあった。夫の妹だ。

幸介の父、正吾さんが亡くなったのは十七年前の秋だ。五十二歳だった。私はまだ会ったこともなかったから、その日のことは全部、後から聞いた。幸介は二十四歳で母の隣に立った。妹のリカは十四歳で、中学の制服のまま座っていた。生命保険が下りたが、家のローンの残りでほとんど消えた。葬儀の帰り道は、義母から同じ言葉を繰り返し聞かされたそうだ。リカには苦労させたくないって、お父さんが言ってたのよ。

その夜、夫は自分の部屋で紙に一行だけ書いた。その紙があること自体は、結婚してすぐに聞いた。何が書いてあるのかは、それから十年、知らなかった。一度だけ引き出しを開けかけて、やめたことがある。知っていたのは結果だけだ。大学の学費、奨学金の返済、アパートの家賃、免許がいると言えば、夫の口座から金が出ていった。結婚するまで幸介は実家で義母と暮らし、給料の多くを妹に回していた。

三年前には車も買った。正確に言えば、買ったのはリカで、払ったのは幸介だ。あの時は私も同席していた。販売店の椅子に並んで座り、リカは迷わず一番上の色を指した。これがいいの。この色がいいの。リカ、予算がある。お兄ちゃんが出してくれるって言ったもん。言ってない。じゃあ、言ってよ。兄弟なんだから、当たり前じゃない? 当たり前。今はその言葉を、本当に当たり前の顔で使う。結局その日、契約書の支払いの欄には百八十万円と書かれた。書いたのは幸介だ。リカは鍵を受け取ると、写真を撮って友達に送っていた。帰りの車の中で、リカは後ろの席から言った。お兄ちゃん、次は保険とタイヤね。まだあるのか? あるでしょ。車って、そういうもんだもん。そういうもの。今はその言葉も好きで使っている。

私も最初は理解していた。妹さんなら仕方ない。幼くして親を亡くしたのだから、兄が支えるのは自然なことだ。そう思っているうちに、十年過ぎた。ある金曜の夜も、電話は同じ調子で始まった。幸介が風呂上がりに髪を拭きながら出る。私は台所で洗い物をしていた。スピーカーにしていたわけでもないのに、リカの声はよく通った。お兄ちゃん、エアコン壊れちゃった。壊れたって、去年直したばっかりだろ。だから、今度は買い替えなんだって。六万でいいかな? 六万でいいという言い方が、私は苦手だった。六万は私の月の食費より多い。幸介が黙る。間があって、リカが続けた。今月きつくてさ、カードの引き落としもあるし。お前も、そう言ってなかったか? 言ったかもね。で、いつ振り込んでくれるの? そこに「お願い」という言葉はなかった。頼み方ではなく、確認の仕方だった。私は蛇口を止めた。水音が消えて、台所が急に広くなったように感じた。幸介がため息をついた。今週は無理だ。来週にしてくれ。えー、もう暑いんだけど。リカ。はい。はい。わかった。じゃあ来週ね。電話が切れる。幸介はタオルを首にかけたまま、しばらく画面を見ていた。ごめんな。なんで幸介が謝るの? いや、うるさい方だし。画面を確かめて、また戻した。それから、いつもの言葉を口にした。妹だから。その一言で、十七年が片付けられてきた。

翌日、義母から私の携帯に電話があった。さおりさん、リカのエアコンの話は聞いてる? はい。幸介から。あの子ね、昔から暑がりなの。子供の頃、夏になると汗疹を出してね。かわいそうで、見ていられなくて。そうですか。幸介にちゃんと言っといてね。妹なんだから。私が言っておく話なのだろうか。受話器を置いてから、しばらくその意味を考えた。答えは出なかった。

翌週の火曜日、幸介は六万円を振り込んだ。リカからの返信は一行だけだ。ありがとうも、助かったもない。「入ってた。」それだけだった。私はその画面を見てしまった。見た後で、見なければよかったと思った。

その夜、私は食器棚の下から箱を出した。遡ると、年が開けてから今月までに出した金は三回で十九万円になっていた。それとは別に、毎月三万が動いていた。リカが一人暮らしを始めてから六年間、幸介は家賃の補助として月に六万円を送っていた。それは三年前に終わったのだが、終わったのは六万円の方だけで、半分は名前を変えて残った。生活費の貸しという名前だ。手取り十九万で家賃が七万五千。そこに三万が乗るのと乗らないのとでは、月の見え方がまるで違う。リカがバッグを変えていたのは、その三万の分だった。前の年は五十四万。その前の年は車の分があったから、途中で数えるのをやめていた。書き移しながら、自分の指が止まるのが分かった。責めたいわけではない。ただ、桁が変わっていく速さが怖かった。ノートを閉じて箱に戻し、私は寝室の電気を消した。

洗濯機を回しながら、私は自分に言い聞かせる。夫の稼いだお金だ。妹に出したいなら出せばいい。私が口を挟むことじゃない。口座は一つにまとめてあるけど、そこは考えないようにした。その考え方が通用しなくなるまで、あと数ヶ月だった。

実家に行くのは月に一度か二度だ。義実家は私鉄の駅から歩いて十分ほどの古い二階建てだ。門の脇に義母が植えたという金木犀があって、秋になると玄関まで匂いが来る。義母のみち子さんは六十五歳。年金だけの暮らしで、パートは五年前にやめた。その日の夕食は、義母の作った筑前煮といなり寿司だった。話は自然と家のことになった。台所の換気扇が古くて、冬に湯気が出なくなる日があるという。それ、うちの会社で扱ってるやつなら安く入るかも。私が言うと、卓の空気がぴたりと止まった。リカが箸を置いた。あれ、家族の話だから。え、さおりさんには関係ないでしょ。義母は何も言わなかった。リカの湯飲みに茶を足しただけだった。私は、そうね。ごめんなさいと言って、いなり寿司をもう一つ取った。味はよくわからなかった。幸介は何も言わなかった。後で台所に来て、悪かったなと言った。謝るのはいつも夫で、言った本人が謝ったことは一度もない。関係ない。今はその言葉を、十年、形を変えずに使い続けている。私が口を出していいのは、皿を下げることと、洗い物をすることだけだ。

食後、義母と二人で流しに立った。さおりさん、幸介は最近どうなの? どうというのは、何がでしょう。前はもっと家のことを気にかけてくれたのに。泡だらけの茶碗を持ったまま、私は義母の横顔を見た。結婚してから変わったのよ。その言い方には棘がなかった。だから、余計に残った。悪気があって刺すなら、まだ抜きようがある。義母は本当にそう思っているだけだった。座敷からリカの笑い声が聞こえた。相手をしているのは幸介だ。お兄ちゃん、最近ケチになったよね。前は言えばすぐ出してくれたのに。夫の返事は短かった。そうか。昔はすぐ出してくれたのにね。名前は出さない。出さない方が効くと知っている言い方だった。台所の私に聞こえる声で言っている。それも分かっていた。幸介は、そんなことないと短く返しただけだった。私は蛇口の音を強くした。

茶碗を拭きながら、私は飾り棚を見ていた。写真立てが五つ並んでいる。義父と義母の結婚式の写真。幼い幸介と赤ん坊のリカ、リカの七五三、リカの成人式、大学の卒業式。そこに私が映っているものは、一枚もない。幸介と私の結婚式の写真は、十年前に義母へ渡してある。渡した時は「飾るわね」と言われた。飾られている場所を、私はまだ見つけていない。帰りの道で、そのことは言わなかった。写真の話をすれば、幸介が実家へ電話をかける。かければ、義母は飾る。飾られた写真を見て、私は今度こそ何も言えなくなる。

その二週間後、幸介の誕生日があった。私は仕事帰りにケーキを買って帰った。家に着くと、夫はもう食卓についていて、コンビニの袋を下げたままだった。実家で食ってきた。え? リカが寿司を取ってた。母さんが電話してきて、来いって。私には言ってなかったのか。幸介の顔が曇った。それで、全部わかった。その夜、リカからメッセージが届いた。写真付きだ。座敷に並んだ寿司とロウソクを立てたケーキ。義母とリカと幸介の三人が映っている。「お兄ちゃんの誕生日会でした。」文面はそれだけだった。呼べなかった事情も書いていない。書く必要がないと思っているのだと分かった。ケーキの箱は、翌朝まで冷蔵庫に入ったままだった。

正月には、義実家に親戚が十人ほど集まる。義母の姉の住江さんとその息子夫婦、義父の弟の家族。私はその日、朝の九時から台所にいた。料理を温めて、皿に取り分けて、運んで、下げて、洗う。座敷から笑い声が聞こえる。リカは座敷側にいて、従姉たちと写真を撮っていた。昼過ぎに、義父の弟の奥さんが台所へ来て私に言った。さおりさん、ずっと働いてるじゃないの。少し座ったら。大丈夫です。この人ばっかり使って。義母は座敷から答えた。あら、さおりさんは慣れてるから。慣れている。十年やれば、確かに慣れる。住江さんだけが立ち上がって、皿を運ぶのを手伝ってくれた。あんた、こういうのは断っていいのよ。いえ、断らないから、来年もこうなるの。その時は笑ってごまかした。

その週の土曜、私は駅の改札でリカに会った。向こうが先に気づいて、手を振ってきた。上機嫌の時のリカは、よく喋る。腕にかけていたバッグには、私でも名前の分かるブランドの金具がついていた。あれ、今期の新作、可愛いでしょ? うん。綺麗な色。三ヶ月待ったんだから。リカは駅ビルのアパレルに務めている。正社員で勤続九年だ。手取りは十九万円だと、本人が前に言っていた。バッグの値段を、私は聞かなかった。聞いてはいけないと思った。ああ、そうだ。お兄ちゃんに言っといてよ。何を? 今度、うちの店員割引で靴が安く出るの。お兄ちゃんに一足、買ってあげようかなって。へえ。買ってあげるって言っても、お金はお兄ちゃんが出すんだけどね。リカは自分で言って、自分で笑った。私は笑えなかった。改札の前で、リカはスマートフォンを取り出して自分の写真を撮った。バッグが映る角度に腕を上げて、二枚撮って一枚を消した。私は横から聞いた。これ、載せるの? リカは画面を見たまま答えた。うん。載せないと意味ないじゃん。意味。何の意味なのか、聞かなかった。別れ際、リカはもう一つ置いていった。さおりさん、大変だよね。うちみたいな家に入っちゃって。うちみたいな家。その言い方の中に、私はいない。

その夜、幸介に話そうとしてやめた。言えば夫は謝る。謝るだけで、何も変わらない。妹だから。あの一言が出るまでの手順を、私はもう全部知っていた。私はノートを開き、その月の欄に義妹の分を書き出した。数字の下に線を引く。線を引いたところで、何かが止まるわけでもない。分かっていることが一つあった。義実家では、夫の給料は家族みんなの財布だ。私は後から入ってきた他人で、財布に手を伸ばす資格はないが、財布が軽くなる責任だけはあることになっている。誰もそう口には出さない。ただ、扱いの全てがそう言っていた。なぜリカは私にだけ冷たいのか。理由を聞いたことは一度もない。その答えを本人の口から聞くことになるのは、まだずっと先の話だ。

職場に、滝沢由紀さんという人がいる。四十歳で、私より二つ上だ。同じ営業事務で、机が向かい合わせになっている。昼休み、給湯室でお湯を汲みながら、私はつい愚痴をこぼした。義妹の話をしたのは、その時が初めてだった。エアコン六万ね、と滝沢さんは言った。で、その前は修理代が四万。さらにその前は車で、百八十万。滝沢さんはマグカップを持ったまま、しばらく黙った。奥村さん、それ、書いてる? 書いてます、ノートに。じゃあ、大丈夫。大丈夫って、何がですか? 何がって言われると困るけど。滝沢さんは湯気の向こうで笑った。うちの仕事と同じよ。数字が合わないって言われた時にね。勝つのは、記憶がいい人じゃなくて、髪を持ってる人なの。私は自分のノートを思い浮かべた。誰に見せるつもりもない。月末に書き移しただけのノートだ。取っておいた髪が役に立つ日なんて、来ない方がいいですけどね。来ない方がいいわね。でも、来た時にないと、こっちが嘘つきにされるから。その通りだと思った。伝票が一枚ないだけで、こちらの言い分が全部通らなくなる。仕事ではそれを毎日見ている。あとね、と給湯室を出る時、滝沢さんは振り返っていった。奥村さん、うちに来て九年でしょ? 取引先とやり合ってるとこ、私、何度も見てるのよ。値引きの根拠がおかしい時は、ちゃんと突っ返してる。仕事ですから。奥村さん、取引先には言えるのにね。返事ができなかった。仕事と家は違うと言おうとして、どこが違うのかを説明できなかったからだ。

その夜、洗い物を終えて居間に戻ると、幸介がテレビを消したところだった。さおり。うん。義妹への仕送りを、そろそろ終わりにしたいと思ってる。手に持っていた布巾を、私は卓の端に置いた。どうしたの? 急に。急じゃない。ずっと考えてた。夫は缶ビールのプルタブを開けては戻す動きを繰り返していた。親父が倒れた時、俺は入社二年目だった。葬式の弔問も返礼品も、母さんは何もできなくてな。全部、俺がやった。うん。あの頃は、それで良かったんだ。リカはまだ中学生だったし。母さんも五十前だったけど、働きに出たことがなかった。夫は缶の縁を指でなぞった。でも、あいつはもう三十一だ。俺が二十四の時、親父はもういなかった。あの頃の俺は、誰にも助けてもらってない。うん。同じにしろとは言わない。ただ、いつまでやるのかって話だ。私は返事の代わりに、冷蔵庫からもう一本持ってきた。夫は受け取って、栓を開けずに置いた。さおりにも、我慢させてきたよな。別に。別にって顔じゃないだろ。そう言われて、初めて自分の眉間に力が入っていたことに気づいた。終わりにするなら、ちゃんと言ってあげてね。ちゃんとって、途中でやめると、リカさんはきっと「お兄ちゃんは変わった」って言うから。最初から最後までって決めて、そう言って終わらせた方がいい。幸介は、それもそうだなと言って笑った。久しぶりに見る笑い方だった。その夜、私はなかなか寝つけなかった。嬉しいはずなのに、体のどこかが緊張したままだった。十年分の構えは、一晩では抜けないらしい。天井を見ながら、私は最悪の場合を考えていた。仕事の癖だ。納期の話をする時も、私はまず遅れた時の手順から決める。もし夫がまた出すと言い出したら、私はどうするのか。答えは出さなかった。出さないまま、いつの間にか眠っていた。

その日から、私の中で何かが緩んだ。終わる。もうすぐ終わる。そう思うだけで、会社へ向かう電車が軽くなった。翌日、滝沢さんに夫が仕送りをやめると言ったと報告した。良かったじゃない。はい。でも奥村さん、油断しないでね。給湯室でまた同じ場所に立って、滝沢さんはお湯を注いだ。うちの取引先でもね、来月から値上げしますって言ってきた会社が、結局そのままだったことがあるの。言うのとやるのは別だから。そうですね。やめるって決めた人には、大抵、もう一回だけ声がかかるの。「最後だから」って言われてね。その言葉を、私はその時、軽く聞いていた。帰りに書店に寄って、旅行の雑誌を一冊買った。十年、家族旅行というものをしていなかった。温泉の特集のページに付箋を貼って、私は鞄にしまった。けれど、話はそこで止まらなかった。

翌週の日曜、義母から電話があった。声が明るい。さおりさん、聞いた? リカね、結婚するお相手ができたのよ。そうなんですか。おめでとうございます。片桐健太さんという方でね、食品の卸売の会社に務めてるんですって。二つ上の、しっかりした人よ。良かったですね。それでね、ご実家がまた立派なところなの。だから、こっちも恥をかくわけにはいかないでしょ。その単語が、なぜここで出てくるのかが分からなかった。幸介にもよく言っておいてね。あの人は、こういう時に気が回らないから。はい。本当はね、幸介がまだ一人身のつもりでいてくれたら、一番良かったんだけど。義母は最後まで明るい声だった。だからこそ、私はしばらく受話器を戻せなかった。電話を切った後、幸介にそのまま伝えた。夫は、そうかと言って笑った。相手の人、どんな人なんだろうね。知らん。でも、まともな人だといいな。まともって、金の話がちゃんとできる人ってことだよ。幸介はそう言って、自分で笑った。めでたいじゃないか。式には出ような。うん。これで最後だな。リカが誰かの家の人になれば、俺の役目も終わる。終わると、夫はもう一度言った。私もそう思っていた。仕送りが終わり、リカが家庭を持ち、それぞれの生活が始まる。そういう終わり方を、私たちは疑っていなかった。鞄の中の旅行雑誌には、まだ付箋が張ったままになっていた。けれど、終わりにするまでに、私たちはもう一度だけ、大きな金額を口にする。

呼ばれたのは、一月の終わりの日曜だった。義実家の座敷に、式場のパンフレットが三冊広げてあった。表紙はどれも都内のホテルで、写真の中の階段は白くて長い。リカは化粧を済ませていた。人に見せる話をする時の顔だ。ここに決めたな。真ん中の一冊を、義母が押さえた。去年の秋に見学して、その場で申し込みを入れて、抑えてある。秋か。随分前だな。孝介が言うと、リカは肩をすくめた。いい日は、一年前から埋まっちゃうから。五月の土曜なんて、みんな取り合いだよ。義母が茶を運んできて、私の前にも湯飲みを置いた。ここに来て初めて、私にも席がある形になった。それで、いくらなんだ? 幸介が聞いた。リカは見積もり書のコピーを卓に滑らせた。数字を先に見たのは私だった。合計の欄に、六百二十万円と印字されている。式と披露宴、衣装、写真、引き出物、演出。八十名で組んだ見積もりだ。見積もりのうち、食べるものと飲むものに使われているのは百六十万円だった。六百二十万のうちの四分の一である。残りの四分の三は、衣装と写真と演出と部屋を借りる代。呼ばれた人が実際に受け取るのは、その四分の一の方だけだ。仕事の癖で、私は内訳の欄を目で追った。会場費、装花、映像、送迎バス。その中ほどに、料理と飲み物の行があった。お料理がお一人様、一五、〇〇〇円。それが八十名分。お飲み物は別の行で、お一人様五、〇〇〇円。八十人の口に入るものが、合わせて百六十万円。ホテルの披露宴としては、そんなものなのだろう。その下には、税抜とサービス料一割と消費税が並んでいた。仕事で見慣れた形だ。飲食物の単価に一割が乗る書き方も、うちの伝票と同じだった。私はその行を頭の隅に置いて、視線を合計へ戻した。六百二十万。幸介が声に出した。リカは平気な顔をしていた。今時、普通だよ。うちは八十人呼ぶんだから。お前ら、貯金はいくらある? それは大丈夫。全部、先に払うわけじゃないから。リカは見積もり書の裏を指さした。支払いの欄に、手付金三十万円と書いてある。この三十万を入れれば、契約できるの。残りの五百九十万は、式の六日後まででいいプランにしたの。ご祝儀をそのまま回せるでしょう。そういう仕組みがあることを、私はその時初めて知った。ホテルが自分のところで審査をして、勤務先と収入を書いた申し込み書を出させた上で、支払いを式の後まで待ってくれる。クレジット会社が立て替えるわけではないから、六日後には現金で用意しなければならない。期限を過ぎれば、遅れた分が利息で上乗せされる。その一つに私が気づくのは、ずっと後になってからだ。式を上げてから、もらったお金で払う。理屈は通っている。その申し込み書に名前を書いたのが健太さんだったと知るのは、まだ先の話だ。リカは、ご祝儀と自分の貯金で大体足りると聞かされていて、足りない分は健太の実家が出すとも聞かされていた。だから自分の名前で申し込んだ。名前を書くのは形だけだと思っていたと、後で本人が言った。ただ、八十人のご祝儀で五百九十万になるのかどうかは、全く別の話だ。

幸介も同じことを考えたらしい。ご祝儀でいくら見込んでるんだ? そんなの、やってみないと分かんないじゃん。分からないもんを当てにして、契約したのか。お兄ちゃん、細かい。細かい。六百二十万円の話を細かいと言われて、幸介は口を閉じた。私は見積もり書の内訳へ目を落とした。気になったのは、演出の欄だった。キャンドルリレー、フラワーシャワー、プロフィール映像、デザートビュッフェ、二回目のお色直し、ゴンドラでの入場。一つずつは五万から二十万で、合わせると九十万を超えている。リカさん。私が呼ぶと、リカはこちらを向いた。呼ばれたことに驚いた顔だった。この演出分は、健太さんとも相談されたんですか? なんで、さおりさんが聞くの? ご一緒に払う方ですから。健太は、私に任せるって言ってる。そうですか。あの人、こういうの分かんないから。分からない人に任されたから、好きに足した。そういう意味に聞こえた。私はそれ以上は言わなかった。ここで押せば、また「家族の話だから」と言われる。

そこで義母が座り直した。畳に手をついて、頭を下げた。幸介、お願い。お母さん。お父さんが亡くなってから、あんたがこの子の父親代わりだったでしょ。最後ぐらい、盛大に送り出してあげて。義母の白髪の分け目が、蛍光灯の下で光っていた。先方のご実家は、立派なところなのよ。水臭い式をして、リカが下に見られたらどうするの? 母さん、下に見られるのは金額じゃないだろう。そういうことじゃないの? 分からない人ね。義母はそこで立ち上がり、隣の部屋の仏壇の前へ行った。線香に火をつけて、鈴を鳴らす。それから仏壇の方を向いたまま言った。お父さん、リカがお嫁に行くのよ。仏壇の中の義父は、五十くらいの顔で笑っていた。私が一度も会ったことのない人だ。義母は仏壇に向かったまま続けた。お父さん、最後までリカのことを心配してたの。私が病院で手を握ったら、「リカを頼む」って言ったのよ。鈴の音が消えてから、義母はもう一度言った。幸介、あんたが父親代わりでしょ。その言い方は、頼み事の形をしていなかった。すでに決まっていることの確認の仕方だった。リカが金の話をする時と、全く同じだ。どこで覚えたのだろうと思ったが、答えを考えるまでもなかった。幸介は天井を見た。それからリカを見て、私を見た。少し、考えさせてくれ。その日は、それで帰った。

帰りの電車で、夫はほとんど喋らなかった。乗り換えのホームで缶コーヒーを二本買って、片方を私に渡した。さおりは、どう思う? 私が決めることじゃないよ。そういう言い方するなよ。じゃあ言うけど、あの口座、私の給料も入ってるよ。夫が私を見た。うん。それだけ。それ以上は言わなかった。言えば、責める形になる。私が欲しいのは、謝罪ではなかった。

その夜、私は通帳を開いた。十年で貯めた二人の金は、七百二十万円になっていた。子供がいない分、私たちは貯められた方だと思う。旅行を我慢して、車も持たず。外食は駅裏の洋食店だけにしてきた。五百万を引くと、二百二十万が残る。数字を書き出して、私はノートを閉じた。責める材料を作るために書いたのではない。私はただ、その金額の重さを自分の手で確かめたかった。

幸介は三日の間、何も言わなかった。最初の日は残業だと言って遅く帰った。その次の日は休みなのに、車の洗車に行った。うちに車はない。会社の営業車を洗ってきたのだそうだ。何かをしていないと落ち着かない人なのだと、その時初めて知った。その夜、私は台所から声をかけた。無理しなくていいからね。無理って、出さなくてもいいってこと。幸介は、そうだなと言って、そのまま風呂に入ってしまった。

三日が過ぎた夜、夫はいつもより遅く帰ってきた。上着から、あの洋食店の匂いがした。一人で行ってきたらしい。食卓で、幸介は箸を置いてから言った。五百万、出そうと思う。私は味噌汁の椀を持ったまま、その数字を頭の中でもう一度なぞった。ただし、条件をつける。条件。これを最後にする。今後は、一円も出さない。それは、リカにも母さんにも言う。それで、リカさんは納得するの? さあな。でも、言う。孝介がそう決めたなら、私は何も言わない。ありがとう。でも、一つだけ聞かせて。なんだ? 渡すのは、いつ? 夫は考えてから答えた。式の後だ。結婚祝いとして、あいつらの口座に振り込む。前に渡すと、多分、式の中身が増える。その判断は正しかったと思う。後から振り返れば、まだ渡していなかったことだけが、私たちに残された唯一の余白だった。その夜、私は旅行の雑誌を捨てた。捨てるつもりはなかった。ただ、紙の束を整理していて、付箋の貼ってあるページが目に入った。二泊三日の温泉で、二人で七万円と書いてある。その金額を見てから、五百万という数字をもう一度思い浮かべた。七万で迷っている私たちが、その七十回分より多い金額を一度に払う。それが妹への金だと思うと、悔しいというより、うまく息ができない感じがした。私は雑誌を紙のゴミの袋に入れて、口を縛った。

翌週、実家に呼ばれて、幸介は同じことを二人の前で言った。五百万、出す。ただし、式が終わってからだ。結婚祝いとして、お前らの口座に振り込む。ただし、これで最後だ。もう、一円も出さない。リカは両手を打った。さすが、お兄ちゃん。声が跳ねていた。義母は目頭を押さえて頷いている。ありがとね。お父さんも喜んでるわ。聞いてたな、代わりに。これで最後だ。はい。はい。聞いた。聞いた。リカはもうパンフレットに戻っていた。ページをめくりながら、独り言のように言う。はあ。じゃあ、キャンドルのやつ、出そうかな。リカ。幸介が言った。六百二十万で止めろって言ったよな。分かってるよ。冗談だってば。冗談で足す金額ではない。それでもリカは、そこを冗談で言える人だった。台所へ立った私に、リカがついてきた。冷蔵庫の前で、リカは小声で言った。言いたくないけど、別にさおりさんのお金じゃないからね。うん。お兄ちゃんが自分で決めたことだから、さおりさんが偉そうにする話じゃないでしょ。私は麦茶のポットを取り出した。手が震えないように、両手で持った。そうね。それしか言わなかった。言い返さなかったのは、その日が夫の決断の話だったからだ。ここで揉めれば、悪いのは私になる。十年、そうやって飲み込んできた。約束は、義実家の座敷の前で口に出しただけだった。日付も金額を書いたメッセージも残っていない。この家では、金の話はいつも口で始まって、口で終わってきた。後から思えば、そのやり方に助けられたのは幸介の方だった。五百万円は、まだ一円も動いていない。振り込みは式の後。渡す前か、渡した後か。この一点が、後に全てを決めることになる。

五百万を約束した日から、リカからの連絡は増えた。それまでは金がいる時だけだったのに、その頃からは毎日のように届いた。届くのは相談ではない。決まったことの通知だった。最初は、義母の衣装だった。夜にかかってきた電話で、リカはいきなり言い出した。お母さんの留袖、借りるから、つけまつげとメイクも入れて八万ね。八万か。安い方だよ。ホテルの中でやってもらうんだから。幸介は、電話の向こうへ分かったと言った。私は隣で味噌汁を温めていた。次は、両家の顔合わせの席だった。料亭の席を予約したと、リカが電話で言ってきた。一人二万のコースにしたから、六人で十二万。リカ、そこは向こうの家と折半だろ。先方に出させるわけないでしょ。うちが恥かくじゃん。義母と同じ言葉を、リカも使う。着物のランクを一つ上げたいという話が出た時、私は一度だけ口を挟んだ。遠方からいらっしゃる方もいると伺いましたので、重いものは避けられた方が。会社で得意先に言うのと同じ言い方だった。リカは私を見ずに言った。残念、さおりさんが決めることじゃないよね。幸介が「リカ」と言った。リカは、分かった、わかったと言って、軽いカタログギフトの方でランクだけ上げた。その日から、私は口を挟むのをやめたのではなかった。私の言葉が通るのは、夫が横から名前を呼ぶ時だけだと確かめたのだ。その後も、二次会の会費が足りないという話になり、遠方の親戚の宿泊費という話になった。その度に、幸介は「分かった」と言った。招待状の話も、決まってから知らされた。二月の終わりに義実家へ行くと、卓の上に厚紙の見本が三種類並べてあった。リカは迷わず、一番ピンクのしてあるものを取った。これにする。一枚四百円だけど、八十枚でも三万二千だから。あて名、どうするの? あて名は、業者に頼むと高いから、さおりさんに書いてもらおうかなって。私は顔を上げた。私、字、綺麗でしょ。会社で伝票書いてるんだから。八十枚はないだろうと私は思った。ご夫婦で来られる方は連名で一通になる。この人数なら、実際に出すのは六十通ほどだ。言えばまた話が長くなるので、黙っていた。後で数えたら、二十万以上が余った。リカはその余りを見て、「足りないよりいいでしょ」と言った。伝票の字が綺麗だから招待状のあて名を書けというのは、理屈としては随分荒い。それでも断れば、私が心の狭い人間になる。何枚ですか? うちの側の分だけでいいよ。三十枚くらい。筆を用意して、下敷きを敷いて、まず名簿の字を確かめた。あて名書きの仕事は、一枚書き損じると封筒ごと無駄になる。会社の伝票と同じで、慎重に進めるほど時間がかかる。結局、私は三十二枚書いた。二日かかった。終えて渡した時、リカは「ありがとう」とだけ言って、確認もせずに封筒の束に重ねた。

顔合わせにも呼ばれた。義母の留袖を選ぶのに、人がいるという理由だった。ホテルの衣装室では、スタッフの方が二人がかりで留袖を着せていった。私は離れた場所で見ているだけだ。役目は、脱いだものを畳むことと、帯締めの色を三本並べて見せることだった。鏡の前で、義母は嬉しそうだった。やっぱり、色が入ってる方が華やかね。お似合いです。さおりさんは、その日は何を着るの? 持っている礼服で。そう。まあ、あなたは目立たなくていいのよ。その言葉に、悪意はなかった。この人の言葉には、一つも悪意がない。

三月の第二週、式場の打ち合わせに私も呼ばれた。呼んだのは義母だ。幸介だけだと、分からないでしょ。さおりさんも来て。ホテルの打ち合わせ室は白くて明るくて、椅子が柔らかかった。担当の方が名刺をくれた。谷口彩子。三十六歳だと、後で雑談の中で知った。谷口さんは話し方の速さを相手に合わせる人だった。リカが早口になれば早口で、義母がゆっくり喋れば待ってくれる。本日はお料理とお飲み物、それから演出の最終確認をさせていただきます。演出、もうちょっと足したいんですけど。リカが身を乗り出した。谷口さんは資料をめくった。キャンドルリレーとフラワーシャワーはすでにお入りです。装花のグレードアップと映像の追加を入れますと、合計が今のプランを超えてしまいます。超えたら、いくら? 七百万円近くに。うーん。リカが幸介を見た。見ただけだ。言葉にはしない。言葉にしない方が通ると知っている。幸介は資料を閉じて、六百二十万で止めろ。えー。止めろ。珍しく強い声だった。リカは口を尖らせたが、それ以上は言わなかった。谷口さんは何も聞かなかった顔で、「六百二十万円のまま進めます」と書き込んだ。打ち合わせを出る時、谷口さんが私に言った。奥村様、当日は受付をなさると伺っております。受付ですか? はい。ご新婦様から、ご親族の受付をお願いすると伺っております。初耳だった。私は自分の当日の役目を、身内より先にホテルの人から聞いた。ご負担が大きいようでしたら、当日のスタッフでお手伝いできますが。大丈夫です。ありがとうございます。そう答えてから、なぜこの人は私に声をかけたのだろうと思った。多分、こういう家を何度も見ているのだと思う。結婚式の仕事というのは、一日で家の形が見える仕事なのかもしれない。

その日の帰り、駅までの道でリカが言った。さおりさん、当日は受付、お願いね。知ってます。ホテルの方から先に伺いました。うん。親族の受付。あと、おばさんたちの送迎も、駅まで迎えに行ってもらえると助かる。私、車持ってないけど。タクシー呼べばいいじゃん。二台くらいでしょ。タクシー代を誰が出すのかは、聞けなかった。聞けば、答えは分かっている。リカは前を向いたまま続けた。あと、席のことなんだけど。お兄ちゃんとさおりさんは、親族席じゃなくて、後ろの方にしたから。後ろの方が、受付やってもらうし、動きやすいでしょ。それにさおりさんは、まあ、端でいいでしょ。まあ。その一言に、十年分が入っていた。幸介が立ち止まった。おい。何? 失礼じゃん。幸介は俺の妻だ。知ってるよ。だから来てもらってるんじゃん。来てもらっている。招くのではなく、来てもらっている。リカの中では、そういう順序になっているのだと分かった。二次会の話も出た。会費を一人六千円にしたら人が集まらないから、五千円に下げるという。下げた分の不足はどうするのかと幸介が聞くと、リカは当たり前のように答えた。そこは、お兄ちゃんが。二次会、まだ俺かよ。だって、二次会って新郎側が負担するものだもん。じゃあ、お前らが負担しろよ。お兄ちゃん、細かい。また「細かい」だった。結局、二次会の不足分は健太さんが出すことになった。その時、リカが健太さんに何と説明していたのかを、私が聞かされたのは式の後だった。

親戚の送迎の段取りも、私に回ってきた。義父の妹に当たる方が二人、遠方から来る。当日の朝、駅からホテルまで送ってほしいという。リカからのメッセージは時刻と名前だけが書いてあって、タクシー代のことは何も書いていなかった。これ、こっちが立て替えるってことだよね。そうだろうな。幸介は自分のスマートフォンを見ながら答えた。二台で迎えに行ってもらう分も入れて、一万二千円くらいか。払ってみようか。やめとけ。当日に揉める方がきつい。私はカレンダーに時刻を書き込んだ。書き込みながら、これは頼まれ事ではなく、割り当てなのだと思った。

その週、私はリカのことをもう一度考えた。式に六百二十万かかる。手付けの三十万は払った。残りの五百九十万は、式の六日後までに払う。手取り十九万のリカと、食品の卸に務める相手の二人で、その金額をどう組んだのか。兄からの五百万が入るのは式の後だ。幸介が二人の前でそう言ったのだから、リカもそれを知っている。なのに、リカには焦りが一つもなかった。幸介にも聞いてみた。リカちゃん、貯金いくらあるって言ってた? 言わない。聞いても、「大丈夫」としか言わないんだ。健太さんの方は? 知らん。会ったこともないからな。食卓の上で、夫は指を組んだ。まあ、向こうもいい年の社会人だ。二人で計算してるだろう。私もそう思うとした。滝沢さんに、その話を少しだけした。後払いのね。あるわよ。そういうの。ご祝儀で払えるって。払える人はね。奥村さん、うちの取引先で、同じことする会社があるの。入金の予定を当てにして仕入れる会社。どうなるんですか? 入金が遅れたら、終わりよ。予定は現金じゃないから。滝沢さんはそう言って湯飲みを片付けた。予定は現金ではない。その言い方が、耳に残った。

翌週、リカはまた新しいバッグを下げていた。実家の玄関で、義母がそれを見て笑った。あら、いいの買ったのね。頑張った自分へ、ご褒美。何を頑張ったのかは、言わなかった。その日の帰り道、私はノートに一行だけ足した。リカの欄ではない。ページの端に、疑問符をつけて書いた。六百二十万。その金は、どこから来るのか。見積もり書の数字は増え続けた。増やしているのはリカで、払う話をしているのは義母で、実際に払う相手だけが、一度もその場にいなかった。

両家の顔合わせは、三月の下旬だった。本来なら式場を決めるより先に済ませるものだが、リカの都合で二度伸びて、招待状を出した後になった。場所はリカが予約した料亭で、個室の障子の向こうには小さな庭が見えた。畳に座って、私は自分の膝の位置を何度も直した。先についていたのは、相手の家族だった。結婚する人は、片桐健太さんという三十三歳。食品の卸の会社で営業をしている。隣に座っているのが母親の正子さんで、六十二歳だと挨拶で聞いた。健太さんは座布団から降りて、手をついた。本日はありがとうございます。片桐健太です。リカさんとは一年半のお付き合いになります。背筋の伸びた挨拶だった。幸介も膝を正した。奥村幸介です。こっちは、妻のさおり。奥村さおりです。よろしくお願いします。正子さんは私の顔を見て、表情を緩めた。リカさんから、お兄様ご夫婦は本当によくしてくださると伺っておりました。本当によくしてくださる。その言い方が、少しだけ引っかかった。よくしてもらっている。ではない。料理が運ばれてきて、乾杯をした。最初のうちは穏やかだった。正子さんが健太さんの子供の頃の話をした。この子はね、小学校の時からずっと野球で、勉強の方はさっぱりで。健太さんが横から止めた。お母さん、その話は今日じゃなくていいよ。照れるわよ。リカさんに、知っておいてもらわないと。健太さんの父親は、五年前に亡くなったそうだ。長く患って、最後の一年は家で見たという。正子さんは健太さんの方へ顎を向けた。さだきね、この子が仕事を早く上がって、毎晩、看病を手伝ってくれたの。別に、普通のことだろ。普通のことをする人が、一番いいのよ。正子さんはそう言って笑った。私はその言葉を、なぜか覚えてしまった。幸介も打ち解けたようだった。健太さんが「お兄さんは、建築資材のお仕事ですか」と聞いて、そこから仕事の話になった。卸と資材で扱うものは違っても、納期に追われる話は同じだし。二人はしばらく、笑っていた。私はリカの横顔を見ていた。リカは、自分の話が出ないと、あまり喋らない。正子さんは今もパートを続けているという。年金だけで細々とだから、体が動くうちは、と笑っていた。やがて話は、式のことになった。健太さんが箸を置いて、こちらに向き直った。式のことなんですが。うん。本当に、ご実家に甘えてしまっていいんでしょうか。幸介の手が止まった。実家。はい。リカさんから、聞いていませんか。式の費用は、リカさんのご実家が出してくださると。私は自分の呼吸が浅くなるのが分かった。実家が出す。その言い方だと、金を出しているのは義母ということになる。年金だけで暮らす六十五歳だ。リカは箸を持ったまま、まっすぐ健太さんを見ていた。表情は動かない。義母が口を開きかけた。あのね、健太さん、それは。そこまでだった。リカが横目で、母親を見た。ほんの一秒だ。義母は湯飲みへ手を伸ばし、そのまま茶を飲んだ。何も言わずに、飲み終えて置いた。座布団の下で、幸介の拳が握られているのが見えた。「言え」と私は思った。言ってしまえばいい。実家ではなく、隣にいる夫が出すのだと。幸介は言わなかった。まあ、身内のことだから。それだけ言って、笑って見せた。正子さんが義母の方へ向き直って、ありがとうございますと頭を下げた。健太さんも、母親に習って頭を下げた。二人とも、心から下げていた。私はその二つの頭を見ていることができなかった。頭を下げられている人は、一円も出さない。出す人は、その隣で、黙っている。

その後は式の日の話になり、座席表の話になった。座席の話が出た時、リカはこう言った。親族席は、お母さんとおばさんたちで埋まっちゃうから。お兄さんご夫婦は。健太さんが聞いた。お兄ちゃんたちは受付もやってもらうし、後ろの方が動きやすいでしょ。そういうものかな。そういうものだよ。まあ、動く人は出入口に近い方がいいわね、と正子さんが言って、その話は終わった。私は畳の縁を見ていた。あの時、席の位置に文句を言えば良かったのかもしれない。言っていたら、あの日の皿の話も違っていただろうか。多分、違わなかったと思う。席のことも皿のことも、リカの中ではとっくに決まっていた。手続きをするのが、まだ先だっただけだ。

写真の話になり、着物の話になって、顔合わせは無事に終わった。料亭を出て駅までの道で、私は幸介の横を歩いた。なんで、言わなかったの? あの場で言ったら、リカが嘘つきになる。嘘つきでしょ。自分の声が思ったより強くて、私は驚いた。それは、ごめん。でも、あの人たち、何も知らないよ。知らせて、何が変わる? 変わらないかもしれない。でも。言葉を探しているうちに、駅の明かりが見えてしまった。電車に乗ってから、幸介がぽつりと言った。正子さん、いい人そうだったな。うん。健太さんも。うん。だからこそ、心が痛いと思ってる。私は座席の背もたれに頭をつけて、窓の外を流れる知らない駅の明かりを見ていた。あの人たち、リカのことを信じてるよね。信じるだろ。結婚するんだから。信じてる人に嘘をついている人と、これから一緒に暮らすんだね。幸介は答えなかった。答えられないのだと思う。

その夜、リカに電話をかけた。スピーカーにはしなかったが、私にも聞こえるくらいの声だった。健太さんに、「実家が出す」って説明してるのか。言い方の問題でしょ。言い方じゃない。「母さんが出す」って聞こえるぞ。同じことじゃん。うちの家が出すって意味だもん。同じじゃないだろ。出すのは、俺だ。じゃあ、お兄ちゃんはうちの家じゃないの? 幸介が黙った。リカのその一言は、反論になっていない。それでも幸介は、言い返せなかった。十七年、その理屈で出し続けてきたのは、自分だからだ。理屈がめちゃくちゃだからこそ、逆らえない。私は隣で、それを見ていた。それでも夫は、もう一度だけ言った。リカ、健太さんにちゃんと言え。なんで。なんでって、あの人はお前と一緒に払う人だぞ。言ったら、健太、気にするじゃん。気にするのが当たり前だろ。気にさせたくないから、言わないの。優しさじゃん。優しさ。リカはこの言葉を、こういう時に使う。じゃあ、俺が言うぞ。やめてよ。なんでだ? お兄ちゃんが言ったら、私が嘘ついたみたいになるじゃん。見たいじゃなくて、ついてるんだよ。うるさいなあ。そこで、リカの方から切れた。電話が切れた後、夫は長いこと天井を見ていた。なあ、さおり。うん。俺、あいつに何を教えてきたんだろうな。教えてないよ。そうか。教えてないから、覚えてないんだと思う。自分で言って、ひどい言い方だと思った。それでも、取り消さなかった。幸介は笑わなかった。笑わずに、「そうかもな」と言った。返事の代わりに、私は台所へ行ってお茶を入れた。

その夜、私は食器棚の下から箱を出した。ノートは十冊近くある。結婚した年から、月末にだけ書き出してきたものだ。最初のページには、まだ丸っこい字で家賃と光熱費が並んでいた。リカの欄が現れるのは、二冊目の途中からだ。そこから先は、途切れることなく続いている。私は最初のページから順に、合計を叩いていった。誰かに見せるためではない。ただ、自分が何を見てきたのかを確かめたかった。結婚した年、リカの大学の四年目の学費と、その年の家賃。その次の年、卒業と就職の引っ越し。奨学金の返済が始まった年でもある。その後の年、エアコン、冷蔵庫、歯の治療、旅行、速度違反の反則金まで、夫は出していた。三年前の欄には「車」と書いてあって、金額の桁がそこだけ違う。足し終えた数字を見て、私は電卓の画面を消した。私が結婚してからの十年分だけで、九百万を超えていた。結婚する前の七年は、私は見ていない。それを足したら、いくつになるのか。その時の私には、見当もつかなかった。

五月の土曜は、朝から晴れていた。私は前の晩に畳んでおいた礼服を出し、髪をまとめ、結婚する時に母が買ってくれた真珠のネックレスをつけた。幸介はネクタイの結び目を、三回やり直した。まっすぐ。そうか。うん。かっこいい。夫は照れたように鼻の頭をかいた。この日の朝、私たちはまだ機嫌が良かった。支度が終わっても、まだ七時前だった。岐阜から来るおばさん二人の送迎があるので、私は先に家を出た。駅前でタクシーを二台抑えて、改札から出てくる二人を待つ。おばさんたちは新幹線で来ていて、大きな荷物を持っていた。さおりさん、悪いわね。いえ、お足元にお気をつけてください。ホテルまでは二十分ほどだった。二台分の運賃を私が払って、領収書をもらった。自分の鞄に入れながら、これも、入れる紙が一枚増えたなと思った。

ホテルには受付があるので、早めに入った。ロビーの天井が高くて、話し声がよく響く。案内板に、リカと健太さんの名前が並んでいた。二人の苗字が並んでいるのを見ると、さすがに胸の辺りが暖かくなった。受付の卓には、祝儀の名簿と筆と盆が置いてある。私はまず、自分たちのご祝儀を出した。袋には十万円を入れてきた。兄夫婦の額としては相場だと、幸介が調べていた。これ、一番最初に置いとこう。そうだな。親族の受付は、私と義母の姉の住江さんが並んで座った。住江さんは近くに住んでいるので、朝の迎えとは別に、自分で来ていた。六十八歳で、義母より三つ年上になる。声の大きな人だが、目のよく動く人でもある。さおりさん、あんた、受付までやらされてるの? 頼まれたので。新郎新婦の兄夫婦が受付なんて、聞いたことないわ。住江さんは祝儀の名簿を開きながら、独り言のように言った。親戚が次々に来る。私は名前を確認し、祝儀を受け取り、盆に重ねた。岐阜のおばさんたちの送迎は、朝のうちに済ませてある。受付の列が一度切れたところで、私は座席表を見た。四つ折りの紙を開くと、円卓が並んだ図が描かれている。新郎新婦の席を囲むように、両家の親族席がある。そこに、私たちの名前はなかった。指で辿っていくと、入り口に一番近い卓に「奥村幸介、奥村さおり」と印字されていた。同じ卓の残りは、健太さんの同僚の方たちだ。後ろの方って、こういうことか。幸介が私の手元を覗き込んだ。まあ、動きやすいよ。本当に受付やったんだから、ちょうどいい。そう言ったのは、その時点ではまだ本気でそう思えたからだ。

受付が一段落したところで、私は親族の控室へ呼ばれた。部屋に入ると、リカがいた。もうドレスは着ていて、ベールだけがまだだ。ヘアメイクの人が裾を広げて床に置き、扉の方へ体を向けて立っていた。ここから先へは通さないという、立ち方だった。さおりさん、岐阜のおばさんたち、来た? 来ました。控室にご案内しました。タクシー代は、立て替えました。ああ、そう。それだけ言って、リカは鏡の方へ向き直った。金額も、聞かれなかった。住江さんが横で言った。ねえ、今の。大丈夫です。大丈夫じゃないでしょ、普通。私は祝儀の名簿の向きを直した。この日は、リカの日だ。そう自分に言い聞かせたのは、朝から何度目だろう。受付は十時半で一旦閉めた。親族紹介があるからだ。控室で、新婦側と向かい合って並ぶ。向こう側の方が、少しだけ数が多かった。仕切ったのは、義母だ。順に名前と続柄を読み上げていく。新婦の母、みち子でございます。それから隣を見た——長男の幸介と、その妻のさおりさんです。身内を紹介するのに「さん」付けをする人はいない。義母はそれを、十年、一度も直さなかった。幸介が頭を下げた。私も下げた。向かいの列に立っていた正子さんが、丁寧に下げ返してくださった。新郎の母でございます。健太がいつもお世話になっております。その隣に、健太さんのおじさんとおばさん、それから従姉妹の方が並んでいた。皆さん、礼服で、きちんと立っていた。住江さんは「新婦の母の姉です」と自分で名乗った。義母が飛ばしたからだ。岐阜のおばさん二人も、順に名乗った。五分ほどで終わった。短い時間だ。それでも、名前を呼ばれて頭を下げるというのは、その家の一員として数に入っているということだった。奥村家の長男の妻。そう呼ばれて頭を下げたのが、十時四十分のことだった。

挙式は十一時から始まった。チャペルの通路を、リカは義母と腕を組んで歩いた。父親のいない家だから、そうすると前から決めていたそうだ。「父親代わりでしょ」と言われるのは、金を出す時だけだった。歩く相手は、母親のものだった。純白のドレスは肩の出た形で、裾が長かった。リカは綺麗だった。それは、認めなければならない。幸介は妹が通り過ぎる時、目を細めていた。十四歳で制服のまま座っていた子が、その通路を歩いている。夫の中には、私の知らない十七年分の映像が流れていたはずだ。指輪を交換して、扉が開いて、外でフラワーシャワーをした。花びらが風に散って、リカは笑っていた。

披露宴は十二時半からだった。私たちの卓は、扉のすぐ横だ。同席の方たちは感じのいい人ばかりで、健太さんの同期だという男性が「新郎新婦のご兄弟ですか?」と話しかけてくれた。司会の方が新郎新婦の紹介を読み上げ、それから主賓の挨拶があった。乾杯の発声を取ったのは、健太さんの会社の部長さんだった。短くて、感じのいい挨拶だった。リカと健太さんがグラスを掲げて、会場中のグラスが鳴った。私も鳴らした。幸介も鳴らした。そこまでは、普通の披露宴だった。椅子の足元に、引き出物の袋が置いてあった。持ち上げると、思ったより軽い。遠方の方もいらっしゃると伺いましたので、重い物は避けられた方が。打ち合わせで私が言ったのは、あの一つだけだ。それが形になって、八十人の椅子の下に置かれている。この会場に私が残したものは、それだけだった。

そして、料理が運ばれてきた。黒い制服のスタッフが白い皿を両手で持って、卓から卓へ回っていく。前菜だ。細長い皿に、小さなものが綺麗に並んでいる。私たちの卓にも来た。同席の四人の前に、皿が置かれていく。私と幸介の前は、空のままだった。その時は、何も思わなかった。順番だと思った。八十人の会場でも、皿はほとんど一斉に出る。それでも、扉に近いこの卓が最後になるのだろうと思った。そう考えている自分が、まだ普通に呼吸をしていたことを覚えている。スープが来た。同じだった。四人の前に置かれ、二人の前には何も来ない。ショープレートとナイフとフォーク、二つ折りのお品書き、乾杯で口をつけたグラス、そして名前の入った石札。私たちの前にあるのは、それだけだった。お品書きには、来ない料理の名前が並んでいた。同席の方が気づいて、こちらを見た。あれ? お二人の分は、多分、後から来るんだと思います。私は笑ってそう言った。声が硬くなっているのが、自分でも分かった。プロフィールの映像が流れ始めた。子供の頃のリカ、運動会、七五三、制服姿、大学の卒業式。どの写真にも、幸介が映っていた。肩車をしている写真もあれば、卒業式の門の前で並んでいる写真もある。会場が、「お兄さん、優しそう」とざわめいた。義母が涙を拭うのが、離れた席からも見えた。映像の中の兄弟は、仲が良かった。事実として、悪いわけではないのだと思う。ただ、あの十七年の中身を知っている人間は、この会場に三人しかいない。

映像が終わって、明りが戻った。魚料理が来た。来なかった。幸介がナプキンを置いて、通りかかったスタッフに小さく手を挙げた。若いスタッフが寄る。すいません。はい。うちの卓だけ、二人分ないみたいなんですが。確認いたします。その人は下がっていった。会場では、新郎の友人がスピーチをしていて、笑いが起きていた。待っている間、同席の方たちは気を使ってくれた。うちのを、分けましょうか? いえ、大丈夫です。いや、でも、さすがに。健太さんの同期だという男性が、パンの籠をこちらへ寄せてくれた。私はそれを、押し戻すことも、受け取ることもできなかった。斜め前の親族席から、義母がこちらを見ていた。目が合うと、すぐに視線を戻した。リカも一度、高砂からこちらを見た。見て、笑った。その時に、私はもう分かっていたのだと思う。ただ、認めるのが嫌だった。

戻ってきたのは、あの若いスタッフではなかった。谷口さんだった。打ち合わせの時と同じ、落ち着いた歩き方でこちらへ来る。膝を折って、卓の高さに合わせた。奥村様、お待たせして申し訳ございません。料理の手違いですか? いえ。谷口さんはこちらの目を見ていった。お料理は、七十八名様で承っておりません。七十八名。席は八十ある。卓の上をもう一度見てから、私は乗り出した。席と数が合わないということですか? お席とお料理は、別のご手配になります。幸介の顔から、表情が抜けた。誰が、そうしたんですか? ご契約者様に、ご確認をお願いいたします。谷口さんの言い方は事務的だった。ただ、事務的にしなければならない人の言い方だった。この人は、仕事でここに立っている。他人の家の事情に踏み込む立場ではない。だから「七十八」という数字だけを置いていった。あとは自分で聞けという、置き方だった。谷口さんはもう一度、同じ調子で言った。ご契約者様のご指示がない限り、こちらでお出しすることができません。いえ、大丈夫です。私はそう答えた。声が、自分のものに聞こえなかった。私は座席表をもう一度開いた。そこに、私たちの名前はある。席はある。呼ばれている。呼ばれていて、食べるものだけがない。手違いなら、この人は謝る。ホテルの人は、そういう時、必ず謝る。谷口さんは謝らなかった。「承っております」と言っただけだった。

ケーキ入刀が終わり、照明が戻った。お色直しの時間に入って、新郎新婦の二人が卓を回り始めた。新郎は主賓の卓で捕まっている。白いドレスだけが、こちらの卓の方へゆっくり近づいてきた。半歩後ろに、ヘアメイクの女性がついていた。リカはドレスの裾を持ち上げて、卓の横に立った。ブーケを持ち替えて、口元だけで笑っている。綺麗でしょ。リカが振り向いた。声はまだ、穏やかだった。俺たちの料理、ないみたいなんだけど。うん。リカは否定しなかった。うん。と言った。だって、二人の分、頼んでないもの。声を出したのは、私だった。同席の四人が、一斉に箸を止めた。健太さんの同期の男性が、私とリカを見比べている。頼んでないって、どういう意味だ? その通りだけど。八十人分から、一人減らしたの。なんで、そんなことする? なんででも。リカはブーケの向きを直して、私の方を見た。欲しいなら、追加で払って。その言い方には、ためらいも、照れもなかった。値段を告げる店員のような言い方だった。あのさ、家族なんだから、食事が目的じゃないでしょ。私は自分の膝の上で手を組んだ。指が手の甲に当たった。同席の四人のうち、誰も箸を動かさなくなっていた。健太さんの同期の男性が、口を開きかけて、やめた。新郎新婦の身内のことに、招かれた側が入れる場面ではない。私には、その気持ちが分かった。私も十年、同じ立場で口を閉じてきた。リカ。幸介が、もう一度呼んだ。今からでも頼めるなら、俺が払う。だから、追加で払えばって言ってるじゃん。そういうことじゃない。なんで減らしたのかを、聞いてる。別に、深い意味はないよ。深い意味はない。私と夫の前だけを白いままにしておいて、この人は「深い意味はない」と言った。そこへ、谷口さんが戻ってきた。私たちとリカの間に立って、両方に聞こえる声で言った。奥村様、ご追加をご希望でしたら、本来はご契約者様のお会計に加算させていただきます。奥村様で別にお支払いになる形でしたら、そのご案内もいたします。はい。本日、同じコースを出すことはできません。仕込みのご人数が決まっておりますので。そうですか。本日ご用意できるのは、承っている数までとなります。お魚とお肉は、七十八名様分でご用意しております。幸介が顔を上げた。じゃあ、どうしようもないってことですか。谷口さんは一度間を置いた。前菜のスープでしたら、余分がございました。ただ、お出しするには、ご契約者様のお指示が必要でございます。ご指示は、いただいておりません。単品でしたら、お作りできるものがございます。オードブルの盛り合わせで、一皿一万二千円。サービス料と税は、別で頂戴しております。一皿、一万二千円。見積もり書の料理の単価は、一名一万五千円だった。八十人分で百二十万円になっていた。あの三千円しか、違わない。つまり、同じだけの金を出しても、みんなと同じ皿は来ない。二人分の三万を払えば元に戻るという話ではない。三万を出したところで、もう取り返せない。

リカが近くのスタッフに合図をした。じゃあ、あれ、持ってきて。追加のやつ。黒い制服のスタッフが、二つ折りの用紙を持ってきた。追加のご注文書と印字してある、横長の伝票だった。上の方に手配の内容が並んでいて、下に金額を書く欄と署名の欄がある。リカはそれを、私の前に置いた。はい。ここに。私は伝票を見た。文字は目に入っていたが、頭には入らなかった。会場の音が遠かった。ペンも一緒に置かれていた。ホテルのロゴの入った、黒い細いペンだ。書けば、多分、十五分か二十分で何かが出てくる。オードブルの盛り合わせのようなものだろう。それを二人で食べれば、この場は収まる。収めることは、できる。幸介もペンを見ていた。手を伸ばしかけて、止めた。私と同じことを考えたのだと分かった。私も、ペンに手を伸ばさなかった。ここで三万を払えば、私は「払って食べさせてもらった」人になる。リカがこの場でやりたかったのは、多分、それだ。

その時だった。ちょっと、どういうことなの? 声を上げたのは、住江さんだった。受付を一緒にやった、義母の姉だ。親族席から立ち上がって、こちらへ歩いてくる。なぜ、お二人にお料理がないの? 住江おばさん、いいから、座って。良くないわよ。呼んでおいて、食べさせないって、どういうことなの? 声が大きい人だから、近くの卓には残らず届いた。円卓のいくつかが、こちらを向く。リカの方が、間をつぐ言葉を探しているのが分かった。住江さんは、その視線を気にしなかった。リカちゃん、あんた、お兄さんに何をしてもらってきたか、覚えてる? 住江おばさんには、関係ないでしょ。それでも住江さんは、リカの方へ一歩詰めた。関係ないわよ。関係ないけど、見てたのよ。見てただけの人が、偉そうに言わないで。その一言で、住江さんの顔つきが変わった。そう。そういう子だったわね、あんた。ヘアメイクの女性が、リカの肘の辺りに手を添えた。ご新婦様、そろそろお次の会場へ。待って。リカはその手を避けた。ヘアメイクの人が一歩下がって、耳の辺りに指を当てた。何かを話している。誰かを呼んだのだと分かった。高砂の向こうで、正子さんがこちらを見ていた。何が起きているのか、分からない顔だった。あの人には、声だけが届いて、中身は届いていなかったのだと思う。そこへ、義母が来た。着物の裾を抑えながら、私の肩に手を置く。リカの晴れの舞台なんだから、細かいことで揉めないの。お母さん。私は、肩の手を避けずにいた。細かいことでしょうか? そうよ。ご飯ぐらいで。はい。後で食べればいいじゃないの。後で食べればいい。この人は、そう思ってる。食べ物の話をしているつもりなのだ。違う。私と夫の前だけが白いことは、八十人が見ている。それが何を意味するのかを、この会場の全員が理解している。理解した上で、誰も何も言わない。それが、今この部屋で起きていることだ。三時間前、私は控室で向かい合って並んだ人たちの前で、「奥村家の長男の妻」として名前を呼ばれた。頭を下げて、下げ返してもらった。その席に、皿がない。同じ日、同じ建物の中で、二つとも本当のことになっている。お母さんは、いつ知ったんですか? 何を? 私たちの皿がないことを。義母は答えなかった。答えないことが、答えだった。知っていて黙っていたのか、その場で察して流したのか、私には分からない。ただ、どちらであっても、この人が私の側に立つ気がないことだけは、同じだった。みち子、あんたは黙ってて。義母は自分の姉にそう言って、それから私を見た。さおりさんね、今日だけだからね。一度だけだから。その言い方を、私は何回聞いてきただろう。誕生日会に呼ばれなかった日、「家族の話だから」と言われた日。義母はそう言った。今回だけ、この一度だけ。その積み重ねが、白いクロスになって、私の前にある。隣を見た。幸介は白いままのクロスを見下ろしていた。何も言わない。私は、それでもいいと思った。その日は、リカの日だ。ここで揉めれば、悪いのは私になる。谷口さんが、私たちとリカの間に体を入れるように立った。ご新婦様、お話はあちらのお部屋でお伺いいたします。声は低かったが、譲る気のない調子だった。この人は、この部屋を守る側の人間なのだと、その時はっきり分かった。

夫がナプキンを卓に置いた。帰ろうか。顔を上げた。幸介は妹を見ていなかった。私を見ていた。うん。私はそう答えた。二人で立ち上がる。椅子が絨毯にこすれる音がした。私は伝票を手に取った。これ、髪は、いただいていきますね。リカが「え?」と言った。止める言葉は、出てこなかった。二つに畳んで、鞄の内側に入れた。署名の欄は、白いままだ。何も書かなかった。なぜ持って帰ったのかと、後で幸介に聞かれた。答えられなかった。ただ、鞄の留め金を閉めた時、滝沢さんの言葉が一度だけ頭をよぎった。髪を持っている人がかつ。あの会場で、私にできたのは、それだけだった。立ち上がった時、会場の音がふっと遠くなった。司会の方がこちらに気づいて、マイクを持ったまま少しだけ動きを止めた。それでも、プロの人だから、すぐに次の言葉を続けた。お色直しのお時間です、と会場に告げる声が、天井の辺りで響いた。お色直しの時間。私たちの卓には、話す相手も、噛むものもない。

本当に帰るの? 子供じゃあるまいし。リカが笑った。友人の方から、追いかけるような笑い声が上がった。じゃあな。幸介はそれだけ言った。ちょっと、お兄ちゃん。じゃあな。二度、言って、夫は歩き出した。私はその後ろに着いた。扉の前で、幸介は一度だけ振り返った。妹の顔ではなかった。私たちの卓の、料理の来なかった二人分の席を見ていた。

廊下に出ると、会場の音が扉の厚みの分だけ遠くなった。高砂の方では、健太さんがまだ笑っていた。誰かに酒を注がれて、頭を下げている。あの人は、まだ何も知らない。言うなら今だと思った。けれど、あの人は自分の披露宴の最中に、妻が嘘をついていたことを知る。八十人の前でだ。その役を、私たちが引き受けていいのかが、分からなかった。幸介も同じことを考えていたのだと、後になって知った。ロビーまで来た時、後ろから足音がした。谷口さんだった。奥村様、先ほどの用紙ですが。私は鞄を押さえた。返せと言われるのだと思った。お持ちいただいて、結構です。ご署名をいただいておりませんので、料金は発生しておりません。そうですか。その用紙にしてお手配の内容は、そのまま残りますので。谷口さんはそう言って、頭を下げた。その時の私は、その言葉の意味を半分も分かっていなかった。ただ、鞄の留め金を締め直した。ロビーの大きな窓から、五月の光が入っていた。幸介がネクタイを一度緩めて、また戻した。腹、減ったな。うん。何も食ってないもんな。私たちは、その建物を出た。十七年で初めて、この人は妹を置いて帰った。背中が、いつもより広かった。

タクシーは、大通りに出るまでに三回、信号で止まった。運転手さんが「お葬式ですか?」と聞いた。幸介が「はい」と答えた。それ以上は、誰も喋らなかった。礼服の膝の上に、私は鞄を抱えていた。中には、畳んだ伝票が入っている。夫のスマートフォンが震え始めたのは、ホテルを出て十五分ほど経ってからだった。一度目は短い震え。二度目、三度目からは、間隔が詰まってきた。幸介は画面を上に向けたまま、膝の上に置いていた。だから、私にも文字が見えた。初めは「帰った」という短いものだった。次が「大人げないよ」。その次が「お母さん泣いてるんだけど」。それから、「みんな見てたんだけど、恥かかせないでよ」。最後が、「謝りに来てよね」。だった。謝りに来いと、リカは書いていた。料理を出さなかった側が、出されなかった側に謝罪を求めている。理屈にすれば、おかしいと分かるはずだ。それを、リカは疑いもせずに送ってくる。返さなくていいの? 私が聞くと、幸介は前を向いたまま答えた。今返したら、多分、謝る。幸介が。うん。俺が謝る。十七年、ずっとそうだった。そこで夫は、画面を伏せた。運転手さんが赤信号で止まった時、もう一度こちらを見た。いい天気で、良かったですね。ええ。妹の式で。幸介がそう答えると、運転手さんは笑った。そうですか。妹さんの晴れ姿は、いいもんでしょう。そうですね。夫の返事は短かった。運転手さんは、それ以上聞かなかった。接客の仕事の人は、聞いていい相手かどうかを、声で分けるのだと思う。車内には、長寿の香りがしていた。私はその香りを、しばらくの間、覚えていた。何かの折に同じ香りを嗅ぐと、あの日、膝に抱えていた鞄の重さを思い出す。

途中で降りようという話になった。どこかで食べようと言ったのは、私だ。朝から何も口にしていなかったし、幸介に至っては、前の晩から緊張して、口数が細かった。けれど、礼服のまま入れる店を探しているうちに、二人とも面倒になった。結局、コンビニのおにぎりを買った。店の外に車止めがあって、私たちはそこに並んで座った。五月の日は長い。夕方の光が、まだ白かった。私は鮭で、幸介は昆布だった。フィルムを外す音だけが、続いた。店から出てきた高校生たちが、私たちを見て目を丸くした。そうだろうと思う。喪服にも見える黒い服の男女が、コンビニの前でおにぎりを食べている。これ、朝から何も食べてないんだよな。うん。私も。披露宴って、飯を食う場所だよな。そうね。八十人分の飯が出ている部屋にいて、俺たちだけ食っていない。幸介は空を見た。夕方の雲が、まだ白かった。なあ、さおり。うん。怒っていいんだよな。これ。怒っていいと思う。そうか。夫はうつむいて、二つ目のおにぎりに手を伸ばした。うまいな。うん。披露宴の礼服でおにぎり食ってる四十路がいたら、俺は笑うと思う。私も笑う。そう言って笑おうとしたら、頬が動かなかった。幸介がこちらを見なかったのが、ありがたかった。その間も、電話は鳴っていた。今度は、義母だ。夫は出なかった。画面を見て、短く言った。三十件、超えた。電話か。電話とメッセージ、合わせて。返さないの? 返さない。夫は電源を落とそうとして、やめた。消すと、逃げたことになる。そうかな? そうだよ。逃げてないって示すには、鳴らしたままにしておくしかない。理屈は分かるが、鳴り続ける音の中で座っているのは、思っていたよりずっと疲れることだった。私の携帯にも、かかってきた。私は出た。さおりさん、あなたたち、何してるの? 何というのは? 途中で帰るなんて、親戚の手前もあるでしょう。そうですね。リカが泣いてるのよ。一生に一度の日なの。私は口の中のご飯を飲み込んだ。お母さん。ああ。私たちの分の料理は、なぜなかったんですか? 向こうで、息を吸う音がした。そんなの、こっちだって知らないわよ。ホテルの手違いでしょ。リカさんは、「頼んでない」って言ってましたけど。あの子は、ああいう言い方するだけよ。本気にしないで。言われた方が本気にしないことで、この十年は回ってきたのだと思った。私は受話器を持ち直した。切りますね。ちょっと、さおりさん。切ります。私は初めて、義母の言葉の途中で電話を終わらせた。幸介が、おにぎりのフィルムを丸めながら言った。よく言った。怖かった。うん。俺も、怖い。夫はそこで初めて、笑った。電話を切ってから、私は自分の手が震えていることに気づいた。十年、私は義母に言い返したことがなかった。言い返さない方が、家の中が丸く収まるからだ。丸く収めるために黙る人がいると、その家では黙る人が一人いれば済むようになる。幸介。ん? 私、失礼だったかな? どこが? 途中で切った。向こうが先に失礼だろ。夫はおにぎりの包みを丸めて、ゴミ箱に入れた。さおりは、我慢しすぎなんだよ。その言葉を、私は十年待っていたのだと思う。ようやく言われたのに、嬉しいとは感じなかった。ただ、疲れた。

会場に残った人たちがどうしていたかは、後日、住江さんから聞いた。私たちが出ていってしばらく、会場の空気は固かったそうだ。それでも、司会の方が上手に進めて、余興が始まると、空気は戻った。リカが友人の卓で笑っていたことは、住江さんも親族席から遠目に見ていた。何を話していたのかが分かったのは、ずっと後だ。同席していた日野まゆさんという同級生が、後日、健太さんに話したのだという。まゆさんはリカと同い年で、高校からの付き合いだそうだ。「うちの兄夫婦、めんどくさいんだよね。」リカはそう言って、肩をすくめたそうだ。「え、なんかあったの?」とまゆさんが聞き返した。「ちょっと料理が来なかっただけで、あれだよ。もう、帰っちゃった。」「料理が来なかったって、どういうこと?」「知らない。ホテルのミスじゃない?」「リカ、それ、大丈夫なの?」「大丈夫でしょ。お兄ちゃんだし。」その場で笑ったのは、リカの方だけだったらしい。住江さんが言うには、友人の卓は途中から白けていったそうだ。花嫁が身内の悪口を言い出すとね、聞いてる方が覚めるのよ。義母は親族席で頷きながら、こう言ったそうだ。いいのよ。あとで謝れば、幸介なら許すわよ。昔から、そういう子なのよ、幸介は。住江さんは、その言い方に腹が立ったと言っていた。そして、健太さんのことも聞いた。新郎が高砂でリカに何か尋ねていたのは、住江さんの席からも見えたそうだ。何を聞いたのかは、後で健太さん本人から聞いた。入り口に近い卓の二席が空いていることに気づいたのだという。「お兄さんたちは?」と聞いた健太さんに、リカは答えた。「気分が悪くなったから、先に帰ってもらったの。」気分が悪くなった。嘘だ。けれど、その場では、誰も訂正しなかった。同期の人たちも、二次会では何も言わなかったそうだ。新郎の身内の話に、招かれた側から踏み込むのは難しい。あの卓でパンの籠を寄せてくれた人の気持ちも、多分、そこで止まったのだと思う。私も、逆の立場なら言えない。住江さんは電話口で、ため息をついた。あの子はね、嘘をつく時だけ、落ち着いてるのよ。昔から。そう。そうですか。あのね、さおりさん。私は言おうと思ったのよ、健太さんに、本当のこと。でも、あの場で言ったら、あの人が一番困るでしょ。自分の結婚式で、奥さんが嘘ついてたって知らされるのよ。そうですね。だから、黙って帰ってきたの。帰る道で、何度も後悔したけど。住江さんの声が揺れた。さおりさん、あんた、よく十年もあの家にいたわね。慣れました。慣れちゃだめよ。慣れると、奴がもっとやるから。その言葉は、正月に台所で言われたことと同じだった。私はその時、初めてまともに受け取った。どれだけ我慢しても、最後に兄が助ける。十七年の実績が、リカから危機感というものを奪っていた。だから、リカも、翌日には幸介が電話をかけてくると信じていた。電話を切ってから、私は幸介にその話を全部伝えた。夫は最後まで黙って聞いていた。そして、一言だけ言った。気分が悪くなったか。うん。あいつ、その場で、それを作れるんだな。その言い方には、怒りよりも、疲れが混ざっていた。妹の嘘の速さを、この人は、多分、昔から知っている。知っていて、その度に引き受けてきたんだ。

あの日に話を戻す。ホテルを出てから、家に着くまで、夫は一度も画面に指を触れなかった。ただ、着信の数だけは、数えていた。家に着いたのは、六時を回った頃だった。玄関を開けて、電気をつけて、二人とも黙って靴を脱いだ。廊下の突き当たりの窓が、まだ薄く明るかった。私は先に着替えた。礼服をハンガーにかけて、真珠のネックレスを外して、箱に戻す。それだけの動作に、随分、時間がかかった。真珠は、私が結婚する時に、母が買ってくれたものだ。観音開きのこの箱を開け、その日は蓋を閉めるまでに二度、手を止めた。このネックレスをつけて出かけた日に、私は白いクロスの前へ座らされた。実家の母には、言えない。言えば、必ず「帰ってらっしゃい」という人だ。その言葉に、甘えるわけにはいかなかった。

居間に戻ると、幸介はまだネクタイをしたまま座っていた。上着だけを椅子の背にかけて、卓に両肘をついている。お茶を入れて、湯飲みを前に置いた。私は向かい側に座って、口を開いた。せっかくの結婚式だったのにね。私が言えたのは、それだけだった。幸介は返事をしなかった。湯飲みにも、手をつけない。長い沈黙だった。時計の音が聞こえるくらいの静けさだ。台所の冷蔵庫が唸り始めて、また止まった。私は台所へ行って、洗い物のない流しを拭いた。拭くところがないのに、布巾を動かしていた。手を動かしていないと、あの会場の白いクロスが浮かんでくる。冷蔵庫を開けて、翌日の分のおかずを確かめた。その日は、もう終わりかけていた。居間へ戻ると、幸介はまだ同じ姿勢だった。ネクタイ、外したら。ああ。夫はそこでようやく結び目に指をかけた。緩めて、引き抜いて、卓の端に置く。細長い布が、卓の上で休んでいるようになった。さおり。うん。あいつ、笑ってたよな。うん。俺たちが立った時も、笑ってた。そうだね。俺はさ。幸介はそこで、言葉を止めた。止めたまま、しばらく戻ってこなかった。やがて夫は、卓の上のスマートフォンを取った。私は湯飲みを置いて、聞いた。どうしたの? 夫は画面を見たまま言った。五百万は、渡さない。私は湯飲みを持ったまま、その言葉を頭の中で二度、繰り返した。あの五百万には、私の十年も入っている。そう思いながら、私はその夜まで、一度も口に出していなかった。え? 渡さない? でも、約束したんじゃ。約束はした。夫はこちらを見た。目が乾いていた。泣きそうな顔ではなかった。結婚祝いとして渡すつもりだったって、だけだ。うん。まだ、渡してない。そう言われて、私はようやく理解した。振り込みは披露宴の後にする。あの判断は、式の中身を膨らませないためのものだったけれど、結果として、あの金はまだ私たちの口座にある。動いていない。誰の手にも、渡っていない。幸介が顔を上げた。あいつは、「家族なんだから、飯が目当てじゃない」って言ったんだ。じゃあ、家族なんだから、金もいらないよな。幸介。なんだ? 本気で言ってる? 本気だ。明日にしたら。自分でも意外なことに、私は一度、止まった。止めたのは、リカのためではない。夫のためだ。この人が、翌朝に後悔する姿を、私は見たくなかった。幸介は首を横に振った。明日になったら、俺は許す。そんなこと、十七年、ずっとそうだった。夜に腹が立って、朝には忘れてる。母さんが泣いて、リカが甘えて、それで終わりだ。夫は画面に指を置いた。今日は、忘れない。私は何も言わなかった。言えることが、なかった。黙っているうちに、一つだけ、聞いておかなければと思った。幸介。ん。これ、私のために決めてる? 夫は顔を上げた。それだと、後で嫌になるかもしれない。私のためにやったのにって。ならない。なるよ。人は、そうなるよ。幸介は少し考えてから、答えた。じゃあ、言い直す。うん。俺は、自分が座ってた椅子のために決めてる。椅子? あの席で、俺の前にも、何もなかった。あれは、俺への扱いでもあるんだ。その言い方で、私はやっと肩の力を抜いた。この人は、私の代わりに怒っているのではない。自分のこととして、怒っている。それなら、続く。幸介が文字を打つ音が続いた。長くはなかった。打ち終えて、夫は画面をこちらへ向けた。画面には、こう書いてあった。「結婚祝いとして予定していた五百万円は、なしにする。支払いは、二人で払ってくれ。」それだけだった。責める言葉も、理由も書いていない。これでいいか? 私はもう一度読んだ。責める言葉がないのが、いいと思った。理由を書けば、リカはその理由に反論してくる。反論できる余地を残さない方が、この話は短く終わる。仕事でも、そうだ。短い文面に理由を並べるほど、相手は交渉に来る。一つだけ、直したら。どこだ? その最後の「二人で払ってくれ」じゃなくて、「元々二人の契約だよね」の方が、良くない? 幸介は画面を見て、首を横に振った。いや、これでいい。なんで? あいつが分かる言葉で、書きたい。それも、そうだと思った。うん。じゃあ、それで。夫が送信した。それから二人で、しばらく画面を見ていた。何も、起きなかった。時計の秒針が、動いていた。読んだ印が、つかないな。披露宴の片付けとか、まだあるんじゃない? 二次会だろ。そっか。二次会の会費のことを、私はそこで思い出した。人が集まらないから五千円に下げると言っていた、あの話だ。あれも、結局は誰かが埋めている。

幸介が湯飲みを持ち上げて、また置いた。なあ、さおり。明日から、何をすればいい? 何もしなくていいよ。何もしないのが、一番きついんだよ。その言葉の通りだった。この人は十七年、何かをすることで自分を保ってきた。出すこと、動くこと、片付けること。何もしないという選択を、多分、一度もしたことがない。幸介が湯飲みに手を伸ばして、一口飲んだ。冷めてるな。入れ直す? 私が立ち上がりかけた時だった。スマートフォンが震えた。後で住江さんに聞いた話では、リカは二次会を途中で抜けて、そのまま実家へ帰ったそうだ。義母が一人で待っていた家に、化粧も落とさずに上がり込んで、そこから何度もかけていたという。画面に、リカの名前が出ている。夫は出なかった。震えは十数秒続いて、切れた。すぐにまた震えた。切れた。また震えた。三度目が切れて、四度目が始まったところで、幸介は指を伸ばした。画面に触れて、耳に当てる。その瞬間、部屋の中に声が響いた。お兄ちゃん、何言ってんの? スピーカーにしていない。それなのに、私の位置まで届いた。今の、何? あれ、何のつもり? 読んだ通りだ。渡さないって、そんなの通るわけないじゃん。通るも、何も、まだ渡してない。約束したじゃん。した。リカ。俺は、条件も言ったよな。そんなの、後で言えばいいでしょ。なんで、今なの? 声が割れていた。息が、上がっている。リカの声を、こんな形で聞くのは、初めてだった。明日、払わなきゃいけないのに。明日じゃないだろ。六日後だ。同じだよ。同じじゃない。幸介の声は、上がらなかった。上がらない分、向こうの声だけが大きくなっていく。お母さんに言うから。逃げようとしないで。お母さん、泣くよ。泣くだろうな。お兄ちゃん、それでいいの? 良くない。でも、仕方ない。幸介の声は、ずっと同じ高さのままだった。声を張らないことが、これほど相手に効くのだと、私は初めて知った。お兄ちゃん、分かってる? 私、今日、結婚したんだよ。知ってる。出席した。途中で帰ったくせに。帰ったよ。飯が出なかったからな。そこで、電話の向こうが一瞬、止まった。その間に、私は立ち上がって台所へ行った。お茶を入れ直すためだ。手が空いていると、余計なことを言ってしまいそうだった。薬缶に水を入れて火にかけながら、私は考えていた。リカは、この瞬間まで、五百万を自分の金だと思っていたはずだ。振り込まれる予定の金は、頭の中ではもう自分の口座にある。だから、使い道も決まっていた。予定は現金ではない。昼の滝沢さんに言われた言葉が、また戻ってきた。薬缶が鳴り始めた頃、リカはまだ叫び続けていた。叫べば通る。十七年、この家では、そうだったからだ。湯飲みに新しいお茶を注いで戻ると、電話はまだ続いていた。幸介は座ったまま、卓の木目を見ていた。リカの声は落ち着いていた。落ち着いたというより、方向を変えたのだと思う。じゃあ、お兄ちゃんが式場に電話してよ。なんで、俺が。だって、お兄ちゃんが出すって話だったんだから。式場と契約したのは、誰だ? 向こうが、黙った。リカ。契約書に名前を書いたのは、お前と健太さんだろ? そうだけど。俺は、保証人にもなってない。その契約書に、俺の名前はどこにも入っていない。後払いの審査だって、俺は書類に一枚も触ってないんだ。リカは、答えなかった。契約書に署名しているのは、リカと健太さんの二人だ。六日後にホテルが請求する先も、あの二人になる。幸介の名前は、どこにも入っていない。その通りだった。私も、見積もり書のコピーを見せてもらっただけで、契約書そのものには関わっていない。思い返せば、二月の契約の時も、幸介は同席していない。リカと健太さんの二人でホテルへ行って、その場で手付けの三十万を払っている。後から「契約してきた」と報告が来ただけだ。あの時、私はそれを当たり前だと思った。結婚するのは二人なのだから、契約も二人でするのが当たり前だ。その当たり前が、今、リカの足元を崩している。つまり、幸介が払おうと払うまいと、ホテルには何の関係もない。残りの五百九十万を払う相手は、リカと健太さんだ。そんなお金、ないよ。リカの声が、また高くなった。じゃあ、なんで六百二十万の式にしたんだ? みんな、それくらいかけてるもん。みんなって、誰だ? 友達とか? その友達は、兄貴に五百万出させたのか? リカは、言い返せなかった。他人の式の値段を見る時は、誰が払ったかも一緒に見ろよ。だって、お兄ちゃんが出してくれるって。出すとは言った。式場代を肩代わりするとは、言ってない。俺が言ったのは、結婚祝いだ。同じでしょ? 同じじゃない。幸介は湯飲みを持ち上げて、置いた。リカ、ご祝儀、いくら集まった? 知らない。数えたでしょ。まだ、数えてないもん。嘘つけ。ああいうのは、その日のうちに数える。また、沈黙があった。今度は、長かった。二百四十万。小さな声だった。全部で、二百四十万しかなかったのか。幸介が聞き返した。八十人でその額なら、少なくはない。ただ、五百九十万には届かない。健太さんの貯金は、百二十万。二つ合わせて、三百六十万か。幸介が指を折るのが見えた。私も頭の中で、暗算をした。五百九十万から三百六十万を引く。残りは、二百三十万。ご祝儀のほぼ全額に近い額が、まだ足りていない。私は卓の端に座ったまま、その計算をしていた。八十人で二百四十万。一人当たり、三万。友人関係が二万、親族が五万から十万と考えれば、そんなものだろう。少ないわけではない。少ないのは、見込みの方だ。その二百四十万の中には、私たちが受付で一番最初に置いた十万も入っている。食べるものが来なかった二人が包んだ、十万だ。幸介が電話口で言った。二百三十万、足りないな。だから、言ってるじゃん。その二百三十万を、お前らはどうするつもりだったんだ? お兄ちゃんの五百万があれば、足りたの? 五百万は結婚祝いだ。ご祝儀を式場に回すのは、お前らの勝手だろ。そんなの、屁理屈じゃん。屁理屈で六百二十万の契約をしたのは、どっちだ? お兄ちゃんが出すって言ったから、この式場にしたんだよ。じゃあ、聞くけどな。幸介の声が、そこで初めて低くなった。俺が「出さない」って知ってたら、お前はどの式にしてた? 向こうが、黙った。もっと安いところにしてたんだろう。八十人も呼ばなかったかもしれない。それが、答えだよ。幸介は返事を待たずに続けた。自分の金でできる範囲にすれば、よかったんだ。それだけの話だ。そこへ、電話の向こうで別の声がした。義母だ。受話器を取り上げたらしい。幸介。お母さん。あんた、何を考えてるの? 言った通りだよ。リカの一生に一度の結婚式なのよ。知ってる。俺は、こんなことで台無しにして。幸介はそこで、大きく息を吸った。吸って、吐いて、言った。俺の妻に、飯も出さない式だろ。電話の向こうが、静まった。そのくらい、我慢しなさいよ。義母の声は、まだ同じ調子だった。そのくらい。そうよ。大人でしょ。そのくらい我慢しろって言うなら、母さんたちも、五百万くらい我慢して、自分で払えよ。その後に続いた言葉を、私は聞き取れなかった。義母が何かを言いかけて、リカが電話を奪い返して、二人の声が重なって、そこで切れた。部屋が急に、広くなった。幸介はスマートフォンを裏返して置き、天井を見上げた。なあ。うん。お母さん、「我慢しなさい」って言ったよな。言ってた。あの人、俺が何を我慢するのか、分かってないんだよ。夫は目をつぶった。俺はな、金は惜しくないんだ。今でも、そうだ。うん。でも、さおりの前に皿がなかったのを「我慢しろ」って言われるのは、違う。私は湯飲みを両手で包んだ。中身は、もうぬるい。私も、同じ。同じって。私も、お金の話をされてるつもりはないの。言葉にしてみて。その通りだと思った。私が悔しかったのは、三万ではない。八十人の前で、「あなたはここにいなくていい人」と示されたことだ。金の話にすり替えられると、こちらが欲深い人になる。だから、リカも義母も、金の話に持ち込むのだと思った。俺、間違えてるかな? 間違えてない。即答だな。うん。即答するくらいには、考えてた。夫が短く笑ってから、両手で顔をこすった。その夜、幸介は珍しく先に寝た。疲れていたのだと思う。十七年分の何かを、一日で使い切ったような寝方だった。私は居間の明かりだけをつけて、卓の前に座った。考えていたのは、金のことではなかった。なぜ二人分だったのか、ということだ。腹が立っていたのなら、私の分だけを外せばいい。リカが嫌っているのは、私であって、兄ではない。それなのに、外されたのは二人分だ。兄の隣に私が座っていたからだろうか。それとも、兄が私の隣に座っていたからだろうか。考えても、答えは出なかった。ただ、その二つは似ているようで、まるで違う。

私は鞄を開けた。畳んだままの伝票を取り出して、卓の上に広げる。会場では文字が頭に入らなかったが、家の蛍光灯の下では、違った。下の方に、金額を書く欄と署名の欄がある。どちらも、白いままだ。上の方に印字された行が並んでいた。式の名前、日付、会場の名前、人数。その段は、システムから出したままの状態だった。当日の手配の内容が、頼まなくても自動で刷り込まれる。会社の納品伝票と同じだ。誰も読まないくせに、一番正直なことが書いてある。仕事の癖で、私は上から順に読んだ。伝票は、上から読む。合計だけを見て済ませると、必ず何かを見落とす。新郎の名前、挙式の日、披露宴の名前。その下の並びで、私の目が止まった。ご列席者数は、八十名。お料理は、七十八名分。お飲み物だけが、八十名分。席は八十。皿は七十八。飲み物は八十。一枚の伝票の中で、数が食い違っていた。会場で谷口さんが言ったのは、「七十八名」という数だけだった。いつ変更になったのかは、あの人も口にしなかった。「契約者に」と言われて、終わった。その食い違いが、「頼んでもいない」に刷り込まれていた。お飲み物は、八十名のままだ。料理だけが、二人分、綺麗に抜かれている。私は指を離して、卓に手をついた。仕事で数字の食い違いを見つけた時と同じ、感覚だった。見つけた瞬間、嬉しくない。むしろ、これから起きることの面倒くささが先に来る。それでも、見なかったことにはできない。私は寝室の戸を、少し開けた。幸介は、よく眠っていた。起こすかどうか迷って、やめた。朝でいい。この伝票は、逃げない。私は伝票をもう一度畳んで、鞄に戻した。あの日、私はこの伝票を読まずに畳んだ。ただ、捨てられなかっただけだ。その一枚が、「席と皿の数が合っていない」という記録になっていた。乾杯はさせるつもりだったのだ。飲み物だけを残して、皿を抜いた。

式の翌日、幸介の携帯に、知らない番号から着信があった。健太さんだった。片桐です。突然、すいません。いえ。一度、みんなで話をさせていただけませんか? 落ち着いた声だったと、後で幸介は言っていた。怒鳴りたい相手がいるのに、怒鳴らない人の声だったと。その日のうちに、住江さんからも電話があった。さおりさん、私、健太さんに電話しちゃった。あんたが受付に座る前に、控室でご挨拶したのよ。当日の連絡がいるからって、番号を交換してあったの。え? だって、あの人だけ、何も知らないのよ。新婚旅行の話をしてたのよ。あの席で。住江さんは、当日の食卓の話を全部伝えたそうだ。料理が出なかったこと。追加で払えと言われたこと。私たちが席を立ったこと。余計なことをしたかしら。私は、本当にそう思った。誰かがどこかで言わなければ、この話は、リカの中だけで終わる。

義実家に呼ばれたのは、式の二日後の夜だった。座敷には、義母とリカと健太さんがいた。リカはもう普段の服に戻っていて、化粧も薄かった。健太さんは疲れた顔で、ネクタイを緩めている。仕事帰りに来たらしい。幸介と私は、卓の手前に並んで座った。義母が茶を出した。私の前にも、湯飲みが置かれた。その茶に手をつけた人は、最後まで、一人もいなかった。幸介が湯飲みに手を伸ばさずに、口を開いた。話は簡単だ。五百万は、出さない。それだけだ。お兄ちゃん。リカが身を乗り出した。あのさ、正直に言いなよ。さおりさんに言わされたんでしょ? 違う。絶対、そうじゃん。だって、お兄ちゃん、そんなこと言う人じゃないもん。俺が決めた。嘘だ。違ったって。前は。リカは同じ調子で、繰り返した。俺が決めた。その言い方は、十七年で一度も聞いたことのない硬さだった。私にも、初めてだった。リカが私を睨んだ。さおりさん、何か言ったら? 言うこと、ありません。ほら、黙ってるってことは、そういうことじゃん。そこで、義母が割って入った。幸介、そのくらい、我慢しなさい。あんたは、お兄ちゃんなんだから。母さん、リカはまだ若いのよ。三十一だよ。若いわよ。若くない。母さんが、が卓に手をついた。そのくらいって言うなら、母さんが出してやってくれよ。義母が口を開けたまま、止まった。言葉が出てこないらしい。リカがまた言った。お兄ちゃんは、いつもそう。私が本気で困ってる時だけ、ちゃんとしようとするの。ちゃんとするなら、もっと前からしてよ。してきたつもりだ。してないよ。お金は出してくれたけど。お金以外の、何を出せばよかったんだ? そういうところ。その言い方が、私には引っかかった。リカの中には、金では埋まらない何かがある。あるのに、要求として出てくるのは、毎回、金だけだ。健太さんが、そこで初めて口を挟んだ。あの、すいません。全員が、そちらを見た。さっきから聞いていて、いくつか、分からないことがあります。何でしょう? まず、当日のことです。健太さんはまっすぐ幸介を見た。お二人が途中で帰られたのは、「気分が悪くなったから」だと聞いていました。でも、昨日、リカさんのおばの住江さんから電話があり。リカの肩が動いた。料理が出されなかったと聞きました。本当ですか? 座敷から、音が消えた。私は鞄を膝に乗せて、留め金を開けた。これ、見ていただけますか? 畳んだ伝票を出して、卓の上で開く。ホテルの名前の入った、横長の紙だ。当日、私たちの席に置かれたものです。「追加のご注文書」だと説明を受けました。健太さんが手を伸ばして、それを引き寄せた。署名の欄が、白紙のままですね。はい。書きませんでした。ということは、追加は頼んでいない。頼んでいません。頼んだところで、同じ料理は出ないと、説明を受けましたから。健太さんの眉が動いた。同じ料理は出ない。仕込みの人数が決まっていると。単品のオードブルなら、一皿一万二千円で出せると。そこまで言ってから、私は伝票の上の方を指さした。見ていただきたいのは、こちらです。上の段に印字された行が並んでいる。式の名前、会場、日付、人数。その中の数行に、健太さんの目が止まった。ご列席者数は八十名。お料理は、七十八名分。お飲み物だけが、八十名。健太さんは、その行を二度読んだ。それから、顔を上げた。席は八十で、料理だけ七十八。しかも、飲み物は、八十のままだ。はい。これ、当日に変更できる数字じゃないですよね。事前のお手配だと、伺いました。はい。当日じゃない。はい。私はリカの方を見なかった。健太さんだけを見ていった。仕事でも髪は捨てないので。ただ、ホテルの担当の方が謝らなかったことだけは、その時、引っかかりました。「承っております」と言われたんです。ちょっと、勝手に見せないでよ。リカが手を伸ばした。健太さんはその手を避けて、伝票を自分の方へ引いた。これは、兄さんたちのものだろ。私の式の書類じゃん。君の署名は、入ってない。入ってるのは、君が「減らした」っていう記録だけだ。リカは手を引っ込めた。健太さんが立ち上がって、廊下へ出た。スマートフォンをかけている。相手は、ホテルだった。その数分の間、座敷は静かだった。リカは畳の目を見ていた。義母は、娘の横顔を見ていた。何か言おうとして、言葉が見つからないという顔だった。私はあの日の、谷口さんの立ち方を思い出していた。あの人は、客の家の中身に踏み込まなかった。踏み込まないまま、「七十八」という数だけを置いていった。日付までは、言わなかった。言えなかったのだと思う。あの一枚がなければ、この夜は全く違う夜になっていた。

健太さんが戻ってきた。座り直してから、言った。谷口さんという方に、確認しました。新郎の声は低かった。人数の変更は、四月の十八日に、新婦から申し出があったそうです。式の三週間前です。お料理の人数の締め切りは、式の一週間前で、それより前の変更なら、費用は発生しないと。幸介が、「費用はかからないのか」と聞いた。かかりません。だから、あの日に減らしたんです。ただ、合計は六百二十万のままでした。同じ日に、装花のグレードを一つ上げているので、それと。減らすのは、座席表のどの席かまで、指定されていたそうです。「奥村幸介様、奥村さおり様」と、お名前で。席と料理の数が合わないので、二度、確認したそうです。二度とも、そのまま、と言われたと。費用はかからない。私たち二人の皿を消した分は、三万にサービス料と税が乗るだけの額だ。四万にもならない。その四万にもならない額は、総額から引かれてもいなかった。同じ日に、装花へ付け替えられている。式場に払う残りは、五百九十万のまま、動いていない。リカは、その三万と少しを、花に変えるために、あの席を作った。健太さんはそこで、一度、目を伏せた。四月に人数の確認で呼ばれた時も、俺は言ってないんです。「仕事だから」って、リカが一人で行きました。そう言って、健太さんはリカを見た。私はそこで、一つだけ足した。招待状のあて名は、私が三十二枚、書きました。奥村家の分は、全部です。二月の終わりでした。リカが、こちらを見た。健太さんはその視線を追わずに、伝票の上を指で辿った。座席表は、四月十八日より後に作ってるよね。料理を減らした後で、兄さんたちの名前を、わざわざ入れ直したことになる。リカの返事は、なかった。兄さんたちの名前は、ちゃんと生きてた。俺も見た。入れなきゃ、おかしいでしょ。親族なんだから。そう。おかしいよね。健太さんは伝票を、卓の真ん中に置き直した。リカが顔を上げた。違うもん。人数を減らしただけだよ。減らしちゃ、いけないの? 減らすなとは、言ってない。健太さんの声は低いままだった。減らすなら、呼ばなければよかった。呼んでおいて、料理だけ外すのは、減らしたんじゃないよ。じゃあ、何なの? 見せるために、やったんだよね。そこで、リカは黙った。みんなが食べている部屋で、二人だけ食べられない。それを、八十人に見せた。そんなこと、考えてない。考えてたよ。三週間前に、決めてるんだから。義母が「リカ」と言った。今度は娘を止める、呼び方だった。リカは母親を見ずに言った。お母さんだって、当日、いいって言ったじゃん。言ってないわよ。言ったよ。「細かいことで揉めないで」って、言ったじゃん。義母の口が、閉じた。あの言葉を、私も聞いている。会場で肩に手を置かれて、聞いた。あの言葉が、娘の側でこう使われるとは、この人も、多分、一度も考えたことがなかったのだと思う。

席は用意する。招待状も出す。名前も載せる。しかも、席は俺の同僚の卓だ。料理だけ、三週間前に外しておく。言葉にされると、それがどういう作業だったのかが、はっきり分かった。当日の思いつきではない。腹が立って皿を下げさせたのでもない。締め切りより前なら、費用は一円もかからない。その締め切りのさらに二週間も手前で、二人分だけが、黙って消してある。その後で、座席表には、名前を残してある。リカは何も言わなかった。言い訳を探しているのが、顔を見ていて分かった。探しても、出てこない。四月十八日という日付は、言い訳を全部、塞いでしまう。当日の勢いでもない。ホテルの手違いでもない。誰かに言われたのでもない。幸介が呼んだ。リカ。お前、あの日、何を思って、あの手続きをした? リカは、答えなかった。三週間前だぞ。三週間。毎日、その予定を持って生活してたんだ。うるさい。うるさくない。俺は、聞いてる。その声には、怒鳴り声より、ずっと思いものがあった。私はそこで、ようやく理解した。私たちは「呼ばれた」のではなく、「置かれた」のだ。髪は一枚切りだ。それでも、その一枚には、リカが三週間前に選んだ日付が刻まれていた。

健太さんは伝票の横に、自分のスマートフォンを置いた。リカ、さっきから出てくる五百万って、何? リカは、答えなかった。お兄さんが「払わない」って言ってる五百万。あれは、何のお金? 曲がって、リカが短く答えた。結婚祝い。結婚祝いか。健太さんが、同じ言葉を口に出した。そう。お兄ちゃんがくれるって、言ってた。健太さんは卓の上で、ゆっくり手を組んだ。式の費用は、君の実家が出してくれるって聞いてたけど、同じことでしょ? 兄なんだから、全然違うだろう。新郎の声が、初めて大きくなった。義母が「健太さん」と言いかけて、やめた。俺は、君のお母さんが出してくれるんだと思ってた。だから、顔合わせの時も、お母さんに頭を下げたんだよ。うちの母も、そう思ってる。健太さんはそこで、声を落とした。いや、違うな。うちの母には、「兄さんたちがよくしてくれてる」と言ってあったんだよな。相手によって、言葉を変えてたのか。だから、同じだって。同じじゃない。リカのお母さんが出すのと、共働きのお兄さん夫婦が出すのとでは、頼み方が違う。そこで健太さんは、息をついた。それと、貯金があるって、言ってなかった? リカが、黙った。言ってたよね。二人分、合わせれば足りるって。リカは膝の上で、指を握った。いくら、あるの? ない。ないって、だから、ないの。健太さんは間を置いてから、話し出した。式の前から、気になってたことがあるんだ。何? 郵便物だよ。君宛ての封筒が、月に何通か来る。見たの? 見てない。でも、聞いたこともない「サンクス」って名前の封筒が、混じってた。会社名は、どこにも書いてない。リカが、身を引いた。引っ越しの荷物をまとめた時、まとめて出てきた。開けてないのが、全部で十通以上あった。催促じゃない。毎月の明細だよ。勝手に見ないでよ。昨日、一通だけ開けた。傷をつけないで送ってくる会社があるって、俺はその時初めて知った。健太さんは鞄の中から封筒の束を出して、卓に置いた。残りは、ない。開けるなら、君が開けてくれ。リカは、動かなかった。長い時間だった。それから、一番上の一通に、指をかけた。三通目で、健太さんが手を止めた。リカの顔から、色が引いた。銀行のカードローン、百四十万。リカは身じろぎもしなかった。カードのショッピングリボ、二枚で百万。リカの視線が、畳に落ちた。あと、これ。消費者金融で、八十万。健太さんは指を三本立てた。合わせて、三百二十万。合ってる。リカは、頷きもしなかった。健太さんは指を下ろした。前の職場に、同じことになった後輩がいてな。その時、調べたんだ。健太さんは続けた。消費者金融から借りられるのは、全部合わせて、年収の三分の一までなんだ。君なら上限は百万。八十万まで借りたら、残りは二十万しかない。だから、銀行にしたんだ。銀行のカードローンは、その計算に入らないからな。健太さんは、それ以上は言わなかった。しばらく卓を見てから、顔を上げた。リボの百万は、何を買ったの? リカは口の中で言った。服とか。服。あと、バッグ。毎月、買ってたやつか。リカは畳の目を見ていた。リボ払いは、毎月の支払いが一定になる代わりに、残高が減っているのが分かりにくい。毎月、いくら払ってるの? カードが二枚あって、一枚が一万で、もう一枚が一万五。合わせて、二万五千円か。二枚の残高が合わせて百万。金利は年十五パーセントだ。健太さんはスマートフォンの電卓を出した。ざっと計算しても、五年近くかかるな。手数料だけで、四十万近い。毎月の二万五千のうち、半分の一万二千五百が、手数料に消えている。払ったつもりで、半分は残高に触ってもいない。健太さんは、画面から目を離した。毎月払ってるのに、減らないって、思わなかったのか。思ってた。でも、見ないようにしてた。減らないんじゃない。減らしながら、また使ってたんだ。だから、残高が同じところで止まって見えたんだよ。一万二千五百。毎月、それだけの金が、利息だけに消えていた。幸介が、そこで小さく息を吐いた。リカ。五百万は、何に使うつもりだった? リカの視線が、落ちた。式場。本当か? 本当だよ。じゃあ、聞くけど。式場は五百九十万だ。五百万もらっても、九十万、足りない。その九十万を、どうするつもりだったんだ? ご祝儀があるから。そのご祝儀が、二百四十万だったんだろう。そこに、俺が渡すはずだった五百万を足せば、七百四十万だ。式場に払うのは五百九十万。九十万足りないどころか、百五十万も余る。その余る百五十万は、お前が何に使うつもりだったんだ? リカが、唇を噛んだ。沈黙の後で、小さく言った。返す予定、だった。何を? 借りてるやつ、全部まとめて返せば、なくなるって。三百二十万。百五十万どころではない。五百万を丸ごと、使うつもりだったのだ。残りの百八十万は。旅行と、家具。旅行はいくらだ? 百五十万。バリ島、七日間。家具は、三十万くらい。三百二十万、百五十万、三十万。合計すると、五百万になる。ぴたりと合いすぎていると、私は思った。まだ一円も届いていない金の使い道が、届く前に、一円残らず決まっていた。つまり、兄からの五百万は、最初から式場へは一円も行かない金だった。式場の残金は、ご祝儀と健太さんの貯金で払うつもりだったのだ。その二つを足しても、三百六十万。見込んでいた三百六十万でも、五百二十万だ。どちらにしても、届かない。リカは、多分、一度も計算していない。ご祝儀、いくら入ると思ってたの? 健太さんが聞いた。四百万は、入るかなって。八十人で四百万。だって、親戚とか多く包むし。根拠のない数字だった。それを土台にして、六百二十万の式が組まれていた。私は、消費者金融の書類のことを考えていた。もう一つだけ、伺わせてください。リカが、私を見た。その八十万を借りたのは、いつですか? 答えなかったのはリカで、答えたのは健太さんだった。明細の取引の欄を、指でなぞる。一番古い利用日が、去年の十二月だ。リカが「結果」を報告してきたのは、その年が開けてからだ。幸介が五百万を約束するより、二ヶ月早い。お兄ちゃんが、出してくれると思ったから。リカが小さな声で言った。行ってもいないうちからか。だって、いつも出してくれるじゃん。そこには、悪びれる様子がなかった。リカの中では、それが計算ではなく、前提だったのだ。幸介が、もう一つ聞いた。リカ、俺が五百万を出す時に、条件を言ったよな。「これで最後だ」って。聞いてたよ。聞いてたのか。うん。でも、どうせまた出すと思ってたから。義母が「リカ」と言った。娘の名を呼んだだけで、続きはなかった。私は膝の上の鞄の持ち手を、握った。どうせまた出す。その一言に、十七年の全部が入っている。夫が悩んだ三日間も、条件をつけたことも、二人の前で言ったことも、リカの中では最初から数に入っていなかった。出す人は、出さない日を選べない。今は、そう思っていた。リカはすぐに矛先を変えた。大体、お母さんが言ったんじゃん。「お兄ちゃんに頼めばいい」って。私は、そんなこと言ったよ。「お兄ちゃんは断らないから」って。そんな言い方は、してないでしょ。母と娘が、初めて、互いを見た。同じ側に立っていた二人が、その時、別々の方向を向いた。お母さんが、電話かけてたじゃん。「リカが困ってる」って、何回も。それは、あんたが困ってた時の話でしょ。私、いつも困ってるよ。いつもって。お母さんだって、お兄ちゃんのお金で生活してるくせに。義母の顔が、赤くなった。私は、年金でやってるわよ。屋根の修理は、誰が出したの? 換気扇は? そこで、義母が黙った。私は台所の換気扇の話を思い出した。冬に湯気が出なくなるという、あの話だ。あれも、結局、幸介が出したのだと、その時、分かった。「家族の話だから」と言われて、私が外された話だった。あのさ、と健太さんが母と娘の間に、割って入った。今、誰が悪いかの話をしてるんじゃないんだよ。じゃあ、何の話? 四日後までに、五百九十万をどう払うかの、話。その一言で、座敷の温度が下がった。うちの母には、俺から話す。やめてよ、健太。言わないと、借りられない。借りるの? 借りる。それしかないだろ。健太さんが顔を上げた。あと、もう一つ、聞かせて。二次会の不足分。あれ、俺が出したよな。君は、なんて説明してた? リカが、目を伏せた。お兄ちゃんが「出す」って言ったけど、悪いから、やめといたって。お兄さんは、「出す」とも言ってない。幸介が短く「言ってない」と繰り返した。「断っておいた」と、リカは言ったらしい。断ったのではない。断ったことにしておけば、両方から一度ずつ、感謝されるからだ。リカは口を開けたまま、何も言えなかった。嘘をついた相手に、その嘘の後始末を頼むしかない。リカが一番避けたかった順序が、一番早く来た。健太さんは、その様子をしばらく黙って見ていた。それから、最後の質問をした。リカ。何? なんで、お兄さん夫婦の料理がなかった? 座敷が、静かになった。リカはしばらく畳を見ていた。それから顔を上げて、はっきりした声で言った。だって、むかついてたから。誰に? その人。私を指さした。お兄ちゃん、昔はもっと出してくれたの。いくらでも、出してくれた。でも、その人と結婚してから、減ったんだよ。前は、言えばすぐだったのに。最近は「来週にしてくれ」とか、言うようになった。それは、君が三十一だからじゃないの? 関係ないもん。リカは私を見たまま、続けた。その人が来てから、お兄ちゃんは、私のお兄ちゃんじゃなくなったの。私は膝の上で、手を組んだ。言い返す言葉なら、いくつも浮かんだ。夫が出す額が減ったのは、私のせいではない。妹が三十を過ぎたからだ。エアコンも車も引っ越しも、断られたことは一度もない。私は十年、一度も金額に口を出していない。けれど、リカの中では、そうなっていない。この人にとって、私は「兄の財布と自分の間に割り込んできた他人」だ。事実がどうであるかは、関係がない。だから、何を言っても、届かない。届かない相手に言葉を使うのは、時間の無駄だ。私は黙っていた。だから、とリカは言った。私の一番いい日に、その人だけ、何も出ないようにしてやろうと思ったの。それの、何が悪いの? 「その人だけ」って言うけどさ。健太さんが伝票を指で押さえた。消えてたのは、二人分だ。リカはしばらく黙って、それから言った。兄が隣にいたら、自分の皿を分けて終わりでしょ。それが、答えだった。夫は私を庇う。庇わせないためには、夫の前も白くしておく必要があった。あの席は、私一人のために作られたのではない。兄が、妹より妻の側に立つ姿を、八十人に見せたくなかったのだ。健太さんが、卓の上の伝票をゆっくり裏返した。リカ。何? 金の嘘は、まだ分かるんだ。新郎の声が変わったのは、その後だった。借金があることも、隠したい気持ちも、俺には分かる。うちだって、親父の入院で、母がいろいろ隠してた時期がある。でも、これは、違うだろう。健太さんは伝票を指で押さえた。三週間前に、人の分の飯を消して、当日、その人の前に座らせたんだよ。それを、俺の結婚式でやったんだ。「俺の」じゃなくて、「私たちの」結婚式でしょ。そうだな。俺たちの、結婚式だ。新郎はうつむいた。三週間前に飯を消された席に、俺も一緒に座ってたことになるんだよ。その一言で、リカはようやく黙った。幸介が、隣で息を吐いた。私はその音を聞きながら、この人は今、初めて、他人に妹を叱ってもらったのだと思った。十七年、この家には、その役をする人がいなかった。

義実家での話し合いの後、二日は何も起きなかった。「起きなかった」というのは、正確ではない。義母からのメッセージだけが、毎日届いていた。幸介が悪いとは、書いていない。書いてあるのは、リカが眠れていない。ご飯を食べない。健太さんに冷たくされている、という話ばかりだ。最後は必ず、同じ一文で終わっていた。「兄弟なんだから。」幸介は読んだまま、返さなかった。返さないでいることが、この人には相当、きつかったと思う。返したくなるだろう。うん。返したら、多分、終わる。終わるって、何が? 今回のことが、なかったことになる。夫はそう言って、携帯を裏返した。

その翌日の夕方、うちのチャイムが鳴った。インターホンの画面に、リカと義母が並んで映っていた。リカは化粧をしていない。母親の方は、外出用の上着を着ている。式の期日は、その翌日だった。玄関を開けると、リカは頭を下げなかった。お兄ちゃんが「出さない」なら、健太のお母さんに、全部、話すから。先に出てきたのは、それだった。何を、ですか? お兄ちゃんが約束を破ったって。うちの家が、どんな家か、あっちに知られても、いいの? 私は黙って、リカの顔を見た。それと、もう。リカはそこで初めて、頭を下げた。お願い。リカさん、せめて、三百万。あと三百万で、いいから。土間に立ったまま、私はリカの頭のてっぺんを見ていた。私に言われても。さおりさんが言えば、お兄ちゃん、聞くから。義母が横から言った。頼む口調ではなかった。あなたが、幸介を説得しなさい。幸介が奥から出てきて、二人を居間へ通した。この人は、玄関先で話を終わらせる人ではない。卓を挟んで座ると、リカはもう一度、同じことを言った。三百万。それだけあれば、足りるの。私はそこで初めて、口を開いた。足りないのは、二百三十万ですよね。リカが、顔を上げた。私は続けた。五百九十万から、ご祝儀の二百四十万を引きます。残りは三百五十万。そこから、健太さんの貯金の百二十万を引いて、二百三十万です。三百万ですと、七十万、多いことになりませんか。リカの目が、泳いだ。それは、さ。いろいろ、あるから。借りているものの返済ですか? リカは、答えなかった。七十万の水増し。とりあえず、多めに言う。生き方が、そうなっているのだと思った。あのね、さおりさん。リカの声が、湿った。私、明日までに払わないと、ホテルに何を言われるか、分からないの。そうですね。助けてよ。私は湯飲みを置いた。一つ、伺ってもいいですか? 何? 私の料理すら、惜しかったんですよね。リカの眉が、動いた。料理と飲み物で、一人二万。二人で四万。それを三週間前に外したのは、あなたですよね。それと、これは、別。私も、そう思います。私はリカの目を見た。私の料理と、あなたの結婚式は、別ですよね。それから、もう一つだけ。私たちの二人分を外しておいたお金は、同じ日に、装花へ回されていましたね。三万にサービス料と税が乗って、三万六千三百。ほぼ、装花のグレードを上げた分です。リカが、こちらを見た。私たちの皿は、花に変わったんですね。リカが息を吸った。吸ったまま、言葉が出ないようだった。健太さんは、何て言ってるんですか? 私が聞くと、リカはこちらを見ずに答えた。自分たちで、払うって。そうですか。でも、無理だもん。二百三十万なんて、どこにあるの? 健太さんのお母様には、言えないよ。そんなの。言えないというのは、「うちの実家が出す」って言ってあるんだから、今さら言えないでしょ。そこで初めて、リカの困り事の形がはっきりした。金がないことではない。嘘をついた相手に、金がないと言えないことだ。そんな言い方、しなくてもいいでしょ。義母が身を乗り出した。家族なんだから、助け合うものでしょ。家族なんだから、助けてよ。リカも、同じ言葉を重ねた。私は、一拍置いた。この十年で、一番長い一拍だった。そうですね。そして、言った。リカさん。あの披露宴で、私におっしゃいましたよね。「欲しいなら、追加で払って」と。リカの顔が、固まった。はい。同じことです。足りない分が欲しいなら、ご自分で、追加で払えばいいんじゃないですか。そう教えていただいたので。リカは口を半分開けたまま、私を見ていた。自分の言葉だと分かるまでに、間があった。分かった瞬間、リカは目をそらした。義母が「さおりさん」と、私を呼んだ。あなた、意地悪になったわね。そうかもしれません。昔は、もっと優しかったのに。はい。幸介に、似てきたのよ。私はその言葉を、初めてまっすぐ受け取った。似てきたのなら、それでいい。この人は十七年、息子に「リカに苦労させないで」と言い続けた。息子には、その通りになった。人は、近くにいる人に似る。義母は、それを自分でやってきたのだ。お母さん。何? 私は優しかったんじゃありません。何も言わなかっただけです。義母は、何か言おうとして、口を閉じた。そこへ、幸介が立ち上がって、隣の部屋へ行った。戻ってきた夫の手には、一枚の紙があった。四つ折りにされて、折り目が茶色くなっている。うちの小さな仏壇の引出しに入れてあったものだ。結婚した時、義父の写真を一枚だけ分けてもらって、幸介がそこに置いている。リカ。これ、覚えてるか? 何、それ? 親父の葬式の晩に、俺が書いた。幸介は髪を開いて、卓に置いた。私も、初めて見た。二十四歳の幸介の字で、一行だけ、書いてある。「リカのことは、俺が引き受ける。」それだけだ。日付も、あて名もない。あの日、母さんに何度も言われた。「リカには苦労させたくない」って、親父が言ってたって。俺は、それを俺への遺言だと思ったんだ。夫の声は、落ち着いていた。十七年、そのつもりでやってきた。数えたことは、なかった。今回、初めて数えた。私は鞄から、一番古いノートと、一番新しいノートを出して、卓に置いた。表紙の角が、丸くなっている。さおりが十年つけてた分と、俺の通帳を、全部遡って、突き合わせた。幸介は指を折りながら、順に言った。大学の学費と奨学金の肩代わりで、四百六十万。家賃の補助が月六万を六年で、四百三十二万。車と引っ越しで、二百四十八万。免許、成人式、細かい生活費の補填で、四百六十万。夫は一度、言葉を切った。合わせて、千六百万だ。義母が、息を飲んだ。リカは、数字を追い終えてない顔をしていた。そんなに。声を出したのは、義母だった。そんなに、出してたの? 出してた。私、そのつもりじゃ。義母さんは、知ってたよ。幸介は淡々と言った。学費の時も、車の時も、母さんが電話かけてきた。「リカが困る」って。義母は、返す言葉を持っていなかった。一つずつは、大した額じゃないんだ。六万とか、十万とか。だから、毎回、「これくらいなら」と思ってた。夫は、自分の手のひらを見た。十七年やると、千六百万になる。リカが、口を開いた。返せって、言うの? 言わない。じゃあ、なんで、今、それ出すの? お前が、「俺は何もしてくれなかった」って顔するからだ。夫の声は、そこだけ強くなった。これは、請求じゃない。幸介は続けた。衣装代も、顔合わせの店も、当日のご祝儀も、立て替えたタクシー代も。払ったものは、払ったままでいい。取り返す気も、ない。じゃあ、何なの? リカが言った。終わりにするために、言ってる。夫は紙を畳んだ。親父が亡くなったから、俺がなんとかしなきゃと思ってた。それは、本当だ。後悔も、していない。うん。でも、親代わりは、もう終わりだ。お兄ちゃん。俺は、さおりの夫だから。その一言で、私の目の奥が熱くなった。ここで泣くわけにはいかないので、私は湯飲みを持ち上げた。中身は、もう冷たかった。義母が、声を振り絞った。そんな言い方、ないでしょ。母さんも、だよ。幸介は、母親の方を向いた。母さんは、「リカに苦労させないで」って、ずっと俺に言い続けた。俺は、その通りにした。この結果が、これだ。私は、「あの子のため」と思って。俺が助けすぎたから、リカはこうなった。母さんと俺で、二人で、こうしたんだ。義母は、口を閉じた。もう、出さない。お兄ちゃん。リカが声を出した。声は、小さかった。私、そんなに、悪いことした? 幸介は妹を見た。悪いことをしたかどうかは、俺が決めることじゃない。じゃあ、誰が決めるの? お前が、一緒に暮らす人だ。その答えに、リカは何も返せなかった。俺はな、リカ。お前が困ったら、助けるつもりでいた。今も、その気持ちが全部消えたわけじゃない。でも、助けるのと、当てにされるのは、違う。夫はそこで、一度、言葉を切った。お前は、俺を当てにしてた。俺が言う前から、当てにして、使ってた。それは、助けじゃない。じゃあ、誰がリカを助けるの? 義母が言った。本気で分からないという、顔だった。幸介はしばらく、母親を見ていた。それから、答えた。リカを助けるのは、三十一歳になったリカ本人だろ。それが、最後だった。義母はしばらく畳を見ていた。それから、小さな声で言った。私が、悪かったのかしら? 誰も、答えなかった。その問いに答えるのは、この場にいる誰の役目でもない。義母は自分で、その答えにたどり着くしかないし、たどり着かないままかもしれない。リカが何も言わずに立ち上がり、玄関で靴のかかとを踏んだまま、出ていった。義母はその後を、上着の裾を抑えながら、追っていた。二人の足音は、思ったより小さかった。私たちはしばらく、玄関に立ったままだった。行っちゃったね。ああ。幸介。大丈夫? 夫は少し笑った。大丈夫じゃない。うん。でも、明日になっても、電話はしない。そう言って、幸介は靴を揃えた。二人分の靴が、きちんと並んだ。居間へ戻ると、夫はあの紙をもう一度、広げた。二十四歳の自分の字を、しばらく見ていた。これ、親父に見せたことないんだ。うん。書いた時には、もういなかったからな。だから、見せようがなかったんだ。うん。だから、俺が勝手に決めた約束なんだよ。親父は、俺には、何も頼んでない。幸介はそう言って、紙を仏壇の引出しへ、戻した。十七年ぶりに、その紙の役目が、終わった。

残金の五百九十万は、期限までに払われた。足りなかった二百三十万は、健太のお母さんが立て替えた。入院の時のために残しておいた定期預金だったという。ただ、そのままではなかった。借用書を作って、二人の名前を並べ、返すのは振り込みでと決めたそうだ。三月で十五万が入りました、と健太さんが知らせてきた。リカが売ったバッグの分も、そこへ足したという。十万を超えるバッグが、二万にもならなかったそうだ。新婚旅行は国内の温泉に変え、新居の家具は買わなかった。リカが一度、正子さんに頭を下げに行った。玄関先で、断られたそうだ。「これは、息子の式の分ですから。」それでも、あの定期預金のことを思い出すたび、私は息を詰める。健太さんは条件を二つ、出した。借金のことで、二度と嘘をつかないこと。あの日にしたことを、言い訳しないこと。その上で、家計を分けた。手取り十九万から家賃と返済を引くと、残るのは四万だという。リカは三十一歳にして、初めて、自分の手取りだけで一ヶ月を組み立てている。「謝りに行け」とは、言わなかったそうだ。あれは、謝れる種類のことじゃないから。ただ、一つだけ、私は健太さんに頼んだ。謝罪はいらない。代わりに、当日、同じ卓だった四人と、遠方から来たおばさんたちには、本当のことを伝えてほしいと。「気分が悪くなって帰った」ことにされたままでは、パンの籠を寄せてくれたあの人に、一生、後ろめたい。同僚には健太さんが、おばさんたちには住江さんが、話してくれた。取り戻したかったのは、三万ではない。あの日、あの部屋で消された、私の席の方だ。八十人の大半には、今も、何も届いていない。それでも、あの四人と、おばさん二人には、届いた。谷口さんには、礼状を出した。返事は、来ない。それで、いい。リカは同級生たちとも、距離ができたらしい。披露宴で、リカが肩をすくめて見せた、あの友達だ。義母も、あれから、ほとんど口を聞いていない。健太さんからは、一度だけ、手紙が来た。便箋一枚に、こう書いてあった。「妻のしたことについて、私からも謝ります。これから先、金のことでご迷惑をかけしません。」封筒には、あの日、包んだのと同じ十万円が入っていた。幸介はその封筒に、「お母様への返済に足してください」と書き添えて、送り返した。義母は、口癖が使えなくなった。リカが電話をかけてくると、こう言う。「私だって、そんなお金ないわよ。」リカが兄に言い続けた言葉だ。今度は、母親が娘に言う。「幸介がなんとかする。」その一文が消えただけで、親子に残るものは、少ない。義母は五年ぶりに、近所の弁当屋のパートに出た。私たちは、何も取り立てていない。訴えても、言いふらしてもいない。ただ、渡していない金を、渡さなかっただけだ。

私のノートは、今も続いている。リカの欄は、あの五月から、増えていない。代わりに、旅行の積み立ての欄を作った。捨てた雑誌を買い直して、付箋のページの宿を、秋に予約した。式から三ヶ月が過ぎた頃、幸介が仕事帰りに、私を待っていた。どうしたの? メシ、行こう。向かったのは、駅裏のあの店だ。カウンターの端に並んで座り、私はハンバーグを頼んだ。幸介は、珍しく、同じものを頼んだ。さおり。うん。今まで、リカに甘すぎた。うん。さおりにも、何度も我慢させたような。悪かった。頭を下げるところまで行ったのは、結婚して十年で、初めてだった。私は前を向いたまま、答えた。今回、「帰ろう」って言ってくれたから、あれでもう、いいよ。夫は何も言わずに、水を一口飲んだ。そこへ、皿が運ばれてきた。立ち上る湯気。私の前に一つ、夫の前に一つ。湯気の立つ鉄板が、並んだ。当たり前のことが、当たり前に、そこにある。幸介が箸を取って、こちらを見た。今日は、ちゃんと二人分あるな。そうね。私はナイフを入れながら、言った。「欲しかったら、追加で払う。」あの人が玄関で頭を下げた夜に、一度だけ返した言葉だ。あの時は、言い返すために使った。その日は、笑って言えた。夫が、吹き出した。声を出して笑う顔は、五月から、ずっと見ていなかった。あの日、私たちは料理を一皿も食べずに、結婚式を出た。その代わりに、リカは、自分が兄からどれだけ与えられていたのか、初めて、自分の財布で知った。料理が欲しいなら、追加料金だったら。人生の贅沢も、自分のお金で、追加してくださいね。私たちは、これからも、この店で、二人分を頼む。誰かに出してもらった皿ではなく、自分たちで払った皿を、並べていく。

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